Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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大知道徳経解
第二十章 · 全八十一章

「我」と「吾」

秦汉(大知)· Han Qin

本章の中国語原文

帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み

唯与诃,其相去几何?美与恶,其相去何若?人之所畏,亦不可以不畏。恍呵其未央哉。众人熙熙,若享于太牢而春登台。我泊焉未佻,若婴儿之未孩。累呵似无所归。众人皆有余,我独遗,我愚人之心也,惷惷呵。俗人昭昭,我独昏呵。俗人察察,我独闵闵呵。惚呵其若海,恍呵其若无所止。众人皆有以,我独顽以鄙。吾欲独异于人,而贵食母。

底本と句読点について

著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。

本章のもとになった論文を読む(英語・中国語)

一 最初にして、ただ一度

『道徳経』のなかで、老子が自分自身をまるごと差しだしてみせるのは、ここが最初であり、ただ一度きりである。

第二十章。

老子は「衆人はこうだ、我はこうだ」と書き、「我」の句を六つ重ねていく。

衆人はにぎやかで、我は静かだ。
衆人はあれこれぶら下げていて、我は何もぶら下げていない。
衆人は抜け目がなく、我は愚か者の心で、ぼんやりしている。
衆人ははっきりしていて、我はぼうっとして見える。
衆人は細かく目ざとく、我はうすのろに見える。
衆人は構えをもって事をなし、我はかたくなで野暮に見える。

はじめてこの章を読む人は、ほとんど誰もが、老子の孤独の告白として読む——「聖人にも、わかってもらえないという愚痴があったのか」と。

この読み方は、章全体をずらしてしまう。

これは感傷の章ではない。

自分で選びとった人が、自分の具体的な姿を見せて、その選択がどういうものなのかを読者に告げているのである。

章全体の鍵は、最後の一句にある。

最後の一句が、それまでの「我独り……」を、すべてひっくり返す。

「吾は独り人に異ならんと欲して、食母を貴ぶ。」

「我」から「吾」に切りかわっていることに気をつけてほしい。

それまでの六度はすべて「我」で、最後のこの一度だけが「吾」である。この一字の切りかえが、章全体の鍵なのである。

二 対立するものも、たいして違わない

この章の冒頭の三句が、章全体の基調になっている。

「唯(い)と訶(か)と、其の相去ること幾何ぞ。美と悪と、其の相去ること何若(いかん)。人の畏るる所は、亦た以て畏れざる可からず。恍呵、其れ未だ央(つ)きざるかな。」

唯は、応える声である(「はい」「承知しました」)。訶は、叱りつける声である。

老子は問う。応えることと叱りつけることは、どれほど隔たっているのか。

表向きは対立している。一方は肯定、一方は否定だ。だがよく見れば、どちらも、外から来た刺激についていって反応しているにすぎない。この層では、応えるのも叱るのもたいして違わない。どちらも、外への反応のなかで堂々めぐりをしている。

「美と悪と、其の相去ること何若。」

ここには、気をつけるべき字の違いがひとつある。

帛書は「美と悪と」と書き、通行本は「善と悪と」と改めている。

一字の違いで、章全体の向きが変わる。

帛書の「美」で読めば、美と悪(醜)とは、美醜の層で立てられた構の両側である。「美」という構をひとたび立てれば、「悪」は同時に、その裏側として立てられる。二つは同じひとつの構の両側なのだ。

通行本の「善」で読めば、章全体が道徳の層へ引っぱられる。善悪の対立は、道徳判断の対立として読まれることになる。

帛書で読めば、この一句は第二章の「天下皆美の美為るを知るも、悪なるのみ」とひと筋につながる。構の両側は、同じところから同時に生まれる。片側を立てれば、もう片側も同時に立つ。表向きは対立していても、じつは同じひとつの構の枠組みを共有している。

だから、二つはたいして隔たっていない。

「人の畏るる所は、亦た以て畏れざる可からず。」

衆人が恐れるものも、まったく無視するわけにはいかない。老子は独り人に異なるが、衆人の層など存在しないかのようにふるまうわけではない。その状態は見えている。だが、かならずしもそれについていくわけではない。

