記録に載る資格は誰にある
アマチュア資格、ジム・ソープ、パーヴォ・ヌルミの事例が示すのは、記録が数字に門を開くには、まず人に門を開かなければならないということだ。そして、その敷居の由来も、効力も、訂正も、それぞれ別の時間を進む。
一 一つの定義に四つの門
1866年、アマチュア陸上競技クラブは、その規約でアマチュアを定義した。当時広く流布していた文言によれば、アマチュアとは、公開の競技に出場したことがなく、観衆から集めた金や入場料収入のために競技したことがなく、生涯のいかなる時期にも、スポーツを教えたり、その活動を手伝ったりすることで生計を立てたことがなく;また、技工、手工業者、労働者であったことのない紳士をいう。
この一文には、四つの門がある。
最初の三つが問うのは、その人が何をしてきたかだ。どんな競技に出たか、どんな金を受け取ったか、何をして食べてきたか。四つ目は違う。こちらが問うのは、その人が何者かだ。技工、手工業者、労働者。この三つの言葉は、スポーツと何の関係もない。職業上の身分である。競技の報酬を一銭も受け取ったことのない大工でも、この定義では入れない。
四つの門を一文に収めると、一つの事柄を四つの面から述べているように読める。だが、実際には二種類のものが混ざっている。最初の三つが扱うのは行為であり、行為は調べて確かめられる。証人がいることも、帳簿があることもある。四つ目が扱うのは身分であり、身分には立証が要らない。その人の日々の暮らしに書き込まれていて、同じ土地の人なら誰でも知っている。つまり、この定義はまるで違う二つの判定方法を同時に使っている。一方には証拠が要る。もう一方には、その人が誰かを知っていればいい。それが横並びに書かれ、間をセミコロンでつながれている。
もう一つ、切り出して眺めておきたい文言がある。「生涯のいかなる時期にも」。
これは現在の状態を定める規則ではない。過去へさかのぼり、その人の人生を丸ごと覆う。二十歳のとき、食べるために数か月ボクシングを教えた人は、四十歳になってもアマチュアではない。そして、生涯そうなることはない。この門には出口がない。資格が戻るまでの期間もなければ、どんなかたちの期限切れもない。
注意したいのは、当時のプロ選手には、これと対称になる規定がなかったことだ。プロの走者は、何年か報酬を受け取らずにいてもアマチュアに戻れない。これは明記されていた。逆に、アマチュアについても、資格を永久に失う場合のほかに、どのような処分がありうるかを示す規定はなかった。この構が設けた門は一方向だけだった。入ったあとに追い出されることはある。出されたら戻れない。カテゴリー間の通行が一方通行なのである。こうした一方通行のカテゴリーは、いったん区切られると、その範囲が時とともに狭まっていく。
この二つを重ねると、構の形が見えてくる。判定しようとしているのは、一つの競技ではない。一人の人間だ。しかも、その人の今の姿ではなく、現在までの全履歴である。計測はまだ始まっていない。物差しもまだ取り出されていない。その前に、こちらの手続きはもう済んでいる。
前回述べたように、記録という構の最初の帳簿は、ある一紙の新聞だった。そして、最初に覚えた仕事は、そこへ書き足すことだった。今回は別の名簿の話をする。その帳簿より前に置かれている名簿だ。ある成績が記録表に入るには、まず誰かがそれを走って出さなければならない。では、誰が走りに出てよいのか。それを決めるのが、この定義だった。二冊の分業は、最初からこうなっていた。後ろの一冊には数字を、手前の一冊には人を記す。
二 一文を削ったあと
1880年、アマチュア陸上競技協会が設立された。ワールドアスレティックス自身の沿革説明によれば、このとき、技工、手工業者、労働者を排除する文言が、アマチュアの定義から取り除かれた。
この事実は、きちんと受け止めなければならない。すらすら語れてしまう一つの物語を、ここでせき止めるからだ。
もしアマチュア原則が、初めから終わりまでただの階級の門だったのなら、成立からわずか十四年で、いちばん露骨な一文を自ら削りはしないだろう。削除は実際に行われた。時期も早い。しかも、それはこの競技を統轄する組織が、管轄を広げたばかりのときだった。
その管轄の拡大自体が、理由だったのかもしれない。クラブが面倒を見るのは自分たちの会員だけだが、協会は全国の競技会を管轄する。全国組織が三つの職業を丸ごと門前払いにしたら、管轄するのは全国の陸上競技ではなく、全国にいる一部の人の陸上競技になる。その違いは、参加申込者数にも、大会の影響力にも、すぐ表れる。あの一文の削除には、道義の面からはいくつもの説明ができる。運営の面からの説明は、一つしかない。全国を管轄しようとする組織が、ごく一部の人だけを認めるわけにはいかないのだ。
