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Non Dubito

大知が読む『荘子』 · 18 · 内篇を読む

食べることまで用意されていれば、十分なのか——沢の雉

籠の中なら、餌を探さなくていい。その利点を否定しなくても、まだ尋ねたいことがある。世話と、自分で決めることのあいだで。

Han Qin ·

あの鳥は、まだ歩いている

「養生主」といえば、庖丁の包丁はよく知られています。そのかたわらで、沢にすむ雉の足取りは見過ごされがちです。ほんの数行の話です。

沢の雉は、十歩歩いて一ついばみ、百歩歩いて一度飲む。それでも、籠の中で飼われることを望まない。気は盛んであっても、それをよしとはしない。

湿地の雉は、十歩歩いてようやく一口をついばみ、百歩歩いてようやく水を一度飲む。それでも、籠の中で飼われようとはしません。「蕲」は求めること、「樊」は籠です。ここまでの光景は、はっきりしています。食べたり飲んだりするのは楽ではない。それでも、この鳥は中へ入ろうとしない。難しいのは末尾の六文字、「神雖王、不善也」です。「王」はここでは勢いが盛んなことを表しますが、盛んなのは籠の鳥でしょうか、それとも野の鳥でしょうか。「不善」は、よくないと思うことなのか、それとも、心のままに生きていて、自分の暮らしをよいと意識することさえないという意味なのか。昔の注釈者の間でも、読みは分かれています。

郭象は、野の雉が満ち足り、心地よさを心地よさとして意識することさえ忘れている、と読みました。一方、林希逸は、籠の中で食べ物も水も十分に与えられ、一見元気でも、結局は楽しくない、と読みます。この随筆では、後者の読みから考えてみたい。食事の世話をどれほど整えても、それだけで「これこそ、お前の望む暮らしだ」と、相手の代わりに決めてよいのでしょうか。先に解釈の分かれ目を示すのは、その問いの足場をはっきりさせるためです。一つの読みを、「籠の中のほうがよく飼育されると荘子はすでに実証した」と書いてはいけない。この数行を、野生動物の健康に関する実験報告にしてもいけません。

よいところも、いったん認めてみる

ある暮らし方に反対したいとき、私たちはまず、そのすべてが悪いと証明したくなります。安定した仕事など実は安定していない。よい待遇には落とし穴がある。快適そうな暮らしも、必ず苦しいはずだ。利点を全部崩してしまえば、選択は簡単になる気がします。けれど、本当に難しい選択は、たいていそうはいきません。待遇は本当によい。職場には、気にかけてくれる人もいる。残れば、家計にも余裕ができる。利点が本物だからこそ、もう半分の思いが、口にしにくいのです。

籠の雉という読み方を取るなら、この話はまず、そちら側を認めることを許してくれます。誰かが餌を用意してくれれば、歩き回る手間は大きく減るかもしれない。そのうえで、もう一度尋ねる。その利点に、すべてが含まれているのでしょうか。自由に必ずこれだけの値段がつく、と計算したいのではありません。書き込みやすい表のために、書きにくいことが消されないようにしたいのです。断れるのか、方向を変えられるのか、なぜこう生きたいのかを自分で語れるのか。そうしたことも、同じ席で考えられてよいはずです。

十歩と百歩

「十歩で一ついばみ、百歩で一度飲む」は、正確な採餌の統計ではありません。それでも、苦労には確かな重さがあります。その足取りを読めば、野原と涼しい風と、美しい自由だけを思い浮かべて済ませるのは難しい。この鳥は歩き、探さなければならない。立っていれば暮らしのほうから口元まで届くわけではないのです。だからといって、貧しさのほうが高貴だとか、苦しんで初めて自分の人生を持つ資格ができるとか、言ってよいわけではありません。

現実には、支えがあるからこそ、自分で決められることもあります。十分に食べて初めて勉強する力が出る。世話を分担してくれる人がいて初めて、自分のしたいことができる。食べ物を与えることが、そのまま閉じ込めることになるのではありません。食べ物を与えないことも、そのまま自由の尊重になるわけではない。違いは、条件にあるのかもしれません。助けてもらったら、もう二度とその人を断ってはいけないのでしょうか。受け取ったあとでも、これは自分の進む方向ではないと言えるでしょうか。出ていきたいとき、扉は本当に開くでしょうか。餌皿そのものは、籠ではありません。餌皿を差し出すことによって、相手の選択を取り消してしまうとき、このたとえは鋭く迫ってきます。

求めないことは、戦って勝ったことではない

原文には、雉が鉄格子を破ったとは書かれていません。死んでも屈しなかったとも書かれていません。ただ、飼われることを求めない。それは小さなことですが、残しておきたい。他人が約束するよい暮らしを、ただ一つ憧れるべき生き方だと思わなかった。それだけの場合もあるのです。自分を保つことを、いつも英雄物語に仕立てる必要はありません。魯の君主が海鳥をもてなす話と比べると、この違いはよく見えます。魯侯は、人間の儀礼や音楽や食事を鳥に与え、心を尽くすことを、そのまま相手に合うことだと考えてしまいました。雉の短い一節では、もう一方の声が聞こえてきます。その暮らしを、この鳥は求めていない。一方は世話が相手を置き去りにする様子を描き、他方は、世話をすることでは相手の意思を代えられないと気づかせます。

ただし、この雉はすべての選択肢を経験し、利点も不利も計算し尽くしていたのだ、と書き足すことはできません。原文にあるのは、その足取りと、求めないということだけです。人の暮らしへ引きつけて読むには、自分たちで判断を続けなければなりません。寓話の鳥に、代わりに辞表を書いてもらうわけにはいかないのです。

