構は、越えられて初めて自らの境界を知る
前方宙返りによる走幅跳は禁じられ、グラスファイバー製のポールは受け入れられた。よく似た二つの革新に、正反対の答えが出た。その分かれ目は、どれだけ記録を伸ばしたかではなく、競技そのものの定義にある。
この篇の目次
一 よく似た二つの問い、正反対の二つの答え
ほとんど同じ形をした、二つの出来事がある。
一つは、走幅跳で新しい技術が生まれたこと。前方宙返り式である。これは禁止された。
もう一つは、棒高跳で新しい素材が使われたこと。グラスファイバー製のポールである。こちらは禁止されず、それによって生まれた記録もすべて残された。
どちらも、陸上競技に新しいものが現れた出来事だった。しかも、記録を伸ばせる新しいものだった。どちらも論争を呼び、不公平ではないかと疑われた。それなのに、この構が返した答えは正反対だった。一方は禁じ、一方は通した。
前の二篇で扱ったのは、規則の沈黙だった。走高跳の規則は、どんな姿勢でバーを越えるかを定めていない。そこで背面跳びは、その沈黙に入り込み、生き残った。砲丸投の規則は、グライド式と回転式のどちらを使うかを定めていない。そこで二つの技術は、その沈黙の中で半世紀以上にわたって共存してきた。今回問うのは、規則の沈黙がいつ終わるのか、ということだ。構は、あらゆることについていつまでも黙っているわけにはいかない。いつかは口を開く。その口を開く場合と開かない場合の境目を、正反対の結末をたどったこの二つの出来事から探っていく。
比較のためにこの二つを選んだのは、思いつきではない。ほかの点ではほとんど同じなのに、結果だけが逆だからだ。そのため、違いを生んだ原因を取り出しやすい。どちらも陸上競技の中で起きた。どちらも記録を伸ばす新機軸で、公平性を疑われ、安全性をめぐっても議論があった。これだけの条件が同じで、結果が逆なら、実際に作用した変数は、残ったわずかな違いの中に隠れている。本篇で探したいのは、その違いである。そして行き着く先には、一つの言葉がある。定義だ。
最初に、一つはっきりさせておこう。この正反対の答えを、安全性だけで説明することはできない。前方宙返り式を禁じた理由は安全だったが、それを裏づける負傷データは見つかっていない。グラスファイバー製ポールを認めたときも、安全の問題を禁止によって処理したわけではなかった。だから、安全性が分かれ目なのではない。本当の分かれ目は別のところにある。この二つが、それぞれ一本の線を越えたかどうか。その線とは、この競技が自分自身に与えている定義である。
こうして本篇は、前の二篇と一続きの議論になる。前の二篇は規則の沈黙を扱い、本篇は沈黙の終わりを扱う。構が、何に対しても永遠に口をつぐむことはない。これを越えられたら黙っていられない、という一線が必ずある。ただ、その一線がどこにあるかは、規則を読んでもわからない。規則はまさに、その一線の外にあることについて沈黙しているからだ。いつ沈黙を破ったかを観察し、そこから線の位置を逆にたどるしかない。前方宙返り式とグラスファイバー製ポール。一方は構に口を開かせ、他方はそうしなかった。二つを重ねると、ちょうどその線が浮かび上がる。
二 本当に、より遠くへ跳べる技術
1974年、デラミアはアメリカの大学陸上の主要大会で、前方宙返り式の走幅跳を披露した。
『スポーツ・イラストレイテッド』1974年7月29日号によれば、彼はオースティンでの全米大学選手権でこの技術を使ったものの、決勝には進めなかった。しかし、その3週間前のパシフィック8・カンファレンスの大会では、前方宙返りで25フィート6と4分の3インチを跳び、オリンピック王者ウィリアムズと並んでいた。同じ記事には、デラミアが通常の跳び方で追い風の中で記録した自己最高、25フィート9と2分の1インチも載っている。
つまり、これはサーカスの客寄せ芸ではなかった。彼は前方宙返りで、オリンピック王者と同じ距離を跳んだ。この技術には、本物の跳躍力があった。
