同じ難題、二つの結論
スーパーシューズもポリウレタン製の競泳水着も、競技の成績を変えた。それでも陸上と競泳は、ともに既存の記録を残した。ルールが引く線は、その先の未来を断ち切ることはできる。だが、過去までさかのぼって書き換えるとは限らない。
この篇の目次
一 まず崩しておくべき対比
この回では、もともと、きれいな対比を描くつもりだった。ランニングシューズの記録は残り、水着の記録は取り消された。同じ構造を持つ二つの用具論争に、正反対の裁定が下された、と。
その対比は間違っている。先に崩しておかなければ、文章全体が砂の上に建つことになる。
実際に起きたのは、こういうことだ。2009年のポリウレタン製水着で生まれた世界記録は、取り消されていない。正式に認められた大会で、その水着がまだ承認を受けていた時期に出された成績である限り、国際水泳連盟は記録を残した。ローマの世界選手権で生まれた43件の世界記録の大半は、今も記録の変遷に名を連ねている。
シューズも同じだ。ワールドアスレティックスは、のちに制限や新しい規則の対象となったシューズで出されたロードの成績についても、記録の要件を満たすものは残している。厚底のカーボンプレート入りシューズで走った成績を、記録簿から消したわけではない。
では、キプチョゲがウィーンで出した1時間59分40秒2はどうなのか。あれはよく、取り消された世界記録として語られる。だが、あれは最初から世界記録ではなかった。一つの目標に合わせて仕立てられた挑戦であり、記録の公認対象にはならないと事前に明言され、そのように受け止められていた実演だった。そして、公認対象にならなかった理由は、シューズとは関係がない。
だから、あのきれいな対比は成り立たない。一方は残し、他方は取り消したのではなく、両方とも残したのだ。本当の問いは、構がなぜ同じような二つの出来事に反対の答えを出したかではない。同じ構造を持つ用具の問題に直面した構が、逆を選ぶこともできたのに、なぜ取り消さないことを選んだのか、ということだ。
前の二回で取り上げたのは、用具の定義が越えられると、構が規則を書き換え、記録をリセットするという話だった。1986年のやり投がそうだった。旧規格の帳簿を閉じ、新規格の帳簿を開く。今回はその逆である。構造のうえでは同じように境界を越えた用具を前にして、構はリセットしないことを選び、古い記録と新しい用具を同じ一冊の帳簿に収めた。この選択には、やり投でなされた正反対の選択と同じように、擁護できる理由がある。逆を選んでも、やはり擁護できる。
この回には答えがない。このシリーズで、本当に答えのない回は、ここまでで初めてだ。そして、その答えのなさこそが、今回の話である。
なぜ今回なのかは、説明しておきたい。これまで技術を扱った回では、構が直面する問題に、多少なりとも事実をめぐる核があった。ビーモンのあの跳躍のうち、どれだけが標高の効果だったのか。答えは出ないが、それでも事実についての問いではある。ただ、その事実を計算しきれない。今回の問いは、事実ではなく価値をめぐっている。残すか、取り消すかは、データを増やせば答えられる問題ではない。どれだけ実験データを積んでも、規則には適合するが比較できない成績を記録として認めるべきかどうかは教えてくれない。「べきかどうか」自体が、データの答えられる問いではないからだ。価値の問いと事実の問いの違いが、ここで初めて一篇全体の中心になる。そして価値の問いこそ、構が最も不得手とし、最も閉じきることのできない領域なのだ。
二 確かにあるが、誇張もされてきた優位
まず、シューズについての事実を押さえよう。どちらの立場の議論も、ここから始まる。
厚底のカーボンプレート入りシューズは、確かに測定可能な優位をもたらした。複数の対照実験が、それを繰り返し確かめている。初期の高性能シューズは、従来のレース用シューズと比べ、最大下運動での代謝エネルギー消費を、おおむね2〜4%減らした。
これは集団の平均だ。効果そのものは、実在する。
ただし、すぐに二つのことを補わなければならない。そうしないと、この数字は読み違えられる。
