Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 陸上競技シリーズ · 日本語独立再構成版
第 09 篇 / 全23篇

技術は一つに収斂しない

砲丸投のグライド投法と回転投法は、半世紀以上にわたって共存してきた。同じルール、同じ目標、一本の世界記録の系譜があっても、技術がひとりでに唯一の最適解へ収斂するとはかぎらない。

Han Qin (秦汉)
この篇の目次

一 同じ決勝に立つ二つの技術

2016年、リオデジャネイロ・オリンピック。男子砲丸投の決勝。

金メダルはクルーザー、銀メダルはコバックス、銅メダルはウォルシュ。三人とも回転投法を使っていた。

その同じ決勝には、マエフスキとシュトールもいた。この二人が使っていたのはグライド投法だった。

上位三人は回転投法。その競技場には、グライド投法を代表する二人も立っている。一つの技術が、もう一つに取って代わったのではない。二つの技術が同じサークルの縁に並び、同じ日に、同じ金メダルを争っていた。

前回は、背面跳びがベリーロールに取って代わるまでを見た。一つの技術がもう一つを競技場から押し出すのに、数十年かかった。今回は逆の話である。砲丸投のグライド投法と回転投法は、半世紀以上も共存し、いまなお決着がついていない。どちらかがどちらかを置き換えたのではなく、ずっと並んでいる。同じ大会で、それぞれ別の選手が使い、どちらも相手を淘汰しきれずにいる。

そしてこの構は、どちらが優れているのか、最初から最後まで一度も口にしていない。

この点は、最初にはっきりさせておきたい。前の八篇との最大の違いだからだ。これまで、二つのものが並び立つと、構はいずれ何らかの手を打ってきた。一つを選ぶ。二つの領分を分ける。両方を収めるカテゴリーを新しくつくる。いつも何かを動かしていた。ところがここでは、二つの技術が半世紀以上も並び立っているのに、構は動かない。選ばず、領分を分けず、カテゴリーもつくらず、ただ並べておく。いつも裁定を下してきたものが、ここでは裁定しないことを選んでいる。その「裁定しない」こと自体が、問いになる。

前の数篇で、構は判断を続けていた。どの成績を認め、どれを認めないか。誰に資格があり、誰にはないか。一つの成績に何点を与えるか。裁定の連続だった。ところが今回は、半世紀以上共存してきた二つの技術を前に、裁定を下していないし、裁定する仕組みもない。世界陸連の種目紹介では、砲丸投はグライド投法か回転投法で行うものとされている。技術規則が回転投法の使用者について明確にしているのも、無効試技や意図しない接触の扱いである。ルールが管轄するのは適法性と安全性であって、技術の優劣ではない。どちらも合法だ。どちらが優れているかについては、一言もない。

この沈黙は、それ自体が注目に値する態度だ。構には、ものを言う力が十分にある。サークルの直径から砲丸の重さ、無効試技の定義まで、ほかの無数の事柄については規定してきた。口がきけないのではなく、この件については口を開かないと決めている。その理由も、寛容さではない。口を開く根拠がないのだ。回転投法のほうがグライド投法より優れていると言うには、両者を載せて比べる物差しが要る。だが、その物差しは存在しない。二つの技術は、同じ道の上にはないからだ。構は成績を測る尺度を持っているが、技術を測る尺度は持たない。だから成績には絶えず裁定を下し、技術には沈黙するほかない。

二 一方は直線を進み、一方は回る

まず、この二つの技術がどのようなものなのかを確かめておこう。両者の違いが、このあとの議論すべての土台になる。

オブライエン以前、男子砲丸投の標準は、正面か横を向いて構える、もっと古い投げ方だった。片脚に乗って身体を後ろへ傾け、前へ一歩跳び、そこから砲丸を押し出す。

オブライエンはそれを変えた。サークルの後方を向いて動作に入り、およそ180度身体を回し、前方の力を発揮する姿勢へと移る。1952年にオリンピックを制し、1953年には史上初の18メートルを記録した。その投げ方が、のちのグライド投法の手本として広く認められるようになった。