まずここを確かにしておく必要がある。この一件の性格が、それによって決まるからだ。前方宙返り式が、遠くへは跳べない曲芸にすぎなかったなら、禁じるかどうかは大した問題ではない。構が脅威にもならない奇策を片づけただけで、境界の問題を論じるほどのことではなかった。しかし、実際には違う。オリンピック王者に並ぶ距離を出し、しかも限界にはまだほど遠いと考えられていた。本当に跳べたからこそ、禁じることが、構の判断を要する重い決定になったのである。効果のあるものほど、それを禁じる決定は重くなる。前方宙返り式は、まさに効果のある技術だった。
使っていたのは、彼一人でもない。同じ1974年の記事は、初期の実践者としてアイオワ大学のニールセンを挙げている。彼はこの宙返りによって自己最高を22フィート6インチに伸ばした。記事によれば、ニールセンはラーゲルクヴィストに技術を見せ、その後、西ドイツのシュティールレも採用して7.5メートルを跳んだ。さらに、技術について寄せられる問い合わせの多さから、1974年半ばには、学齢期の若者を中心に、数百人が試していたことがうかがえるという。
ここで、広まっている誤りを一つ訂正しておきたい。クアンデは、前方宙返り式走幅跳の実践者ではない。確認できる記録の中で彼が登場するのは、フォスベリー以前の走高跳の歴史である。モンタナで、もっと早くから背中をバーに向けて跳ぶ方法を試していた選手だ。二篇前に取り上げた人物である。彼を1974年の前方宙返り式走幅跳の話に加えたのは、後世の誤伝だ。
なぜこの技術なら、より遠くへ跳べるのか。当時の説明は、見た目の面白さではなく、力学に基づいていた。1974年の『スポーツ・イラストレイテッド』は、エッカーの議論をこう要約している。前方宙返りは、前向きの回転に逆らわず、それを利用する。体を丸めれば抵抗が小さくなる。そして、より有利な角度で、より速く踏み切れる可能性がある。デラミア自身も同誌に対し、けがが治り、技術を磨けば、28フィートは跳べると思うと語っていた。
さらに大きな数字については、慎重でなければならない。前方宙返り式なら30フィートを超えられた可能性が高い、という話が広く流布している。後年の論評で繰り返されてきた話だが、競技会で実証されたことはなく、誇張すべきではない。近年の概説や物理学の解説も30フィートの可能性に言及する。しかし、それはつねに、理論やシミュレーションの上に積み上げた推測であり、記録を公認できる条件のもとで得られた結果ではない。正確に言うなら、この技術は実際に遠くへ跳べ、オリンピック王者の記録に並んだこともある。ただし、30フィートは計算上の見込みであって、起きた事実ではない。
この二つを分けておくのは重要だ。しばしば一緒にされるからである。技術が禁止されたことと、その技術が到達しえた距離は推計であること。この二つが重なると、構は30フィートを超えられる技術を葬ったのだ、と語りたくなる。まるで30フィートが確実な成果であり、禁止によって握りつぶされたかのように。しかし、その30フィートは一度も実現していない。シミュレーションと推測の中にしか存在しない。構が禁じたのは、すでにオリンピック王者に並ぶ距離を跳び、なお可能性を感じさせる技術だった。すでに30フィートを跳んだという事実を禁じたのではない。そんな事実は存在しないからだ。禁じられたものを大きく言いすぎるのも、小さく見積もるのも、正確な歴史ではない。
三 境界は、越えられたときに引かれる
この技術は禁止された。そして禁止に至る過程が、本篇の題名をそのまま実演している。
まず規則の文面を見よう。そこは明瞭だ。その後の国際陸上競技連盟、そしてワールドアスレティックスの規則は、今日に至るまで明記している。走幅跳で、助走または踏み切りの動作中に何らかの宙返りを行えば、その試技は失敗となる。現行のワールドアスレティックス競技規則にもこの文言があり、以前の国際陸連の規定との連続性は明らかである。