では、削ったあとに何が残ったのか。1911年のある百科事典に記された協会の定義は、こうだった。アマチュアとは、賞金や賭け金のために競技したことがなく、いかなる賞を争うにせよ、プロ選手とともに、あるいはプロ選手を相手に競技したことがなく、スポーツを教え、行い、またはその活動を手伝うことを生計の手段としたこともない者をいう。
職業上の身分を問う条項は消えた。報酬を禁じる条項は残った。そして、その間に一つ、よく見ておきたい条件が増えている。「プロ選手とともに、あるいはプロ選手を相手に競技したことがない」。
この条件が言っているのは、その人が金を受け取ったかどうかではない。金を受け取った人と、一緒に走ったことがあるかどうかだ。
これは感染の論理である。資格は接触によって失われうる。当人が何か悪いことをしている必要はない。ある人が田舎の競走に出て、たまたま一人のプロ走者と同じレースを走ったとする。報酬は受け取っていない。教えたこともない。生計上のつながりもない。それでも、アマチュアとしての身分はすでに危うい。ここで構が守っているのは、その人の潔白ではない。カテゴリーの純度である。
だから、この門の性質は、実は変わっていない。変わったのは判定の根拠だけだ。何者なのかを見る代わりに、誰の隣にいたのかを見るようになった。
この転換がもたらす実際上の帰結は、別に取り出しておく価値がある。何者かを調べる費用は、きわめて低い。一目でわかる。誰の隣にいたかを調べる費用は、ずっと高い。過去の競技記録をたどり、同じレースにいた人の身分まで知らなければならない。しかも、その情報が残っているとは限らない。新しい基準は、文面では以前より公平で、運用では以前より文書記録に依存する。こうして、一つのことが決まった。以前なら、そういう身分の人かどうかが重要だった。これからは、調べがつくかどうかのほうが重要になる。この線は、のちのソープまでつながっている。
ここでは、二つの方向を両方とも示しておかなければならない。どちらにも、それを支える資料があるからだ。
一方には、この仕組みの核心は階級による排除だった、という見方がある。1866年の定義は、三つの職業を名指ししていた。ヴィクトリア朝のアマチュアリズム全体を、統制と排除のイデオロギーと捉える研究もある。その台頭は、ちょうど労働者階級のスポーツ参加が増えていたことへの対応だったという。同時期のボート競技にも、並行する排除の仕組みがあった。クリケットでは、ジェントルマンとプロ選手が別々に泊まり、別々に移動した。当時のエリート層は、労働者にのみ込まれるという懸念を、実際に口にしていた。これは、ところどころに階級色がにじんでいた、という程度のことではない。入口を制御するための制度設計だった。
もう一方には、すべてを階級的排除に還元してしまうのも単純化だ、という見方がある。報酬への反対、フェアプレー、賭博や公然たるプロ化への抵抗。そうした要素は実際にあった。排除説を唱える研究者自身も、それは認めている。その主張は、これらの要素が排除の仕組みに包み直された、というものであって、そもそも存在しなかったというものではない。さらに、1880年の削除という動かしがたい事実もある。最もむき出しの条項が、後の体制にもずっと残っていたわけではなかった。
どちらも、すべて正しいわけではない。確かなのは、この言葉が最初から、道徳的な主張と社会的な敷居を同時に抱えていて、両者が一度も切り離されなかったということだ。片方だけを残そうとすれば、誰であれ資料と格闘することになる。
では、もっとすっきりした説明はどうか。イギリスのアマチュアリズムとは、単にスポーツを愛する人々が、スポーツを楽しんだことにすぎない、という説明だ。資料はそれを支持しない。最初に決定的な役割を果たした定義が定めていたのは、社会的身分と職業の条件だった。倫理や金銭の条件ではなかった。
三 存在しなかった祖先
この構は、自分の由来を古代ギリシャに見いだした。
1910年、ある古典学者が、ギリシャの競技と競技祭についての本を出版した。そこには、競技は一つの階級に独占されるようになり、かつての競技祭はプロによる見世物に席を譲った、と書かれていた。1930年には、古代世界の競技を論じる別の本を出した。過度の競技参加とプロ化は、真のアマチュア精神にとって致命的だと述べ、それ以前の競技を純粋なアマチュアの営みとして描いた。同じ本では、プロ化がもたらす最大の害は腐敗だとも論じ、ギリシャ後期からローマ時代にかけての競技の展開を、見世物、賄賂、過度の専門化、市民による競技の崩壊と結びつけていた。