グライド投法の力学的な発想は、直線的な加速にある。低い姿勢でサークルを横切り、素早く力を発揮する姿勢、いわゆるパワーポジションへ入り、最後は長い動作を緻密に制御しながら砲丸を送り出す。後脚にあらかじめ荷重をかけ、身体の上下動を最小限に抑えて素早く移動し、リリースの瞬間には前側の脚と身体で強く支える。その一連の動きが要になる。

回転投法は違う。オリンピックの公式人物紹介では、その創始者をアレクセーエフ、最初に国際的な名声を得た使い手をバリシニコフとしている。バリシニコフは1970年代初めにはすでに回転投法を用い、1976年には22メートルの公認世界記録を樹立した。同じ年、モントリオール・オリンピックで銅メダルを獲得している。

回転投法の力学的な魅力は、加速の経路を長く取れること、そして最後に砲丸を送り出すまでに、より大きな並進運動量と角運動量を生み出せることにある。最終局面へ入る前から高い速度を得られ、砲丸の速度をさらに大きく上積みできる可能性がある。

つまり、両者の根本的な違いはこうだ。グライド投法は直線的で、選手はサークルの中を一本の線に沿って進む。回転投法では、円盤投の選手のようにサークルの中で回る。グライド投法が求めるのは、制御された安定した力の発揮。回転投法が求めるのは、長い加速経路を使って、より高いリリース速度へ届く可能性である。

ここで、一つのよくある誤解を解いておきたい。オブライエンの革新を「回転投法」と呼ぶ説明がある。180度の方向転換が含まれるためだ。そう呼びたくなるのはわかるが、力学的には誤解を招く。競技の統括団体や指導者は、オブライエンの動作をグライド、つまり直線的な投法と位置づけている。のちに登場する、全面的に回転を使う投法ではない。彼の180度はグライドの内部で行う身体の向きの変更であり、回転投法の連続したターンとは別物だ。この二つを混ぜてはいけない。

これは、呼び名にこだわっているだけではない。この篇の時間軸にかかわる。オブライエンの180度の方向転換を回転投法に数えると、その始まりは1952年になり、グライドと回転がほぼ同時に登場したことになる。実際には、オブライエンのグライド投法から、のちのバリシニコフの回転投法までには二十年以上の隔たりがある。グライドがまず二十年ほど単独で支配し、そのあとに回転が現れた。出発点を取り違えると、収斂しない技術の物語そのものが見えなくなる。最初から二つが肩を並べていた話と、一つが二十年君臨したあと、もう一つが現れて対抗した話とでは、意味が違う。

三 一本の記録の系譜に二つの技術が入ってくる

公認世界記録の保持者をたどると、この二つの技術が、どう順に競技の頂点へ入り込んだかが見えてくる。

オブライエン以前、世界記録を担っていたのは、さらに古い技術の系統だった。ローズ、ヒルシュフェルト、クック、ドウダ、そしてフックス。彼らが使ったのはオブライエン以前の投法であり、グライドにも回転にも属していない。

1953年から1973年まで、公認世界記録の系譜を進んだのはグライド投法だった。オブライエン、ロング、ニーダー、マトソン、フォイアバッハ。いずれもオブライエンから発展したグライドを使っていた。公認記録で見るこの種目の最前線は、およそ二十年にわたりグライドに支配されていたことになる。

そこへ回転投法が入ってくる。1976年、バリシニコフの22メートルが、回転投法による最初の公認世界記録になった。それ以降、公式の記録の系譜には二つの技術が共存する。グライド側にはバイヤー、ティンマーマン、アンドレイ。回転側にはバリシニコフ、バーンズ、そして現在のクルーザーがいる。

ここで、一人だけ別に取り上げておく必要がある。この人物のところで、重要な二つの事柄が分かれるからだ。

オールドフィールドは1975年、22メートル86を投げた。回転投法の発展史と深く結びついた記録である。しかし、プロ選手だったために世界記録として公認されなかった。

何が起きたのかを、はっきり見ておきたい。オールドフィールドは、初期の回転投法を押し進めた、最も目立つ二人のうちの一人だった。1968年には回転を試し始め、のちにアメリカでこの投法を広めた。22メートル86は、当時としては驚異的な距離である。それでも公認記録には入れなかった。技術のせいではない。距離が足りなかったのでもない。オールドフィールドがプロだったからだ。

