Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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大知道徳経解
第五十八章 · 全八十一章

うまくいっているときにも、見えていないものがある

秦汉(大知)· Han Qin

本章の中国語原文

帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み

其政闵闵,其民屯屯,其正察察,其邦缺缺。祸,福之所倚;福,祸之所伏,孰知其极?其无正也,正复为奇,善复为妖。人之悉也,其日固久矣。是以方而不割,兼而不刺,直而不绁,光而不曜。

底本と句読点について

著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。

本章のもとになった論文を読む(英語・中国語)

一 成功のあとで、聞こえにくくなる声

数字が伸び、取引が増え、会議には明るい言葉が並ぶ。少し前まで慎重に確かめていたことも、今は勢いを止める話に見える。現場から疲労や不具合の報告が届いても、うまくいっているのだから大丈夫だろう、と次の予定へ進んでしまう。

成功そのものが悪いのではない。喜び、祝う時間はあってよい。ただ、よい結果を得たことと、その先も同じ条件が続くこととは違う。順調さが、見直す必要のない証拠になったとき、見えなくなるものがある。

反対に、行き詰まりによって、初めて見えることもある。続けてきた方法を止め、助けを求め、本当は守りたかったものを思い出す。しかし、どんな災難にも必ず隠れた贈り物があると言われたら、苦しい人は苦しむ場所まで失うだろう。

第五十八章の禍福の言葉は、よいことには不安を、悪いことには無理な笑顔を添えるためにあるのではない。今見えている結果だけで、これからの可能性を閉じないためにある。

二 すべてを見張ると、何が見えなくなるか

「其政閔閔、其民屯屯。其正察察、其邦缺缺」。統治が目立って切れ者を演じないとき、人々は厚みを持って暮らす。細部まで鋭く見張る統治の下では、国の営みが欠けていく。この対照は、第五十七章の、管理する側が増やしている仕事への問いを引き継ぐ。

何をしているか常に報告し、わずかな違いにも説明を求められる職場では、人は仕事だけを見てはいられない。どう見られるか、どこを責められるかにも注意を使う。失敗の早い報告より、失敗に見えない説明が増えれば、管理者は多くの情報を集めながら、大切な事実から遠ざかる。

「閔閔」は、責任の所在を曖昧にすることではない。必要な点検や会計監査、安全確認まで「察察」と呼んで退ければ、弱い立場の人ほど守られなくなる。違いは、情報を問題の解決に使うのか、誰かを絶えず疑い、従わせるために使うのかにある。

方向がわかり、相談先があり、細部を自分で判断できる場では、人はすべての動作を演出しなくてよい。何か起きたら一緒に確かめる。何も起きていないときまで疑いの網を張り続けない。その静けさは、知ろうとしない鈍さではなく、人が本当のことを言えるようにする節度である。

三 禍と福は、最終判定ではない

「禍、福之所倚。福、禍之所伏」。禍には福が寄りかかり、福には禍が伏している。よいことの隣には悪いことが来る、という順番だけでなく、一つの状況に異なる可能性が含まれていることへ目を向ける文として読める。

事業が成功すれば、資源も自信も得られる。その資源で基盤を整えることも、際限なく拡張することもできる。自信が新しい試みを助けることも、異論を聞かない理由になることもある。福が自動的に禍へ変わるのではない。よい結果をどう受け取り、何を続け、何を見落とすかが、その後に関わってくる。

失敗の側にも、今までと違う選び方が開けることはある。無理な計画を止め、頼れる人に会い、自分の価値を一つの成果だけで測らなくなるかもしれない。ただし、その可能性が、失ったものを帳消しにするわけではない。災害や病気、暴力には、意味を与えても埋まらない損失がある。

困難のただ中にいる人へ、これはきっと幸せの始まりだと結論を渡すより、今必要な支援を届けるほうがよい。新しい道が見えるとしても、その人の時間で見えるものだ。希望は、被害をよいことと呼び直す義務ではない。

だから順境では、喜びながら条件を見る。逆境では、苦しさを認めながら、残っている支えや選択を一つずつ探す。どちらでも、今の状態を自分と未来についての最終判定にしない。

四 正しさが、問いを閉じるとき

「孰知其極。其無正也、正復為奇、善復為妖」。その行き着く先を誰が知るだろう。正が奇へ、善が妖へ変わる。この鋭い反転を、善悪の区別など存在しないという話にする必要はない。むしろ、正しいと名づけたことの実際の働きを見続けよ、という問いにできる。

たとえば、公平のためにつくった基準がある。ところが、誰かの事情が基準に入らないとわかったとき、基準のほうを調べず、その人を例外だからと切り捨てる。公平を守るつもりで、比較すべき違いが消されることがある。

親切も同じだ。相手を支えるために始めたことが、「あなたのためだから従いなさい」に変われば、助けは選択を奪う力になる。ここで善意を捨てるのではない。善意が、相手の拒否を聞かなくてよい免許になっていないかを見る。

