価値と他者
窓を直した友人
友人が古い家の窓を直すことを長年大切にしてきた。その理由を私はかなり知っている。父に教わった技術、ある冬の記憶、家への愛着。しかし、それらを全部知っても、その価値を私が作ったことにはならない。友人が自分の側で引き受けたから、それは友人の価値である。
この関係を貫く線は二文で言える。他者の価値は私の価値ではない。他者が自分の価値を持ちうること、そしてそれを与える権限が私にはないことは、私が引き受ける価値になりうる。後の文は前の文を対象にするが、前の事実を作り出さない。
読み尽くせず、比べられず、合体しない
二十年の友情があっても、他者の第一人称を「読み終えた」とは言えない。同じ行動から複数の構成史が可能であり、他者自身も問い直し続けるからである。理解が深まることと、最終判決を持つことは別である。
二人の価値地位を外部の一つの量に換算することもできない。また、同じ川を守り、同じ計画を進めても、行為の共同性が価値源泉の合体を意味するわけではない。共同の仕事は現実に共同であり、それぞれの根はそれぞれに残る。
共鳴は共通尺度ではない
窓が直ったとき、私は修理以上のものを見ることがある。「これは友人の側から出た、友人自身の大切なものだ」と認める。友人も私の仕事を同じように認めるなら、そこに共鳴が起こる。共鳴は同じ内容を持つことでも、一つの価値に融合することでもない。二つの根が二つのまま互いを目的として見る出来事である。
15DDは、具体的な他者も目的であることを疑わず、相手の価値を自分が授与するものとしない立場である。一度の共同案は、二人の15DDが交差する瞬間になりうるが、それだけで16DDではない。16DDは、二人があらゆる事柄において互いを目的として疑わないという極限であり、個体の視点から完全には到達確認できない。
共同で監査できること
他者の内面を確定できなくても、二人は関係の条件を共に監査できる。否定が否定として届くか、候補を語る道が塞がれていないか、撤回や退出が実際に可能か。これは心の読みではなく、関係構造の点検である。
まだ現れていない未来の他者へ本や制度を残すこともできる。そこでは具体的な相手との共鳴はまだない。それでも「現れるなら、その者も自分の価値を持ちうる」という場所を空けておくことはできる。他者への開きは、他者を先回りして定義しないことから始まる。