第3回で見たように、構は測定に先立って、誰の成績を記入してよいかという資格の線を引く。オールドフィールドの一投は、その線の外側に落ちた。彼は実際に試技を行い、砲丸を送り出した。その距離は現実に生じた。それでも帳簿は、彼の身分を理由に受け入れなかった。

回転投法が使われてきた歴史と、世界記録の公式な歩みは、オールドフィールドのところで分かれる。技術として見れば、回転投法は1975年には22メートル86を投げられた。公認記録として見れば、帳簿に入るには1976年のバリシニコフの一投を待たなければならなかった。この二本の線は同じではない。ある技術が何をできるかと、構が何をできたと認めるかは、別の事柄である。オールドフィールドは、ちょうどその裂け目に立っていた。

この裂け目は、今回の議論では特別な意味を持つ。技術の実際の能力と、公認記録の帳簿に現れるその姿が、完全に食い違いうることを示しているからだ。公式の世界記録だけを見れば、回転投法が22メートルへ届いたのは1976年である。実際には、その前年に回転で22メートル86を投げた人がいた。ただ、その人は身分の問題で帳簿に認められなかった。だから公認記録の系譜は、技術の発展をそのまま忠実に写したものではない。資格を満たした部分の発展を記しているにすぎない。技術が帳簿の外ですでに遠くまで進んでいても、資格のある誰かがそれを再現するまで、帳簿はそこへの到達を認めない。

だから「回転投法を発明したのは誰か」にも、完全には重ならない二つの答えがある。何を発明と呼ぶかによって答えが変わる。オリンピックの公式資料は、国際的に認められた競技上の型をアレクセーエフとバリシニコフに帰する。一方、アメリカの指導者たちが伝える歴史では、オールドフィールドの役割がしばしば大きく扱われる。方法を広め、早くから実演してみせた人物としてだ。この二つの説明は全面的に矛盾するわけではないが、同じ主張でもない。公認記録に入るものを生み出すことと、遠くへ投げられても記録には入れないものを生み出すこと。その二つは、もともと資格の線によって切り分けられている。

こうなると、発明者は誰かという問いも、見かけほど単純ではない。ふつう「発明した人」と言えば、最初に実現した人を指す。だが、資格の線を持つ構の中では、発明は二つになる。最初に実現したことと、実現したと最初に認められたこと。オールドフィールドは前者に当たるかもしれない。バリシニコフは後者に当たる。歴史が誰を記憶するかは、どちらの意味で発明を語るかにかかっている。公式の記録は、当然ながら後者へ傾く。帳簿に入ったものしか認めないからだ。実際に起きたことに近い記憶は、前者も残しておく。どちらの記憶も間違いとはいえない。ただ、資格の線の両側に立っている。

四 トップ選手は回転投法へ向かっている、けれども

いま、男子のトップ選手だけを見れば、印象は明瞭だ。みなが回転投法へ向かっている。

分類して集計されたデータも、その印象を裏づける。サリネロとデル・コソの世界選手権のデータでは、男子の回転投法の割合が大会を重ねるごとに急増している。2003年パリでは十人のうち七人がグライドだったのに、2019年ドーハでは十二人のうち一人もいなかった。畑瀬らは主要大会の優勝者に注目し、2000年代には64件の優勝のうち37件だった回転投法が、2011年以降には64件中52件になったと報告している。2021年の各地域の上位八人を集めたサンプルでも、48人中46人が回転投法だった。

この数字だけを見ると、収斂が起きているように思える。回転がグライドを淘汰しつつあり、この種目にも、ついに技術の決着がつこうとしているように見える。

ところが、同じ一群の研究が導いているのは、まさに逆の結論なのだ。

サリネロとデル・コソは、グライドの割合の急落を記録する一方、従来の力学的分析には、回転投法だけを採用すべきだとするほど明確な優位性は示されていない、と結論づけている。トップ選手が回転へ移っている。これは事実である。回転のほうが力学的に優れていると証明された。これは事実ではない。ここで、選手の選択と科学の結論が分かれる。

