第十九篇:モンゴルの元朝――「構」は一度も真に築かれなかった
これまで取り上げてきた王朝には、成功したものにも失敗したものにも、一つの共通点があった。いずれも「構」を築こうとした、ということである。
これまで取り上げてきた王朝には、成功したものにも失敗したものにも、一つの共通点があった。いずれも「構」を築こうとした、ということである。
禅譲の構、祭祀の構、礼楽の構、法家の構、儒家と法家を合流させた構、門閥の構、文官の構。どれも「人間の社会をどう組織するか」という問いに、真剣に答えようとしたものだった。その答えは間違っていたかもしれない。王莽の復古がそうだ。一面的だったかもしれない。法家一色の秦がそうだ。不完全だったかもしれない。軍事的な実力者を軸とした十六国の構がそうだ。それでも、少なくとも答えはあった。その構型を設計した者は、自分が何をしているのか、どんな秩序を望んでいるのかをわかっていた。
元朝は違う。
モンゴル帝国は、人類史上最大の、陸続きの領土を持つ帝国だった。その征服能力に並ぶものはない。太平洋からドナウ川まで、シベリアからペルシア湾まで。だが、その征服能力と統治能力の隔たりもまた、並ぶもののない大きさだった。
中国を治めた元朝(1271~1368年)は、モンゴル帝国の中国における一翼として97年間存続した。その97年のあいだ、中国社会に即した、内的に整合する統治の構型を一度も築かなかった。征服はあった。支配はあった。制度の断片もあった。だが、構はなかった。「自分はどのような秩序を築くのか」という問いに、体系だった答えがなかったのである。
中国の帝政史において、これは唯一無二の事態だった。
一、モンゴル本来の構型――草原帝国の論理
なぜ元朝は中国で構を築けなかったのか。それを理解するには、まずモンゴル人自身の構型を理解しなくてはならない。
チンギス・ハンが築いたモンゴル帝国には、明確な組織の論理があった。ただしそれは、草原のために設計された論理だった。
千戸制。
チンギス・ハンはモンゴルの諸部族を解体し、再編して、95の千戸に組み直した。それぞれの千戸は、軍事・行政・経済の単位である。千戸長は大ハンに任命され、大ハンに対して責任を負う。千戸の下には百戸、十戸が置かれた。社会全体が、軍事化された一つのピラミッドとして組織されたのだ。
その働きは、秦の編戸斉民に似ている。古い血縁組織である部族を崩し、中央が直接掌握できる新しい組織単位をつくる。違うのは、秦の編戸斉民が静的だったのに対し、モンゴルの千戸制は動的だったことだ。秦では、人は一つの場所に固定され、そこで自分の田畑を耕す。モンゴルでは、いつでも動員され、千戸長について戦争に出たり、移動したりする可能性があった。
千戸制は草原ではうまく働いた。草原の経済活動、つまり遊牧そのものが移動を伴う。軍事化された社会組織と、移動を前提とする経済のあり方は、もともと相性がよい。一つの千戸は軍事単位でもある。戦争になれば全員で出動する。経済単位でもある。平時には共に家畜を放牧する。そして行政単位でもある。千戸長が内部の争いを調停し、資源を分配する。三位一体で、簡潔かつ効率的だった。
大ハンの権威。
モンゴルの大ハンと中国の皇帝では、権威の源が違う。中国皇帝の正統性は天命論から来る。天命、徳行、血統を混ぜ合わせた、一つのイデオロギー的な物語である。モンゴルの大ハンの正統性は、もっと素朴だ。「長生天」、すなわち永遠の天の加護と、現実の軍事的な成果から来る。戦いに勝てるなら、長生天はお前の味方だ。負けたなら、長生天はお前を見捨てたのだ。
これは徹底した実績主義の正統性である。正統性は、そのまま戦績に等しい。戦績がよければ正統性は高まり、悪ければ下がる。衝撃を和らげる緩衝材も、イデオロギーの保護膜もない。中国の皇帝なら、戦争に負けても、天命論が「天がお前を試しているのだ」という説明を用意してくれる。
領地の分封と拡張。