一つ目。代謝エネルギー消費が4%減ることと、レースのタイムが4%短くなることは同じではない。レースには疲労があり、曲がり角があり、勾配、路面、天候、補給、戦術がある。酸素消費の4%の節約が、そのまま4%速いマラソンになるわけではない。観察研究では、マラソンのタイムへの効果は、性別やモデルの仮定によって0.6〜2.8%と推定されている。通常、実験室のあの4%より小さい。
二つ目。個人差が非常に大きい。しかも、仮定の話ではなく、実際に観測された違いだ。世界トップクラスのケニア人選手を対象にしたある対照実験では、同じ一群の高性能シューズへの反応が、11.3%の不利益から11.4%の改善まで広がっていた。同じシューズが、ある人には大きな助けとなり、別の人には負担になる。効果の大きい選手もいれば、ほとんど改善しない選手もいる。あるモデルを履くとかえって遅くなる選手も、少数ながらいる。
この二つ目の点は、あとで論争全体のなかでも、とりわけ重い意味を持つ。今のうちに覚えておいてほしい。
この優位は、通常のシューズ改良ではなく、連続性の断絶に当たるのか。ここで意見が分かれる。一方は、断絶だと言う。カーボンプレートと靴の形状が足元を安定させることで、並外れた反発性を持つフォームを、はるかに多い量で使えるようになった。その代謝への効果は、従来のレース用シューズ同士で普通に見られた小さな差の何倍にもなる。もう一方は、連続した技術革新だと言う。どんなレース用シューズも、クッション性、剛性、グリップ、形状を変えてきた。この用具にはモーターも外部のエネルギー源もない。その恩恵は、なお選手自身の力に依存している。
ついでに、よく耳にする説明も一つ崩しておこう。カーボンプレート単体のエネルギー反発だけで、優位のすべてを説明できるという話だ。これは成り立たない。ほかの条件が似たシューズで、縦方向の曲げ剛性を取り除いたり低くしたりしても、そのシューズの省エネルギー効果は消えなかった。プレート単体の寄与と、システム全体の効果は同じではない。優位を生むのは、フォームのエネルギーリターン、ソールの厚さ、揺りかご状のロッカー形状、重量、関節の力学的変化が互いに作用することだ。あの板一枚ではない。
これは、第5回のビーモンの跳躍とつながっている。一つの効果が、互いに作用する複数の要因から生まれるとき、その一つだけを抜き出して、これがどれだけ寄与したと言うことはできない。カーボンプレートはモーターではない。標高がビーモンの跳躍の唯一の原因ではなかったのと同じだ。
三 40ミリという線は、導き出されていない
2017年から2019年にかけて、ロードの成績向上が異様に加速した。ちょうど、高性能シューズが急速に普及した時期と重なる。
2001年から2019年を対象とし、上位100位までの延べ1万1400件の成績を扱った研究では、2017〜2019年は、過去20年のなかで平均の改善幅が最も大きい3年間だった。2001年以降のマラソンの改善幅全体のうち、この3年間だけで女子の約44%、男子の約35%を占める。
加速は実際に起きた。その原因については、研究者のあいだで議論がある。
シューズを中心に据える説明は、こう考える。時期の一致、普及の度合いに応じた変化、実験室での効果、同じ選手自身に生じた変化、そしてこの3年間の突出した跳躍が、互いに裏づけ合う因果のパターンをつくっている。複数の要因を重視する説明は、こう考える。より速く走れるコース、東アフリカの選手層の厚み、改善されたペースメーキング、補給、天候の選択、出場報酬、トレーニング、もともと速い選手ほど新しいシューズを先に履いたこと、そのすべてが寄与した。そもそも観察研究で、誰がどのシューズを履くかは無作為には決まっていない。
どちらの説明も、証明することはできない。トップ選手の半数に新しいシューズ、残り半数に古いシューズを履かせ、10年間走ってもらう無作為化対照実験などできないからだ。だから、あの加速のどれだけがシューズによるものだったかは、永久に計算しきれない。また第5回と同じ構造である。一つの効果を、きれいに原因へ割り振れない。