この分かれ目が、今回の要だ。少し立ち止まって見ておこう。

ある技術を使うトップ選手が増えれば、ふつうはその技術のほうが優れている証拠とされる。最もよい技術を選ぶ動機を、誰より強く持つのが選手だ。みなが回転へ向かうなら、回転が最適なのではないか。自然な推論に見えるが、穴がある。技術を選ぶ理由は、絶対的な優劣とは無関係にもいくつもある。教えやすい。指導者たちが慣れている。練習体系が整っている。あるいは、周囲の有力選手がみな使っていて、それが流れになっているだけかもしれない。採用率の上昇が記録しているのは、こうした要因の合力であって、技術そのものの優劣だけではない。

この区別は、砲丸投以外にも広く当てはまる。広まっていることと、正しいことは、分けて問わなければならない。広まっているものは、いつも正しく見える。正しくないのなら、なぜこんなに大勢が使うのか、と。だが、普及は正しさとは別の理由でも起きる。伝わるのが速い。覚えやすい。あるいは、すでに大勢が使っているために、さらに人が追随する。普及を正しさの証拠にするのは、よくある、しかも見えにくい誤りだ。砲丸投では、それがとりわけ鮮やかに露わになる。二つの技術を実際に測った人たちがいて、ますます普及しているほうが、成績では本当に勝ち切っていないとわかったからだ。

実際に二つの技術の力学的な働きを測ってみても、結果は一方的ではなかった。

五 一つの公式に還元されない種目

2009年の世界選手権男子砲丸投について、二つの投法を力学的に比較した分析がある。今回の議論を支える、最も確かな証拠の一つだ。

平均リリース速度は、グライドの選手が毎秒13.73メートル、回転の選手が毎秒13.90メートルだった。グライドのほうが低い。リリース速度は砲丸の飛距離を決める最大の要因だから、この項目では回転が勝る。

ところが平均飛距離は、グライドが21メートル34、回転が21メートル18。わずかに遠くへ飛ばしたのは、グライドの選手だった。

速度は低いのに、遠くへ飛ぶ。どうやったのか。より大きなリリース角度と、より高いリリース位置で補っていた。同じ研究には、リリース高に最大0.29メートルの差が記録されており、グライドのグループに有利に働いていた。

この数字を並べると、一つのことが見える。砲丸投の成績を決める要素は三つある。リリース速度、リリース角度、リリース高。速度では回転が勝り、角度と高さではグライドが勝る。二つの技術は別々のところに強みを持ち、それぞれの強みが弱みを埋め合わせるため、最後の飛距離はほとんど同じになる。

この種目が一つの公式に還元されない、というのはこういう意味だ。誰にでも当てはまる最適な組み合わせがあるのなら、トップ選手は最終的にみなそこへ近づくはずだ。二つの技術のうち片方は、三つの要素すべてで他方に劣り、淘汰されることになる。だが現実には、あらゆる要素で優位に立つ技術はない。回転は角度と高さを犠牲にして速度を得る。グライドは速度の不足を角度と高さで埋め合わせる。あるのは得失の引き換え、トレードオフであって、一方が他方を押し潰す関係ではない。

この違いこそ、技術が収斂しない理由を理解する鍵になる。二つの技術のうち一方が、成績を決めるどの要素でも他方に劣らないのなら、劣る側はいずれ淘汰され、収斂が起きる。だが、それぞれがある要素で勝り、別の要素では不利になる関係なら、両者は長く共存する。全体としてどちらがよいと言えないからだ。砲丸投の二つの技術は、まさにこのトレードオフの関係にある。回転の速度上の有利さは、角度と高さの不利によって相殺される。逆も同じだ。トレードオフは、収斂しない技術を育てる土壌になる。それぞれに得意なところがあるかぎり、どちらも相手を淘汰できない。

2017年の世界選手権の力学分析は、体格だけで単純な法則をつくる危うさも示している。身長1メートル81のコバックスは、リリース高が2メートル22、身長の122パーセントに達し、大会でも屈指の高さを生み出していた。角度も39.9度で、やはり最も大きい部類に入った。一方、その分析に登場する最も背の高い選手は、身長に対するリリース高の比率も、リリース角度も、彼より低かった。体格は影響する。しかし、体格と技術の選択は一対一には対応しない。

この問いについて、研究文献の見解は割れている。その割れ目こそ、ここに書き留めておきたいものだ。

回転投法を支持する側には、加藤らの研究がある。2001年から2022年までの、国際レベルの男子の成績176例を分析したところ、回転投法の選手は、最高記録の平均もシーズンベストの平均も高かった。近年の国際レベルの男子選手が、より高い成績を得るうえでは、回転投法が優れているという結論である。