1974年には、同じ内容がすでに全米大学体育協会、NCAAの規則に入っていた。着地場所に触れるまでの試技中に、いかなる形の宙返りも行ってはならない、というものだ。少なくとも、1974年の著作権表示を持つ主要な規則集には、宙返りの禁止が成文化されていたことになる。国際陸連での採択会議についても、同年10月5日付『アスレティックス・ウィークリー』の報道から、ローマ総会が技術委員会の結論を全会一致で受け入れたことがわかる。ただし、決議の原文や審議の記録まで確認できたわけではない。
この史料の空白そのものも、本シリーズで繰り返し現れてきたものだ。禁止が存在したことは確かだ。1974年前後に成文化され、その後も規則が続いていることも確かだ。当時の報道によって採択の会議はたどれる。それでも、決議の原文や議事録、どのような審議で決まったのかを示す記録は、手元の史料には見当たらない。前の篇に出てきた、見つからない議事録、見つからない申請書、たどれない導出過程と、同じ種類の空白だ。構の結論は残っている。規則に書き込まれた禁止である。だが過程、すなわち禁止を決めた議論は、ここで確認できる史料には残っていない。後世の人間には、禁じたことは見える。どのように禁じると決めたのかは見えない。
では、その禁止がいつ現れたかを見よう。
前方宙返り式走幅跳が大きな大会に現れたのは1974年。それを禁じる規則が成文化されたのも1974年だった。二つの時点は、ほとんど重なっている。
ここが本篇の核心である。1974年以前、走幅跳の規則に宙返りの禁止はなかった。なぜなかったのか。こうした試みが始まるまでは、走幅跳で宙返りをする人がいなかったからだ。誰もしたことのない動作を、規則が禁じることはない。だから、デラミアやあの数百人が宙返りを始める前には、この境界は明文化された線としては存在しなかった。あらかじめ引かれた線が、誰かの衝突を待っていたのではない。誰かがぶつかってきたその瞬間に、急いで引かれた線なのである。
これは、二篇前に見た走高跳の出来事と、ちょうど鏡像をなしている。
背面跳びは、走高跳の規則が沈黙する場所に入り込んだ。それを妨げたはずの条項が1936年に撤廃されて以来、規則は背中からバーを越えることについて沈黙していた。背面跳びがその沈黙の中で生き残れたのは、ちょうど柔らかいマットという物質的条件が、道を開いていたからだ。前方宙返り式も、走幅跳の規則が沈黙する場所に入った。1974年以前、走幅跳の規則は宙返りについて何も言っていなかった。しかし今度は、結末が逆だった。規則は沈黙を続けず、すぐさま口を開き、顔を出したばかりの技術を禁じた。
同じように規則の沈黙に入りながら、背面跳びは物質的条件に通してもらい、前方宙返り式は規則に追いつかれた。何が違ったのか。背面跳びは沈黙に入り込んだとき、構を騒がせなかった。必要なマットは徐々に普及し、跳び方そのものも静かに育ち、育ちきったときには既成事実になっていた。前方宙返り式は違う。一気に現れ、数百人が使い、オリンピック王者と同じ距離を跳び、30フィートを超えるという話まで出た。目立ちすぎた。受け入れるかどうかを、構が即座に決めなければならないほどに。
そこで構は口を開いた。口を開くと同時に、それまで明文化されていなかった境界が引かれた。
ここには、目立つということが構の働きにどう作用するかが見える。何かが規則の沈黙に入り込んだとき、生き残れるかどうかは、どれだけ目立つかにも左右される。静かに育ち、育ちきったときには既成事実になっているものを、構はしばしば黙認する。その段階で禁じれば、すでに積み上がった多くの記録と定着した習慣を相手にしなければならないからだ。一気に現れたものなら、根を張る前に押さえ込む余地がまだある。同じ沈黙に入っても、育つ速さが運命を分ける。背面跳びはゆっくり育ったことで危険な時期をやり過ごし、前方宙返り式は速かったために、構が最も警戒している瞬間にぶつかった。これは、どちらの技術が優れていたかという話ではない。どちらが、より目立たずに育ったかという話なのだ。
四 禁止はあるが、証拠がない
禁止の理由は安全だった。しかし、その理由を支えるはずの証拠は空白のままだ。
