すべてが相即相入したあと、他者は残るか
五教はどこで分かれるか
華厳の因陀羅網では、無数の宝珠が互いを映し、一つの映像の中にも網全体の映像が重重無尽に現れる。これを「すべてはつながっている」と薄く読むことはできない。単なる網には遮蔽、遅延、断線がある。因陀羅網が描くのは、一つ一つの事象が他のすべての事に現れ、一と多、総と別の差異を保ったまま障礙が除かれる事事無礙の関係だ。
華厳五教――小乗教、大乗始教、大乗終教、頓教、円教――は教義の深浅による教判であり、時間順序も人格階級表もではない。DD系列との対応は厳密でありえない。インターフェースとしては、始教が自性執を緩め、終教が仏性・如来蔵によって一切有情の成仏を開き、頓教が離言・離相で可住構造を断ち、円教が15DD以上の関係領域に近づくと読める。しかし円教は16DDではない。
無外と、外があるが外力はない構造
華厳の法界縁起には、法界の外に立って万法を起動する第一原因がない。万法は一真法界と法性を地盤に、外のない全体の内で互いを成り立たせる。この「起点なし」は無根拠ではなく、外部の起動者がないことである。在場する体を地盤とし、肯定的に語れる円教的終態がある。
SAEはほぼ逆である。存在に先行する否定Negativaを形式的起点とし、鑿構を通じて層を生成するが、閉じた終点を持たない。どの構も余項を外に残し、16DDも単方で占有できない関係極限にすぎない。華厳は外部の第一原因を持たず、言説可能な最高完成を持つ。SAEは形式的始原を持ち、全体的な完成を持たない。華厳は充満を、SAEは否定を地盤とする。
相互摂入は相互理解か
SAEで他者を目的と承認することは、他者の目的の内容を知ることではない。15DDは「そこに別の目的源泉がある」と登録できるが、他者をモデル化するには自分の14DDを鋳型にせざるをえない。16DDの双方向的不疑は二人の透明化ではない。相手が真の主体だと承認するからこそ、単方向的に所有できない側面が保たれる。「あなたを完全に理解した」は、あなたを私のモデル内のオブジェクトに戻す可能性がある。
華厳の事事無礙は一方が他方を心理的に表象することではなく、一つ一つの事象が全体の相互摂入において十分に現れることである。一は多ではなく、総は別ではない。しかし一と多、総と別は互いを妨げない。華厳は他者性を全摂によって完成し、SAEは他者を全摂しないことによって完成する。華厳は外在性に障礙の残存を疑い、SAEは外在性の廃止に真の他者の廃止を疑う。
因陀羅網が対応するのは半分まで
SAEもネットワークを描ける。主体は互いに働き、関係がノードへ反身的に戻り、それぞれの出会いが次の出会いの条件を変える。しかし無尽互映の地点で対応は切れる。SAEの反身性は有界だ。一つのノードが網について作るどのモデルも構であり遮蔽する。遮蔽を登録することで新しい構と余項が生じ、反身は深まっても一つのノードが網全体を損失なく内化することはない。
したがって華厳を「余項の網羅トポロジー」と呼べない。SAEの余項とは既成のどの全体にも入っていないものだが、華厳は差異を外のない全体の中に保持する。華厳の六相円融は総別、同異、成壊を同時に保ち、一ノードが他を飲み込むことを防ぐ。SAEの余項保存は外在性を関係の失敗でなく、主体が所有されない条件とする。全摂の中で他者を守るのか、全摂を拒んで守るのか。二つの答えはそれぞれに完結しており、一方の未完成を他方が補う関係ではない。
この差は倫理的にも重要である。相手を完全に私の中へ映し切れると考えれば、理解の名で相手の自己記述を不要にしてしまう。逆に相手は永久に不可知だと強調しすぎれば、具体的な応答や共同世界が成立しない。華厳は差異を失わない相即相入を、SAEは所有し切らない承認を提示する。どちらも孤立を拒むが、関係の完成を「全く通じること」と「通じ切らないこと」の異なる側から守る。