この加速を前に、ワールドアスレティックスは2020年1月31日、規制に動いた。ロード用シューズのソールの厚さは40ミリ以下。内部に埋め込む硬質プレートは1枚までとした。
この規則の40ミリという数字には、公開された導出過程がない。
ワールドアスレティックスは、内部の助力審査グループによる評価を踏まえ、独立した研究に言及しつつ、懸念するに足る理由が認められたとした。そして、今後の研究、評価、長期的な規制の指針を示す、新たな専門家の作業部会を設けると発表した。だが、2020年1月の発表には、正式な証拠の一覧も、モデルも、しきい値の妥当性を検証した研究も、計算も公表されていない。なぜ35ミリでも30ミリでも45ミリでもなく、40ミリなのか。その説明はなかった。
法的な分析が導く結論は、この線は規制と予防のために引かれた線であって、ある実験から直接証明されたものではない、ということだ。
前の各回とのつながりが、ここではひときわ鮮明になる。第7回で見た十種競技の得点表には、現行の係数をどう導いたかを示す完全な公開資料がなかった。ここでも、40ミリというしきい値には、それがない。構は正確な線を引く。40ミリ。過不足なく、そこだ。だが、なぜあちらではなくここに引いたのかは、書き残されていない。精密であることと、根拠があることは、またしても別なのだ。その線はミリ単位で正確だが、なぜ40なのかをたどれる理由はない。
ここはもう一段掘り下げられる。なぜこの種の線には、ほとんど必然的に導出過程がないのか。40ミリという境界の役割は、認められるシューズと、認められないシューズを分けることにある。ところが、シューズの優位は連続的だ。厚さやフォーム、形状の変化に応じて、滑らかに増減する。ある一点で、妥当な優位が突然、不当な優位に切り替わる自然な切れ目はない。優位が連続している以上、どこに境界を置いても、人間が切り分けた線になる。40で切ることと39で切ることに、本質的な違いはない。だから、その線を証明する実験はありえない。分けようとしているもの自体に、自然の境目がないからだ。引かなければならないのに、証明することはできない線。構は決断によってそれを示すことしかできず、導き出すことはできない。
ほかにも、手に入らないものがある。30ミリといった、もっと厳しい数値案や、全面禁止案が正式に提出され、採決で否決されたことはあったのか。それを示す議事録は見つからない。最初の助力審査グループの構成員は公表されている。だが、その後の作業部会の各段階について、構成員を実名で漏れなく記した名簿は得られない。これらの空白は、前の各回と同じ形をしている。結論は残った。過程は散逸した。
四 ウィーンの走りは、最初から記録ではなかった
ここで、最も誤って語られやすい成績を整理しよう。キプチョゲがウィーンで出した、あの1時間59分40秒2だ。
よくある説明はこうだ。キプチョゲは2時間を切って記録を打ち立てたが、ワールドアスレティックスが、あのシューズを理由に取り消した。
この説明は、記録について述べている部分が、ことごとく間違っている。
あれは取り消された記録ではない。そもそも記録ではなかったからだ。公認記録に入らないのは、シューズのせいではなく、走りの場全体をどう組み立てたかによる。
その仕組みを見てみよう。40人を超える一流のペースメーカーを、交代制のグループに分けた。一組が空気抵抗を抑える隊列をつくり、キプチョゲを囲んで走る。およそ4.8キロごとに、次の組へ交代する。この隊列は、数値流体力学と風洞実験を使って設計されたものだ。飲み物は、固定の給水所で本人が取るのではなく、走行中の自転車から手渡された。先導車は、目で追えるペースの目印を路面に投影した。
こうした仕組みは、いずれも通常のマラソン記録の条件から外れている。