「恍呵、其れ未だ央きざるかな。」

おぼろで、とらえどころがなく、境目もなく、果てもない。

構の両側のゲーム、衆人の共通認識、人が恐れる世界——そのすべてがおぼろで、境目もなく果てもなく、幾重にも重なっている。

これが、この章の基調である。老子は、人の世全体の、構を立てるゲームを眺めて、言う——このすべてはおぼろで、果てがない。

そして言う。このすべてのなかで、「我独り」と。

三 衆人と我——四つの組

続いて、四組の対比が並ぶ。どの組も、「衆人は X、我は Y」という構造をしている。

第一組

「衆人は熙熙(きき)として、太牢(たいろう)を享くるが若く、春に台に登るが若し。
我は泊焉(はくえん)として未だ佻(かろ)からず、嬰児の未だ孩(わら)わざるが若し。累呵、帰する所無きに似たり。」

衆人は熙熙として、にぎにぎしく浮かれている。太牢(牛・羊・豚をそろえた、国の祭祀の最上のごちそう)にあずかるように、春の高台に登って祭りを見物するように。創発層がいちばん満ちて、いちばんにぎやかな姿である。

我は泊焉として未だ佻からず——我は落ち着いていて、浮つかない。まだ笑うことも覚えていない赤ん坊のように。

赤ん坊は、第十章で立てた位置である。基礎層のあの「帰っていける位置」、まだ創発層の構に埋めつくされていない位置だ。「未だ孩わず」——孩は幼子が笑うことで、未だ孩わずとは、創発層の表情の反応がまだ始まっていないということである。

衆人は創発層でにぎやかにしている。我は、創発層の下の位置にいる。

「累呵、帰する所無きに似たり」。衆人の目から見ると、我は疲れはてて、帰るところもないように見える。

この一句ははっきり見ておかなければならない。これは衆人の目から見た姿である。我自身はどうなのか。章の最後の一句が明かす——我には帰るところがある。その帰るところは、母の位置である。

第二組

「衆人は皆余り有り、我独り遺(うしな)う。」

衆人は皆余り有り——誰もが、あれこれぶら下げている。手にも、身にも、ポケットにも、心にも、構をいっぱいにぶら下げている。立てた看板、積みあげた身分、重ねてきた判断、ためこんだ実績。

我独り遺う——我ひとりだけ、何も持っていないかのようだ。衆人の目から見れば、我は手に何もぶら下げていない。

いまに置いてみよう——

衆人は皆余り有り。誰もがLinkedInに肩書きをずらりと並べ、Xのプロフィールに経歴と実績をぎっしり書きこみ、ポートフォリオに取引先のロゴを並べ、クローゼットにブランド物を並べている。

我独り遺う。プロフィールには「エンジニア」とだけ。自己紹介はひとことだけ。

そうしたものを持っていないのではない。「ぶら下げて見せない」のである。ぶら下げている人たちから見ると、我は何かが欠けているように見える。じつは何も欠けていない。ぶら下げていないだけなのだ。

「我は愚人の心なり、惷惷(しゅんしゅん)呵。」

愚か者の心のようで、ぼんくらで、のろまである。

ここは、帛書の話し言葉まじりの自嘲である。通行本はこれを「沌沌兮」(混沌として未分化なさま)と改めて、話し言葉の自嘲を、哲学的な境地へと格上げしている。

「惷惷」は生きた人間の話し言葉であり、「沌沌」は哲学者の用語である。

帛書で読もう。この自嘲はほんとうに自分をおとしめているのではない。老子は、衆人の目で自分を描いているのである。衆人から見れば、我はたしかに愚か者に見える。我は創発層の構をぶら下げず、手は空っぽで、頭は判断を立てるのに忙しくしていないからだ。衆人の評価の物差しでは、それはまさに愚かであり、ぼんくらである。

老子は、衆人の目に映るその姿を、まるごと書きだしている。卑下ではない。見せているのである。

第三組

「俗人は昭昭たり、我独り昏呵。
俗人は察察たり、我独り閔閔(びんびん)呵。」

昭昭——はっきりとして、きらきらしている。世間の人の判断は、どれもはっきりしている。これは正しくあれはまちがい、これは追う値打ちがありあれはない。

察察——こまかく、抜け目がない。世間の人の見分けは、どれもこまかい。これは上であれは下、これは内輪であれはよそ者。

我独り昏呵——我は、ぼうっとして見える。
我独り閔閔呵——我は、うすのろに見える(閔=にぶい、目ざとくない)。

我の頭がはっきりしないのではない。我が鈍いのでもない。「はっきりしていること」を初めからとる構えにせず、「こまかく見分けること」を初めからとる動きにしていないのである。