これは彼自身の言葉である。後世の批判者が言い換えたものではない。
ここからは、十九世紀のアマチュアリズムの骨組みが、そのまま読み取れる。かつて純粋な時代があった。そこへ金が入り、堕落が始まった。アマチュア原則の復活とは、その時代を取り戻すことなのだ。
1984年、別の学者が、この問題を正面から扱った本を出版した。書名を直訳すれば、『ギリシャのアマチュア競技というオリンピック神話』となる。反論は四つの層からなっていた。
第一は、概念の問題だ。古代には、現代的な意味でのアマチュアの理想がそもそもなかった。古代オリンピアの勝者たちは、しばしば高価な賞品を目指して競い、競技の技量によって利益を得ていた。そして、アマチュアという概念を成り立たせる語彙も、イデオロギーもなかった。
第二は、彼自身がとくに強調した点である。示しているのは、単なる証拠の不足ではない。圧倒的な反証であり、アマチュアという概念をそもそも収めようのない制度なのだ、と主張した。この違いは、彼にとって重要だった。相手に証拠がないと指摘するだけでは、反論として弱いからだ。
第三は、経済の問題だ。ギリシャの選手たちは、相当な額の報奨を求めて競技し、出身のポリスからも実質的な見返りを受けていた。この点は、前回取り上げたソロンの報奨額の資料と、同じものを指している。
第四は、構造の問題だ。ギリシャの競技制度は、そもそもアマチュアとプロの境界を軸に組み立てられていなかった。この二つのカテゴリーだけでは、当時の社会の実態を記述できないのである。
後の研究も、ガーディナーの側へは戻らなかった。2020年前後に出たある概説は、この分野の現状を一文に圧縮している。ギリシャの選手は、アマチュアでもプロでもなかった。これは折衷案ではない。そのカテゴリー自体を、使う場所が間違っているという宣告だ。
確認できる本格的な研究文献の中では、ガーディナーの議論全体が、1984年以降に実質的な復権を遂げたことはない。より限定された命題のいくつかは、部分的に拾い直されている。初期の競技が、ある場面では確かに貴族的な色合いを帯びていたこと。冠を授ける競技祭と、賞金を授ける競技祭を混同すべきではないこと。プロ化は歴史的に進んだものであり、初めから単一の姿で存在していたわけではないこと。だが、これらは局部的な修正であって、全体の議論の名誉回復ではない。
ここまで来れば、この節で言いたいことははっきりする。それは、虚構を暴くことではない。
一つの構が、存在しなかった過去によって自分を正当化する。1866年から1930年まで、その過去を大勢の人が心から信じていた。あの文章を書いた古典学者自身も、その一人だった。彼は捏造していたのではない。当時の学問の道具で古代の資料を読み、自分の時代が必要とする結論を読み取っていたのだ。いま彼の誤りを指摘するのは、難しくない。だが、それだけでは役に立たない。
もう一つ、公平に扱っておくべき点がある。彼の読み方が当時は通用した理由の一部は、古代の資料そのものが複数の読み方を許したことにある。冠の競技祭が授けたのは、確かに花冠一つだった。ポリスからの報奨は、確かに別の場所で与えられた。しかも、この二つの事実は、文献の同じ段落には書かれていないことが多かった。古代の純粋さを信じたい人なら、前半を読んだところでやめればよかった。何かを故意に読み落とす必要さえない。構が自分の由来を探すとき、ふつう捏造は要らない。本物の資料の山から、使い勝手のよいものを選べばいい。
役に立つのは、別の事実だ。この由来が覆されたのは、1984年だった。ところが、この構で最も露骨な排除条項が削られたのは1880年、定義がすっかり骨抜きになったのは1981年である。つまり、学界がようやくその祖先の存在を否定したころには、規則のほうは、とっくに自分でほどけていた。しかも、ほどけた理由は、その由来が本当かどうかとは何の関係もなかった。
逆に、この規則が効いていた百年のあいだ、その根拠が虚構だったことは、一日たりとも効力を弱めなかった。この規則で資格を失った人にとって、失われたものは、まぎれもなく現実のものだった。規則の由来が作り話かどうかは、門の外へ締め出された人にとって、何の違いも生まなかった。
このことは、シリーズ全体で何度も現れる。だから、ここではっきり述べておこう。ある構の正当性を支える物語と、その構が実際に持つ効力は、互いに独立した二つのものだ。物語は覆せる。覆すのはたいてい学者であり、それは本の中で起こる。効力を解除できるのは別の構だけだ。それを解除させるのは、たいてい別の利害であり、それは会議室で起こる。二つはそれぞれの時間割で進み、相手を待たない。1984年にあの本が出たとき、そこで解体しようとしていたものは、別の理由で崩れてからすでに三年たっていた。