収斂に異を唱える側には、サリネロとデル・コソがいる。それまでの動力学・運動学の分析は、グライドに対する回転の明確な優位性を示しておらず、トップ選手はどちらの技術でも近い飛距離を出せる、と論じている。

さらに興味深いのは、加藤ら自身のデータが、別の面ではグライドを支持していることだ。各ラウンドの投擲をシーズンベストに対する割合で見た平均維持率は、グライドの選手のほうが有意に高く、97.31パーセント。回転は96.42パーセントだった。著者らは、各ラウンドを通じて安定した投擲動作をよりよく保てたためだと解釈している。一方、最もよかった一投の記録がシーズンベストに占める割合には有意差がなく、無効試技の割合にも有意差はなかった。

回転の優位性を示すために用いられたそのデータが、同時に、安定性ではグライドが優れていることも示している。別に行われた動作のばらつきに関する研究も、安定性の大切さを裏づける。技術動作の変動が小さいほど飛距離が長い、という関連を見いだした研究がある。回転の選手で埋め尽くされる時代にも、なおグライドを重んじる指導者がいる理由は、ここにもある。

まとめて見ると、回転が勝ったという結論にも、グライドが勝ったという結論にもならない。両者にはそれぞれの強みと、それぞれに支払う代償がある。その強みと代償がほぼ釣り合い、どちらも相手を圧倒できないのである。

六 指導者にも統一された答えはない

成績で決着がつかないなら、指導者は目の前の選手に、どうやって投法を選ぶのか。答えは、一律の方法はない、である。

技術の選択は主に体格を基準にすべきだ、という考えは、査読を経た研究によって確固たる裏づけを得ているわけではない。身体的特徴が大きく異なる選手でも、回転投法で成功できることを示す証拠がある。現在の指導資料には、どのような体格、筋力水準の選手でも回転を使える、とするものさえある。一方で、背が高く、てことなる四肢が長く、静的な筋力に優れた選手はグライドに向きやすく、リズム感や身のこなしに優れた選手は回転に向く、という根強い指導経験もある。ここには、誰もが行き着く一つの科学的法則は示されていない。

実際の指導で最もよく見られる道筋は、まず立ち投げから始めることだ。続いて、単純で動作を安定させやすいグライドを教えることが多い。そのうえで、選手がもともと持つリズム感や運動能力を確かめ、一部の選手を回転へ移す。これは指導上の傾向であって、万人に当てはめる教義ではない。

この傾向の中には、前回とつながるものがある。グライドを先に教えるのは、安定させやすいからだ。背面跳びがベリーロールに取って代わったときの「学びやすさ」に通じる理屈である。ところが、結末は逆だ。走り高跳びでは、学びやすい背面跳びが、ついにはベリーロールを押し出した。砲丸投では、安定させやすいグライドが回転を押し出すことはなく、むしろトップ層では回転が増え続けている。

なぜ同じ「学びやすい」という論理が、二つの種目で逆の結果を生むのか。走り高跳びで競うのは、一つの高さだからだ。ある技術が学びやすく、しかも成績で劣らないなら、それが全面的に勝つ。砲丸投の二つの技術は成績が拮抗し、それぞれに長所がある。そのため学びやすさが決めるのは、初心者がどちらを先に習うかまでであって、トップ選手が最終的にどちらを使うかではない。グライドから始めた初心者が、のちに回転に必要なリズム感を示せば、回転へ移される。ここでは、学びやすさは入口であり、終着点ではない。

この対照から、もっと一般的なことがわかる。同じ要因でも、置かれた構造が違えば、まったく違う働きをする。走り高跳びでは、学びやすさは決定的だった。技術のあいだに優劣があり、学びやすい側が成績で劣りさえしなければ、全面的に勝つからだ。砲丸投では、学びやすさは通過点にすぎない。技術のあいだにあるのはトレードオフなので、初心者の出発を助けても、トップ選手の最終的な選択までは決めない。だから、学びやすさは重要だ、あるいは重要ではないと、一括りには言えない。収斂する構造に置かれているのか、収斂しない構造に置かれているのかを見る必要がある。前者では終点になり、後者では出発点にとどまる。同じ要因がどれほど重みを持つかは、その置かれた構造が決める。