世界記録が公認されるには、適切に計画され、告知され、許可を受け、規則どおりに実施された本来の競技会で、その成績が出ていなければならない。一人の目標選手だけを中心に組み立てた特別仕様の挑戦は、記録公認が前提とする通常の競技の形に当てはまらない。認められるペースメーカーは、スタートからそのレースに参加し、競技規則に従う競技者である。競技に参加していない人、途中で抜けて再び入る人、競技者ではなくペースをつくるためだけに配置された人からの助力は認められない。消耗していない新しい組が次々に出入りする仕組みは、通常の合法的なペースメーキングとは根本から違う。
だから、ウィーンの走りが公認対象にならない理由は、シューズとは別に存在し、それだけで十分だった。空気抵抗を抑えるペースメーカーの交代や、移動しながらの給水は、それぞれ独立して公認を妨げる助力の問題となる。理想的なペース、選び抜いたコース、好天の条件を選ぶことも、この最適化された舞台を形づくっていた。ただし、この三つがそれぞれ単独で公認を妨げるわけではない。あのシューズが正確には規則に適合していたのかを確定しても、この走りが公認可能な記録に変わることはない。
シューズそのものについては、もう一つ、正直に付け加えなければならない。ウィーンで使われた試作品の、正確な設計仕様は手に入らない。メーカーの完全な技術仕様書は見つからず、キプチョゲがあの場で履いたシューズを解体して調べた検査も、公表されていない。後の市販モデルについては、フルレングスのカーボンプレート1枚を使用すると公表された。だが、それでウィーンの試作品も同じ構造だったと証明できるわけではない。ソールは40ミリを超え、プレートは3枚も入っていたのではないかと、メディアでは広く推測された。しかし、それは推測であり、確証は得られない。
したがって、ウィーンについて正確に言えるのは、こういうことだ。実際に成し遂げられた、見事なパフォーマンスだった。事前に、記録公認の対象にはならないと明示された挑戦だった。記録簿に入らなかったのは、競技の実施形態と助力についての条件を満たしていなかったからであり、その条件は、今なおはっきりしないシューズの構造とは独立している。
ウィーンを取り消された記録として扱うと、二つの話が混ざってしまう。一つは、その成績が公認の資格を持たないという話。もう一つは、シューズに論争があったという話だ。公認の資格がないことと、あのシューズが論争の的になったかどうかは、別の問題である。たとえシューズが完全に規則を満たしていても、ウィーンの走りは記録にはならない。
五 競泳でも、記録は残された
では、競泳を見よう。こちらも、よく言われるように記録を取り消したわけではない。
2008年、ある競泳水着が、高密度に織られた伸縮性繊維、ポリウレタンのパネル、身体の圧迫、撥水性の表面、超音波で接合した縫い目を組み合わせた。開発試験では、旧来の生地より表面の摩擦抵抗が約24%低いとされた。ただし、それはメーカーの開発試験における主張だ。競技の成績が24%向上したという、独立に検証された結果ではない。
2009年には、競合する水着が、不透水性のポリウレタンによる被覆、身体の圧迫、空気の閉じ込め、浮力の効果をさらに押し進めた。この年の先端的なモデルのなかには、布製の水着に限られたパネルを付けたものではなく、実質的に全面ポリウレタンの全身水着になっていたものもある。
ローマの世界選手権では、43件の世界記録が生まれた。
43という数字の異様さは、普段の尺度に置いてみなければわからない。一度の世界選手権で世界記録がいくつか出るだけでも、大変なことだ。それがローマでは、一度に43件。少しずつ進歩したのではなく、数日のうちに記録簿の広い範囲が書き換わった。事後的な研究は、一部の種目で数%の成績向上があったと推定している。100分の1秒を争う競泳で、数%というのは、ほとんど途方もない量だ。この数字の異常さこそ、のちに取り消しを求める側の最も強い論拠となった。一度に43件もの記録を倒す技術の変化を、用具の普通の進化にすぎないとは言いにくい。
そこで、国際水泳連盟が動いた。2009年7月24日、総会は布製水着への回帰と、身体を覆う範囲の制限を承認した。一方、すでに出された記録については、さかのぼって取り消さないとした。7月31日には、従来の承認リストは同年12月31日まで有効で、新しい要件は2010年1月1日から適用すると確認した。
