Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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066 / 108 · 生のあとに残る仕事

ラマヌジャン――夢

馴染みのある経歴に支えられていない手紙が、どう二人の仕事になったのか。インドの支援者、夢と証明、一七二九の次の問い。ラマヌジャンは驚くべき答えとともに、他の人が考え始められる場所を残した。

I. この結果を見ていただけませんか

一九一三年一月十六日、マドラス港務局の事務員が、ケンブリッジの数学者ハーディに手紙を書いた。まず給料や学歴、自分の暮らしについて述べ、そのあとに数学の結果がびっしりと並ぶ。完成した論文のように、読者がたどる道筋が整えられているわけではない。遠い場所にいる誰かが、どうか一度、きちんと見てほしいと頼んでいた。

シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、二十五歳になったばかりだった。手紙では自分を二十三歳くらいと記しているが、大学の学位がなく、通常の数学教育を修了していないという事情は確かだった。紹介できる経歴と、紙の上で実際にしている仕事とのあいだには、大きな隔たりがあった。まだ読んでもらっていない仕事のために、どうやって相手の時間をもらえばよいのだろう。

ハーディとリトルウッドは、その紙面に並外れたものを見いだした。すでに知られた結果も、誤りも、条件を補う必要のある主張もあった。そのなかに、驚くほど独創的な関係が現れる。出来上がった宝物に認定印を押せばよいのではない。入っていく価値のある場所だった。誤りを見抜きながら、誤りだけで残りを見えなくしない判断が求められた。

ハーディが後年語った驚きは有名になった。しかし、ラマヌジャンの生活を変えたのは、その驚きが行動になったことだった。返事を書き、質問し、証明を求め、仕事を続けられる条件を整えるためにも動いた。手紙が海を渡って戻ってくる。受け取った人は、自分の数学に次の会話があると知ることができた。

見知らぬ差出人の封筒が机の上に置かれている。その光景は想像しやすい。そこから先の一つの動作が、どれほど大きな違いを生むかは見えにくい。慣れない書き方や経歴だけで分類されれば、中身に目が届かないこともある。ハーディは数学を読んだ。インドですでにラマヌジャンを支えていた人々にも、努力をつなぐ新しい相手ができた。

ただし、ケンブリッジへ行くには返事一通では足りなかった。費用、家族の心配、海を渡る準備には、時間と周囲の働きが必要だった。数学なら数枚の紙で遠くへ届く。人間には船賃も食事も説明も要る。残る家族の暮らしも続いていかなければならない。招待状は、そのすべてを自動的に解決する紙ではなかった。

この手紙の意味には、天才の発見よりも日常に近い出来事が含まれている。差し出したものに、返事が来た。ラマヌジャンは、自分がしてきたことを示した。相手は、まず馴染みのある応募者の姿になれと要求せずに、それを読んだ。違いが全部片づく前に、会話が始まってよかったのである。

II. 紙が旅立つ前に

ラマヌジャンは一八八七年十二月二十二日、南インドのエロードに生まれ、クンバコナムで育った。父は布地商のもとで働き、家計には余裕がなかった。学校からカレッジへ進んだものの、数学以外の科目でつまずき、奨学金を失い、学位を得なかった。一つのことが抜群にできても、それだけで生活全体が順調に組み上がるわけではない。

十代のとき、G・S・カーの数学書『純粋数学における初等的結果の要覧』に出会った。多くの結果が、短い説明とともに詰め込まれた本だった。式を変形し、計算し、予想し、別のつながりを探すための広大な土地が開ける。後年のノートの簡潔な書き方にも、こうした読書と試行の時間がつながっていた。

独学という言葉のなかにも、その時間を残しておきたい。本を読み、大量に計算し、人を訪ね、インド数学会の雑誌に寄稿した。一九一一年にはベルヌーイ数についての論文が掲載されている。英国への手紙で、数学者としての人生が突然始まったのではない。すでに続いていた仕事に、もっと場所がほしかったのである。

ラーマチャンドラ・ラーオらは、実際の生活を支えた。港務局のナーラーヤナ・アイヤルとは数学を話し、友人たちは紹介や推薦を重ねて機会を探した。ノートのすべてが理解できる人ばかりではなかった。それでも、時間と信頼を差し出す人がいた。有名な出会いよりずっと前から、仕事の存続はこうした小さな応答にかかっていた。

貧しさは、計算の仕方にも現れる。まず何度も使える石板に書き、残したい結果を紙に移す。石板は消せばまた使えるが、紙は節約しなければならない。最後に残った式だけでは、その周囲にどんな手順があったかまではわからない。考えたことのどの部分が後世に届くかを、道具や材料も左右している。