したがって砲丸投には、「全員が回転投法を使うべきだ」「長身の選手は全員グライドを使うべきだ」といった指導者の合意はない。いま主流なのは、もっと条件を踏まえた立場だ。その選手にとって最善のリリースを、繰り返し再現できる技術を選ぶ。指導に使える時間、リズム、筋力の特性、どこまで失敗を許容できるかも考慮する。

とても率直な立場である。普遍的な答えはなく、答えはその人によって変わる、と認めているに等しい。そしてそこが、この構を閉じることのできない場所なのである。

七 クルーザーが二つの技術のあいだに開いた隙間

現在の砲丸投の第一人者、クルーザーは、さらに一歩先へ進んだ。2023年、彼の投法の変化を、メディアや指導者たちが「クルーザー・スライド」と呼び始めた。

報道では、回転を使うという基本は保ったまま、サークルを横切る経路を変える修正と説明されている。後方の基準線にぴったり平行な構えからではなく、およそ60度の角度で始め、より直接的に踏み出していく。クルーザー自身は、正統的な回転投法ですでに頂点に立ったあと、さらに距離を上積みするための変化だと述べている。公開された説明が語るのは、回転を捨ててグライドへ乗り換えたという話ではない。二つを組み合わせた入り方をつくり、より直接的な経路と、パワーポジションへ入るよりよいタイミングを得ようとした、ということだ。

ただし、ここは明確にしておかなければならない。クルーザー本人や彼のコーチによる公式の技術論文で、「クルーザー・スライド」が正式な力学上のカテゴリーとして定義され、標準化されたわけではない。公の議論では、これは確立した科学的分類というより、指導者やメディアが使う呼び名である。グライドと呼ぶ説明もあれば、回転投法の改良された始動動作と呼ぶ説明もある。

だから、クルーザー・スライドを「第三の投法」として扱うことはできない。むしろ、グライドと回転のあいだにもう一つ開いた隙間に近い。完全にこちら側でも、あちら側でもなく、そもそも何なのかさえ、まだ定まっていないものだ。

この新たな展開が、今回の主題をいっそう強くする。二つの技術がどちらか一つの最適解へすでに収斂していたなら、いま最も優れた選手の仕事は、その最適な技術を極限まで磨くことのはずだ。二つのあいだに、新しい隙間を開くことではない。クルーザーの試みが示すのは、競技の頂点でも最適な経路はまだ定まっておらず、成熟した二つの技術の中間を探る価値が、なおあるということだ。回転であらゆるものを手にした人が、まだもっとよい道を探している。それ自体が、最良の道はまだ見つかっていないと語っている。

ここには、なぜ探索が終わらないのかという、もう一つの意味もある。最適な技術が見つかったのなら、全員がそこへ近づき、新しい道を開くのをやめるのが合理的だろう。ところが、既存の技術で世界の頂点に立ったクルーザーが、二つの成熟した技術の中間で、なお新しい道を探している。少なくとも彼自身は、既存の技術のどちらも、まだ上限に触れていないと見ているのだ。その種目の最高の選手がなお探索中であることは、競技がまだ形を定めきっていない、最も強いしるしである。いつかトップ選手全員が同じ技術を使い、細部だけを磨く日が来たら、そのときこそ、本当に収斂したと言える。砲丸投は、その日からまだ遠い。

クルーザー・スライドに対する構の反応は、グライドと回転に対する反応と同じだった。反応しない。それが新技術なのか、より優れているのか、独立した分類を設けるべきなのか、判断する必要がない。構が見るのは、その試技は合法か、無効になる行為はあったか、砲丸は有効な区域に落ちたか、ということだけだ。どんな経路を通って投げられたのか、その経路を何と呼ぶのか、ほかの経路よりどこがよいのか。そうしたことは一切問わない。

八 ルールが口を開けば枝は伸びない

ほかの投擲種目と比べてみると、砲丸投が一つに収斂しない理由が、さらによく見える。

円盤投の公式な指導では、およそ一回転半して投げる動作が示されている。トップ層に、グライド対回転に相当する二つの系統が、長く並び立っているわけではない。

ハンマー投も、公式な指導では回転する動作を用い、三回転から四回転して投げる。ルールや公式の種目指導に、異なる技術の系統が長期にわたって競い合う同様の構図は見られない。

