規則を一つ増やす、その前に
本章の中国語原文
帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み
以正治邦,以奇用兵,以无事取天下。吾何以知其然哉?夫天下多忌讳而民弥贫,人多利器而国家滋昏,民多伎能而奇物滋起,法物滋彰而盗贼多有。是以圣人之言曰:我无为也而民自化,我好静而民自正,我无事而民自富,我欲无欲而民自朴。
底本と句読点について
著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。
一 昨日の対策が、今日の仕事になる
一度ミスが起きたので、確認欄を一つ増やした。別の部署との行き違いを防ぐために、承認する人も増やした。どの対策にも、そのときにはもっともな理由があった。それでも一年たつと、仕事を始めるまでに必要な仕事が、肝心の仕事より長くなっている。
誰かが困っていると伝えると、今度は困りごとを報告する書式ができる。現場では、よい結果を出す方法より、問題なく欄を埋める方法に詳しくなる。規則は増えたが、判断は育っていない。責任の所在が明らかになったつもりで、誰も決められない場所が広がっている。
第五十七章の問いは、この増え方へ向かう。問題が起きたとき、いつも足す方向にだけ手が動いていないか。自分たちの対策が、解決したい問題を別の形で育てていないか。
だからといって、規則が多ければ必ず悪く、少なければ必ずよいわけではない。安全を守る規則や、不当な扱いに抗議できる手続きは、人を自由にすることもある。見直したいのは数だけでなく、規則が現実に何をさせ、誰の負担を増やし、何を守っているかだ。
二 正、奇、無事という三つの向き
「以正治邦、以奇用兵、以無事取天下」。正によって国を治め、奇によって兵を用い、無事によって天下を取る。秩序だった統治、意外な働きを使う軍事、いたずらに事を起こさない統治のあり方が、対照的に並べられる。
これを、規則は低い段階、策略はその上、何もしないことが最高という、すべてに通用する順位表にする必要はない。規則にも戦略にも、それぞれの働く場面がある。「取天下」はまず古代の統治や天下の獲得をめぐる言葉であり、そのまま現代の人望という意味になるわけでもない。
それでも、現代の組織へ持ち帰れる問いはある。一つの案件を通すのに有効な指示や、競争で一度勝つための奇策が、人々が長く安心して働ける条件をつくるとは限らない。毎回の勝ち負けを指揮できても、日々の判断をすべて代わりに引き受けることはできない。
「無事」は、その限界を知る姿勢として読める。必要な仕事をなくすのでなく、統治する側の存在を示すために用事を増やさない。第二十九章の、天下を強くつかもうとする手への問いや、第四十八章の余分な働きを減らす考えともつながる。
方向を明らかにし、必要な資源を渡し、そこから先の判断には余地を残す。静かな環境とは、誰も何もしていない環境ではない。人が自分の仕事に力を使えるよう、余計な揺さぶりを少なくした環境である。
三 四つの対照が、見るべき場所を変える
「吾何以知其然哉」。どうしてそうだと知るのか。そのあとに四つの対照が続く。天下に忌諱が多くなれば民はいっそう貧しくなり、人に利器が増えれば国は乱れ、伎能が増えれば奇物が現れ、法物がますます明らかになれば盗賊が増える。
最初の「多忌諱而民彌貧」は、制限の負担へ目を向けさせる。働くたびに許可を要し、少し違う方法を試すたびに責められるなら、生産や生活に使える力が削られる。会社で承認が幾重にも必要になると、担当者は改善より、誰にも責められない順序を守ることへ力を注ぐようになる。
「人多利器而國家滋昏」の「利器」には、武器や有利に働く道具など、複数の読みがある。ここでは、競争や支配に役立つ手段が増えても、全体の見通しがよくなるとは限らないと考えたい。部門ごとに自分に有利な数字を磨けば、組織全体で何が起きているかは、かえって見えにくくなる。
「民多伎能而奇物滋起」も、技術や科学を一括して疑う文にするべきではない。巧みさが、必要に応えるためより、目を引き、勝ち、規則をすり抜けるために使われると、工夫の向きが変わる。プラットフォームの規則が利用者の実情とかみ合わなければ、健全な活動より、判定を逃れる技術ばかりが発達することがある。
「法物滋彰而盜賊多有」は、法や制度が目立って整うことと、不正が減ることとの間に、自動的なつながりはないと突きつける。ただ、窃盗を禁じると窃盗が生まれる、という因果法則ではない。暴力を禁じる法は人を守りうる。問題は、負担ばかり重く、運用が不公平で、違反を隠すほうが得になるような制度だ。
