Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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大知道徳経解
第七十一章 · 全八十一章

「ここから先は分からない」と言える人

秦汉(大知)· Han Qin

本章の中国語原文

帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み

知不知,尚矣。不知不知,病矣。是以圣人之不病,以其病病也,是以不病。

底本と句読点について

著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。

本章のもとになった論文を読む(英語・中国語)

一 答えが早い人と、問い返す人

質問が終わる前に答えが返ってくる。どの話題にも結論があり、迷っている様子がない。その場では頼もしく見える。ところが、実際に手を動かす段階になると、答えの中になかった条件が次々に現れる。

別の人は、まず条件を確かめる。「いつもならこうですが、今回は何が違いますか」。答えは遅い。聞いている方が不安になるほど、場合分けをすることもある。しかし、その問いのおかげで、こちらがまだ気づいていなかった問題が見えてくる。

もちろん、断言する人が無知で、慎重な人が専門家とは限らない。十分な根拠があるから、はっきり答えられる場合もある。逆に「何とも言えません」を繰り返すだけでは、責任を引き受けずに済む。見るべきなのは口調よりも、その人が確かさの根拠と限界を説明できるかどうかだ。

第七十一章の短い言葉は、他人を見分けるためだけにあるのではない。自分の答えがあまりに滑らかに出てきたとき、そこにまだ問いを置けるか。こちらへ向けたときに、言葉は少し重くなる。

二 地図に空白を残す

「知不知、尚矣」。知らないことを知るのは、尊ぶべきことだ。この読みでは、知識の量とは別の力が問われる。何を説明でき、何をまだ確かめていないのか、その境目を見失わない力である。

役に立つ地図は、道をたくさん描いた地図だけではない。調べていない場所には「未調査」と記せる地図だ。空白を景色らしく塗りつぶせば、見た目は立派になる。しかし、それを信じて進む人は、地図に描かれなかった崖に出会うかもしれない。

空白があると分かれば、立ち止まる、尋ねる、別の道を選ぶ、といった動きができる。空白を隠した地図には、その選択まで欠けている。「知らない」と言うことは、何もできないという宣言ではない。次に何を調べればよいかを、仕事の中に戻すことでもある。

第三十三章の「自知者明」は、自分をよく知ることを明と呼んだ。その自己理解には、得意なことだけでなく、得意さが届かなくなる場所も入る。自分の境界を認めるからこそ、境界の向こうへ学びに行ける。

三 見えていないことは、自分には見えにくい

採用本文は「不知不知、病矣」と続く。知らないことを知らない、それが問題になる。「病」はここでは欠陥や患いの比喩として働く。病気の人を劣った人とみなす話ではなく、判断の仕方にある危うさを指している。

通行本には「不知知」がある。これを、知らないのに知っているとすること、と読める。ただし、その人が内心では無知を承知し、わざと演技しているとは限らない。採用本文だけが無自覚な盲点を扱い、通行本は意図的な虚勢しか扱わない、と二分する必要はない。

この問題を考えるとき、ダニング=クルーガー効果が思い浮かぶ。一九九九年の原研究は、特定の課題で成績が低かった参加者による自己評価の過大さと、自分の誤りを認識する力との関係を検討した。誰でも知識が少ないほど自信が高くなるという普遍的な曲線を、そのまま示したものではない。

それでも、仕事を判断するための知識が足りないと、自分の仕事を点検することも難しい、という問いは切実だ。入って三か月の新人には業界全体が単純に見え、二十年働いた人には例外がいくつも浮かぶことがある。年数だけでどちらが正しいかは決まらない。新人の新鮮な疑問が、熟練者の見落としを照らすこともある。

この話を、知ったかぶりの誰かを笑うために使うのは簡単だ。難しいのは、自分にも同じことが起こりうると考えることである。見えない場所を、意志の力だけで直接見ることはできない。だから、他人の問い、試験の結果、実際の失敗といった、自分の確信の外から来る情報が必要になる。

四 ソクラテスとの、近くて異なる響き

ソクラテスの言葉として、「私が知っているのは、自分が何も知らないということだけだ」という句が広く知られている。ただし、これは親しまれてきた要約であって、プラトンの文章をそのまま訳した引用ではない。