創発層のはっきりした判断は、すでに立てられた構のはっきりさである。我は、そこから世界を見ない。

いまに置いてみよう——

俗人は昭昭たり。SNSのタイムラインでは、誰もがきわめてはっきりした意見をもっている。この件はこうだ、あの件はああだ、正しい・まちがい・よい・悪いを、くっきりと判定している。

俗人は察察たり。どの持論も切れ味よく決まっていて、どの判断も粒度こまかく刻まれていて、どの陣営につくかも旗色鮮明である。

我独り昏呵。何かが起きても、我は急いで判断しない。急いでどちらかの陣営につかない。急いでそれを手持ちの枠に分類しない。

我独り閔閔呵。人を見るとき、我は急いでその人にラベルを貼らない。急いでその人を分析しない。急いでその人を手持ちの人物分類に入れない。

「惚呵、其れ海の若く、恍呵、其れ止まる所無きが若し。」

この二句は、冒頭の「恍呵、其れ未だ央きざるかな」に呼応している。

この二句は、我がどんな姿をしているかを描いているのではない。我がいまここから見わたしている、このすべてがどんな姿をしているかを描いているのである。世間の人の昭昭と察察のすべてが、我から見れば、海のように果てがなく、どこにも止まるところがないように見える。

構の両側のすべて、はっきりさと抜け目なさのすべてが、このおぼろで果てのないもののなかにある。

第四組

「衆人は皆以(もち)うる有り、我独り頑にして以て鄙なり。」

「以うる有り」——構えをもって事をなすこと。「自分がXをやる」「自分はXをやる人間だ」という、身分の感覚である。

衆人は誰もが、この構えをもって事をなしている。自分がこれをするのは、自分のXという身分を証明するため、自分のYというイメージを守るため、自分のZという看板を支えるため。

我独り頑にして以て鄙なり——我は、頑(かたくなで、なじまない)で、鄙(野暮で、垢ぬけない)に見える。

我がほんとうにかたくなで野暮なのではない。我は「自分がやる」という構えをもたずに事をなしている。それが、融通のきかない頑固者で、あか抜けない野暮天に見えるのである。

四つの組を合わせると、衆人の目に映る我の姿がまるごと見える。にぎやかでなく、ぶら下げておらず、ぱっとせず、こまかくなく、肩に力が入っていない。

ひっくるめて言えば、「食べたりず、ぶら下げておらず、ぱっとせず、こまかくなく、肩に力が入っていない」人なのである。

四 吾は、我の背後に隠れている者ではない

以下の「我/吾」の分担は、この自画像を読むための手がかりであって、古い漢語の代名詞が常にこう分かれるという規則ではない。この選択をしない人には主体の資格がない、という意味でもない。同じ人が、人から見える自分から、自分はどう生きたいかを語る位置へ移る。その動きを見ている。

章の最後の一句で、主語が入れかわる。

それまでの六度は、すべて「我」だった。我は泊焉として未だ佻からず、我独り遺う、我は愚人の心なり、我独り昏呵、我独り閔閔呵、我独り頑にして以て鄙なり。

最後の一度だけが「吾」である。吾は独り人に異ならんと欲す。

この一字の切りかえが、章全体でいちばん大事な層である。

「我」は、世のなかにいる側の代名詞である。関係の構造のなかに置かれて、対比される一方となる。この章のそれまでの「我」は、すべてこの使い方だ——衆人の目で描かれる、その一方として。

「吾」は、世の外に立つ気づきが、進みでて声を発するものである。関係の構造のなかで対比される一方ではない。気づく主体そのものが語っているのである。

章全体のリズムは、こうなっている——

まず「我」を六度重ねて、衆人の目に映る我がどんな姿かを、ひととおり見せる。愚か、ぼんくら、ぼうっとしている、うすのろ、かたくなで野暮。この層をひととおり歩ききったところで、最後に「吾」が進みでる。

「吾は独り人に異ならんと欲す。」

吾は、独り人と異なることを望む。

「欲」の字に気をつけてほしい。これは自分から「望む」ということだ。

独り異なるのは、強いられてのことでも、しかたなくでも、やむをえずでもない。吾が自分から望んでいるのである。

この一句が、それまでのあらゆる「自嘲」をひっくり返す。卑下のように見えたあの描写(愚人の心、惷惷、昏、閔閔、頑にして鄙)は、「吾は独り人に異ならんと欲す」のあとで、すべて裏返る。

