Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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大知道徳経解
第七十章 · 全八十一章

知っている言葉を、一度生きてみる

秦汉(大知)· Han Qin

本章の中国語原文

帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み

吾言甚易知也,甚易行也,而人莫之能知也,而莫之能行也。言有君,事有宗,其唯无知也,是以不我知。知者希,则我贵矣,是以圣人被褐而怀玉。

底本と句読点について

著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。

本章のもとになった論文を読む(英語・中国語)

一 保存した言葉は、たくさんある

最後まで話を聞く。自分を使い切らない。いつも正しさを証明しようとしない。読んでうなずき、よい文章を保存しておく。いつかもう一度読もうと思った言葉が、画面の中に少しずつ増えていく。

それでも次の口論では、相手の話に割り込む。休むつもりだった夜に、仕事をもう一つ足す。教えを完全に忘れたわけではない。覚えているのに、いつもの動きをしている自分を見ていることさえある。

第七十章は、長く話してきた人が一度立ち止まるような章だ。「吾言甚易知也、甚易行也、而人莫之能知也、而莫之能行也」。言葉は知りやすく行いやすい。それなのに、人は知ることも行うこともできないという。

世の中に理解者が一人もいなかったという正確な統計として読む必要はない。聞くことと暮らしにすることの間にある、消えてくれない距離を、強く言い表している。

二 言い直せることと、その場でできること

「易知」「易行」は、複雑で秘められた技法を知らなければ近づけない教えではない、と読める。一方で、人は習慣や欲望や状況に動かされ、知ることも行うことも難しい。初めの知は模倣だけ、後の知は本当の理解だけ、と字義を二段階に固定しなくても、この隔たりは考えられる。

集中が大切な理由を説明できても、作業の途中でスマートフォンへ伸びる手は止まらない。心に小さな空白ができたときには、説明を思い出すより先に画面が光っている。理解がまったくないのではない。理解だけではまだ変わらない動きがあるのだ。

一度できたことも、永久にできる資格にはならない。今日はよく聞けても、明日は自分にとって痛い言葉に、急いで反論するかもしれない。実践は、試験に受かって終わる証明書より、その都度働かせる能力に近い。

だから、分かっている自分と、まったく駄目な自分の間を往復しなくてよい。分かった部分はある。まだできない部分もある。その両方を認めると、次に何を練習するかが具体的になる。

この章の嘆きは、もっと優れた言葉を探し続ける手を、少し止める。足りないのは、次の一つの名言ではないのかもしれない。

三 平凡なことほど、通り過ぎやすい

よく聞くという教えは、珍しくない。だから、もう知っていると思って通り過ぎ、もっと複雑で目新しい方法に目が向く。だが、よく聞く言葉であることと、自分がよく行えることは違う。

実践が難しい理由は、本人の心だけにあるのでもない。会議で最初に話した人が評価され、時間をかけて考える人は機会を失う。組織は率直さを求めながら、悪い知らせを出さない人ばかり褒める。そんな場所では、理解していても、それに従って動く条件が整っていない。

自分の習慣もある。認められたい、恥をかきたくない、疑われたらすぐ守りたい。よくある動きだが、人間に永久不変の本能がそう決められているとまで言う必要はない。習慣も環境も変えられる。ただ、一度の決意で全部変わるとは限らない。

簡単な文は、簡単な実践と同じではない。短い一文を生活に入れると、時間、疲れ、昔の経験、周囲の反応に出会う。対岸が見えても、渡る足場は別に要る。

疲れると忍耐を失うなら、自分を叱るより休息を増やす方が役立つかもしれない。仕事が常時応答を求めるなら、集中力の不足を責める前に、応答の範囲を相談する必要がある。教えに条件が要ることは、教えが浅いという意味ではない。

四 方法の数より、その根を見る

「言有君、事有宗」。採用本文はこの順で、通行本には「言有宗、事有君」とある。君と宗は、統べるものや根本の像を借り、言葉と行為に一つのよりどころがあることを示す。

ここまで、知を誇らず、先を奪わず、相手に判断の場所を残し、勝利にも節度を持つ姿勢を読んできた。それぞれ別の技ではあるが、自分の行動を他人の場所を埋め尽くすことと同一視しない、という共通の問いが底にある。

方法だけを集めると、言葉は衝突する。一冊は積極的に動けと言い、別の本は退けと言う。昨日は続けること、今日は手放すことが大事になる。その場にどの格言を当てるか、くじを引くような判断になってしまう。

なぜその方法が必要かを考えると、少し見通しがよくなる。いま守るべきものは何か。手放したくないだけの姿勢は何か。答えはなお状況の判断を必要とするが、少なくとも言葉の数だけで迷わなくて済む。

熟達しても、規則や専門知識は不要にならない。なぜ規則があり、何を軽んじてはいけないかが分かり、変えるべき部分を見分けやすくなる。共通の根は、すべての知識を不要にする万能鍵ではない。知識を互いに照らし合うものにするためにある。