やがてマドラス大学の研究奨学金が、より安定した時間をもたらした。ここでお金がすることは、具体的だった。帳簿をつけずに済む午後をつくり、夜まで待たずに一つの問題に向き合えるようにする。研究の自由はときに、日々の生活費をまかなえる仕組みから始まる。大きな理念の前に、今日の時間がある。

植民地と帝国の中心との距離は、こうした場面で具体的になる。図書館も承認も、そこへ至る入口も、均等には置かれていなかった。ラマヌジャンにはインドでの仕事と支援者があり、ケンブリッジには新しい重要な機会があった。後の出会いを大切にすることと、それまでの道を消さないことは、両立する。

III. 夢には夢の言葉がある

ラマヌジャンの家族は、ヴィシュヌの化身ナラシンハにゆかりのある女神ナーマギリを信仰していた。女神が数学を示した、夢のなかに式が現れたという話は、回想や伝記に繰り返し登場する。そこには、考えがやってくる瞬間を本人や家族がどのように受け止めたかという、経験の言葉も含まれている。

渡航への家族のためらいには、海を越えることを禁じる宗教やカーストの規範も関わっていた。伝記では、母がナーマギリの許しを夢で受け取り、出発を認めたと語られる。その家族の語りは、語りとして受け止められる。旅立ちを許すという行為にも、その家の人々に通じる言葉が必要なことがある。

一九一四年三月に船に乗り、四月に英国へ着いた。ノートと一緒に、食習慣も信仰も、故郷の人々への心配も移動した。知らない土地を本当に知らない場所にするのは、小さな不確かさの積み重ねでもある。大学からの招待だけでは、毎日の食事、冬の朝、一人の夕方をどう過ごせばよいかまではわからない。

夢が聞かれるに値するのは、その人の経験だからである。一方、ある数学的結果が成り立つかどうかには、数学的な理由が要る。経験を大切にする理由を、誰もが一種類の言葉で述べる必要はない。この二つを分けておくと、すべてを笑い飛ばすよりも、すべてを無条件に信じるよりも、話せることが増える。

ハーディの宗教的立場は、ラマヌジャンとは異なっていた。それでも二人は、式を間に置き、その条件や計算や証明を調べることができた。共同の仕事のために、相手の世界観全体を自分のものにする必要はなかった。ある問いを一緒に考えるあいだ、どの違いを残してよいか。それがわかることも、協力の力になる。

夢の一部は、閉じずに置いておける。神のお墨付きも、直感という一語も、一人の人生を説明し尽くさない。読書、反復する計算、記憶、急に見えるようになる関係も、同じ来歴に含まれる。経験に名前をつければ、話し始めることはできる。その名前のなかに、経験を生んだすべてを押し込める必要はない。

IV. 机を挟んだ二人

一九一四年のケンブリッジには、深く議論できる同僚、本、研究の時間があった。ラマヌジャンはハーディと協力し、単独でも論文を発表した。そこで大きく発展した仕事がある。同時に、彼はすでに自分の問いと方法を持って来ていた。それによって、机の向こう側に座る人の仕事も変わった。交流は一方向ではなかった。

二人は整数の分割を研究した。正の整数を、順序の違いを数えずに、正の整数の和として何通りに表せるだろう。四なら、四、三と一、二と二、二と一と一、一が四つの五通りとなる。最初は指で数えられる問いが、数を大きくすると、簡単には書き並べられない規模へ育っていく。

ハーディとラマヌジャンは、この分割数の増え方を捉える強力な方法を生み出した。これは二人による数学の創造だった。着想が方向を開き、評価や導出や証明が、他の読者もそこを歩けるようにする。一人が永久にひらめき係、もう一人が確認係なのではない。具体的な問題のなかで能力が出会い、できることそのものが変わった。

証明を、未来の読者へ向けた行為として考えてみる。自分の記憶も信仰も、あの瞬間のひらめきも持たない人が、どうすれば同じ結果を自分で確かめられるか。手順を示せば、その人は天才の名前だけを信じなくてよくなる。異論にも場所ができる。ここからここへの一歩は成り立たない、と具体的に話せるのである。

ラマヌジャン自身も結果を導き、証明を行った。ノートに途中の記述がないことは、推論がなかった証拠にはならない。正しい主張もあれば、修正や条件の限定が必要なものもある。そのことによって、彼の仕事は、学び、確かめ、間違えることのできる人間の世界に属している。無謬でなくても、その輝きは十分に大きい。