当時、公式の反対理由としてはっきり示されたのは安全性だった。だが、もう一つ、競技の概念に関わる反対理由もあった。『スポーツ・イラストレイテッド』によれば、国際陸連の技術委員会の委員たちは、この技術が選手の首を危険にさらす可能性を懸念すると同時に、あまりに違っているので、もはや従来の走幅跳とは呼べないのではないか、と考えていた。これは別々の二つの理由であり、一つにまとめてはいけない。
二つの理由を見てみよう。一つ目は安全であり、首のけがへの懸念だ。二つ目は安全ではない。動きがあまりに違い、走幅跳らしく見えないということだ。選手がけがをするかどうかとは、まったく関係がない。問われているのは、それでも走幅跳と呼べるのか、である。後年の説明は、しばしば二つを「安全上の理由で禁止された」の一言に縮め、二つ目を落としてしまう。だが、本篇が探している分かれ目に近いのは、むしろその二つ目の理由なのだ。
次に、安全という理由の証拠を見よう。
この禁止決定に添えられた当時の負傷データ、医学的な付属資料、リスクを数値化した研究は、一つも見つからない。1974年の『スポーツ・イラストレイテッド』誌上の議論は、ほとんどが仮定の話だった。選手が体を丸めるタイミングを誤ったらどうする。足首が持ちこたえられなかったらどうする。首をけがしたらどうする。一方、エッカーとワシントン州立大学のアシスタントコーチ、スローンは、この技術が特別に危険だという見方をはっきり否定した。しかし、彼らにも独自の負傷統計はなかった。
つまり、安全を理由にした禁止でありながら、双方にデータがなかった。危険だという側は負傷統計を示せず、危険ではないという側も示せなかった。安全をめぐる論争の全体が、双方の仮定の上に成り立っていた。数字は一つもなかった。
この点は、これまでの篇とつないで考える価値がある。構が成績に課す要求は、きわめて厳しい。一つの成績を記録簿に入れるには、正確な計時、正確な計測、規定内の風速、公認された用器具が必要になる。数字に対する要求は、苛烈なほどだ。ところが、一つの技術を禁止しようとするときには、数字を何一つ出さなかった。他人には数字を求める構が、自分でこの決定を下すときには、数字を一つも持っていなかったのである。
この非対称そのものに、意味がある。構が数字を求めるかどうかは、場面によって違うということだ。記録を公認するときには、非常に高い精度を要求する。それが構の本業であり、権威の源泉だから、曖昧さは許せない。技術を禁止するときには数字を求めない。測定の問題ではなく、判断の問題だからだ。測定には数字が要る。判断に必要なのは数字ではなく、理由である。たとえ、その理由がただの不安であったとしても。こうして同じ構が、成績については細部まで厳密に問い詰めながら、技術については感覚で動くことができる。構にとって両者は矛盾しない。もともと異なる二つの営みなのだから。
これは、禁止が必ず間違いだったという意味ではない。前方宙返り式は本当に危険だったかもしれないし、禁止は正しかったかもしれない。言いたいのは、この決定が証拠によってなされたのではなく、あまりに異質なものへの不安によってなされた、ということだ。そして、その不安の本当の中身は、安全という第一の理由ではなく、第二の理由にある。あまりに違う。走幅跳らしくない。
五 もっと本音に近い理由
あまりに違うので、従来の走幅跳とは呼べないかもしれない。
こちらの言葉こそ、もっと本音に近い理由であり、本篇の分かれ目そのものでもある。
走幅跳の選手が助走し、踏み切り、空中で一回転して砂場に着地する。その距離を走幅跳の規則に従って測れば、規則に適合した、有効な成績である。しかし技術委員会の人々は、それを見て、走幅跳らしくないと感じる。なぜか。皆が理解している走幅跳とは、人が助走して踏み切り、空中で何らかの形で体を伸ばし、その後に着地する競技だからだ。その理解の中に、宙返りは入っていない。
ここに、見えない線が現れる。規則に書かれた線ではない。規則が定めていたのは、踏切板、着地場所、距離の測り方、風速である。走幅跳では宙返りをしてはならない、と書かれたことはなかった。1974年以前には、書く必要がなかったからだ。この線は、この競技が何であるかについての共通理解に、伝統に、そして「走幅跳」という言葉から人々が思い浮かべる光景の中に、書き込まれていた。