五 教わることと、自分で理解すること

「其唯無知也、是以不我知」。前の句につなげれば、言葉や行為の根本を知らないため、話し手を理解しないという読みができる。字面から直ちに、理解は人から人へ伝えられないという教育論が出てくるわけではない。

本シリーズはそこから、学びにおける自分の参加を考える。説明は届くし、実演や練習も本当に役立つ。人から教わることはできる。そのうえで、意味を自分の状況と結ぶ働きは、聞く側にも必要になる。

何度も聞いていた言葉が、ある日具体的に分かることがある。回り道をした後かもしれないし、よい例を見て、誰かと丁寧に話した後かもしれない。痛い目に遭うことだけが真の理解の代金ではない。教師がわざと生徒を苦しませる理由にもならない。

よい教師は、相手に見えるよう説明し、疑問を話す時間を作る。扉を押すのは本人でも、鍵を探したり、重い扉を支えたり、危険な道を教えたりしてよい。自分で歩くことと、助けを受けることは対立しない。

この連載も、入口をいくつか示すものとして読める。すべての説明を受け入れる義務はない。自分の経験で確かめ、異議を持ってもよい。他人を圧迫しないことを語りながら、筆者と同じ仕方で理解せよと求めたら、その文章が先に扉を閉めてしまう。

六 粗衣の中の玉は、少なさで価値を証明しない

「知者希、則我貴矣、是以聖人被褐而懐玉」。通行本には「知我者希、則我者貴」という形もあり、理解者の少なさ、真に受け継ぐことの尊さなどをめぐって読みが分かれる。「則」は従う意味だけだからこれは実践への勧めにしか読めない、と限定はしない。

理解されないことが、自分の正しさを証明するわけではない。深くて伝わりにくい考えもあれば、説明が足りない考えや、間違っている考えもある。自分の判断を大切にすることと、批判を聞くことは両立する。

そのうえで、粗末な衣の内に玉を抱く像は美しい。外から普通に見えることだけで、内に価値がないとは分からない。人を見栄えだけで測れば、立派な自己紹介をしていない人を見落とし続ける。

ただし、目立たないほど賢く、表現が上手なほど空虚だ、と逆転させるのも外見による判断だ。粗衣は道徳の証明書ではないし、仕事を分かりやすく伝えることは必ずしも虚栄ではない。

自分について言えば、玉を抱くとは、見られているかを確かめ続けるより、実際の能力や品性を育てることだろう。同時に、仕事を説明し、適切な評価を求め、支えを頼んでもよい。価値のすべてを拍手に預けないことは、人からの応答を一切必要としないことではない。

第六十七章の一つの像に閉じ込められない姿勢ともつながる。重みがあっても、それを示すためだけに暮らさなくてよい。まだ学んでいるなら、内にすでに完璧な玉があるふりをしなくてもよい。

七 一つの言葉を、一つの行為へ

すでに賛成している教えを一つ選ぶ。最も壮大なものでなく、今日出会えそうなものがよい。最後まで聞いてから答える、という言葉なら、次に相手が考えながら話すとき、文を代わりに完成させないで待ってみる。

できなかったら、自分を裁く前に、難しさを具体的にする。誤解されるのが怖かったのか。時間が足りなかったのか。その言葉が昔の傷に触れたのか。自分には修養がない、という総評では、何を変えればよいかが見えない。

行為の条件も整えられる。集中したいなら中断をしばらく減らす。率直に話したいなら、比較的安心できる関係で一つの本音を話してみる。約束しすぎたくないなら、すでに持っている仕事を数えてから返事をする。

どれも悟りの瞬間には見えない。日記に書くほど華やかでもないかもしれない。それでも、長く聞いてきた言葉が、そういう動きの中で、他人の文だけではなくなっていく。

一度できたなら、その一度を認める。まだできないことに気づいたら、より具体的に知る機会にする。実践そのものを、毎日成功を展示する競争に変えなくてよい。

八 「まだ知らない」へ進む

第七十章は、力の使い方、人の育て方、争いとの関わり方を読んだあとで、それらが本当に暮らしに入ったかを尋ねる。うなずくための文章が、もう一組増えただけではなかったか。

第十章と第五十一章の生み育てても所有しない玄徳から、三宝と不争の徳へ。そして最後に、粗末な衣と、その内の玉が残る。外は騒がしくなくてよい。内の実際の仕事まで、しなくてよくなるのではない。

次章は、知らないことを知るという問いに進む。実践を始めると、自分が思っていたほどには分かっていなかったと、初めて見えることがある。

それは、読んだことが無駄だったという意味ではない。保存されていた言葉が、ようやく画面から出てきて、いまの自分に出会ったのかもしれない。


詳しい注釈と本文の比較は論考第八篇およびZenodo版へ。先行論考:第一篇、第二篇、第三篇、第四篇、第五篇、第六篇、第七篇。