やがて戦争が英国の日常を変えた。菜食のための食材、自炊、物資の不足、故郷との距離が、暮らしを難しくした。一九一七年に重い病気になり、療養の時間が長くなる。研究の機会が良くなっても、体や食事や孤独が自動的に整うわけではない。共同研究の机の外には、具体的に気にかけなければならない生活が残っていた。

一九一八年、王立協会のフェローに、そしてトリニティ・カレッジのフェローに選ばれた。評価は学問上の立場を変えたが、病室の日常にはなお世話が必要だった。結果を高く評価する制度は、それを持って来る人の迎え方も学ばなければならない。そこに来るのは、発想の供給源だけではなく、体も習慣も弱さもある人間である。

V. 一七二九のあとにも、問いがある

ハーディは、パトニーで療養していたラマヌジャンを訪ねたときのことを回想している。乗って来たタクシーの番号は一七二九。あまり面白くない数だと言うと、ラマヌジャンはすぐにその特徴を指摘した。訪ねた側の記憶を通して伝わる場面である。天才の象徴にする前に、二人が一緒に過ごした時間として読むこともできる。

一七二九は、二つの正の整数の三乗の和として、異なる二通りに表せる最小の正の整数である。一の三乗と十二の三乗、九の三乗と十の三乗。片方は一と一七二八、もう片方は七二九と一〇〇〇になる。和が同じことは計算で確かめられる。最小であることには、より小さい候補を除く作業も必要になる。

回想は、鮮やかな答えだけでは終わらない。ハーディは続けて、四乗ではどうかと聞いた。ラマヌジャンは考え、すぐにわかる例は思いつかず、最初の数はかなり大きいだろうと答えた。瞬時に特別な関係がわかる人にも、わからないことがある。その場所から会話を続けても、誰の価値も減らない。

正の整数はラマヌジャンの親しい友人だという比喩を、ハーディはリトルウッドの言葉として紹介した。長く知っている顔には、通りすがりの人には見えない違いが見える。数の組合せに繰り返し触れていれば、そこにも見分けられる可能性が増えていく。この比喩は、数字を文字通り人間にしなくても、その親密さを伝えている。

親しさには、才能とともに仕事がある。ハーディは、大量の計算、例からの推測、仮説の素早い修正についても書いている。答えが速いことの背後には、長く注意を向けた時間があるかもしれない。口を開く瞬間に過程が見えないからといって、その答えを準備した過程が存在しなかったことにはならない。

タクシーの話は、意外な数の関係と、知らないままでいてもよい会話の両方を残せる。どんな問いにも即答しなければラマヌジャンでいられないとしたら、私たちは彼を自分たちの伝説に閉じ込めてしまう。皆が知っている答えの隣に、彼の次の問いのための場所もあってよい。

VI. 見えることと、伝えられることのあいだ

カントールも、慣れた世界に思いがけない深さを開いた。厳密な議論によって無限の大きさを区別したカントールと、級数、連分数、分割、関数の関係を見いだしたラマヌジャン。どちらが多く見たかを競っても、得られるものは少ない。異なる道具を用いながら、二人とも他の人が問える数学の範囲を変えた。

二人の病気を、見すぎた者が払う代金としてまとめることはできない。思想や数学の大胆さは、医学的な説明ではない。天才には苦しみが当然だと語れば、治療や支援や生活環境は、ため息を誘う背景になってしまう。仕事は理解されるに値し、病気は病気として気にかけられるに値する。

ファラデーとマクスウェルにも、仕事を受け取り、先へ進める関係があった。ファラデーにはすでに実験と理論的な考えがあり、マクスウェルは新しい関係や表現を発展させた。ハーディとラマヌジャンの机でも、両側で考えることが起きていた。異なる経験や得意な仕事が、それぞれに見えることと差し出せることを変えていた。

ジャンヌ・ダルクと並べて読むと、二つの問いが見えてくる。声や幻をどう語るかと、その人の主張を他の人がどう確かめるかは同じではない。経験を尊重しながら、判断には問いを向けられる。誰かの話を聞くために、嘲ることも、自分の判断を捨てることも必要ない。両方の問いを置ける会話がある。

ワイルドとラマヌジャンは、帝国の中心にある入口の狭さを考えさせる。ただし、同じ運命ではない。ワイルドは刑罰を受けた。ラマヌジャンは重要な協力と評価を得る一方、戦争、病気、生活上の困難を抱えた。似ている点は問いを生み、違う点は、その人を用意済みの図式から守ってくれる。

ある方向に気づいてから、それを明らかに示すまでのあいだには、共同の仕事の場所がある。一人が模様を提案し、別の人が反例を挙げる。同じ人が、別のときには両方をすることもある。よい出会いは、できることを増やす。一人一人に、永久に一種類だけの心の役割を割り振るのではない。