この点で、国際水泳連盟がしたことは、ワールドアスレティックスと同じである。将来に向けて制限し、過去にはさかのぼらない。旧記録は記録の変遷に残り、その後に破られていなければ、公式の現行記録としても残る。
国際水泳連盟が公に示した理由は、その記録は当時の規則と、当時適用されていた条件のもとで出されたものであり、連盟は再検討しない、というものだった。
ここで、もう一つ、よくある説明を崩しておこう。皆が平等な水着を使っていたから、国際水泳連盟はそれらの記録を公正だと判断した、という説明だ。
そうではない。公表された正式な理由は、もっと限定的だった。その成績は当時の規則に適合していた、ということである。水着を使える条件も、文字どおり平等だったわけではない。契約、代表チームの協定、水着の供給、身体へのフィット、承認の時期、モデルごとの性能。どれも違っていた。構が述べたのは、規則に適合していたということだ。公正だったとも、まして皆が平等だったとも言っていない。規則に適合するか、公正であるかは、別々の判断である。構が下したのは、前者だけだった。
六 どちらの側も成り立つ
ここまで来ると、本当の問いが見えてくる。シューズは残し、水着は取り消したのではない。どちらも記録を残した。そして、残すという選択には、強い反論が成り立ち、強い擁護も成り立つ。この節では両方を並べる。ただし、この回は、そのどちらかに裁定を下すことはしない。
まず、残す側の最も強い理由を見よう。
第一に、当時の適法性と、統括団体の責任である。選手には、統括団体の規則と承認リストを信頼する権利がある。国際水泳連盟はあの水着を承認し、その承認を12月31日まで有効とした。ワールドアスレティックスは、規則に適合するカーボンプレート入りシューズを、公認のロードレースで使うことを認めていた。後からさかのぼって選手を罰するなら、規制する側の遅れや誤りを、当時の規則を守った競技者へ転嫁することになる。
第二に、記録はかつて一度も、技術の助けとは無縁な純粋なものではなかった。トラック、プール、計時、コースロープ、スターティングブロック、トレーニング科学、栄養、自転車、ラケット、シューズ。すべて変わり続けてきた。記録が測るのは、その日付において認められた条件での最高の成績だ。何の助けも受けない、抽象的な「人間の定数」ではない。ポリウレタンや厚底フォームのところだけ、さかのぼって線を引くなら、なぜこの革新は、それまで受け入れられたすべての改良と種類が違うのか、筋の通る理由が要る。その理由は、簡単には示せない。
第三に、科学的に妥当な引き算がない。集団の平均効果を、個人の成績から差し引くことはできない。シューズへの反応は、不利益になる場合から、実験室で二桁パーセントの改善を示す場合まで広がる。水着の効果は、フィット、体形、泳法、距離によって変わる。ある選手の記録を、布製水着や従来のシューズだった場合の仮想の成績へ、信頼できる形で換算することはできない。ここで効いてくるのが、第2節のあの大きな個人差だ。同じシューズでも人によって効果がそれほど違う以上、履いた全員に一定の量が上乗せされたとは言えない。言えない以上、その量を引くこともできない。
第四に、選択的に取り消そうとしても、証拠の揃い方が均一ではない。写真や残された製品記録だけでは、すべてのシューズや水着の仕様違いを確実に識別できない。試作品は変わり、選手ごとに合わせたフィットも違い、承認の状態も目まぐるしく変化していた。使用がはっきり確認できた選手の記録だけを取り消せば、同じ恩恵を受けていても識別できなかった成績が残るかもしれない。それでは、かえって不正確な記録簿ができてしまう。
この四つを合わせれば、記録を残すための、とても強い理由になる。だが、反対側も同じくらい強い。
取り消す、あるいは別の区分へ移す側の、最も強い理由を見よう。
