握りしめるほど失う
本章の中国語原文
帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み
昔之得一者:天得一以清,地得一以宁,神得一以灵,谷得一以盈,侯王得一以为天下正。其致之也,谓天毋已清将恐裂,谓地毋已宁将恐发,谓神毋已灵将恐歇,谓谷毋已盈将恐竭,谓侯王毋已贵以高将恐蹶。故必贵而以贱为本,必高矣而以下为基。夫是以侯王自谓孤、寡、不谷。此其贱之本与?非也?故致数舆无舆。是故不欲禄禄若玉,珞珞若石。
底本と句読点について
著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。
一 一覧が言い尽くさないもの
「故に輿を数うるを致せば、輿無し」。この句には異なる解釈がある。すべての車を所有しようとした人が、数えるうちに車を失う、という物語を直接語っているわけではない。
河上公注は別の道を採る。車を輪や轂などの部品に分けて名指しても、その一つの名だけでは車全体を言い尽くせない。「誉」と関連づける読みもある。こうした相違がある以上、創作した場面を確定した古代の寓話として語るべきではない。河上公章句
車と部品の関係から、日常に近い問いを立ててみよう。項目をすべて並べ終えたら、それらがともに形づくる生活を理解したことになるのか。履歴書の実績は本当でも、その人を言い尽くしはしない。チームの指標が揃っても、働き合う関係までは見えない。
この文章では、その隙間から「全部つかみたい」という衝動を考える。数えることが悪いのでも、帳簿を作ると財産が消えるのでもない。完全な一覧と完全な理解とは、同じではないのである。
二 「一」を得てはじめて、自分でいられる
以下の「一」の説明は、この連載の哲学的な読みである。物事は孤立して自足するのでなく、より大きな全体の中で支えを受ける、という点に目を向ける。
第三十九章は、こう始まる——
「昔の一を得たる者は、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、神は一を得て以て霊に、谷は一を得て以て盈ち、侯王は一を得て以て天下の正と為る。」
いにしえに「一」を得たものたち——天は一を得てはじめて清く、地は一を得てはじめて安らかで、神は一を得てはじめて霊妙で、谷は一を得てはじめて満ち、侯王は一を得てはじめて天下の正しい位置のかなめとなる。
まず、「一」とは何かを見ておこう——「一」は数字の一ではない。何かひとつきりのものでもない。「一」とは、道が万物のうえに現れた、あの全体としてのまとまりである——万物がひとつの全体として、道から受けとっている根本の位置である。第三十七章の「道は恒に名無し」につながる——道そのものは構を立てない。だが道は、万物のうえに「一」として現れる。
一を得るとは、所有することではない。受けとることである——天が「私は一を得た」という看板を立てたのではない。天は、道が自分のうえにひろがっていくのを受けとったのである。
この層は、いまを生きる人にとって大事である——あなたの能力、あなたの調子、あなたがなしとげたことは、すべてがあなた自身の「こしらえた」ものではない——あなたより大きな何か(流れ、時代、人の支え、運、システム全体の働き)を受けとって、それがあなたのうえに現れたものである。あなたが大事でない、というのではない。あなたの「清」「寧」「霊」は受けとったものであって、あなたがひとりで構として立てたものではない、ということである。ここを見きわめることが、この章の出発点である。
三 よい状態を変化禁止にするとき
続く文には、天が裂け、地が崩れ、谷が枯れる危険が現れる。この連載は採用本文の「毋已」を、止まらないという方向で読み、状態を極端に固定することへの警戒を引き出す。「無以」に近く、支えを失うことを重く見る訓読もある。字義が一つに決着しているわけではない。
生活では、望ましい状態が「変わってはいけない」という命令になっていないかを考えたい。家庭の平穏はよい。しかし異論を一切認めなければ、困りごとまで言えなくなる。仕事の進歩はよい。しかし上昇しか許さなければ、その代償を隠す人も出る。
清らかさや安定や進歩が、ある強度で必ず崩れるのではない。表面を保つ手段が、それを支える条件を傷つけることがある。経文の「将恐」という危険の響きを残したい。
天が裂ける比喩で現代の結果を予測するのではなく、「ずっとこうでなければ」と言う前に、その状態を誰が支え、何を負担しているかを見るのである。
四 支えてくれる人を見る
貴きは賤しきを本とし、高きは下を基とする。高い位置は宙に浮いて成立しない。高低の対照は支えを見せるのであって、誰かを永遠に低く置く命令ではない。
経文はまた、侯王が「孤・寡・不穀」というへりくだった称を用いると記す。しかし謙称も口癖だけなら演技になる。支える人は異論を言えるか。その働きは見えているか。そこが大事だ。
自分を無価値だと言う必要も、成果を喜ぶのをためらう必要もない。「私が成し遂げた」と「一人で成し遂げたのではない」は両立する。学び続けるために、進歩を永久に否定しなくてもよい。
五 車と部品、本と読書表
車に戻ろう。部品の名をすべて知っていても、車はそれらの関係によって動く。だから全体は永遠に理解できない、と証明されるわけではない。何でできているかを知ることと、どう働くかを理解することは別なのだ。
現代の例を一つ置いてみよう。これは老子が語った話ではない。ある人が緻密な読書表を作り、読みたい本をすべて登録する。その完全な一覧を整える仕事が、いつのまにか本を読む時間に取って代わっていく。
表が敵なのではない。読書を助けるあいだは役立つし、読書に代わってしまったら直せばいい。「全部読む」と誓うより、目の前の一冊を読み終え、一覧は変わってよいことにする。
会計には集計が要る。仕事に計測が要ることもあり、高い基準を目指してもよい。問題は数量化ではなく、それだけを現実とすることだ。完了することではなく、もう聞くべきことも直すべきこともないと閉じることだ。
六 きらびやかにもならず、ごつごつにもならず
最後は玉と石の対照に戻る。玉のような輝きも、石のような粗さも望まない。本文は、どちらの端にも自分を縛らない方向で読む。ただ一つの訓釈とするのではない。
高価な見た目を追わなくなった人が、今度は「私はそんなものを追わない」と全員に知ってほしくなることがある。控えめさも管理すべき看板になる。そこをもう一歩考えたい。
わざと粗末な服を着る必要はないし、美しい品が好きでも責めることはない。名声で自分の値打ちを示すこと、名声を気にしない姿でそれを示すこと、その両方から少し離れる。選択は暮らしに合っていればよく、毎回自分の価格を証明しなくてもよい。
七 読者へ
この章を読むと、「これで十分」が少し違って聞こえる。負けを認めるのでも、仕事を途中で放り出すのでもない。今しているのは物事を仕上げることか、それとも完全な一覧を完全な人生だと思い込むことか、と問うのである。
仕事では責任を明確にしつつ、相手なりの方法を残す。家計では正確に数えつつ、帳簿の外の時間や健康や関係も忘れない。成果を喜びつつ、自分の努力と支えてくれた人の両方を認める。
何かを目指すたびに、天が裂けると脅す必要はない。目標に何が必要で、その負担に耐えられるか、他の人が断れるかを見るほうが実際的だ。
車と部品に戻ろう。一覧を大切にしても、それがすべてではない。本や仕事を終えることは、本当の完成であってよい。余地を残すとは、完成の禁止ではなく、新しい事実が再び訪れるのを受け入れることだ。