我は、衆人のようになれないのではない。衆人のようにはならないことを、自分から選んでいるのである。


ここで、ひじょうに陥りやすい誤読をひとつ防いでおかなければならない。

「我」と「吾」の区別を見ると、読者はいともたやすく、「偽りの自分と真の自分」「外側の自分と内なる真の自分」という二元対立へすべっていく。

そう読めば、まちがいである。

吾は、我の背後に隠れている実体ではない。もっと深い自己でも、内なる本質でも、ほんとうの魂でもない。

吾とは、「衆人が初めからとっている構えを、自分の初めの構えにしない」という動きを、しつづけていること、その動きそのものである。

吾は操作であって、実体ではない。

言いかえれば——

我と吾は、二つのもの(見かけの我と、真の吾)ではない。同じひとりの人が、違う動きをするときに占める、違う位置である。その人が衆人の目で描かれるとき(見られている姿のとき)、それを「我」と呼ぶ。その人が衆人の初めの構えから自分で進みでるとき(「初めの構えに従わない」という動きをするとき)、それを「吾」と呼ぶ。

吾は、どこかに隠れていて、読者に見つけられるのを待っているのではない。

吾は、初めの構えに従わないことを自分から選ぶ、いまのその瞬間に湧き出てくる。その動きがなければ、吾はない。その動きがあれば、吾はそこにいる。

これは、第十三章の「吾に身無し+我に身有り」とひと筋につながっている。

第十三章——我(関係の層の身分)には身があり、吾(気づきの位置)は身分に張りつかない。
第二十章——我(描かれる対象)は衆人の目に映る姿であり、吾(気づく主体)がその姿を自分から選んでいる。

どちらの章も、ひとりの具体的な主体のなかでの、「我」と「吾」の違う動きである。

二人の自分がいるのではない。ひとりの自分の、二つの動きの位置なのである。

五 食母を貴ぶ

「吾は独り人に異ならんと欲す」の最後に続くのが、「食母を貴ぶ」である。

これが、この章の、そしてこの自画像全体の、いちばん核心の一句である。

食とは、養分を吸いとること。
母とは、道の源——万物を生みだしながら、それ自身はまだ何ひとつ具体的な形になっていない、その位置である。

第一章では「有」を万物の母の名として用い、第六章では「玄牝の門」を天地の根と呼んだ。ここも同じ線をたどる。母は完成した一つの品ではなく、ものが育つ源である。「有」が母に名をつけるのではないし、形になったものすべてに価値がないという話でもない。

衆人は、どこから養分を吸っているのか。章のそれまでのところで、もう語られている——

ごちそう(太牢を享く)
にぎわい(春に台に登る)
手にぶら下げたもの(皆余り有り)
はっきり見ること(昭昭・察察)
構えをもって事をなすこと(皆以うる有り)

どれも、創発層ですでに生みだされた具体的な構である。

衆人は、創発層のすでに立てられた構から養分を吸っている。すでに立てられた身分、すでに立てられた判断、すでに立てられた構え、すでに立てられた価値から吸い、満腹を、楽しさを、認められている手ごたえを探している。

吾は、そこからは吸わない。

吾は、母の位置からじかに吸う。道の源から、じかに吸う。その位置は、どんな既成の構よりも先にあり、どんな分かれよりも先にあり、どんな具体的な形よりも先にある。

いまに置いてみよう。

創発層の養分の出どころ——

SNSの「いいね」、フォロワー数、引用されること、目にとめられること、ほめられること、覚えていてもらえること、外からの承認、仕事から得る達成感、人間関係から得る依存感、財産から得る安心感。

どれも、すでに立てられた構の養分である。

じかに母から吸う養分の出どころ——

世界そのものを、じかに見ること(どんな既成の構のフィルターも通さずに)。
事そのものを、じかになすこと(どんな身分を証明するためでもなく)。
一本の木、ひとひらの雲、ひとりの子ども、ひとりの友を、じかに見ること(分類するためではなく)。
いまの自分の状態を、じかに経験すること(ラベルを貼るためではなく)。