前方宙返り式は、その線を越えた。成文化された規則には一つも違反していない。跳んだ成績は、完全に規則に適合していた。それでも、この競技とは何かをめぐる見えない線を越えた。その線を越えられたとき、構は決めなければならない。宙返りも走幅跳だと認め、線を外へ押し広げて前方宙返り式を迎え入れるのか。それとも線を守り、外へ締め出すのか。
構は、守ることを選んだ。ずっと見えなかった線を、成文の規則に変えた。宙返りは禁止、と。
構は、越えられて初めて自らの境界を知る。それは、こういう意味だ。境界はずっとあった。人々の走幅跳についての理解の中にあった。ただ、誰も越えないかぎり、暗黙のままでよかった。書く必要も、意識する必要さえもなかった。前方宙返り式の登場によって、構は初めて、自分にこうした境界があることを知った。誰かに越えられるという形で、知ったのである。それ以前に、走幅跳で宙返りをしてもよいかと技術委員会に聞いても、そもそも考えたことがなかったかもしれない。デラミアの宙返りが、初めてこの問いを浮かび上がらせ、初めて境界を引かせた。
だから本篇の題名は、「構は、越えられて初めて自らの境界を知る」なのだ。発見する、というのが正確である。設けるのでも、公表するのでもなく、発見する。構はあらかじめ境界を考え抜き、あとはその執行を待っていたわけではない。ぶつかられた瞬間に、こんなところに境界があったのかと気づいた。ぶつかられる前、境界は眠っていた。共通理解の中にはあったが、言葉にされず、考えられてすらいなかった。それを越える動作が、境界を眠りから起こした。構は初めてそれと向き合わされ、守るか、譲るかを迫られた。境界はずっとあった。ただ越えられるまでは、構自身にも見えていなかった。
二篇前に見た1936年の条項撤廃では、構は背面跳びを妨げるはずの規則を、余計な古い規則だと思って整理していた。それが一つの門だとは思っていなかった。ここでは逆である。構は、それまでなかった門が必要だと気づき、急いで一つ作った。一方では、知らずに門を取り払った。もう一方では、迫られて門を作った。どちらも示しているのは、構が自らの境界をあらかじめ知っているわけではない、ということだ。誰かがその場所まで来て、ようやくそこに門があるべきか、なくてもよいのかがわかる。
六 もう一つの新機軸には、規則がすでに門を開けていた
では、正反対の結末になった出来事を見よう。
棒高跳のポールは、何度も素材を替えてきた。ワールドアスレティックス自身がまとめた歴史では、次のような流れになる。竹製ポールの使用は、記録に残るかぎり1857年が最初。1940年代には鋼製ポールが導入された。その後、しなやかなグラスファイバー製、さらにカーボンファイバー製のポールが、現代の標準になった。
グラスファイバー製ポールがもたらした変化は、巨大だった。それでも禁止されず、それによって生まれた記録が消されることも、一つとしてなかった。
グラスファイバー製ポールで初めて世界記録を破ったのは、1961年のデービスだった。1962年にはユルゼスが続き、1963年には、グラスファイバーで世界記録を更新することがすでに日常になっていた。同年までに、トップ選手の大半が新しいポールへ持ち替えていた。
変化の大きさは、数字で示せる。オレゴン大学の技術革新に関する研究は、おおむねこう整理している。竹の時代には、1899年から1944年までに世界記録が3フィート9インチ伸びた。グラスファイバーと、それに連なる高分子素材の革新が到来してからは、1960年以降で約4フィート6インチ伸びた。どの技術革命にも引けを取らない変化である。それでも、記録のリセットは一度も起きなかった。
なぜか。規則が、すでに門を開けたままにしていたからだ。