VII. 帰った人と、生き続けた人

一九一九年、ラマヌジャンは重い病気を抱えたままインドへ戻った。ジャーナキが看護を助けた。病気については当時も後世も見方が分かれ、結核が考えられた一方、後の研究では肝アメーバ症の可能性も示された。残る記録から苦しみはわかっても、診断には不確かさがある。一世紀後の私たちに、新たな診察ができるわけではない。

一九〇九年に結婚したとき、ジャーナキはまだ子どもだった。当時の習慣だったとひと言添えるだけでは、その事実を受け止めたことにならない。また、帰る夫を待つ妻という一枚の絵だけで、彼女の生涯を埋めることもできない。彼女には年齢があり、事情があり、夫の死後にも長い人生があった。

後年、研究者たちは彼女から写真や思い出を得て、ラマヌジャンの姿を残すことができた。生き続けた人が記憶を運んでいたのであって、伝説が自分で記録を保存したのではない。今も誰かの顔が見えることは、別の誰かが覚え、取っておき、渡してくれたことに支えられている。

一九二〇年一月、ラマヌジャンは、モック・テータ関数と名づけた新しい対象についてハーディに手紙を書いた。用語がわからなくても、その動作はわかる。まだ関係を見つけていて、遠くの人に知らせたかった。病気は関心まで奪っていなかった。ただし、仕事を続けることは彼のしたことであり、名声が課す最後の義務ではない。

四月二十六日、三十二歳で亡くなった。紙には、まだ十分に理解されていない仕事が残った。業績の隣に置かれた年齢は痛ましい。しかし最初に失われたのは、一人の人生である。あと何個の定理が得られたはずか、という計算だけではない。結果を一つも残さない、普通の一日をもっと生きることもできたはずだった。

帰郷は病気を取り消さず、名誉は看護の代わりをしなかった。後の人は紙を守り、読み、研究しながら、紙に収まらない人を覚えていられる。数学を先へ運ぶために、病床を祭壇にする必要はない。そばにいた別の人の長い余生も、物語の終わりの外に置き去りにしなくてよい。

VIII. ノートのその後の人生

一九七六年、トリニティ・カレッジ図書館で資料を調べていたジョージ・アンドリュースは、ラマヌジャンの晩年の紙葉の重要性に気づいた。「失われたノート」と呼ばれるものだった。それまで誰も触れなかった神秘的な遺物ではない。ほかの数学者が調べ、保存し、整理し、移した材料が、改めて読まれる場所へ届いていた。

ワトソン、ランキン、ホイッタカーがその連なりにいる。アンドリュースの回想には、ルーシー・スレーターの案内も登場する。発見は、誰かの目が輝いた瞬間だけで出来ているのではない。紙を取っておいた人、保管場所へ運んだ人、関心を持ちそうな相手を知っていた人がいる。資料が読者を待てることにも、来歴がある。

アンドリュースやバーント、多くの協力者が、証明を探し、成立条件を調べ、既知の結果と新しい結果を分けていった。モック・テータ関数の理解も世代を越えて進み、二十一世紀初めには重要な新しい枠組みを得た。そのあいだ数学が百年間眠っていたのではない。続く仕事が、離れて見えた手がかりを大きな像につないだ。

残った式は、結果であると同時に問いにもなる。どんな条件で成り立つのか。似て見える式が、なぜ異なる振る舞いをするのか。さらに一般的な関係があるのか。後の研究は、家宝を磨くだけの仕事ではない。紙に書かれたものを、検討し、異議を述べ、育てられる現在の場へ戻す仕事でもある。

ラマヌジャンが考えに至った道を、すべて再現することはできない。石板の計算は消え、短いノートには手順の省略があり、回想にはそれぞれの視点がある。歴史の一部を不明のまま残しても、個々の結果は証明できる。発見の来歴についての慎みと、目の前の論証への厳密さは、一人のなかに同居できる。

「夢」という題に残しておけるのは、この距離かもしれない。完成した論文は、その人が問いに至った道の全体を代わりに生きてはくれない。それでも、見つけたことの一部は人に渡せる。同じ夢を見たことのない人も、作者の内面を丸ごと再現せずに、その仕事から先を考えることができる。

IX. 今度は、まだ消さないで

この第五楽章の、明らかに創作された橋の場面へ戻ろう。ラマヌジャンが石板を持って歩いてくる。長い道を来た人のために、誰かが机のそばを空ける。座って、荷物を置いてよい。服も体も、旅の疲れも、まだ考えている問いも、一緒にここへ着いたのである。

