道は空っぽ
本章の中国語原文
帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み
道冲,而用之有弗盈也。渊呵,似万物之宗。锉其兑,解其纷,和其光,同其尘,湛呵,似或存。吾不知其谁之子,象帝之先。
底本と句読点について
著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。
本注は論文の説明に従い、乙本の「道冲」を採用しています。一部の転載に見られる「道中」は採っていません。
一 ギアが変わる
第四章まで読み進めると、はっきりとギアが切り替わるのを感じるはずだ。
最初の三章には、どれにも具体的な実演があった。第一章は「有と無は同じ鑿のひと打ちである」ことを語り、第二章は「美」を立てれば「醜」が立つことを語り、第三章は聖人が民をどう治めるかを語った。どの章も、具体的な場面から立ち上がっていた。
ところが第四章は、いきなりこう始まる。
「道は冲にして、之を用うるも有(ま)た盈たざるなり。」
具体的な場面は、もうない。読者は突然、まったくの抽象に向きあわされる。
ここまで読んできて、少しついていけないと感じたなら——それでふつうである。
第四章は、最初の三章がしなかったことをしている。三つの章で実演してきたことすべてを、一段上の抽象へと引き上げるのである。
主語が「聖人」から「道」に替わる。
問いが「聖人はどう為すか」から「道とはどのようなものか」に替わる。
具体が抽象に変わる。だが、語っているのは同じひとつのことだ。
二 用いても、また満ちない
最初の一句。
「道は冲にして、之を用うるも有た盈たざるなり。」
「冲」とは、虚ろでありながら湧き出ること。井戸の口のようなものだ。空っぽに見えるが、汲めば水が絶えず湧いてくる。
「之を用うるも有た盈たざるなり」——「有」は「又」に通じ、くり返しを表す。用いても、また満ちない。用いても、また満ちない。
通行本は「或いは盈たず」と書く。「或」は不確かさの語気である。もしかすると少し空きがあるかもしれない、という程度だ。
帛書の「有(又)盈たず」は、くり返しの肯定である。用いるたびに、満ちない。
二つの本では、強さが一段違う。通行本で読めば、「道は用いたあとも、なんとなくいつまでも満ちきらないようだ」と聞こえる。帛書で読めば、「道は用いても満ちず、また用いても満ちず、けっして飽和しない」と聞こえる。
言っていることの深さが、まるで違うのである。
なぜ道は、用いても満ちないのか。
第一章の核心に立ち返ろう。道とは普遍の余項である。鑿をひと打ちするたびに、構が立つ。だが構をどう立てようと、余項はそこにある。鑿のひと打ちで余項を用いるたびに、余項はいつまでもそこに残る——いつでも、もうひと打ち入れることができる。
「之を用うるも有た盈たざるなり」とは、このことである。
道は一本の井戸である。だが、この井戸の水は限りある貯えではない。桶一杯を汲みあげても、井戸はやはり満ちている。いつまでも満ちている。
このこと——どう用いても空にならないこと——が、鑿構循環の不飽和性である。
これが、第四章による「道」という字の最初の掘り下げである。第一章は、道は余項だと言った。第四章は、その余項は尽きることがないと言う。
三 万物の宗に似たり
二つめの句。
「淵として、万物の宗に似たり。」
淵とは、深い水である。静かに見えるが、その底は測りしれない。
「万物の宗」——万物の根源である。
ここで、一字に注意してほしい。
「万物の宗である」ではない。「万物の宗に似たり」である。
一字の違いだ。
もし道が万物の根源で「ある」のなら、道は最高の構になってしまう。最高の生産者、最高の源、最高の支配者に。
老子は「似たり」と言う。道は、万物の根源のように見えるだけである。
なぜか。
あらゆる構は、余項から鑿で削り出される。だから万物は、道から出てきたように見える。だが道は、万物を所有しないし、万物を立てもしないし、主体として万物を生み出すわけでもない。