ポールの素材をめぐる規則は、昔から驚くほど幅が広い。現行のワールドアスレティックスの規則は、ポールはどんな素材、あるいは素材の組み合わせで作ってもよく、長さも直径も問わないが、基本となる表面は滑らかでなければならない、とする。そして、グラスファイバー製ポールによる棒高跳を扱った1966年の歴史研究によれば、国際陸連がグラスファイバーを禁じる規則を作らなかったのは、自らの規則がすでに、ポールはどんな素材でも、どんな長さでも、どんな直径でもよいとしていたからだった。
鍵は、この一文にある。国際陸連がグラスファイバー製ポールを禁じなかったのは、それを公平だと判断したからではない。自分たちの規則にある「どんな素材でも」という言葉が、すでにグラスファイバーを含んでいたからだ。新しいポールは、どの線も越えていない。規則が最初から十分に広いところへ線を引いていたので、まだ登場していない素材まで、その内側に入っていた。
グラスファイバー製ポールの登場にも、論争はあった。ここでは、論争と裁定を分けなければならない。
論争の側では、グラスファイバー製ポールは小細工だとか、不公平な機械的補助だとか言われた。雑誌も、この革新は公平なのかを公然と議論した。
裁定の側では、この用具は合法のままだった。もともと開かれていたポールの規則の内側に収まっていたからである。国際陸連がグラスファイバー製ポールの使用者のために、別の世界記録一覧を作ると決めたことを示す一次資料も見つからない。
したがって、グラスファイバー製ポールと前方宙返り式の違いは、一方に論争があり、もう一方にはなかったということではない。どちらにもあった。違いは、前方宙返り式が走幅跳の定義の線を越えたのに対し、グラスファイバー製ポールは、初めから広く引かれていたポールの規則の内側に収まったことだ。一方は境界を越え、他方は越えなかった。その広さの違いは、構が引き継いできたものだった。ポールについては幅広い成文規則として、走幅跳については競技への共通理解として。
見落としやすい点がある。グラスファイバー製ポールが境界を越えなかったのは、前方宙返り式より穏健で、行儀がよかったからではない。棒高跳の成績に与えた変化は、前方宙返り式が走幅跳に与えた変化よりも激しかったかもしれない。記録を4フィート6インチも押し上げたのだ。小さな変化ではまったくない。越境にならなかったのは、ぶつかるはずの線を、構が昔あまりにも広く引いていたからにすぎない。もし当時の規則が「ポールは竹製でなければならない」だったなら、グラスファイバー製ポールは即座に線を越えていた。前方宙返り式と同じように禁じられるか、やり投のように記録のリセットを引き起こしただろう。その運命を決めたのは、それ自体の革新性の大きさではない。向き合うことになった線が、かつてどこに引かれていたかだった。
七 実例から育ってくる原則
この二つに、ほかのいくつかの事例を重ねると、一つの原則を導き出せる。ただし最初に断っておく。その原則は、どこかに書かれているものではない。
いつ記録をリセットし、いつリセットしないのかを、一か所にまとめて定めた国際陸連やワールドアスレティックスの総則は見つからない。ワールドアスレティックスの記録規則が説明しているのは、規則に適合した競技会で出た記録を、どのように公認するかである。疑義のある場合に、ワールドアスレティックスの執行部や理事会が判断する余地も設けている。しかし、これから起こるあらゆる技術変化について、普遍的な哲学上の判定基準を用意しているわけではない。
だから、これから述べる原則は、実際に行われた決定から帰納したものだ。それらの決定が現実にどうなされたかを、証拠に即して最もよくまとめた解釈である。推論であって、発掘された教義ではない。
原則は、こうだ。
構が、合法な用具そのものを定義し直し、それによって競技の適法性の条件を変えたときには、記録をリセットして、新たな記録体系を設ける。1986年の男子やり投の再設計がそうであり、1991年のギザギザの尾部に対する規制に伴う記録の巻き戻しもそうだった。
革新が、すでに合法である用具の定義の内側に収まる場合、あるいは規則が今後に向けた認証要件を追加するだけの場合には、リセットしない。グラスファイバー製ポールがそうであり、合成素材のトラックがそうであり、スタートインフォメーションシステムもそうだ。