四 三十日
1912年のストックホルムで、ソープは五種競技と十種競技に優勝した。
この大会の公式文書には、いま読むと、きわめて具体的な規則が一つある。出場者の資格に対する異議は、書面で提出し、表彰から三十日の期限が切れるまでに届けなければならない。
ソープが報酬を受け取って野球をしていたという最初の公の報道は、1913年1月、ある地方紙に載った。ストックホルムでの表彰からは、すでに半年ほどが過ぎていた。
規則を字面どおりに読めば、とっくに期限の外だった。
後に名誉回復を求めた人々は、この点を繰り返し持ち出した。ただ、それがどこまで効くのかについては、議論がある。規則は実在した。期限も実在した。期限を過ぎていたことも事実だ。争点は、全米アマチュア体育連盟と国際オリンピック委員会(IOC)が、当時、この件をその規則に基づく正式な異議申立てとして扱っていたのかどうかにある。遅れて届いた異議ではなく、より一般的な資格と授賞の問題を扱っているのだと考えていたなら、三十日という規定では縛れない。確かなのは、三十日が有力な論拠になるということだ。それに決着をつける効力があると、当時の人々が広く認めていたかどうかは、確かではない。
この食い違いそのものに、記しておきたい構造がある。手続きの規定が実際に歯止めとなるには、その件を扱う機関が、自分たちのしていることは、まさにその規定のいう行為だと認めなければならない。ところが、機関は認めなくてもよい。これは異議申立てではなく資格審査だ、と言える。この規則が適用される場面ではなく、もっと一般的な問題だ、とも言える。名目が変われば、期限は宙に浮く。手続きによる保護の効力は、保護される側の手に、完全に委ねられていたためしがない。
そもそも野球の経歴を最初に暴いたのは誰だったのか。いまでは、はっきりしない。最初に記事を載せた新聞は特定できる。後世に広まった説明では、野球界に関係するある人物の名がしばしば挙がる。だが、その名指しを裏づける当時の一次資料は見つかっていない。この点は、未決のままにしておくしかない。
処分は二段階で進んだ。まず全米アマチュア体育連盟が、ソープのアマチュア資格を取り消した。次いでIOCが、二つの優勝の称号を取り消した。
もう一つある。ソープ自身が、報酬を受け取って野球をしたことを認める手紙を書いていた。この騒動の転機の一部は、本人が事実を認めたことにあった。すべてが第三者の告発にかかっていたわけではない。
では、その手紙はいまどこにあるのか。わからない。コーチが当時交わした内部文書は、どこにあるのか。わからない。全米アマチュア体育連盟とIOCのあいだの、一連のやり取りを揃えた文書はどこにあるのか。それもわからない。所在が確認でき、目録にも載っているのは、カーライル・インディアン工業学校時代の学生記録だ。現在は米国国立公文書記録管理局に所蔵され、手紙、金銭の出納、写真が含まれている。
ここに現れる形は、前回のあの空白と同じだ。すべての人に証拠を残すよう求める制度が、自分自身の肝心な箇所では、証拠の行方を知らない。ただし、今回の空白は、もっと人間の近くにある。残ったのは、学校が一人の学生を管理するための記録だった。残らなかったのは、その人が自分のために弁明した手紙だった。
誰かが故意に廃棄したとは、考えにくい。学校の学生記録は、継続して動く行政の仕組みに属している。その仕組みは、書類を分類して整理し、何十年も保管する。それが日々の仕事だからだ。一度の委員会審議で交わされた文書は、そうした持続的な仕組みに属さない。その案件の処理が終われば、そこに集まった人々も散り、文書は担当者についていく。私物の戸棚に入り、やがて行方がわからなくなる。残るかどうかは、重要性では決まらない。代わりに整理し続ける機械があるかどうかで決まる。大事なものほど、かえって失われやすい。大事な案件は、その場かぎりの体制で処理されることが多いからだ。
ついでに、広く流布している説明を一つ訂正しておこう。ソープは、ストックホルムでその場で剥奪されたのではない。それが起きたのは、大会が終わって数か月後だった。新聞紙上で、そして二つの委員会の会議で起きたのだ。
五 本名を使った
ノースカロライナ大学が後にまとめた歴史解説に、この回の中心となる一節がある。
あの時代、マイナーリーグで野球をして金を稼ぐ大学選手は少なくなかった。彼らは偽名を使っていた。ソープは本名を使った。だから、過去を掘り起こされたとき、ほかの選手より処分しやすかった。
まず、この一節が意味することを、最後までたどってみよう。