こうした養分は、創発層のなかに探しにいくものではない。自分を証明するのに、外からのどんな反応も要らない。


「貴」の字は、強く読まなければならない。

貴ぶとは、「ここから吸うほうを選ぶ」という程度の軽いことではない。この養分が、創発層の養分よりも尊いことが、ほんとうに見えているのである。

衆人は、太牢にあずかり、春に台に登り、余りが有ることを貴ぶ。それらは口あたりがよく、にぎやかで、豊かだからだ。

吾は、食母を貴ぶ。道の源から吸う養分は源にじかに通じていて、どんな既成の構にもゆがめられず、薄められず、食いつぶされないからだ。

これは、価値判断の逆転である。

世の人が重んじるものを、吾は立てず、そこから吸いもしない。
世の人が見向きもしないものを、吾は貴ぶ。

わざとらしいへそ曲がりではない。どちらがほんとうに尊いのかが、老子にはほんとうに見えているのである。

創発層の看板とにぎわいは、口あたりがよく、豊かに見える。だが食べているのは既成の構であり、既成の構にゆがめられ、薄められ、最後には既成の構に食いつぶされる。

道の源から吸う養分は、口あたりがよくない(衆人の目には、この人は食べたりていないように見える)。だが源にじかに通じていて、どんな具体的な構にもゆがめられず、どんな構にも食いつぶされない。

これこそが、ほんとうの「貴」である。


「貴」の字を強く読めば、章全体が裏返る。

それまでのあらゆる「自嘲」は、もう卑下ではない。この養分の出どころが、外に「現れた姿」なのである。

道の源から養分を吸う人は、衆人の目には、たしかににぎやかでなく、ぶら下げておらず、はっきりせず、目ざとくなく、構えをもっていない。その人の養分が、そうした層にはないからだ。

だから、その人は愚かに、ぼんくらに、ぼうっとして、うすのろに、かたくなで野暮に見える。それは問題ではない。構造から来る帰結である。

六 姿は目的ではない

この章を読み終えて。

もしあなたが「聖人も自分と同じように孤独だったのか」と感じたなら、それはこの章を感傷の章として読んだということだ。

もしあなたが「老子のように、静かで、看板をぶら下げず、ぼうっとして見える人になろう」と感じたなら、それは姿を目的にしてしまったということだ。

姿は目的ではない。

老子の姿は、養分の出どころが入れかわったあとで、おのずと現れてきた姿である。わざとこしらえた姿ではない。

もし姿だけをまねて(泊焉として未だ佻からず、惷惷、昏・閔閔、頑にして鄙)、養分はあいかわらず創発層に探しにいっているなら、それは中身のない姿のまねであり、よけいに疲れるだけである。

なぜ、よけいに疲れるのか。

中身の支えがないまま姿だけをこしらえるには、力を費やさなければならないからだ。静かにしているたびに、看板をぶら下げずにいるたびに、ぼうっとしてみせるたびに、自分から抑え、努めなければならない。その抑えは、養分の出どころが入れかわったあとにおのずと現れるものではない。意志の力で自分の本能に逆らうことから来ている。

意志の力はすり減る。いずれ尽きる。

だから、姿だけをまねて、養分の出どころを入れかえない人は、最後にはよけいに疲れはてる。


第二十章が読者に渡すほんとうのメッセージは、「この姿をまねよ」ではない。別の問いである。

あなたの養分の出どころは、どこにあるか。

創発層の既成の構(「いいね」、承認、看板、外からの反応、人間関係のなかの依存)なのか。それとも、世界そのもの、事をなすことそのもの、いまの経験そのものから、じかに吸っているのか。

前者なら、それはたいていの人がしていることで、改める必要はない。だが、その養分の代償ははっきり見ておくことだ。既成の構にゆがめられ、外からの供給が途絶えれば不安になり、構に食いつぶされる。

後者に入れかえたいなら、それは姿を改めることではない。養分を吸う位置を改めることである。

姿はおのずとついてきて変わる。しかも、自分から抑える必要がない。

老子の「独り人に異なる」は結果であって、入口ではない。

入口は、「食母を貴ぶ」である。

食母を貴ぶ——このことを尊いものと見る。創発層のあらゆるにぎわいよりも、尊いものと見る。

このことの尊さが見えれば、養分を吸う位置はおのずと入れかわる。

養分の位置が入れかわれば、姿はおのずと現れる。

そのつど、いつも。