子どもの選択肢を広げたいと始めた勉強が、点数だけを物差しにするものへ変わることもある。睡眠も友人も興味も後回しにされ、つらいと訴えることまで親の苦労を理解しない証拠にされる。変化を生んだのは善の量そのものではなく、当人の声が判断から外されたことだ。

何でも徹底すれば必ず悪へ転じる、という機械的な法則ではない。権利を守るために譲れない線もあり、危害には明確に異議を唱える必要がある。危ういのは、よい目的があるのだから手段も結果も疑う必要はない、と考えることだ。自分の正しさに、事実が入ってくる扉を残しておく。

五 わかったつもりを、長く続けない

本連載の採用本文には「人之悉也、其日固久矣」とある。ここでは「悉」を理解の方向に読み、反転や限界への注意が、持続する姿勢につながると考える。ただし、これは本文に即して展開する本稿の読みであって、「固」が単独で「そうして初めて」を意味するという断定ではない。

広く伝わる王弼本は「人之迷、其日固久」とし、人の迷いが長く続いていると読む。また、結びにも、本連載の「兼而不刺」「直而不紲」と、通行する「廉而不劌」「直而不肆」という違いがある。これらは同じ意味へ簡単に畳める差ではない。別の読みを消さず、ここでは採用本文から、包容と非拘束の方向を考えていく。

何かを理解したとは、以後もう見なくてよいということではない。成功の条件が変わっていないか。よいはずの援助が負担になっていないか。そうした問いを、できるだけ普段の判断に組み込むことだ。

第四十四章で足ることと止まることを考え、第五十五章で力を入れることと緩めることを考えた。ここでも、持続するのは一度完成した悟りより、状況を見直す習慣である。それは事故や老いをなくす術ではないが、気づける変化を放置しないための力にはなる。

六 輪郭は残し、刃にはしない

「是以方而不割、兼而不刺、直而不紲、光而不曜」。方であって割かず、兼ねて刺さず、直であって縛らず、光があってもまぶしく照らしつけない。四つとも、自分のよさをなくすのでなく、そのよさを人へどう向けるかを問う。

「方而不割」。原則を持ち、境界を示す。ただし、自分と違う人をまとめて切り捨てるために原則を使わない。これは、誰も不快にしてはいけないという命令ではない。必要な拒否や批判は、相手が嫌がっても必要なままだ。違いを言うことと、人格を傷つけて勝つことを分ける。

「兼而不刺」。異なる人や事情を受け入れながら、受け入れてやったという棘を残さない。会議へ招いても、その人が話すたびに無知を笑うなら、席だけ用意したことになる。包容は、中心にいる自分の寛大さを見せる舞台ではない。

「直而不紲」。率直でありながら、自分の率直さを相手を縛る理由にしない。「私は正直だから」と言って、いつでも望む返事を要求できるわけではない。思っていることを明らかにし、相手にも違う判断を持つ余地を残す。

「光而不曜」。能力を使いながら、それで人の目をくらませない。第五十六章の「和光同塵」と同じく、光を消す必要はない。教師が難しい問題を理解できるように説明するのか、生徒がいかにわかっていないかを証明し続けるのか。相手が自分で見えるように照らすのか、自分の明るさしか見えなくするのか。その違いが、同じ才知の働きを変える。

七 喜びも悲しみも、急いで閉じない

うまくいっていることを一つ思い出す。喜びを減らす必要はない。そのよい結果を支えているものは何か、最近聞かなくなった声はないか、休息や余力まで次の成果へつぎ込んでいないかを確かめる。祝ったあとにも点検できることは、祝うことへの裏切りではない。

苦しいことについては、無理に教訓をつくらなくてよい。今、誰と話せるか。どの負担を減らせるか。次の一日を支えるために何が要るか。未来が見えないときには、大きな希望を言うより、具体的な支えを見つけるほうが役立つこともある。

自分の強みも一つ見直せる。原則が他人を追い詰める道具に、率直さが返事を強制する力に、才能が比較で勝つための光になっていないか。強みを捨てず、使い方を少し変えてみる。その変化は、誰かからの異論を最後まで聞く一回から始まるかもしれない。

冒頭の会議では、成功を祝ったあと、現場の疲労についてもう一度尋ねられる。順調な数字と心配な声は、同じ場に置ける。片方があるからもう片方を消す必要はない。

第五十八章の落ち着きは、いつも悪いことを予想する緊張でも、必ずよくなると信じ込む明るさでもない。よいことを喜び、痛いことを痛いと認め、その先をまだ決め切らずにいることだ。輪郭を持ちながら、そこから人を切らない。光を持ちながら、光の外にあるものも見ようとする。


詳しい注釈と本文の比較は論考第七篇およびZenodo版へ。先行論考:第一篇、第二篇、第三篇、第四篇、第五篇、第六篇。