道は、万物が湧き出ることを可能にしている条件にすぎない。
この一字の違いが、植民化と涵育の違いである。
「万物の宗である」——道は高みに君臨する支配者であり、万物はその産物である。これは植民化の構えだ。
「万物の宗に似たり」——道は万物が湧き出るための条件であり、万物を所有しない。これは涵育の構えだ。
のちの注釈家の多くは「似」を「是」(である)と読み替え、老子の道を最高の形而上学的実体に仕立てあげた。だが老子ははっきり言っている。似ている。であるのではない。
四 四つの動作
続く四句が、この章の核心である。
「其の兌を銼き、其の紛を解き、其の光を和らげ、其の塵に同じくす。」
四句とも同じリズムで、どれも三字で、ひとつの動作を言っている。
読めば詩のようだ。だが分解してみると、構造にかかわるきわめて精確な働きかけである。
其の兌を銼く。「兌」は「鋭」の本字である。鋭く尖ったところを削り落とす。
鋭さとは何か。構が別の層に切りこもうとする、その切っ先である。構を立てる動作には、どれも鋭さがある。賢を上げるのも鋭さ、美を定めるのも鋭さ、ラベルを立てるのも鋭さだ。
兌を銼くとは、こういうことである。構を立てる動作が植民化の圧力を生みかけたそのときに、切りこんでいく力を引き戻す。
其の紛を解く。「紛」はもつれである。もつれを解きほぐす。
紛とは何か。構と構が互いに絡みあい、互いを圧迫しあっている状態である。「賢」を立てれば「もっと賢」を立てなければならず、法をひとつ立てれば細則を立てなければならない——構をひとつ立てれば、それを維持するために無数の構を立てなければならなくなる。
紛を解くとは、こういうことである。こうした構のもつれのなかで結び目をゆるめ、それぞれの構をそれぞれの位置に帰らせる。
其の光を和らぐ。「光」はまぶしさである。まぶしさを和らげる。
光とは何か。ひとつの構が輝き出て、他人のなかまで照らしこもうとする、「私は真理を見た」という構えである——構を立てる人は誰でも、こうなりやすい。自分の構が立ったとたん、自分は光り輝いていて、他人を照らしてやらねばと思いこむ。
光を和らげるとは、こういうことである。その光を引き戻し、穏やかにして、まぶしくないようにする。
其の塵に同じくす。「塵」は、すでに舞い落ちたものである。塵とともにある。
塵に同じくするとは何か。自分を際立たせない。「上にいる」「外にいる」「進んでいる」「超越している」という位置に就かない。
塵に同じくするとは、こういうことである。みずからを頂点の構として立てない。
この四つの動作を合わせたものが、第二章と第三章で語った「涵育」の、抽象の層での姿である。
第二章、聖人が自分に対して——無為、不言、位置を占めない。
第三章、聖人が民と知者に対して——賢を上げない、心を虚しくし腹を実たす、退場を許さない。
第四章、道そのもの——銼く、解く、和らげる、同じくする。
主語は替わっても、構造は同じである。
この四つの動作には、さらに一段深い意味がある。
道は構を消し去らない。構に対抗しない。構に取って代わらない。道は——
銼き、解き、和らげ、同じくする。
道は、構の向かい側に立つものではない。道とは、あらゆる構のなかにあり、あらゆる構とともにありながら、どの構にも持ち去られない、あの余項である。
兌を銼かなければ、構と対立することになる——対立したとたん、構に逆らう一派となり、それ自体がまた新たな構になる。
紛を解かなければ、構のもつれに巻きこまれる——巻きこまれたとたん、構に取りこまれる。
光を和らげなければ、まぶしい異物になる——まぶしくなったとたん、はじき出される。
塵に同じくしなければ、みずから新たな頂点の構として立つことになる——みずから立ったとたん、道は道自身に背く。
四つの面を同時に行ってはじめて、道はあらゆる構のなかにありながら、構に収められずにいられる。