やり投の側を、もう少し詳しく見ておきたい。リセットを最もはっきり示す事例だからだ。
ワールドアスレティックス自身の歴史概説によれば、男子用のやりが1986年に再設計されたのは、水平に近い状態での落下が増え、試技の有効性をめぐる論争が生じていたこと、そしてホーンが104.80メートルを記録した後、競技場の内野では危険になりかねない距離に達していたことによる。同団体は、1986年の再設計には新しい記録体系が必要だったと明言している。リセットの規模は大きかった。男子の世界記録は、旧用具の104.80メートルから、新用具の85.74メートルへと事実上設定し直された。19.06メートルの低下である。将来の公認条件を少し調整した、という話ではない。新たな用具の規格に、新たな記録簿を一冊用意したのだ。
やり投には、もう一つリセットの事例がある。メーカーが尾部にギザギザを加え、そこで生じる抵抗を変えて、失われた飛距離の一部を取り戻した。ところが1991年、それらのやりは使用禁止となり、それを使って出された最高記録も取り消された。記録は、1986年以降の通常の用具で出された最高記録へと戻された。
やり投と棒高跳を並べてみよう。やり投では1986年に記録がリセットされた。やりという用具そのものが定義し直され、合法な規格が変わったからだ。棒高跳では記録がリセットされなかった。ポールの定義を変えなかったからだ。「どんな素材でも」という規則は、初めから終わりまで変わらなかった。同じように用具が変わっても、一方はリセットし、他方はしない。分かれ目は、構がその用具の合法性を定める定義を動かしたかどうかにある。
この分かれ目には、きわめて実際的な帰結がある。新しい用具が記録のリセットを引き起こすかどうかは、成績をどれだけ伸ばしたかではなく、旧規則の定義がたまたまどれだけ広く書かれていたかによって決まる、ということだ。やりの規則は具体的で、重心の位置や重量の配分を定めていた。だから、それらの数値が変われば新しい用具となり、リセットが必要になる。ポールの規則は大づかみで、「どんな素材でも」としか言っていない。だから素材がどう変わっても定義の内側にあり、リセットは起きない。同じ技術進歩でも、具体的に書かれた規則に出会えばリセットを起こし、大まかに書かれた規則に出会えば起こさない。リセットするかどうかの半分は、かつて規則を書いた人が、言葉を細かく詰めたか、広く取ったかにかかっている。
この原則は、合成素材のトラックやスターティングブロックについても説明する。合成トラックがシンダートラックに取って代わったのは、競技環境の大変化だった。それでも記録はリセットされなかった。ワールドアスレティックスは、競技の定義をもっと狭い種類のトラックに限定し直したのではなく、公認された施設で記録が生まれることを求めただけだからだ。これは今後の記録を公認するための条件であり、過去の記録をさかのぼって廃止することではない。
八 一度も書かれたことのなかった線
本篇の議論をまとめよう。
構は同種の問いに正反対の答えを返した。その分かれ目は、安全ではなく定義にある。安全という理由を支える証拠は、どちらの側でも空白だ。前方宙返り式を禁じたときに負傷データはなく、やりの再設計も負傷統計によって決まったわけではない。本当に作用していたのは、別の線だった。革新は、その競技が自分自身に与えている定義を越えたか。
前方宙返り式は、走幅跳の定義を越えた。あまりに違うので、従来の走幅跳とは呼べないかもしれない。だから禁じられた。やりの再設計は、合法な用具の定義を越えた。104.80メートルを飛んだやりと、85.74メートルを飛んだやりは、二種類の異なる用具である。だから記録がリセットされた。一方、グラスファイバー製ポールは、ポールの定義を越えていない。「どんな素材でも」という規則が、もともとそれを含んでいた。だから吸収され、記録は残った。定義を越えれば書き換え、定義の内側なら吸収する。
ただ、この原則には、もう一段深い事情が隠れている。こうした境界の多くは、あらかじめ引かれていたわけではない。