ファラデーの装置はそこにあり、マクスウェルの紙には書き直した跡がある。ラマヌジャンが石板を立て、関係を書き始める。一部がわかる人も、何もわからない人もいる。まだわからないことは、椅子を差し出せない理由にはならない。椅子を差し出すことも、すべての式が正しいという約束ではない。同じ机で、迎えることと確かめることができる。

ハーディが近づく。この連作で独立した番号のある人物ではなくても、創作の客として迎えてよい。文字を見て、ある手順を指す。ラマヌジャンが白墨を取り、一行を足す。どちらも問題を見つけられ、どちらも相手から、座る前には知らなかったことを学べる。机は、役割を固定する場所ではない。

カントールも自分の紙を寄せる。そこには、さらに検討される議論と問いが書かれている。無限を、皆の式の上へ掲げる必要はない。机は異なる問題を置けるだけ広い。それぞれが、理由の必要なところで理由を求める。一つを大切にしたからといって、ほかの問いの居場所がなくなるわけではない。

ジャンヌは声について、ラマヌジャンは夢について話してよい。ワイルドには、まだ言わないと決めた一文があってもよい。椅子と引き換えに、大切な経験の言葉を差し出す必要はない。結論に賛成しない人も、残って話せる。判断への異議が、その人自身の追放にならない場所である。

ジャーナキにも椅子がある。水を運ぶためだけでも、天才の証人になるためだけでもない。自分の人生を話しても、しばらく黙っていてもよい。チェーホフがまず、疲れている人はいないかと尋ねる。実際にいる人を気にかけるために会話を止めても、数学が机から消えてしまうことはない。

ラマヌジャンが、いつものように石板を消そうと手を上げる。誰かが白い紙を数枚差し出す。少し待って。その途中の行も残しておけるかもしれない。すべてを保存する必要はないけれど、少なくとも今の道筋は、紙が足りないためにすぐ消えなくてよい。材料の条件が、未来の会話に届くものを変えることがある。

彼はまた書き始める。ほかの人々は、頭のなかのすべてがどこから来たのかという完全な説明を求めずに待つ。今必要なのは、この一歩と、次の一歩を始められる場所だ。夢は彼自身のものであってよい。それでも紙は他の手へ渡り、一緒に調べられるものを運んでいく。

橋の灯りが、紙と石板を照らしている。見えるだけの光を受け取るために、全知の天才になる必要はない。ラマヌジャンは一行を書き終えて手を止める。今度は消えてしまう前に、もう一人が読む時間がある。

読書のための注記と出典

最初の手紙の日付は、ハーディが掲載した原信に従い一九一三年一月十六日とした。本人は約二十三歳と書くが、生年月日からは二十五歳である。学位を得なかったことと、カレッジに通わなかったことは異なる。一七二九と四乗についての続く問いはハーディの回想による。整数を親しい友人と呼ぶ比喩は、そこでリトルウッドに帰されている。ノートの証明省略は証明能力の欠如を意味せず、すべての記録が正しいわけでもない。女神と夢は家族や伝記の語りとして扱い、数学的真理の保証とはしない。

英国での重病はハーディの記述に従い一九一七年からとした。一九一八年の二つの選出、一九一九年の帰国、一九二〇年一月のモック・テータ関数の手紙と四月二十六日の死は別々の出来事である。Youngが一九九四年に示した肝アメーバ症説は回顧的な診断であり、本文では確定しない。「失われたノート」は晩年の散頁で、一九七六年以前にも保存と研究の歴史がある。石板の使用から、省略されたすべての論証が完成していたとは言えない。人物比較は筆者の読解であり、末節の橋と会話は文学的な創作である。

ハーディ「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」(王立協会追悼文、一九二一年、書簡と一七二九の回想を収録) · 王立協会、ラマヌジャンの選出証書(EC/1918/18) · 王立協会「ラマヌジャンを再訪する」(二〇一八年の資料展示とジャーナキが保管した写真) · ブルース・バーント「ラマヌジャンと過ごした四十年」(二〇一九年オンライン公開、二〇二〇年刊) · ロバート・シュナイダー「ラマヌジャンの『失われたノート』を見いだす――オーラル・ヒストリー」(二〇一二年) · ジョージ・アンドリュース「ラマヌジャンの失われたノートの発見」(回想と当時の書簡) · ブルース・バーントとアトゥル・ディクシットの対談「ラマヌジャンと過ごした黄金の五十年」(二〇二四年) · タミル・ナードゥ州ナーマッカル県政府、ナーマギリ・アンマン寺院 · D・A・B・ヤング「ラマヌジャンの病」(一九九四年、回顧的な医学研究)

中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。