チンギス・ハンは帝国を四人の息子、ジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイに分封し、それぞれに領地、ウルスを与えた。大ハンは、兄弟や父方の従兄弟のあいだから、クリルタイと呼ばれる貴族会議の選挙で選ばれる。嫡出の長男が継ぐ仕組みではなく、貴族共和制に似た選挙制度である。もっとも実際には、最も強い実力を持つ候補者が、選挙そのものを支配することも多かった。
このシステムが設計上の前提としていたのは、帝国は永遠に拡張し続ける、ということだった。拡張するかぎり、新しく分封できる領地があり、配分できる戦利品がある。領地と戦利品の分配こそ、貴族の忠誠をつなぎとめる中核の仕組みだ。拡張が止まったらどうなるか。分け与える新しい土地がなく、配る新しい富もなくなる。忠誠を支える仕組み全体が、危機に陥ることになる。
ここには秦の構型との構造的な共通点がある。どちらも、絶えず餌を与えなくてはならないシステムなのだ。秦は戦争で軍功爵制を養い、モンゴルは征服で分封の仕組みを養う。餌が途切れれば、具合が悪くなる。
二、中国の征服――草原が田畑に出会うとき
モンゴルによる中国征服は、きわめて長い時間を要した。1211年にチンギス・ハンが金への攻撃を始めてから、1279年にフビライが南宋を滅ぼすまで、ほぼ70年。モンゴルのあらゆる征服のなかで、最も時間がかかったものだ。中央アジアの征服は数年、ロシアの征服も数年、ペルシアの征服も数年。そのどれよりも、はるかに長かった。
長引いたのは、南宋の抵抗が頑強だったからだけではない。もちろん、実際に頑強ではあった。だが、より根本的な理由は、草原の軍事的優位である騎兵の機動力と突撃力が、水路が網の目のように広がる中国南部では大幅に損なわれたことにある。ユーラシアの大草原を破竹の勢いで席巻したモンゴル騎兵も、長江以南の丘陵、水田、城郭を前にすると、同じようにはいかなかった。攻城戦も水上戦も、遊牧民の得意分野ではない。
征服を終えたフビライは、根本的な問題に直面した。草原とはまるで違うこの世界を、どうやって治めるのか。
中国の農業社会には、草原とはまったく異なる統治の仕方が必要だった。定住する農民を千戸制で管理することはできない。農民の社会に必要なのは、土地の分配、租税の徴収、水利施設の維持、商業の管理である。その運営には、成熟した文官組織が欠かせない。モンゴル人は、その組織を持っていなかった。
フビライも、いくつかの試みはした。1271年に「大元」という国号を採用した。『易経』の「大いなるかな乾元」から取ったもので、中国の文化的伝統に敬意を示す行為だった。大都、現在の北京には、中書省、枢密院、御史台という、中国を手本とした中央行政機関を置き、地方の行政区画にも中国式の州県を引き継いだ。科挙が再開されるのは、のちの仁宗の治世、1315年のことである。ただし、その後も中断があり、モンゴル人と色目人には優遇措置が設けられた。
だが、これは表層を移植したのであって、深いところで融合させたのではない。フビライは中国の行政組織の外殻をかぶせた。しかし、その内側で動いていたのは、依然としてモンゴルの論理だった。
三、四等人制――余項を身分の序列として制度化する
元朝の制度で最も悪名高いのが、四等人制である。全国の住民を四つの身分に分ける。モンゴル人、色目人、漢人、南人。色目人とは中央アジアや西域の諸民族、漢人とは旧金領の北方の漢族とその他の民族、南人とは旧南宋領の南方の漢族を指す。
この四つの身分は、法の上で平等ではなかった。モンゴル人には最も多くの特権があった。罪を犯したときの刑罰は軽く、官職にも優先的に就けた。南人は最も強い差別を受けた。官職への道には厳しい制限があり、科挙の合格枠も、南方の人口の大きさに比べて著しく少なかった。
構という観点から見ると、四等人制は、これ以上ないほどあからさまな余項の処理法である。余項を消化しようとしない。意味を与えてコード化しようともしない。それどころか、隠そうとすらしない。余項をそのまま、身分の序列として制度化してしまう。
どういうことか。