五 位置であって、主体ではない
だがここで、どうしても食い止めておかなければならない誤読がある。
上の四句を読むと、こう受けとりやすい。道が、意図をもつ主体のように、みずから銼き、解き、和らげ、同じくするのだ、と。
そう読めば、道は主体としての意図をもつ執行者——最高の主体——になってしまう。
つまり、また帝になってしまうのである。
老子はこの章の結びで、この理解を封じにかかる(「帝の先に象たり」)。だからここで先に、この区別をはっきりさせておかなければならない。
ほんとうの意味は、二つの層まで読みとる必要がある。
第一の層。道そのものは、動作をしない。道はただ、その位置にある。
「銼く、解く、和らげる、同じくする」は、道がみずから行うのではない。構が道にぶつかったとき、構のほうがおのずから銼かれ、解かれ、和らげられ、同じくされるのである。
想像してみてほしい。石で水に斬りつければ、石のほうがおのずと磨かれて丸くなる。光が深い淵に射しこめば、光のほうがおのずと散ってしまう。
水は何もしていない。淵も何もしていない。だが、それらにぶつかろうとするものは、ぶつかったとたん、おのずから変えられてしまう。
道もそうである。道は何もしない。だが道にぶつかろうとする構——自分を頂点の構として立て、すべてを覆おうとする構——は、ぶつかったとたん、みずから兌を銼き、みずから紛を解き、みずから光を和らげ、みずから塵に同じくする。
道は位置としてあるのであって、主体としてあるのではない。
第二の層。だが、道を学ぶ涵育者は道ではない。涵育者は主体である。
涵育者がなすべきは、道の「為すこと」をまねることではない——道はそもそも「為さない」のだから。
涵育者がなすべきは、自分をそういう位置にすることである。
具体的にはどうするのか。自分の兌を銼き、自分と他人のあいだの紛を解き、自分の光を和らげ、塵に同じくする。
涵育者がするのは、他人の構に対抗することではない。自分を「植民化の圧力を発する位置」から「他人がみずから立つための位置」へと移すことである。
主体としての働きかけは、道の位置を手本にする。だが、道になりすましはしない。
二つの層を合わせれば——
道は主体になりすまさない(さもなければ、また帝になる)。
涵育者は道になりすまさない(さもなければ、また構を立てる者になる)。
道は位置として。涵育者は、その位置を学ぶ主体として。
これが、第四章の四つの動作が、字面の奥でほんとうに言っていることである。
六 在ると在らぬのあいだ
次の一句。
「湛として、或いは存するに似たり。」
「湛」とは、澄んで深く、静かなこと。「或いは存するに似たり」——在るようでもあり、在らぬようでもある。
道は、そこに立って人に見られるような実在の物ではない。まったく存在しない虚無の物でもない。
道は、在ることと在らぬことのあいだにある、ひとつのありさまである。
いつ在り、いつ在らぬのか。
構が締まるほど、余項は逃げる。
構がゆるむほど、余項は現れる。
ひとつの具体的な構にしがみついたまま道を探すと——「道を見つけたい、道はどこだ」と言ったとたん——道はたちまち逃げていく。道を、追いかけるべき目標の構にしてしまったからだ。道とは、あらゆる目標の構の外にある余項なのである。
どの構にもしがみつかずに道を探すとき——「道を見つけたい」を立てないとき——道はそこにある。
これは、じつは第一章の二つの修行を、別の言い方で言ったものだ。「恒に欲無くして、以て其の眇を観る」——「私は欲しい」を下ろせば、眇が現れる。「恒に欲有りて、以て其の徼する所を観る」——方向をもって事にあたれば、徼が現れる。
恒に欲無きとき、道がそこに在るのが見える。
「道を見つけたい」という欲有るとき——道は逃げていく。
「或いは存するに似たり」は、言葉を濁しているのではない。構に対して余項がどう応じるか、その仕組みを言っているのである。
七 「知らない」
