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Non Dubito

大知が読む『荘子』 · 第5篇

帰ってきた彼と、人々は席を取り合った――陽子居の変化

丁寧にもてなされるあいだには、見えない隔たりがあります。

Han Qin ·

『荘子』寓言篇の最後の一節です。

陽子居は南の沛へ、老聃は西の秦へ向かい、郊外で会う約束をして、梁で老子に出会った。途中で老子は空を仰いで嘆いた。「初めはお前には教えが通じると思ったが、いまはそう思わぬ」。陽子居は答えなかった。宿に着くと、洗い水や手拭い、櫛を差し出し、戸外で履物を脱ぎ、膝で進んで言った。「先ほどもお尋ねしたかったのですが、先生は道中でお暇がなく、控えておりました。いまはお暇になりました。私の過ちは何でしょう」。老子は言った。「その高ぶった様子で、誰がお前と共にいられるのか。真に白いものは汚れたように見え、豊かな徳は足りないように見える」。陽子居は、はっと顔色を変え、「謹んで承りました」と言った。 行きには、宿の人々は迎え送り、主人は席を持ち、妻は手拭いと櫛を持ち、客は席を譲り、火に当たる者はかまどを避けた。帰りには、宿の客たちは彼と席を取り合った。

陽子居は南の沛へ、老聃は西の秦へ旅をし、郊外で待ち合わせ、梁で会います。老子は道の途中で空を仰ぎ、初めはこの者には教えが通じると思ったが、いまはそう思えない、と嘆きました。陽子居は言い返しません。宿へ着くと洗面の道具を用意し、靴を外に脱ぎ、膝で進んで尋ねます。先ほどから聞きたかったが、道中のお忙しいときなので控えた。いま、どこが悪かったのか教えてほしい、と。老子は、高ぶり、得意げなその様子では誰が近くにいられるのか、真に白いものは汚れて見え、徳の豊かなものは足りなく見える、と言います。

陽子居は顔色を変えて、「謹んで承りました」と答えます。行きには、宿の人々が迎え送り、主人は敷物を、女主人は手拭いと櫛を持ち、客は彼を見て席を立ち、火に当たっていた人も場所を空けました。帰りには――客たちは、彼と席を取り合うようになっていました。

一 親しくなった、ご褒美をもらった、ではない

よくある読みは、謙虚になったから皆に親しまれた、というものです。でも、席を取り合うことは、親しさそのものでも、ご褒美でもありません。遠慮のない振る舞いです。謙虚なら人気者になる話なら、皆がいっそう熱心にもてなし、周りに集まり、先に座ってもらう結末にすればよかった。書かれているのは、その逆です。人々は席を取り合い始めます。変化を示す証拠は、人が彼に遠慮しなくなったことでした。ここに仕掛けがあります。涵育がうまくいったしるしは、相手が尊敬を手に入れたことではなく、人との隔たりがなくなったことなのです。

隔たりは、皆が丁寧にしているあいだには見えません。遠慮しなくなって初めて、前にはあったのだと見えてきます。

二 行きの、五つの動き

行きの描写には、五つの動きがあります。宿の人が迎え送る。主人が敷物を持つ。女主人が手拭いと櫛を持つ。客が席を空ける。火に当たる人まで、かまどを避ける。最後がいちばん重い。前の四つなら礼儀とも言えますが、火を避けるのは、それだけではありません。いま暖まっていた人が、彼のために火から離れるのです。これは敬意ではなく、道を空けることです。行きに描かれるのは、豪華な待遇ではなく、一部屋の人々が一人を中心に、自分の位置を動かし直す光景でした。

彼が入るだけで、皆の座り方が変わる。それが、老子の「誰がお前と共にいられるのか」です。人々が彼を好きか嫌いか、原文は語りません。見えるのは、丁重な動作です。皆が譲り、同じ部屋に対等に居合わせる人がいないのです。

三 老子は、言葉を置いて止まった

老子の働きかけを見てみましょう。ここは、この話から学びたいところです。まず、「お前には教えが通じると思ったが、いまはそう思わぬ」と、道の途中で問題を差し出し、その先を言いません。道中から宿まで、語りには間が置かれます。改善項目の一覧を、すぐ渡すことはしない。周到に計画された教育上のテストと断定する必要はありません。見るのは、その次に誰が話し始めるかです。次には、相手が来るのを待つ。陽子居の方が洗面の道具を用意し、戸外で履物を脱ぎ、膝で進んで、「過ちは何でしょう」と尋ねます。教えは自分から押しかけず、求められて来た。そして、要所に触れたら止まります。