統治のOSの3.0版、3.5版では、余項はさまざまな仕組みで管理されていた。余項とは、被支配者の不満、社会の不平等、権力の非対称性といったものだ。儒家のイデオロギーでコード化し、不平等にも道理があると思わせる。科挙によってはけ口をつくり、上昇の望みを与える。法の表面的な平等で覆い隠す。運用は不平等でも、少なくとも条文の上では誰もが平等である、と。これらの管理法には、共通する特徴がある。余項の存在は認めるが、それをむき出しにはしたがらない。
四等人制は、そうした管理を完全に投げ捨てた。「お前は一段下の人間なのだ」と、公然と言い放つ。イデオロギーで包むことも、上昇の道があると慰めることも、法の平等で隠すこともない。余項は、裸のまま制度に書き込まれている。
なぜモンゴル人は、こんなやり方を選んだのか。
彼らが特別に残虐だったから、ということではない。モンゴルの征服が実際にひどく残虐だったことは確かだ。だが、ここでの理由は、もっと精緻に余項を管理する能力がなかった、ということにある。
余項を精緻に管理するには、ひとそろいのイデオロギー体系が要る。儒家が何百年もかけて築いたものだ。成熟した文官組織も要る。科挙が何百年もかけて育て、蓄えてきた人材である。さらに、支配される社会への深い理解が要る。人々は何を大切にし、何を恐れ、何を望んでいるのか。それを知らなくてはならない。モンゴル人が中国を統治したのは100年にも満たず、こうしたものを築くには、まるで時間が足りなかった。
そこで使ったのが、最も単純で手荒な方法だった。民族的な出自で線を引く。モンゴル人なら特権がある。そうでなければ特権はない。単純明快で、実行するのに複雑な制度設計も必要ない。
ただし、単純で手荒な方法には代償がある。モンゴル人以外の一人ひとりを、潜在的な反抗者にしてしまうのだ。3.0版の余項管理なら、少なくとも被支配者の一部には「不公平だが、まだ受け入れられる」と思わせることができた。四等人制では、すべての被支配者が「こんなものは受け入れられない」と思う。違いがあるのは、反抗する力があるかどうかであって、反抗したいかどうかではない。
余項は管理されたのではなく、力ずくで押さえ込まれた。押さえ込む力の強さは、そのまま反発する力の強さになる。元末の大反乱は、それを裏づけた。
四、元朝の統治――設計ではなく、寄せ集め
元朝の統治を一言で表すなら、「寄せ集め」である。
設計を経て組み上げられたシステムではない。由来の異なる制度のかけらを、その場その場でつなぎ合わせた混合物だった。
行政では、中書省の枠組みは中国のものだが、動かす論理はモンゴルのものだった。大ハン個人の意思が、あらゆる制度上の手続きに優先する。行省制度は元朝の重要な革新である。行省、正式には「行中書省」は、のちの明・清における省単位の行政区画の土台になった。だが、行省長官の任命や権限については明確な制度的規範がなく、そのつど中央と地方が繰り広げる駆け引きに左右された。
経済では、元朝は「交鈔」という紙幣を大量に発行した。世界史でも最も早い時期の、大規模な紙幣制度の一つである。だが、紙幣の発行を律するだけの通貨管理の規律はなかった。金が必要になれば刷る。インフレのことは考えない。結果は、絶え間ない通貨の価値下落と、経済を支える信用の崩壊だった。元末には、紙幣はほとんど紙くずになっていた。
法律では、統一された法典がなかった。モンゴル人にはモンゴルの慣習法、漢人には中国の法律をある程度簡略化したもの、色目人にはそれぞれの伝統が適用された。集団によって適用される法が異なるだけでなく、その執行の基準も、土地と人によって変わる。法の一貫性と予測可能性は、ほとんどゼロだった。
宗教では、元朝は異例なほど寛容な態度を取った。仏教、道教、イスラム教、キリスト教の景教とカトリック、そしてシャーマニズムが、元の領内に共存していた。これは理想主義から来た寛容さではない。たしかにモンゴル人は宗教にあまり頓着しなかったが、理由は実用主義にあった。そこまでいちいち管理できないのなら、自由にさせておけばいい。