ここまでの句を読み終えたところで、老子は思いもよらないことを言う。
「吾、其の誰の子なるかを知らず。」
それが誰の子なのか、私は知らない。
哲学の古典を書いている人が、自分の本のなかで「知らない」と言うのだ。
しかもそれは、限界を認めているのではない——「私にもよくわからない」ではない——構造上そう言わざるをえない「知らない」である。
なぜ、そう言わざるをえないのか。
「道は誰の子か」という問いは、表向きは道がどこから来たかを問うている。だがこの問いは、そもそも道を構として扱い、その出どころを問うているのである。
道は余項であって、構ではない。
余項は、何かの構の産物ではない。余項は、あらゆる構に共通する条件である。
余項の出どころを問うのは、「あらゆる問いの前提は、どの問いから生まれたのか」と問うようなものだ。前提は問いに先立つ。だから、問いようがない。
もし老子が「道は何々から生まれた」と答えたなら、彼はたちまち、自分が第一章で立てた掟を破ることになる。「道の道とす可きは、恒の道に非ざるなり。」
だから、こう言うしかない。「吾、知らず。」
「吾不知」のこの三字は、老子が第一章で自分に課した掟を、厳しく守っている証である。
ここで、もうひとつ細かいところに注意したい——
老子が使っているのは「吾」であって、「我」ではない。
この本の全体を通じて、老子はこの二字を使い分けている。
「我」は、関係のなかで語るときの代名詞である——「我無為にして民自ら化す」の「我」は、「我と民」という対比のなかに立っている。
「吾」は、気づきそのものが前に出て声を発するときの字である——「吾知らず」の「吾」は、どんな対比の構造のなかにもいない。
のちに荘子は、この区別をそのまま実践の言葉にした。「吾、我を喪う」。
吾が、我を喪う。
自分を失うことではない。「私はXだ」「私はYだ」という関係のなかの位置を、ひとつずつ下ろしていくことである。位置を下ろせば、吾がそこにいる。
老子がここで「吾」を使うのは、気づきそのものが語っているからだ。この「知らない」の一言の重みは、そこから来ている。
八 帝の先に象たり
最後の一句。
「帝の先に象たり。」
帝よりも、さらに先にある。
帝とは何か。あらゆる構のなかで最も高いもの——最高の構を立てる者、最高の支配者、最高の秩序である。
老子は言う。道は、この最高の構よりもさらに先にある、と。
だが、この「先」は時間のうえでの先ではない。構造のうえでの先である。
どんな構を立てる者も、どんな支配者も、どんな秩序も、ひとたび立ってしまえば、それはもう構である。余項とは、それが立つ前からそこにあったものであり、立ったあとも、いつまでもそこから逃れ出てゆくものである。
余項は、あらゆる構の立ち上げに先立つ。そして、あらゆる構の立ち上げのあとにもある。
余項は、時間の鎖の上にはない。
時間の鎖のどの一点に対しても、その外にある。
だから——道を「もっと高い帝」と受けとってはならない。
そうすれば、道はまた構になってしまう。
道とは、帝という構を可能にしている、その余項である。
第四章は、この本で最初の抽象である。
最初の三章で実演してきた涵育の働きかけをすべて一段上の抽象へ引き上げ、「道」そのものの働きに着地させる。
「道とはどのようなものか」を、文字に即して定義してみせる——冲(虚ろにして湧く)、淵(深くして静か)、似(であるのではない)、銼・解・和・同(四つの面の動作)、湛(在ると在らぬのあいだ)。
いちばん陥りやすい誤読——道を最高の支配者と受けとること——を封じる。
気づいている者の声の出し方を示す——吾であって、我ではない。
この章の実質は、ひとつの位置づけである。
道は位置として。涵育者は、その位置を学ぶ主体として。
道は主体になりすまさない。涵育者は道になりすまさない。
二つがそれぞれの位置にとどまる——これが、このあと道の修め方を語り、聖人を語り、民の治め方を語るすべての章が立ち返ってくる、持ち場の分け方である。