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Non Dubito

SAE基礎・入門の橋渡し · 補論

余項は、どうして「私の余項」になるのか

余項があるだけでは、主体にはならない。間に足りないのは、さらに高い複雑さではない。残った部分を、誰が自分のものとして引き受け始めるのか、ということだ。

Han Qin ·

石も、説明には収まりきらない

硬い、灰色、幅十センチ。石をそう説明しても、まだ多くが抜ける。その石の歴史のすべて、内部の小さな亀裂、別の機器なら何を測れるか、百年の風雨の後どうなるか。SAEの言葉では、どんな「構」も余項を残す。ただ、それだけで石が主体になるわけではない。

ソフトウェアも同じだ。非常に複雑で、たびたび人を驚かせ、正確には予測しにくいシステムでも、それだけでは扱いきれなかった部分がシステム自身のものとは言えない。予測不能はまず観察する側のモデルの限界を示す。主体には、もう一つ別の構造の層が必要になる。

残ったものが、本人の歴史へ入る

主体は説明されるだけでなく、自分についての説明に出会う。その説明を受け入れ、拒み、ずっとその中で生きてきたと気づき、あるいは食い違いを出発点に次の一歩を変えられる。余項は観察者の側にだけ残るのでなく、説明される本人の歴史へ入る。

「私の余項」は、見える人の後ろへ隠れた神秘的な実体ではない。自分の問いとして引き継ぎうる隙間だ。この説明は私のものか。何を取りこぼしているか。ここから続けるか、拒むか、もう一度切り分け直すか。

決め手は「誰にも私を説明し尽くせない」ことではなく、「私を説明しようとするどの構に対しても、私は自分の立場を持ちうる」ことだ。

作者であることは、すべてを支配することではない

この立場を作者と呼んでも、無から自分を作るという意味ではない。身体、家族、言語、制度、運、暴力も、何ができるかを形づくる。拒否が毎回成功するという意味でもない。行動の余地をほとんど奪われた囚人も、なお主体だ。

作者という立場が言うのは、続け、拒み、書き換えることを、その主体自身の行為として数えられることだけだ。条件によってその場所が一点近くまで圧縮されることも、他者や制度が再び開くのを助けることもある。ただ、助ける側が作者の仕事を代わりに完了すれば、主体を回復させる名の下に、その主体を置き換えてしまう。

なぜ、ここから「主体は目的である」へ進むのか

道具が予想外の動きをすれば、その余項は普通、工学の課題になる。モデルを改め、設計し直し、誤差を抑える。主体が役割からはみ出す時、そこに現れるのは判断、拒否、方向かもしれず、その作者は本人だ。雑音として消すのは、不完全な説明を改善するだけではない。本人が自分の生へ答える場所を削除している。

だから「主体は目的である」というのは、まず構造を認めることであり、そこから倫理上の要請になる。主体の決定がすべて正しいという意味ではない。批判は作者でありうる相手へ向かわねばならず、他人の目的を実現する材料へ書き換えてはいけない、ということだ。

四つの番地

13DD 自我主体が現れ、余項を「私の余項」として数えられるようになる。

14DD 主体が自分の方向を形づくり、引き受け、自己目的的な主体となる。

15DD 主体が「他者もまた目的である」ことを疑わない。一方からの不疑はここで起きる。

16DD 双方がすべての事柄にわたって、相手が目的であることを疑わない。有限な主体にとって、物自体のように位置する関係の極限である。一つの具体的な事柄で向かい合う二つの15DDの瞬間は、まだ16DDではない。

Non dubito は、だから「私は問い直されてはいけない」ではない。「主体は目的である」ことへの不疑と、揺るがなさだ。あなたの判断には反論できる。それでも、最終的に自分の生へ自分で答えねばならない、その人としての地位を取り消すことはできない。

中国語の底本と読む範囲

既存の中国語の入門橋渡し篇を底本として、日本語で独立して書き直した。新たな主体性の定義を提示する文章ではない。石とソフトウェアの違い、作者の立場は完全な制御ではないこと、囚人も主体であること、13DD〜16DDの元の範囲を保つ。出典リンクは中国語の底本へ通じる。完全な論証を読みたい場合は、その元ページの理論深掘りへの入口から先へ進める。

中国語の底本 ↗