構という観点から見ると、元朝の統治には、組織を貫く中核の原理が欠けていた。
3.0版には、中核となる原理があった。儒家と法家の合流である。儒家のイデオロギーで正統性を与え、法家の行政で統制力を確保する。3.5版は、その上に三省六部、科挙、均田制といった関連部品を載せた。どの部品も中核の原理に沿い、互いにかみ合い、内的に整合した一つのシステムを形づくっていた。
元朝には、そのような中核の原理がない。どこかで何か問題が起きれば、そのとき使える道具で間に合わせる。モンゴルの道具が使えれば、それを使う。中国の道具が使えれば、中国のものを使う。色目人の道具が使えれば、それを使う。統一された論理も、一貫した基準も、長期の計画もない。
これは構ではない。その場しのぎだ。
その場しのぎで、支配を維持できるのか。できる。97年の統治が示すとおり、その場しのぎでも相当長くはもつ。ただし、十分に強大な軍事力の後ろ盾があれば、の話だ。元朝の支配を本当に支えていたのは、モンゴル騎兵であり、何らかの制度設計ではなかった。
だが、その場しのぎは自分を修復できない。構のあるシステムなら、問題が起きても、枠組みを変えずにパラメーターを調整して対処できる。その場しのぎのシステムには、調整するパラメーターがない。そもそも枠組みがないからだ。できるのは、より多くの暴力を投入して、問題を押さえ込むことだけ。暴力が唯一の道具なのである。
五、元朝はなぜ構を築かなかったのか
答えなくてはならない問いがある。中国をほぼ100年統治した元朝は、なぜ最後まで、中国社会に即した構型を築かなかったのか。
「モンゴル人は遅れていたから」では、説明が粗雑すぎる。モンゴル人は、軍事組織や大陸をまたぐ交易の管理において、きわめて高い制度革新の能力を示した。ジャムチ、漢字では「站赤」と呼ばれる駅伝制は、ユーラシア全土を一つの通信網で結び、その効率の高さにはマルコ・ポーロも驚嘆した。制度を設計する能力がなかったのではない。その能力が、別のところに使われていたのだ。
本当の理由は、いくつかの層に分けて考えられるだろう。
第一に、征服者の意識。
モンゴルの支配層は、最後まで自分たちを、統治者よりも征服者として捉えていた。征服者の考え方とは、こういうものだ。この土地は、自分が戦って手に入れた戦利品である。ここへ来たのは、税を取り、楽しむためであって、何かを築くためではない。そこから「この社会のために、長期的な統治の仕組みを設計しよう」という動機は生まれない。
第二に、多元的な帝国の難しさ。
四大ハン国を含むモンゴル帝国は、ユーラシア大陸の大部分を覆っていた。中国は、その一部にすぎない。元朝の統治者は、モンゴル人、色目人、漢人、南人という、文化的背景のまったく異なる四つの集団に、同時に向き合わなくてはならなかった。その四集団を包み込む統一された構型を設計する難しさは、それ以前のどの中国王朝が直面した課題をも、はるかに上回っていた。
北魏が向き合った胡族と漢族の二元性だけでも、十分に厄介だった。元朝の前にあったのは四元、あるいはそれ以上の多元性だ。孝文帝は全面的な漢化、つまり一方向への同化を選んだ。遼は、双方がそれぞれを治める二元的な構を選んだ。元朝が選んだのは――選ばないことだった。モンゴル化するのか、漢化するのか、それとも新たな融合をつくるのか。方向を定める明確な決断をしなかった。この三つの方向のあいだで、97年間ためらい続けたのである。
第三に、継承の危機が制度づくりに向ける力をすり減らした。
元朝の皇位継承は、きわめて混乱していた。フビライに続く十人の皇帝のうち、何人もがクーデターや宮廷の陰謀によって即位している。皇帝が頻繁に入れ替わるということは、体系的な制度改革を進めるのに十分な時間と、十分に安定した政治環境を、誰も持てないということだった。
フビライ(在位1260~1294年)は、構を築く能力と時間を兼ね備えた、唯一の人物だった。だが、精力の大半を、征服と帝国内部の権力闘争に費やしている。南宋を滅ぼすのにほぼ20年。さらに、アリクブケとの大ハン位争い、カイドゥの反乱があった。征服を終え、権力を固めたころには、彼はすでに老いていた。