探さなくなって、長い時間がたつと

慣れた手順で動く組織では、仕事も、基準も、次にすることも、向こうから用意されることが少なくありません。初めは、それはよいことです。毎回、何もないところから考えなくてよいからこそ、協力できます。けれど、少しずつ別のことも起こりえます。誰かが決めてくれないと、自分が何をしたいのかわからない。指示を実行する力がないのではなく、自分で問いを立て、方向を選ぶことを、長い間していなかったのです。週末に時間が空いても、まず、誰かに言われた用事が残っていないかと考えてしまう。

必ずそうなる、という話ではありません。安定した仕事の中で判断力を育てる人もいれば、自営でも顧客と請求書に追い立てられる人もいます。まして原文は、籠へ入れて何か月たつと雉が餌の探し方を忘れる、とは述べていません。人間の経験を考える手がかりにするからといって、生物学の法則を足してはいけません。ただ、「探さなくてよい」が、いつしか「探すのが怖い」に変わる経験は、珍しくない。そのことに気づくのは大切ですが、自分を恥じる材料にする必要はありません。やり直すときも、一度ですべての境界を越えなくていい。評価に左右されない午後を一つ作り、結果のわからない小さなことに、真剣に取り組んでみる。それだけから始めてもよいのです。

「自分は、そういう人間ではない」

「今はチームを率いることができない」と「自分は人を率いる器ではない」。似た言葉でも、少し違います。前者なら、何がまだできないのか、学びたいのか、と話を続けられる。後者は、話を早く終わらせてしまいやすい。けれど「人を率いることが好きではない」は、また別です。調べ、試したあとで、その道へは進まないと決めてもいい。可能性を残すとは、いつまでも開かれていることを強制する意味ではありません。はっきりした拒否も、自分の方向でありえます。

だから、言葉に「ない」が含まれているかどうかだけで、自分を閉じ込めていると判定はできません。その言葉がどう生まれたのか、新しい経験がなお入ってこられるのかを見る必要があります。自分の選択を言い表しているのか、それとも、他人が自分へ抱く期待を終わらせようとしているのか。条件を認めているのか、それとも未来にまで決着をつけたのか。何でも壁にぶつかってからでないと信じない、という必要もありません。ほかの人の経験から避けるべき危険もあります。身体、使える資源、誰かを世話する責任も、現実の境界です。自分で一度転ぶことは、判断する資格を得るための儀式ではありません。

もっと役に立つ問いは、こうかもしれません。安全で、負担を引き受けられる範囲に、まだ少し試せることはないだろうか。それなのに、自分には関係がないと思い込んできたことはないだろうか。

扉は、心の中だけにあるのではない

ここまで来ると、美しいけれど人を傷つける一言が出てきやすくなります。籠はすべて心の中にある、扉はとっくに開いている、と。けれど、本当に鍵のかかった扉もあります。離れれば住む場所を失う人、家族の世話を担う人、処罰や脅しに直面している人もいる。それをすべて考え方の問題にしてしまえば、制約の中にいる人へ、「勇気が足りない」という責任まで負わせることになります。この話を、外の条件を免責するために使ってはいけません。よりよい仕組みとは、怖がるなと励ますことだけではない。断っても生活が壊れず、学ぶ時間があり、離れることが可能になるようにすることです。安定は、人を引き留める理由であるだけでなく、外へ歩きだすときの足場にもなれます。

今は残る、という選択が、必ず自分を明け渡すことになるのではありません。何と何を交換しているのかを理解し、あとで選べる条件をできるだけ守ろうとする場合もあります。一方で、待遇がよいことだけで、厳しい条件が自動的に正当になるわけでもありません。感謝することと従うことは、同じ約束ではないのです。

包丁の使い方と、進む方向

沢の雉と庖丁を並べるのは、この読みの道筋での一つの組み立て方です。庖丁は、どうすれば力任せにぶつからずに仕事ができるかを見せてくれる。雉は、それより一歩前へ問いを向けます。何をするかは誰が選んだのか、何をよいとするかは、誰が先に決めたのか。「養生主」の冒頭は、命には限りがあると述べ、「身を保ち、生を全うすることができる」「寿命を尽くせる」とも明言しています。だから、身体など重要ではないとか、心さえ自由なら食事も疲れもどうでもよいとか、読んではいけません。一人の暮らしが限られているからこそ、世話を受けることと、自分で決めることを、一緒に考える必要があるのです。

あの鳥は、まだ自分の十歩を歩いています。私たちが同じように歩く必要はありません。苦労を試験問題にする必要もない。ただ、次に誰かが、すっかり整ったよい暮らしを差し出してきたとき、もう一つ尋ねてもいいでしょう。ここまで用意してもらったあとにも、私自身で決められることは、何が残っていますか。

原文と出典

この日本語版は、Non Dubitoの中国語散文の全文を底本に、日本語の読者へ向けて独立に書き直しています。『荘子』全体の翻訳ではなく、古文の引用もここでは内容を日本語で述べ直したものです。もとの中国語ページには古文を残してあります。既存の英語版も独立に執筆され、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。現代の出来事とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は、この随筆の著者の読みであり、古典に別の事実が書かれているという意味ではありません。

原文と読み方について

原文と読み方:「養生主」。

中国語ページには古文の引用をそのまま残しています。既存の英語の叙述は、この版のために独立に書き直したものです。この日本語版では、引用の内容を日本語で述べ直しています。現代の事例とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は著者の読みであり、原文にそうした出来事まで書かれているという意味ではありません。

参照する注釈書:『荘子集釈』「養生主」 / 林希逸『荘子口義』。