「高ぶった様子で、誰がお前と共にいられるのか。真に白いものは汚れて見え、豊かな徳は足りなく見える」。それで終わりです。どの振る舞いがどう高ぶっていたか、直し方も道理の説明も示しません。第1篇と並べると、儵と忽は違いを見つけ、埋めるべき欠陥にして、七日間、一日に一つ穴を開けました。老子は陽子居の姿勢を見て、ひと言を差し出し、その先を本人に残します。変わりうるところを見たのは同じでも、その後の動きが違う。違いは優しさではなく、働きかけたあとに、本人のすることを残したかどうかです。

どう変えるか、どんな姿になるか、何をもって変われたとするか。その大きな部分を、老子は一つも埋めませんでした。ただ、鏡を一度持ち上げたのです。

四 答えなかった、その先へ

最初の「陽子居は答えなかった」へ戻ります。いきなり「お前は無理だ」と言われ、言い返さなかった。それが、この話の入口です。ただし、答えないという一事だけでは、何を思ったかはわかりません。その後、自分から尋ねたことで、その言葉は言い返して終わりにはされず、彼の中に残ったと見えてきます。不当な批判を問い返すことも、もちろんできます。無条件に教えを受けよと要求する話ではありません。第3篇の河伯にもつながります。海を見て自分の至らなさを認めると、若が「あなたとは大きな道理を語れる」と言う。気づくことが先で、語り合えることが後でした。

陽子居が答えなかった瞬間は、彼にとっての海との出会いです。河伯が海に出会ったのに対し、こちらは一つの言葉に出会った。北海まで出かけなくても、ひと言で、見たくなかった自分を見ることがあります。

五 席を取り合える、という変化

最後の「帰りには客たちが彼と席を取り合った」を見ましょう。行きは譲り、帰りは取り合う。語りは二つを並べ、他人の反応から本人の変化を見せます。以前は迎え、譲り、火から離れた人々が、いまは席を争う。この動作には、同じ一人の人だという前提があります。道を空けなければならない相手とは、席を取り合いません。説明はなくても、それで伝わります。彼が来ると皆が位置を変え直さねばならなかった、あの何かがなくなったのです。

結末は、この光景だけです。道を得たとも、その後どうなったとも書かず、評言を一つも添えない。席を取り合う光景を渡され、あとは読者が自分で受け取ります。

六 会議室の中にもある

第4篇では、成功したあと、真剣に議論してくれる人が減る危うさを考えました。陽子居は、働きかけを受ける前の、その人の姿に似ています。その人が会議室に入ると、周りの声が少し小さくなる。それが、客が席を譲るということです。話し終えても反論は続かない。言おうとしていたことを、別の言い方にする人がいる。言い合っていた二人がやめる。善意も、警戒もありえます。丁寧さだけで本音は判断できません。でも、言いかけたことを引っ込めたという動きは、見られます。

火の前から離れることの現代の形は、進めていた仕事を、彼がいるのでいったん止め、意見を待つことです。悪人がいなければ起こらないわけではありません。誰もが礼儀を尽くしたつもりでも、皆が一緒に退くと、普通に接してもらえない人が一人残る。中心の本人には、たいてい正常に見えるでしょう。協力、尊重、効率は見える。でも、もう席を取り合う人がいないことは見えない。ここでも第4篇の結論へ戻らなければなりません。宣言では解決しないのです。

「遠慮しないで」「自由に反論して」。これも、部屋でいちばん発言力のある人が、会話の進め方を決める言葉です。役に立つことはあります。ただし、その後で本当に反対を受け入れられるなら、です。言ったそばから異論を全部訂正すれば、招きも別の命令になります。物語は、陽子居が何か宣言したとも、これからは席を取り合えと命じたとも書きません。変わったのは、皆が彼を中心に自分を動かし直さずに済むようになったことです。ここで得られるのは方法ではなく、見て確かめる目印です。

他人が自分にどれほど遠慮せずにいられるかを見る。ただし、何でも譲らなくてよいということであって、侮辱や加害を我慢せよということではありません。対等に接することにも、尊重は必要です。