第四に、おそらく最も根本的な理由――草原の論理と農耕の論理は、折り合わない。
草原帝国の中核をなす論理は、流動性である。人も、家畜も、軍隊も、権力の中心も、動いている。農耕帝国の中核をなす論理は、固定性だ。人は土地に固定され、行政区画は地図の上に固定され、権力の中心は都に固定される。
この二つの論理の矛盾は、「互いの長所で短所を補う」だけでは解決しない。社会を組織するうえでの、最も基本的な前提が違うからだ。同時に流動的であり、固定的でもある、というわけにはいかない。どちらかを主軸に選び、その主軸のもとで、もう一方の置き場所を決める必要がある。
遼が選んだのは、二元的な共存だった。そちらは動き、こちらは定住する。互いに干渉しない。これは、現実を踏まえた回避策だった。
北魏の孝文帝が選んだのは、固定性、すなわち漢化である。流動性を捨て、農耕文明の論理を全面的に受け入れる。その代償が、六鎮の乱だった。
元朝は選ばなかった。モンゴル支配層の流動的な意識、征服者は定住しないという意識を残したまま、固定性に基づく統治を必要とする農耕社会を、名目上は管理していた。同じ政権の内部で、二つの論理がぶつかり、互いを打ち消す。結局、どちらの論理も十分には実行されなかった。
選ばないことも、それ自体が一つの選択である。その場しのぎを選んだのだ。代償は、危機が来たときに、対処を任せられるシステムが何もないことだった。
六、元末――構のないシステムは、どう崩れるのか
元朝の崩れ方は、それ以前のどの王朝とも違っていた。
それまでの崩壊の型は、こうだった。構がしばらく動き続けるうちに、余項が臨界点まで積み上がり、内側から構を突き破る。この型には、稼働している構がある、という前提がある。
元朝では、構は稼働していなかった。だから崩壊も、「構が内側から突き破られる」ことではない。「暴力で維持されていた強制的な秩序が、暴力の衰えとともに自然にほどけていく」ことだった。
暴力が衰えた理由は、一つではない。モンゴル騎兵の戦闘力は、中原の支配者となってから衰え続けた。平時の暮らしが戦士の資質をむしばみ、定住化が騎兵の機動力を鈍らせた。紙幣の崩壊や徴税の混乱といった財政危機は、中央が軍隊を養う力を弱めた。皇位争いは、内部の結束をすり減らした。黄河の氾濫などの自然災害が、社会の矛盾にさらに拍車をかけた。
1351年、紅巾の乱が起こる。それ以前の農民反乱と同じように、白蓮教や弥勒信仰という宗教の形を取って組織された。世俗の通路を塞がれた社会の底辺の余項が、またしても宗教の形で噴き出したのである。
ただし、元末の反乱は、それまでの農民反乱とは違う結末を迎えた。陳勝・呉広の乱、黄巾の乱、黄巣の乱。かつての反乱は、黄巾や黄巣のように鎮圧されるか、陳勝・呉広のように権力の空白を開いたあと、別の勢力に埋められるかだった。陳勝・呉広が開いたのは、楚と漢が覇権を争う場である。元末の反乱は、そこから直接、新王朝の創始者を生み出した。朱元璋は紅巾軍のなかから頭角を現し、やがて明を建てた。
構の観点から見ると、元の滅亡は、一つの重要な命題を確かめている。暴力だけで支える支配は、持続できない。暴力で征服はできる。だが、暴力で統治はできない。統治には構が要る。被支配者が、少なくとも部分的には支配を認めるような、制度とイデオロギーの仕組みが要るのだ。秦には、少なくとも法家の構があった。硬すぎたから折れたとはいえ、構はあった。元は、内的に整合する構を築くことすらできなかった。
構のない支配が頼るのは、純粋な抑圧の力だ。抑圧する力は、ストックである。消費はされるが、自ら補充されることはない。使い切れば、それまでだ。元朝の97年とは、このストックが少しずつ使い減らされていく過程だった。
構のある支配は、制度と、それに対する支持や納得の組み合わせに依拠する。この組み合わせは、フローである。動いているあいだに、自分自身を補充できる。科挙は忠実な文官を絶えず生み出し、儒家のイデオロギーは秩序を肯定する知識人を絶えず生み出す。フローは長く続きうる。もちろん、最後には余項の蓄積によって途切れるとしても。