規則が禁じていたのは、金を受け取ってプレーすることだ。偽名で金を受け取ってプレーしても、破る規則は同じである。しかも、そこには意図的な隠蔽が一枚重なる。条文を厳格に適用するなら、偽名を使った側のほうが重い処分になるはずだ。実際に起きたことは、正反対だった。偽名の選手は誰一人おとがめなし。本名の選手は、二つのオリンピック優勝を取り消された。
これは、取り締まりが甘かったという話ではない。この装置は、こう動くほかなかったという話だ。
構が違反を処理するには、まず違反が見えていなければならない。何が見えるかは、出来事がどんな形で紙の上に残ったかで決まる。本名でプレーしたことは、チームの名簿に、給与の支払簿に、地元紙の試合記事に残った。古い新聞をめくれば、誰でも調べられる。偽名でプレーした場合、同じ紙の上に残っているのは、別人だ。構は後者を許したのではない。後者がいることすら知らなかったのである。
だから、この装置が実際にふるいにかけるのは、誰が規則を破ったかではない。誰を調べ出せるかだ。たいていの場合、この二つは重なる。内的な結びつきがあるからではなく、大半の人が隠さないからだ。誰かが隠し始めれば、両者はたちまち分かれる。そして構は、何も隠さなかった人を、ためらいなく処分する。手元にいるのが、その一人だけだからだ。
ここでは、誤読を防いでおきたい。偽名の選手をもっと罰するべきだったと言っているのでも、ソープは罰せられるべきではなかったと言っているのでもない。見えるかどうかで動く装置は、統計的に、隠し事をしない人を処理するほうへ必ず偏る、ということだ。誰も偏見を抱いていなくても、この偏りは生じる。装置の構造上の性質であって、執行する人の品性の問題ではない。ある一度の不公正な処分のせいにすれば、かえって本当の問題を取り逃がす。
前回述べたように、競技会は、開かれている時点ですでに、自らが紙に載るための準備をしている。記録可能であることが、会場の設営に組み込まれているのだ。あちらでは、記録可能であることは帳簿に入る条件だった。こちらでは、帳簿から追い出される条件になる。同じ性質が、二つの方向に働く。
もう一段、下を見てみよう。記録可能であることが、両方向で効くのは、実は同じ必要に応えているからだ。構は、照合できなければならない。照合こそが、その権威のすべての源である。前回の、基準に選ばれた新聞も、三つの時計も、内縁から十二インチ離れた計測線も、みなこの仕事をしていた。だが、照合が及ぶのは、もともと痕跡の残った部分だけである。だから、構が真剣に照合能力を築けば築くほど、痕跡を残さないものとの距離は縮まるどころか、広がっていく。
ここから先は、この節の中でも慎重に扱わなければならない部分だ。
この件に人種がどれほど作用したのか。資料は一つの読み方を支えている。ただし、どのように支えているのかを、はっきりさせておく必要がある。
その読み方を支える資料は、次のようなものだ。ソープは、サック・アンド・フォックス族の先住民選手であり、カーライル・インディアン工業学校で教育を受けた。この学校は、大きな同化政策の一部をなしていた。後年、先住民の視点から書かれた論評は、アマチュア体制そのものをエリート主義的なものと捉え、ソープへの処分が、同時に一人の先住民スターを覆い隠す働きも果たしたと考える。また、十九世紀のアマチュアリズムが階級的な排除を源流に持つことから、先住民選手にこの規則を適用するとき、人種によって運用が左右される可能性もあった。
一方、確認できる資料の中に、先住民だから処分すべきだと明記した、当時の全米アマチュア体育連盟やIOCの原文書は見つかっていない。人種を直接の原因とする議論は、主として制度を取り巻く状況、選択的な取り締まりへの疑問、そして後世の解釈的な研究に基づいている。明らかに人種差別的な内容を持つ裁定文書が、実際に発見されたわけではない。
つまり、この二つの読み方は、証拠の形が違う。規則が機械的に適用されたという説明には、条文がある。事実がある。本人が認めた手紙がある。人種が直接の原因だったという説明には、文脈がある。構造がある。後世の分析がある。だが、あの文書はない。
両立を考えるためのモデルはある。ただし、結論ではない。三つの文で言えば、こうなる。あの規則は確かに存在し、報酬を伴う野球に適用しうるものだった。執行の時期と選択性には、疑問を呈する余地がある。同化政策と排除的な体制の中に置かれた先住民のスターは、ほかの人ならときに得られた配慮、寛容、手続きによる庇護を、得られなかったのかもしれない。
この三つは、同時に真でありうる。同時に真であることは、どれか一つでも証明されたということではない。