『ソクラテスの弁明』二一dでは、知らないのに知っていると思う人と、知らないことを知っているとは思わない自分との差が語られる。すべての知識を否定するよりも、知らないことを知っていると思い込まない姿勢に、ここでは注目したい。

老子とソクラテスが厳密に同時代で、互いに無関係に同一の結論へ到達した、とまで確かめられるわけではない。二人が似たことを言ったから、その命題が証明されるわけでもない。成立事情も、語られた場面も異なる。

それでも、異なる伝統の言葉を並べる意味はある。自分の知に限界を認めることが、学ぶことの終わりではなく始まりになる。その響き合いを聞くと、「知らない」と口にすることが、ただの敗北ではなくなる。

五 欠点を、欠点として扱う

「是以聖人之不病、以其病病也、是以不病」。賢者がこの患いから離れるのは、患いを患いとして扱うからだ。「病病」の最初の「病」は、問題とみなす、患いとして気にかける、といった働きで読むのが自然であり、単純に「見抜く」という辞書的意味に置き換えるのではない。

ここから、盲点のない人になるのではなく、盲点を見つける手続きを大切にする、という実践が見えてくる。「自分は間違えるかもしれない」と言うだけなら簡単だ。その言葉によって、何を変えるのか。確認する人を増やすのか、試してから決めるのか、反対の証拠を探すのか。態度は、そこで初めて行動になる。

シリコンバレーで私が出会った頼もしい技術者の中には、「そこは分かりません。調べます」とすぐ言える人がいた。仕事を投げ出すのではない。調べた結果を持って戻り、確かな部分と未確定な部分を分けて説明する。その往復があるから、任せられる。

謙虚な言い回しだけが専門性の印ではない。確かめたことについて自信を持ち、分からないことについて助けを求める。その両方ができる方が、「いつでも不安そうな人」という役を演じるより正直だ。

点検しても誤りは残る。だが、訂正を自分の価値への攻撃とみなさなければ、誤りが小さいうちに戻れることがある。ここでいう「不病」を、失敗しない人の資格証にする必要はない。

六 確信の隣に、問いを一つ置く

とても確かな気がするとき、「もし間違っているなら、どこだろう」と尋ねてみる。すべてを疑うためではない。判断が何に支えられているかを、一段だけ具体的にするためである。

実際に見たことと、そこから推測したことを分ける。結論が変わるとすれば、どんな情報が必要か考える。自分と違う意見の人に、結論だけでなく理由を聞く。こうした小さな作業は、「私は謙虚です」と言うことより手間がかかるが、次の判断に使えるものが残る。

同時に、すべての決定を無期限に延期することはできない。現時点の証拠で決め、確かさの程度を伝え、後から見直す条件を置く。限界を知ることは、責任を避ける道ではなく、有限な知識で責任を引き受ける方法になる。

他人を見るときも、断言や遠慮の印象だけで決めない。この人は理由を示せるか。分からない点を調べるか。新しい事実によって修正できるか。その問いは、そのまま自分へ返せる。

七 空白があるまま、次へ進む

第七十章では、知っている言葉を実際に生きる難しさを考えた。実践して初めて分かることがあるなら、実践して初めて、自分がまだ分かっていなかったことも分かる。

その発見で、自分を全否定しなくてよい。地図に新しい空白を記すことは、以前より地図が悪くなったという意味ではない。以前は描いたつもりでいた場所が、初めて正確になったのかもしれない。

次の章は、「自知而不自見、自愛而不自貴」と続く。自分を知りながら、それを誇示しない。自分を大切にしながら、他人より上へ置かない。限界を認めることと、自分の尊厳を守ることは、同じ人の中にあってよい。

今日は何を知っていて、どこから先はまだ分からないのか。その境目を言葉にできれば、そこには誰かに尋ねる余地が生まれる。分からない場所は、恥を隠す場所でなく、次に学ぶ場所になる。


詳しい注釈と本文比較は論考VIIIおよびZenodo版へ。先行論考:I、II、III、IV、V、VI、VII。