第一に、記録は比較可能性を支える制度であり、単に規則に適合した試合結果ではない。選手権が決めるのは、その日の規則のもとで誰が勝ったかだ。記録が名乗るのは、歴史を通じての最高である。だから統括団体は、メダルや順位をそのままにしておきながら、技術的に連続していない成績を、実質的に遅い用具を使うしかない後の選手たちの基準に据えることは拒める。
第二に、統括団体は、自らの分類の誤りを正すことができるし、実際に正してきた。自転車のアワーレコードが先例だ。国際自転車競技連合は、技術の助けを受けた成績を「ベスト・ヒューマン・エフォート」という別区分へ移し、より古い、従来型の用具による記録を基準に戻した。成績が出た当時は称賛されていたとしても、後から区分を変えることは制度上、可能なのだ。これは大事な点である。取り消さないのは、できないからではない、とわかるからだ。できる。やった団体もある。取り消さないことは選択であって、能力の限界ではない。
第三に、成績の不連続があまりに大きい。ローマでは43件の世界記録が出た。事後的な研究は、いくつかの種目で数%の恩恵があったと推定する。ランニングの上位100位の成績が2017〜2019年に見せた加速は、20年分のデータのなかで最大の3年間の改善だった。これほど足並みの揃った跳躍は、「記録」という区分の中身がすでに変わり、規則のほうが追いついていない証拠、と読むことができる。
第四に、承認自体に欠陥があれば、形式的に規則を満たすだけでは足りない。国際水泳連盟の2009年の承認は何度も変更された。浮力、透水性、素材の成分を測ることが難しかった。ワールドアスレティックスの旧規則は、不公正な助力を禁じるだけで、実際に運用できる事前検査を備えていなかった。規制する側が暫定的に承認したからといって、その結果生まれた記録が、歴史を通じて同じ区分に属するとは限らない。
第五に、用具を使える機会の不平等は、偶然ではなく仕組みに内在している。初期の高性能シューズは、スポンサー契約下にある選ばれた選手へ優先的に供給された。ポリウレタン製水着の入手条件は、契約、競技団体、供給、直前の承認によって違った。技術の恩恵が実質的な大きさを持つとき、使える人が限られたり、入手が不安定だったりすることは、選手同士の競争にも、記録の序列にも影響する。
この五つを合わせてもまた、取り消すための、とても強い理由になる。
残す側と同じく、取り消す側も、選手がどうなろうとかまわないという過激な立場ではない。同じだけ真剣な原則に立っている。記録の意味は、比較できることにある。後の選手と比較できない記録は、記録としての中核的な役割を失う。規則に適合する用具を使う後世の選手が、永遠に近づけないような記録があるとすれば、それは仰ぎ見るべき記念碑ではなく、越えようのない壁だ。どれほど努力しても届かない高さの下に、その後のすべての選手を永久に閉じ込める。しかも、その高さの一部は、彼らにはもう使うことを許されない用具によってできている。取り消す側が守ろうとしているのは、この点だ。記録は、人と人を比較するための基準であるべきであって、用具が残し、後世の選手には二度と追いつけない目盛りであるべきではない。この原則も、過去にはさかのぼらないという原則と同じだけ正当なのである。
どちらの側も成り立つ。そして、どう成り立っているかこそ、この回の核心だ。
七 なぜ裁定を下せないのか
片方が正しく、片方が間違っているのではない。片方だけが成り立ち、もう片方が崩れるのでもない。両方とも立っている。ただ、立っている場所が違う。
残す側が立つのは、当時の適法性と、一度確定した結果を覆さないという原則だ。この土台に立てば、規則に適合する用具を使い、正式な大会で出された成績は、有効な記録である。後からさかのぼって動かすことは不公正になる。
取り消す側が立つのは、記録という区分を、時代を縦に貫いて比較できるという原則だ。この土台に立てば、世代間の比較を成り立たなくする成績は、後の選手たちの基準にはふさわしくない。当時の規則には完全に適合していたとしても、である。