避けなければならないのは、二つの単一原因論である。この件は、人種差別だけでは説明できない。中立的な規則の適用だけでも説明できない。前者には存在しない文書が必要であり、後者には、なぜ偽名の選手が全員無事だったのかという説明が必要になる。
もう一つ、ここでは決着させずに残しておくべきことがある。当時、偽名を使っていた選手は誰で、何人いたのか。いま、それを示す名簿はない。誰も調べなかったからではない。そもそも彼らは、定義上、痕跡を残さなかった側の人々だからだ。したがって、この比較対象の集団を、完全な形で見ることは永遠にできない。選択的な取り締まりがどれほどひどかったかを見積もろうとしても、分母が欠ける。この制約によって、どこまで判断できるかにも限界が生まれる。もっと力強く響く結論を出すより、この限界を認めるほうが誠実だ。
六 アマチュアとは規則を守る人である
1932年4月、国際陸上競技連盟は、アマチュア規定違反を理由にヌルミの出場資格を停止した。その結果、彼はロサンゼルス・オリンピックから締め出された。この処分を主導したのは、当時の連盟を率いていたスウェーデン人だった。
この事例をここに置く意味は、二つある。
一つ目は、ソープの経験が、類型としては孤立した例でなかったとわかることだ。あの数十年間、アマチュア資格をめぐる処分は日常的に行われていた。当時最も有名な選手たちも、その対象になっていた。
二つ目は、もっと重要だ。ヌルミの出場停止をどう理解するかは、いまも意見が分かれている。フィンランド側の説明や、後世の民族主義的な物語では、スウェーデン人が主導した報復に近いものとして語られることが多い。一方、フィンランド自身の記念的な記述を含め、別の研究では、より根深い問題は、国際陸上競技連盟が当時、プロ化の浸透に対する防衛線を締め直していたことにある、とされる。
この食い違いの価値は、どちらが正しいかにあるのではない。そこから、一つの一般的な事実が見えることにある。アマチュア規則の執行は、条文上の筋が通っていても、政治的にはしばしば争われる。ある規則が正当に適用されたことと、なぜよりによって今回は適用されたのかというもっともな疑念があることは、両立する。互いを打ち消すものではない。
ヌルミとソープには、もう一つ、比べておきたい違いがある。ソープは、成績を出したあとで、さかのぼって処分された。取り上げられたのは、すでに実現していたものだ。ヌルミは、競技の前に止められた。取り上げられたのは、まだ起きていないものだった。前者の損失は測れる。あの二つの優勝がどこにあったのかは、はっきりしている。後者の損失は測れない。ロサンゼルスで走っていれば、どんな記録を出していたのか、誰にもわからないからだ。構の行為は、どちらの場合も同じ形をしている。だが、残される余項は、一方には形があり、もう一方には形さえない。
次は、この言葉自身の結末である。
1976年の国際陸上競技連盟は、なおスポーツマンシップと結びついた旧来のアマチュア観を用いていた。同時に、各国の協会が選手の失った収入や、一定の範囲の旅費を補填することは、すでに認めていた。
1981年、総会は定義を変更した。新しい定義は、こうだった。アマチュアとは、国際陸上競技連盟の資格規則に従う者をいう。
この一文では、立ち止まる必要がある。
これ以前のアマチュアは、中身のある言葉だった。その中身は、古代ギリシャから来てもよかった。道徳的な主張から来ても、ある階級の暮らし方から来てもよかった。どこから来るにせよ、この組織の外から来ていた。外にあるからこそ、それを使って組織に問いかけることができた。あなたたちの規則は、アマチュア精神にかなっているのか、と。
この一文のあとは、その問いを立てられなくなった。アマチュアとは、われわれの規則を守る人のことである。ならば、われわれの規則がアマチュア精神にかなっているかという問いは、われわれの規則がわれわれの規則にかなっているか、という問いに変わる。
ここで、構は完全に閉じた。その条件は、この問いがもう問えなくなることだった。
断っておけば、当時、この新しい定義が自分への権限付与と理解されたとは限らない。むしろ、実務に即した整理に近かったのだろう。古い定義は、実際の運用からかけ離れ、執行できなくなっていた。誰もが迂回する基準を維持するより、基準そのものを、執行できる姿に変えたほうがいい。運営の観点からすれば、責任ある対応だ。そして、責任ある対応と、自らを閉じる対応が、ここではちょうど同じ一つの動作になっている。それこそが重要なのだ。構は、権限を踏み越えることで閉じるのではない。物事の筋道を整えることで、閉じることがよくある。