七 今度、聞いているのは読者

いつものように聞き手を見ると、今回は読者です。この話は寓言篇の最後にあります。篇の最初では、寓言をどう使うか、重言とは何か、卮言とは何か、道理を説明します。冒頭で寓言を使えと述べ、末尾で一つの見事な寓言を実演する。一つの篇の片側に論、片側に見本がある。二つを並べれば、教訓を説くことと寓言の違いは、読者が自分で味わえます。そして、この話が読者にすることは、老子が陽子居にしたことと同じなのです。

指摘を受け、教えを聞き、変わり、人々の中へ戻るまでを追ううちに、どこかの部屋へ自分が入ったときの、皆の座り方がふと浮かぶかもしれません。誰もあなたを指さしていない。席を取り合う光景が、あなたに触れるのです。道理を教え込むのではなく、自分を一度映してみせるのです。

八 読者へ

この物差しを当てられる場所を、三つ挙げます。

第一に、面と向かって駄目だと言われたとき、その次に何と言いましたか。説明したかどうかよりも、その言葉を真剣に考える機会を残したかを見てみます。

第二に、あなたが部屋へ入ると、他人の動きは変わりますか。親切にしてくれるかではなく、自分の位置を動かし直さねばならないかです。火に当たる人が、かまどを離れたように。

第三に、あなたに遠慮しない人は、どれくらい残っていますか。席を取り合う人が減ったからといって、敬意が増したとは限りません。隔たりが厚くなったのかもしれないのです。

九 最後の一打を、代わりに打たなかった

最後は、書き方そのものを見たいと思います。結論を一行添えることもできました。「これが『真に白いものは汚れて見える』ということだ」。そう足せば、整ってわかりやすく、引用もしやすい。でも、書き足されていません。私が気になるのは、余白が美しいかではなく、判断する場所が誰に残るかです。この結末に断定をもう一つ足せば、読者が自分で見分ける一歩を、占めてしまいかねない。席を取り合う光景から、「彼は変われた」と判断するまでには一歩ある。その一歩は、読者が自分で歩くほかありません。

もし「これが『真に白いものは汚れて見える』ということだ」と書けば、その一歩も代わりに済ませてしまいます。結論は知っても、そこへ至る過程は通らない。結論は伝えられても、変化そのものは渡せません。一言で結論を渡すことと、それがなぜ成り立つかを自分で見分けることの間には、なお距離があります。言い明かすとは、単に多く話すことではなく、読者自身が言うはずだった唯一の言葉を奪う場合がある。文章で余項を残すとは、この判断の瞬間を残すことです。それは、老子が陽子居にしたこととも重なります。

老子は直し方を言わず、荘子は「彼は変われた」と告げない。一人は変わり方を陽子居へ、一人は結論を読者へ残す。同じ節度を、物語の中と外で二度守っています。私も書き方を見分けるとき、ここを見ます。ただし、読みの手掛かりであって、著者の身元を保証する印ではありません。場面、用語、人物はまねでき、よいところで筆を止めることも学べます。結末が見事だから、荘周本人にしか書けなかった、と決めることはできません。話せるのは、その結末が読者にどれだけ動ける余地を残すかです。

同じように、解説が必ず判断を奪うわけでもありません。証拠を見やすくする説明と、答えは一つと宣言することは別です。解説を選ぶ連載だからこそ、説明の境界を紙の上に残さねばならない。どの篇も、その問いを免れません。前の四篇の物差しは、他者への接し方を問いました。今回は前の篇と同じく、自分への問いです。最後に、人から遠慮なく接されたのは、いつでしたか。

原文と出典

この日本語版は、Non Dubitoの中国語散文の全文を底本に、日本語の読者へ向けて独立に書き直しています。『荘子』全体の翻訳ではなく、古文の引用もここでは内容を日本語で述べ直したものです。もとの中国語ページには古文を残してあります。既存の英語版も独立に執筆され、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。現代の出来事とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は、この随筆の著者の読みであり、古典に別の事実が書かれているという意味ではありません。

原文と読み方について

原文と読み方:寓言篇。

中国語ページには古文の引用が残っています。既存の英語の語りは、この版のために独立に書かれたものです。この日本語版では引用の内容を日本語で述べ直しています。現代とのたとえや、そこから先の考察は著者による読みであり、原典に別の出来事が記されているという意味ではありません。