やり投は、砲丸投、円盤投、ハンマー投のいずれとも違う。ルールが技術を積極的に制限している。世界陸連の技術規則では、やりを放つ前に、投擲弧に完全に背を向けるように身体を回してはならない、と定められている。

この一条が、砲丸投のように回転と直線の二つへ枝分かれする可能性を、直接ふさいでいる。

ここが今回の議論の着地点だから、十分に言葉にしておきたい。やり投にも、砲丸投と同じように、身体を回して加速経路を長くする投法が育つ可能性はあった。ところがルールは、投擲方向に背を向けることを明文で禁じている。そして、回転して投げるなら、どんな方法でもその途中に背を向ける瞬間が必ずある。だからルールが口を開けば、回転という枝は伸びられない。やり投の技術が大筋でいつまでも一つなのは、直線的な投げ方が最適だと証明されたためではない。ほかの方法をルールが許さないためだ。

ここで、やり投と砲丸投を並べてみよう。

砲丸投のルールは、技術について沈黙している。グライドで投げるか回転で投げるかを指定しない。だから二つとも合法であり、二つとも存在し、それぞれの強みを持ち、半世紀以上も引き分けを続けてきた。やり投のルールは、技術について口を開く。投擲方向に背を向けることを禁じる。そのため、回転という枝は最初から摘み取られる。やり投に「収斂しない」という問題がないのは、そもそも枝分かれを許されていないからだ。

この二つの種目は、ルールと技術について一つの一般的な事実を示す。技術が一つに収斂するかどうかは、ルールが口を開くかどうかにも左右される。ルールが沈黙すれば、技術はそれ自体の論理で進む。普遍的な最適解があるなら、走り高跳びのようにそこへ収斂する。なければ、砲丸投のように枝が分かれたままになる。ルールが口を開けば、それが直接に結果を決める。やり投のように、ある技術の枝を、可能性の中から削り取るのである。

こうして、前回と今回がつながる。どちらも、ルールの沈黙についての話だ。前回は、その沈黙の中で、背面跳びがついにベリーロールに取って代わった。背後では物質的な条件が変わっていた。発泡素材のマットが普及し、柔らかな着地面の時代には、背面跳びのほうが確かに学びやすく、広まりやすかった。今回は、その沈黙の中で、グライドと回転がいつまでも決着をつけずにいる。背後に、そこへ向かえばよい普遍的な最適解が待っていないからだ。同じ沈黙でも、結果は違う。沈黙は、決定権を別のものへ渡すだけだからである。そして渡された先の「別のもの」が、二つの種目では異なっていた。

ルールの沈黙は、これでもう少し正確に言える。何もしないことではない。決定権を譲り渡すという、一つの行為である。技術について黙るとき、ルールは実質的にこう言っている。この件は私の管轄にせず、ほかの力に決めさせる、と。その「ほかの力」が何であるかを、ルールは支配しない。走り高跳びでは、物質的な条件と、習得にかかる負担の違いだった。両者が合わさって収斂をもたらした。砲丸投では、力学上のトレードオフだった。それが収斂を妨げた。ルールの沈黙は同じでも、手放された決定権が違う力の手に渡り、逆の結果を生んだ。沈黙そのものは、収斂するかどうかを決めない。誰が決めるかだけを決める。

九 審判のいない問い

ここまでの話をまとめよう。

砲丸投の二つの技術は、半世紀以上にわたって共存してきた。グライドの出発点は1952年のオブライエンにあり、回転は1970年代のバリシニコフやオールドフィールドとともに広がった。冒頭で見た2016年のオリンピック決勝にも、両方の技術が立っていた。その共存は、いまも続く。これは、ようやく収斂が進み、もうすぐ勝敗が決まるという過程ではない。半世紀以上続いている、安定した共存なのだ。

そして、この半世紀余りのあいだ、どちらの技術が優れているかを宣言した公式機関は、一つもない。

問いを限定しよう。砲丸投のどちらの技術が優れているかを、何らかの公式機関が宣言したことはあるか。答えは、ない。世界陸連、国際オリンピック委員会、あるいはそれに相当する機関が、そう宣言した文書は見当たらない。公式の文書が定めるのは適法性と安全性であり、優劣ではない。構の種目紹介は、砲丸投をグライドか回転で行うものとしている。技術規則も、回転投法の使用者について、無効試技と意図しない接触の扱いを明確にしているだけだ。