1982年、国際陸上競技連盟は信託基金を正式に設けた。これによって、競技がすでにプロ化したと公に認めなくても、連盟の管理の下で選手に金を流せるようになった。この一歩を、アマチュアからプロへの緩やかな移行と呼ぶ研究もある。1990年代初めには、陸上競技のプロ化は明白になっていた。制度の言葉が変わる速度は、それより遅かったが。
アマチュア条項が、国際陸上競技連盟の規則から完全に消えたのは、何年何月何日なのか。これには、広く認められた日付がない。確かなのは、1976年から1982年にかけて中身が抜かれていった過程と、1990年代初めにはプロ化していたという事実だ。さまざまな階層の規約や規則から、最後の「アマチュア」という字句がいつ削られたのかは、確かではない。この過程は、一つではない。定義の変更、補償の仕組み、商業的な拡大、プロ化が広く受け入れられること。それぞれに、それぞれの時期がある。
だから、よくある説明も修正しなければならない。陸上競技のアマチュア時代は、初めて誰かが金を受け取った日に終わったのではない。支払いの経路が先に連盟の管理へ組み込まれ、そのあとでプロ化が公に認められた。構は、あるものを手放す前に、まず自分の管理下へ引き取る。
七 引き算を使わない方法
1982年、IOCは一つの回復措置を可決した。1983年1月、記念のメダルがソープの家族に手渡された。
内容は、金メダルの複製を贈り、彼を再び記録に戻すというものだった。ただし、共同優勝者としてである。唯一の勝者としてではない。
共同優勝という方法を採ったので、後から繰り上げられた二人の順位には手をつけずに済んだ。ノルウェーのビーも、スウェーデンのヴィースランデルも、そのまま残った。
ここでは、一つの訂正が直面する現実の抵抗に、どれだけ層があるかがよく見える。第一の層は、あの二つの名前だ。本人たちは、何も悪いことをしていない。彼らのものを取り上げるには、別の理由が要る。第二の層は、それぞれの国のオリンピック委員会だ。二つの金メダルは、両国の記録に七十年も載っていた。第三の層は、記録そのものだ。七十年のあいだに、その成績表を引用したすべての本、名簿、統計が、一緒に不正確になる。一つの項目を変えたとき、動くのはその項目だけでは決してない。
これは、仕組みのよく見える実例だ。しかも、前回の結びに、そのままつながっている。
1913年、あの構に与えられたのは、審議と登録の権限だった。抹消については、権限を与えた文書は何も言っていなかった。七十年後、IOCが出会ったのは、まさにこの問題だった。ソープを戻すには、すでに書き込まれている別の二人を取り出さなければならない。ところが、帳簿は足すことしか知らない。
そこで、新しいカテゴリーを発明した。「共同優勝」という言葉を使えば、訂正は足し算だけで済む。ソープを加え、誰も引かない。これ以降、1912年のあの二種目には、それぞれ二人の優勝者がいることになった。当時の競技方式には存在しなかった結果である。
この方法は、帳簿の上の問題を解決した。出来事そのものは、解決しなかった。
一人の成績が取り消された。その回復方法が、自分の代わりに据えられた人と優勝を分け合うことを認める、というものだった。算数としては通る。出来事としては通らない。あの二種目に、同点で並んだ優勝者はいなかったからだ。彼が勝ち、ほかの人は負けた。共同優勝というカテゴリーは、帳簿が自らの操作上の制約に合わせて発明したものだ。あの出来事のために発明したものではない。
注意したいのは、この新しいカテゴリーは、ひとたび作られると、実在するものになることだ。それ以後の成績表には、確かに二種目それぞれに二人の優勝者が載っている。後の人が調べて目にするのは、その結果であって、それがどう生まれたかではない。構が自分の技術的な難題を解くために、その場で発明した名目は、ほかの項目とまったく同じ姿で帳簿に残る。しばらくすると、どれがもともとの項目で、どれが継ぎ当てなのか、もう見分けがつかなくなる。第一回で取り上げた、後から追認された勝者名簿も、こうして時間そのものになった。
もう一言、公平のために添えておこう。当時、実際に可決しうる案は、これしかなかったのかもしれない。ほかの二人の称号を取り消すには、別の二か国のオリンピック委員会が関わる。七十年にわたって存在してきた記録が関わる。そして、二人の当事者は何も悪いことをしていない、という事実が関わる。足し算は、最も抵抗の少ない道だった。そして、抵抗の最も少ない道が、唯一通れる道であることは、よくある。
通れるからといって、すっきり片づくわけではない。
八 外から与えられた権限
2022年7月、IOCは、1912年ストックホルム大会の五種競技と十種競技で、ソープを唯一の金メダリストとして記載すると発表した。