どちらの土台も本物でありながら、そこから導かれる結論は反対になる。どちらを選ぶかは、どちらがより正しいかでは決まらない。構が何を第一に置くかで決まる。当時の適法性と結果の確定を重んじるのか。それとも、記録という区分の長期にわたる比較可能性を重んじるのか。
この回に答えがないのは、だからだ。証拠が足りないのではない。証拠は十分にあり、両者の論拠も揃っている。問いそのものに、客観的な裁定の基準がないのだ。一次資料には、制度として首尾一貫した三つの選択肢が示されている。今後だけを規制して過去の記録を残すこと。過去にさかのぼって別の区分へ移すこと。そして、用具の時代ごとに並行する記録を設けること。だが、どれか一つが普遍的により正当であると証明する規則は、そこから出てこない。
ほかのスポーツは、別々の答えを出している。それ自体が、答えは一つではないことを示している。ゴルフとテニスは、今後に向けて規則を設け、過去の合法な成績は残す傾向にある。自転車は、用具によって歴史を通じた比較のあり方が根本から変わったとき、記録を再分類した。アーチェリーは、技術によって定義した記録区分を並行して維持している。どちらも弓を射る競技だからといって、リカーブの記録がコンパウンドの記録に置き換えられることはない。これらの競技に見られる三つのやり方のうち、どれが正しいかを定める、競技横断的な原則はない。
これは第9回ともつながる。あの回では、グライドと回転のどちらが優れているかについて、構は裁定しなかった。その「最良」が存在しないからだった。今回は、残すか取り消すかについて、構は裁定した。残すことを選んだ。だが、その裁定には客観的な根拠がなく、反対でもありえた。第9回では、構が裁定しない。今回は構が裁定したのに、その裁定が、どちらも成り立つ二つの土台のあいだに宙づりになっている。
この違いは、もう一段説明しておきたい。第9回で、構はグライドと回転を前にして、動かなかった。二つの技術を一つの尺度に載せて比べる方法がなかったからだ。その沈黙は誠実だった。裁定の根拠を持たないと認めていた。今回は動いた。残すことを選んだ。しかし、その選択の土台となった当時の適法性は、向こう側の土台である、時代を貫く比較可能性よりも、資格が上というわけではない。だからこれは、根拠によって答えが定まる裁定ではない。同等の二つの根拠から、片方を選んだ裁定なのだ。もう一方を選ぶこともできた。ここで、構の沈黙と構の選択に共通するものが見えてくる。客観的な基準がなければ、沈黙は誠実に選ばないことであり、選択は任意に一つを選ぶことになる。どちらも、根拠をたどれば再現できるような裁定ではない。
第7回ともつながっている。十種競技の得点表は、互いに両立しないいくつもの公平の定義を前に、何を問うべきかさえ一つに定まらなかった。ここも同じだ。残す側と取り消す側がともに成り立つのは、その背後に、記録とは何であるべきかについて、異なる二つの、どちらも理にかなった理解があるからだ。一方は、記録とは当時の条件での最高の競技結果だと言う。他方は、時代を越えて比較できる基準だと言う。この二つの理解も、第7回のいくつもの公平の定義と同じで、どれかを唯一正しいものと証明することはできない。
八 強いられたのではなく、選ばれた結論
ここまでの話をまとめよう。
シューズと水着は、構造がきわめてよく似た二つの用具論争だった。どちらも、たった一つの魔法の部品に頼るのではなく、互いに作用する複数の特性を組み合わせている。どちらにも測定できる平均的な改善があり、同時に大きな個人差がある。どちらも、競技で初期の成功を収めた後、急速に広がった。二つの統括団体は当初、広く定性的な公平の規則や用具規則で対応し、その後、数値や素材による制限を採用した。どちらの団体も、新しい制限を将来に向けて適用し、規則に適合する公認の大会で出された成績は残した。
この、ほとんど同じ二つの出来事を前に、構は同じ選択をした。残す、という選択だ。