これが今回の核心であり、シリーズ全体につなげて見る必要がある。

これまで構は、裁定を下し続けていた。どの成績を認めるかはルールによって。誰に資格があるかは、資格の線によって。一つの成績に何点を与えるかは、得点表によって。裁定のたびに、根拠があった。一組の規則、一枚の表、一本の線。構とは、絶えず判断するものだった。

ところが、グライドと回転のどちらが優れているかという問いには、裁定を下していない。そもそも裁定の根拠を持たない。回転がグライドよりどれだけよいかを計算する表などない。二つの技術は、同じ尺度に刻まれた二つの目盛りではなく、別々の道を通って、近い終点へたどり着くからだ。裁定する必要もない。この種目のルールが求めるのは、砲丸を遠くへ飛ばすことまでであり、どちらの投法を使うかではない。

ここに、これまでとは違うものが現れる。前の数篇での余項は、構の裁定によって帳簿の外へ置かれたもの、あるいは構がうまく裁定できないものだった。今回の余項は、構がそもそも裁定しようとせず、裁定する力も持たない問いである。「どちらの技術が優れているか」は、帳簿から排除されたのでも、帳尻が合わないのでもない。最初から、構が裁定する範囲に入っていない。構が扱うのは成績であり、その成績がどう生まれたかではない。

この最後の一文に、今回の議論が最も短く凝縮されている。少し広げてみよう。構が測るのは結果であって、過程ではない。砲丸がどこまで飛んだかは測るが、どう投げられたかは測らない。リリースの姿勢、サークルを通る経路、身体の回し方。それらは過程に属し、過程は帳簿に入らない。帳簿にはただ一つ、「距離」という欄がある。すると、必然的な帰結が生まれる。過程にしかかかわらず、結果を変えない違いは、構には記録するすべも、裁定するすべもない。グライドと回転の違いは、まさに過程の違いだ。二本の別の道が、近い距離へ通じる。構にはその距離が見える。二本の道の違いは見えず、どちらの道がより正しいかなど、なおさら言えない。その測定は、結果のところで正確に止まる。過程はまるごと、視野からこぼれ落ちる。

そして、裁定しないというそのことが、構の一つの限界を露わにする。構が望むのは収斂であり、ただ一つの最適解であり、唯一のものを頂点に据えることだ。成績については、まさにそうしている。一つの種目に世界記録の系譜は一本しかなく、最大の数字が記録になる。しかし、技術についてはできない。最適な技術は存在せず、二つの技術が成績で拮抗するからだ。構には、両者を並べておくほかない。どちらがよいと認めることもできず、二つを一つにまとめることもできない。

これが、今回の「構は閉じることができない」という事態の姿である。これまでは、収めようとするものが大きすぎたり、多すぎたり、噛み合わなかったりするために、閉じられなかった。今回は、収斂させようとするものの先に、そこへ収斂すべき唯一の答えが、そもそも存在しない。グライドと回転は、同じくらいの高みへ通じる、等しく有効な二本の道だ。構には、その二本から唯一正しい道を選び出すことはできない。唯一正しい道など、存在しないからである。

リオの、あの決勝へ戻ろう。

クルーザーは回転投法で金メダルを獲り、シュトールはグライド投法で同じ競技場に立っていた。二人は違う技術で、同じことをしている。7.26キログラムの砲丸を、できるかぎり遠くへ押し出す。どちらも相手を説得できなかった。コーチ同士も説得できなかった。数十年に及ぶ科学研究を経ても、片方がもう片方を説き伏せることはなかった。そして、この種目のルールは最初から最後まで、誰を説得するつもりもなかった。二つの技術は、そのまま並んでいる。それぞれの投げ方で投げ、それぞれの距離を出す。どちらも、相手より正しいわけではない。

構は、一投ごとの距離をセンチメートル単位で測れる。しかし、その距離まで砲丸を飛ばす二つの方法のうち、どちらが正しいかを言うことはできない。その「正しい」は、存在しないからだ。

物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。