Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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大知道徳経解
第四十章 · 全八十一章

戻れること、育ち続けられること

秦汉(大知)· Han Qin

本章の中国語原文

帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み

返也者,道之动也;弱也者,道之用也。天下之物生于有,有生于无。

底本と句読点について

著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。

本章のもとになった論文を読む(英語・中国語)

一 十文字、いくつもの道

第四十章は短い。「反者道之動、弱者道之用」。通行本のこの二句は十文字だが、解釈の分かれ道は少なくない。

帰り戻ることを読む人も、逆の方向への動きを重く見る人もいる。弱から柔順や無理をしない姿勢を考えることもできる。ここでは日常から入ろう。自分のやり方が初めの望みを損ないはじめたことに、どう気づくか。経験を積んだあとも、どう変われるか。

何にでも逆らえ、弱いふりをしろという話ではない。帰ることと応答できることから読む。ただし、この入口がほかの読みをすべて誤りとする証拠になるわけではない。

二 返——向きを点検する

「返なる者は、道の動なり」。この連載は「返」を使い、戻る動きを強調する。ただし、採用する表記と写本の字形は区別したい。「帛書は必ず返、通行本はそれを反に改めた」と断定できるわけではなく、「反」が静的な反対だけを意味するのでもない。

古注にも、反を帰り戻ることとして読む解釈がある。蘇轍は「反者、復也」と記した。返という表記でこの文章の重点を示すことはできるが、反を用いる人がみな逆らうことしか読めなかった、とはいえない。古注の戻るという解釈

日常にも反作用はある。成長を急ぎすぎて、成長を支える資源を失う。相手を完全に所有しようとして、守りたかった親密さを傷つける。ただし、それぞれの因果を考える必要がある。二つの概念が互いを前提にすることだけでは、あらゆる物事が自動的に反転すると証明できない。

返は、自分の向きを点検する問いになる。いまのやり方は、望んでいるものを壊していないか。周期を予測する装置でも、極端を避ければ外からの衝撃を受けないという保証でもない。

三 気づいたら、どこから変えるか

戻ることが分かっても、間違わなくなるわけではない。動いてみて初めて見える代償も、控えると決めただけでは取り戻せない損傷もある。

仕事に真剣な人が、少しずつ睡眠を削っていく。倒れきるまで待たなくても、段取りを変える必要は認められる。引き受けた仕事を一つ減らす。期限を相談し直す。分担を頼む。後退に見えて、よい仕事をする力を守ることかもしれない。

止まるとは、永久に正しい目盛りを見つけることではない。代償が見えたら調整を許すことだ。それでも外の事情に影響される。節度はある危険を減らすが、人生を保証しない。

返は「ここまで来る前に気づくべきだった」という責めではない。気づいた今、どこから変えられるかという問いなのである。

四 弱——まだ芽のうちだから、まだ伸びられる

「弱なる者は、道の用なり」。新しい芽を思い浮かべるとよい。育ちきってはいないが、すでに自分の伸びる向きをもっている。大切なのは傷つきやすさではなく、環境に応じていることだ。

ただし、新芽と大木は生命と死の対立ではない。成熟した大木も成長を続ける。専門家になっても学ぶことはできる。大きいというだけで、もう成長していないとは言えない。大木の成長についての研究

よりよい対照は、活きた枝と枯れ枝である。活きた枝は水や季節や傷に応じ続け、枯れ枝はその生命過程を失っている。いつまでも幼いことではなく、応答できることが大切なのだ。

人なら、経験を修正できるままにしておくことだ。熟練してよいし、力をもち、「これはできた」と言ってもよい。そのうえで「ここはまだわからない」と言える。開かれているために、毎日自分を小さく言う必要も、休みなく成長し続ける必要もない。

五 力は硬直しなくてよい

返と弱を合わせると、すべてを占めなくても成り立つ力が見えてくる。決めることと意見を聞くこと、大事なことを守ることと一歩の間違いを認めることは両立する。

反対側にあるのは成熟そのものではなく、硬直だ。過去が正しかったと証明するために人を傷つけるやり方を続け、専門家の顔を守るために証拠を拒む。知識があることではなく、応答を閉じることが問題なのである。

第三十六章ともこうつなげられる。調整できる余地は、無理押しよりしなやかな持続を支えることがある。ただし、しなやかさは無敵ではない。人には限界があり、助けも必要だ。

六 万物はどこから来るのか

「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」。現れた万物を有へ、有をさらに無へとたどる句である。

本文の哲学的な読みでは、有は識別できる形、無はまだ形のない、現在の形だけでは言い尽くせない可能性を指す。第四十二章は道から一、二、三を経て万物へ進む。ここでは、今あるものはどこから来たかと振り返る。並べて読むと、展開と遡行の二つの方向が見える。

これは宇宙の起源についての物理学的証明でも、何もしなければ何でも可能になるという約束でもない。種には土が、新しい方法には時間と条件が要る。人生には抵抗、限界、取り戻せない喪失もある。

無を覚えておきたいのは、無限を約束するからではない。今すでに形になった暮らしが、生き方のすべてを言い尽くしているとは限らないからだ。

七 読者へ

読み終えて、永遠の初心者になろうとしなくていい。開かれているために、経験や力や実績を否定する必要はない。

二つの問いを持ち帰ろう。守りたいものを支える条件を、自分で壊していないか。事情が変わったとき、やり方を変えることを自分に許せるか。

関係を大事にするつもりが監視になっていないか。真面目に働こうとして休みを失っていないか。そして、昨日役立った方法はいまも合っているか。

毎回ゼロから始めなくてよいし、ずっと前進する保証もない。立ち止まり、助けを求め、身につけた力を別の仕方で使うことも、生長の一つなのである。