百十年。
1983年との違いは、たった一語だ。だが、その一語がすべてだった。1983年の回復には排他性がなく、彼は共同優勝者だった。2022年に回復したのは、排他性である。彼は唯一の優勝者になった。つまり、1983年にしたのは足し算で、2022年にしたのは、この構が四十年近く前には、どうすればよいかわからなかったことだった。
引き算は、どうして可能になったのか。
IOCの説明によれば、今回の進展を支えたのは、この件に継続して取り組んできた団体と、一人のIOC委員の支持だった。関連する報道には、さらに重要なことが記されている。スウェーデン・オリンピック委員会と、ヴィースランデルの存命の家族は、彼があの金メダルを一度も受け入れず、ソープこそ唯一の正当な優勝者だと考え続けていたことを確認した。ノルウェー側も、ビーについて同様の確認を行った。
つまり、引き算を可能にしたのは、この構が後になって抹消の権限を身につけたことではなかった。帳簿のあの二つの項目に載っていた人々が、自分たちの優勝は成り立たないと、自ら表明したのだ。
正確に言っておこう。彼らの表明に法的な効力があるわけではない。IOCも、法的に拘束されたから変更したのではない。あの確認が果たした役割は、最後の抵抗を取り除くことだった。その座に繰り上がった側が、自分は一度も受け入れていないと公に述べれば、現状の維持に固執するために持ち出せる理由はなくなる。構に必要だったのは、権限の付与ではなかった。誰も反対しない瞬間だった。そうした瞬間は、待つしかない。関係する人々が、みな同じことを言おうとするまで待つ。それには、時間に頼るほかない。
構には、彼らをそこから降ろすことができなかった。彼らが、中から歩いて出てきたのだ。
この出来事の形は、よく見ておく価値がある。シリーズ全体に関わるからだ。前回述べたように、足す仕事と引く仕事の難しさは、最初から釣り合っていなかった。足すための証拠は現場にある。引くための証拠は、とっくに散らばっている。この非対称は、時間の向きから生じる。ここでは、一つの例外が現れた。それが成り立ったのは、まさに、出来事の外側で誰かがずっと覚えていたからだった。ヴィースランデルがあの金メダルを受け入れなかったことは、どの帳簿にも載っていない。それは一つの家族の中で百十年語り継がれ、必要になったとき、取り出された。
構は、自分自身を訂正できない。それは、この構の職務怠慢ではなく、その作りの問題である。何かを認定するための手続きを、同時にその認定を覆すためにも使うことはできない。そうすれば、その構が認定するいかなる事柄も成り立たなくなる。だから、覆す力は外から来るしかない。そして、外から来られるかどうかは、誰かが覚えているか、覚えている人がまだいるか、その人が口を開く気があるかにかかっている。この三つは、どれも偶然である。
最初の定義に戻ろう。
1866年のあの一文が判定しようとしていたのは、一人の人間だった。過去へさかのぼって人生全体を覆い、出口も、期限切れもなかった。1913年の手続きは、二つの成績の背後から、一人の人間を取り去った。成績そのものが偽物だとは、誰も言っていない。彼が走り、跳び、投げたものは、すべてそこにある。ただ、名前だけが抜き取られた。前回、最後に残しておいた話は、ここにつながる。十種競技で国際陸上競技連盟の最初の世界記録が認定されたのは、1922年になってからだった。ところが、当時の採点表で計算すると、彼が1912年に挙げた総得点を、誰かが上回ったのは1926年である。十数年間、最も大きな数字は、名簿にいない人のものだった。数字は残り、人が取り去られた。
その門も、やがて自分でほどけていった。1880年には一文が削られ、1981年には中身がすべて抜かれた。1990年代初めには、この言葉はもう何も指していなかった。2022年、あの名前が唯一の優勝者の座に戻されたとき、かつて彼が違反したとされた規則は、とうに消えていた。
このシリーズの先でも、何度もこの順序に出会うことになる。まず構が動き、その代償を残す。代償が認められるのは、多くの場合、構そのものが変わるか、消えたあとだ。認めることが可能になる理由の一部は、まさに、あの規則を守り支える必要が、もう誰にもなくなったことにある。それで、その承認の重みが減るわけではない。偽りになるわけでもない。ただ、訂正がなぜいつもこんなに遅いのかを、それは説明している。規則がまだ動いているうちに、その誤りを認める費用を払うのは、いまその規則を使っている人々だからだ。
物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。