走幅跳で宙返りをしてはならないという線は、1974年以前には明文化されていなかった。デラミアが宙返りをして、初めて引くよう迫ったのだ。構は、自分が走幅跳をどこまでと定義しているか、事前には知らなかった。誰かがその場所に来て初めて、そこに線があると気づき、それから線を引いた。ポールの線が早くから引かれていたのも、構がグラスファイバーを予見していたからではない。むしろ逆だ。かつてあまりに広く、無造作に引いていたからである。「どんな素材でも」の一言で済ませた。その広さが、まだ現れていないすべての素材まで、意図せず包み込んでしまった。
こうして構の境界には、二つのあり方がある。一つはポールのように、早くから引かれ、しかも広すぎて、後から来たものがぶつからない境界。もう一つは走幅跳のように、そもそも線としては引かれず、競技とは何かについての共通理解の中に潜み、誰かに越えられて初めて急いで引かれる境界だ。どちらも、構が熟考して設計したものではない。広いほうは、無造作に広く引かれた。隠れていたほうは、そもそも引かれていなかった。
ここから、本篇の余項が見えてくる。
二篇前の背面跳びは、物質的条件によって閉ざされていた可能性であり、その条件が緩むとあふれ出てきた。前方宙返り式は違う。物質に閉ざされていたわけではない。柔らかいマットはすでにあり、砂場もあった。宙返りをして砂場へ着地することは、物質的に可能だった。行く手を阻んだのは物質ではなく、この競技とは何かをめぐる見えない線である。そして、この線は動かせる。物理法則ではない。共通理解であり、取り決めだからだ。構は線を外へ広げ、宙返りも走幅跳だと認めることができた。広げないほうを選んだのである。
こうして前方宙返り式は、特別な余項になった。物質的には十分に可能で、成績を伸ばせることもすでに示されていたのに、取り決めに合わないというだけで外へ締め出されたものだ。できないのではない。許されないのである。デラミアの宙返り、あの数百人の学齢期の実践者たちの宙返り、シュティールレの7.5メートル。それらは現実に起きた、実行可能な、規則に従って計測された成果だった。外へ締め出されたのは、それらが間違っていたからではない。それらに越えられたその瞬間、構が、それまで一度も明言したことのなかった線を守ると決めたからだ。
その可能性は、永遠に門の外へ残された。以後、前方宙返り式の走幅跳が公式競技会に登場することはなかった。規則が禁じたからである。到達したかもしれない距離、28フィート、さらには一部の人が言った30フィートは、いつまでも推計のままだ。構が一本の線を引いたとき、同時に、この技術が進めたはずの道を丸ごと一本消してしまった。その道をどこまで進めたかは、誰にもわからない。規則が、その方向へもう一歩進むことさえ許さないからだ。
こうした、取り決めに阻まれた余項は、これまでのどれとも違う。独立したものとして見分ける価値がある。記録簿の外へ裁定された名前は、構が積極的に除外したものだった。計算しきれない原因は、構が分離できないものだった。優劣の裁定をしない技術は、構が立ち入らない領域だった。前方宙返り式は、構が受け入れることもできたのに、受け入れないと選んだものだ。構の能力の範囲内にあり、定義の線を少し外へ動かして迎え入れる手立ては十分にあった。宙返りも走幅跳だと認めることはできたのである。そうしなかったのは、できなかったからではない。古い理解を守るほうを選んだからだ。したがって、この余項は選択の産物であり、能力の限界ではない。外へ締め出されているのは、構がそうすると決めたからであり、その決定は逆でもありえた。
第11篇では、この問題をさらに追う。ホーンの104.80メートルは、有効な歴史的記録である。ただし規格の変更によって、旧規格の記録の系譜には新しい記録が加わらなくなった。閉じられたのは一定の条件のもとで比較する帳簿であって、104.80メートルという距離に身体が到達する可能性ではない。
物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。