そして、その選択は覆りうる。唯一正しいやり方でも、証拠に迫られてたどり着いた結論でも、ほかに道のない決定でもない。構が、いくつもの成り立つ選択肢から、一つを選んだのだ。取り消すことや再分類することではなく、残すことを選ぶ。その決定の向かい側には、同じだけ強い理由が立ち、現に逆を選んだ先例もある。自転車のアワーレコードである。
これで、この回と前の二回が、一つの形につながる。
第10回では、構は境界を越えられて初めて境界に気づき、それを守るか、開放するかを決めた。私はそのとき、その決定は逆でもありえたと書いた。第11回では、用具の定義が越えられると、構が記録をリセットした。やり投の古い帳簿は閉じられた。どちらの回でも構は選んでいたが、その選択はそのとき、自然なもの、ほとんど強いられたものに見えた。今回は、「逆でもありえた」という一つの傍注を、一篇全体にした。同じ構造を持つ用具の問題に対して、構は、やり投のようにリセットを選ぶこともできる。シューズや水着のように、残すこともできる。そのことを、はっきりと示している。両方に十分な理由があり、両方に先例がある。そのうえで、構は後者を選んだ。
だから、今回の余項は、また新しい姿をしている。
前の各回の余項は、除外された名前だった。計算しきれない原因だった。裁定されない技術だった。受け入れることもできたのに、受け入れられなかった動作だった。規則には適合するのに、比較できない成績だった。それぞれの残り方があった。今回の余項は、選ばれなかった選択肢そのものだ。取り消すこと、再分類すること、時代別の記録を並行して設けること。どれも実行可能で、先例のある方法だった。しかし、構は残すことを選んだ。そのため、これらは通られなかった道となった。間違っていたのではない。ただ、選ばれなかったのだ。
この余項は、とりわけ指し示しにくい。そもそも帳簿に載っていないからだ。それは、帳簿がなりえた、もう一つの姿である。あのとき構が取り消すことを選んでいたなら、今日の記録簿は別の顔をしていただろう。ローマの43件には違う注記が付いていたか、別の時代の系列に収められていた。その記録簿は、かつて現実に開かれていた可能性だった。実現しなかったのは、実行できなかったからではない。構があの分岐点で、もう一方の道を進んだからだ。
そして、その分岐点には道標がなかった。どちらへ進むべきかを、構に教える客観的な原則はない。構は十分な理由を持って、残すほうへ進んだ。取り消すほうへ進むこともできたし、その場合にも十分な理由を持てた。どちらの道も、首尾一貫した記録制度へ通じている。ただ、その二つの制度は同じではない。構は一つを選び、もう一つは永久に分岐点の向こう側へ残された。同じだけ成り立っていたのに、選ばれなかった方向として。
この余項は、これまでのどれとも違い、指し示すことの難しさも最も大きい。ほかの余項と並べてみると、よくわかる。名簿に載らなかった名前なら、その名を挙げられる。計算しきれない原因なら、それらが確かにそこにあったとわかる。比較できないやり投の成績なら、古い帳簿に横たわっているのが見える。どれにも、指し示す先がある。今回の余項には、それがない。それは、一度も現実にならなかった記録簿だ。構があのとき取り消しを選んでいれば、今日ここにあったはずの帳簿である。現実の何かを指して、これがそれだと言うことはできない。まさに、現実にならなかったほうの姿なのだから。それは一本の道の不在であり、一つの選択の裏側であり、分かれてしまって二度と戻れない可能性だ。構が閉じきれないもののなかで、これは最も軽い。帳簿にさえ載らないほどに軽い。けれども、最も徹底している。帳簿の一部ではなく、一冊まるごとがなりえた別の姿なのだから。
構は、シューズがどれだけエネルギーを節約したかを測れる。水着がどれだけ抵抗を減らしたかを測れる。それぞれの成績を、100分の1秒まで測れる。だが、その成績を記録として認めるべきかどうかは、測れない。「べきかどうか」は測定できる量ではなく、選ばなければならない判断だからだ。そして、その判断には、唯一正しい答えがない。
物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。