ストックとフローの違いが、政権の寿命を決める。元朝のように純粋なストックだけに頼る支配は、使い切れば終わる。構のある王朝のようにフローに支えられる支配は、それより長く続きうる。流れが絶えず、支配を支える力を補充しているからだ。
七、元朝が残したもの
元朝は構を築かなかったが、意図せず、いくつかの重要な遺産を残した。
第一に、行省制度。
元朝の行省、行中書省は、その後600年以上にわたる中国の地方行政区画の基礎となった。明・清の省制は、元から直接受け継がれている。行省の境界は、わざわざ地理的な境をまたいで引かれた。たとえば山地と平野を同じ省に入れたり、文化の違う地域を一つにまとめたりする。後世には、これを地方割拠を防ぐための設計と読む見方が生まれた。どの省も、地理的にも文化的にも自然なまとまりにはしない。そうすることで、独立してしまう可能性を低くするのである。
第二に、民族の融合をさらに進めたこと。
四等人制は法の上で諸民族を隔てたが、97年間にわたる共存は、社会のレベルでは融合を進めた。多くのモンゴル人や色目人が中国に定住し、婚姻で結ばれ、漢文化を取り入れた。元末から明初にかけては、漢化が進み、漢人と区別がつかなくなったモンゴル系の家も少なくない。中国のムスリム集団である回族も、その形成の大きな部分を、元代の色目人と漢族との通婚と融合に負っている。
第三に、反面教師となったこと。
元朝は、軍事的な征服だけでは制度の建設に代えられないことを示した。征服者が、征服された人々にも少なくとも部分的には認められる統治の仕組みを築けないなら、あるいは築こうとしないなら、その征服は一時的なものにとどまる。
朱元璋は、どの成功した王朝からよりも、元朝の失敗から多くを学んだのかもしれない。彼がつくった明の制度は、多くの点で、元の欠陥に狙いを定めた応答だった。元では権力が分散していたから、徹底した中央集権を敷く。法律が混乱していたから、詳細な法典をつくる。人口管理が緩かったから、厳格な戸籍制度を置く。そして、元が覆された記憶を背に、モンゴルの残存勢力を絶えず警戒する。
第四に、「人間は目的である」という命題を、またしても反面から裏づけたこと。
四等人制は、人間を手段として扱うことの、極端な形の一つである。あなたの価値は、何をしたかで決まるのではない。どの民族に生まれたかで決まる。人間の個別性を徹底して否定する仕組みだ。元朝の滅亡と、その統治のあいだ一貫して不安定だった社会の状態は、人間を手段として扱うシステムは持続できない、ということを、もう一度確かめた。軍事力がどれほど強大でも、領土がどれほど広くても、支配下の人々を人間として扱わなければ、いずれ彼らは行動によって、自分たちが人間であることを思い知らせる。
紅巾軍から身を起こした朱元璋が、北伐の檄文に掲げた「胡虜を駆逐し、中華を回復する」というスローガンは、民族主義的な感情の表明だけではない。もっと深いところで、それはこう言っている。われわれは、下等な人間として扱われることを拒む。生まれた場所だけを理由に、生涯消えない身分の烙印となる「南人」と定義されることを拒む。われわれは人間であって、身分の等級ではない。
ここでもまた、このシリーズの奥を貫く背骨が浮かび上がる。商が人間を殉葬に用いたことから、秦が人間を穀物生産と敵の殺害の道具にしたこと、そして元の四等人制まで。人間を手段にする極端な実践は、そのつど反発を招いて終わった。反発の激しさは、抑圧の激しさに比例する。強く押さえ込むほど、激しく跳ね返る。余項は消滅しない。人間は目的であるということを、どんな構も永遠には押さえつけられないからだ。
次篇は明前期。朱元璋の構は、中国史上でも最も偏執的な閉合の試みの一つだった。丞相の廃止、衛所制、海禁、里甲制によって、一人ひとりを構のなかに釘づけにしようとする。だが、靖難の変は、皇族そのものが余項であることを証明した。