家庭でも、理由を伝えない禁止が積み重なれば、子どもは判断より隠し方を覚えることがある。しかし、危険を避ける約束まで不要になるわけではない。この四つの対照を読む力は、すべての制限を外す勢いではなく、どの条件が回避やごまかしを育てているのかを確かめる注意にある。
四 四つの「我」が、場を空ける
後半には聖人の言葉として、四つの文が置かれる。「我無為也而民自化、我好靜而民自正、我無事而民自富、我欲無欲而民自樸」。自ら化し、正しくなり、豊かになり、素朴になる。その主体が民であることに注目したい。統治する者が一人ずつ完成品につくり直す姿ではない。
「我無為」は、管理者なら、目標と責任を明らかにし、資料、時間、相談先を整えたあと、あらゆる判断を取り戻そうとしないことになる。任された人が考えられる範囲を、実際に渡す。失敗したときだけ自己責任を持ち出すのでは、任せたことにはならない。
「我好靜」は、親なら、その日の機嫌で基準を変えず、子どもが試せる安定をつくることになる。必要な説明や安全の支えがあるから、見張られていなくても取り組める。静かにするのは、呼ばれても応じないことではない。
「我無事」は、プラットフォームなら、土台を使いやすくし、予告もなく条件を変えず、利用者が自分の目的で活動できる時間を守ることになる。安全対策、異議申立て、退出の権利は、その土台の一部だ。公的な統治でも、弱い立場を守るために積極的な介入が要ることがある。撤退すれば豊かさが自然に行き渡る、とは言えない。
「我欲無欲」は、欲求そのものを消すことではない。先に立つ人が、際限なく多くを求める姿を全員の基準にしないことだ。成果を自分の名へ集めず、誰が働いたかを正確に認め、いつも勝ち誇る必要を手放す。人々の欲望は一人の振る舞いだけで決まらないが、上にいる人が何を報いるかは、場の方向を変える。
四つの文を今日に生かすなら、自然に育つ力を信頼し、その力が働ける条件に責任を持つことになる。自由は、世話を省いた空白ではなく、自分で動けるように整えられた余地である。
五 「私」を消さず、中心に置き続けない
前半の問いには「吾」、聖人の言葉には「我」が用いられている。この切り替わりを、二種類の心理的な自我が古代語の中に証明されている、とまで言うことはできない。問いを発する声から、統治する者が自ら語る声への移りとして読める。
そこに、現代の読者が考えられる違いはある。「私は何もしない」と言いながら、その見事な無為を全員に評価してほしい人もいる。表向きは任せても、結果が自分の思ったとおりでないと、すべての判断を取り上げてしまう。その中心には、依然として自分の重要さを確かめたい気持ちがある。
対して、自分が毎回目立たなくても仕事が進むことを喜べる人は、必要な場面で前に出て、必要のない場面では退ける。自分がいないと成り立たない状態を、指導の成功だと考えなくなる。
第五十一章の、生み育てても所有しない姿勢が、ここで統治の姿になる。自分の役割を消すのではない。判断し、支え、責任を引き受けながら、その仕事の中心に他の人の成長が置かれる余地を守る。無為は、何もしていない自分を飾る称号ではなく、何のために手を出すのかを選び直す実践である。
六 最初に外すのは、どの一つか
今ある規則を一つ取り上げてみる。もともと何を防ぐためにつくられたのか。今もその問題はあるのか。守るための負担は誰にかかり、実際に守られている人は誰か。使う人に聞くと、制定した側が知らない仕事が、その規則の下で増えているかもしれない。
削るなら、一律に外すのではなく、影響を見られる範囲で試す。安全や権利を守る部分を残し、重複した承認や目的の薄れた報告を減らす。困りごとを言える通路を開け、うまくいかなければ修正する。その点検も、減らすために必要な仕事だ。
次に、任せるための土台があるかを見る。方向だけ伝えて、時間も情報もないままなら、人は自由に動けない。支援が届き、失敗を相談でき、必要なら断れること。そこを整えたうえで、手順の細部を相手へ返していく。
最後は、自分の振る舞いだ。常時対応を称賛しながら、休んでよいと言っていないか。違う意見を歓迎すると言いながら、自分に反対した人を遠ざけていないか。人々は規則だけでなく、実際に何が報われ、何が罰せられるかを見ている。
冒頭の確認欄は、一つなくせるかもしれない。なくしても何も困らず、仕事が少し進むなら、その静かな変化を見逃さない。第五十七章は、管理をなくす合言葉ではない。管理する側が増やした仕事を見つめ、必要な支えを残しながら、人が自分で働く場所を返していくための問いである。