Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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078 / 108 · 生のあとに残る仕事

曹雪芹――情

本には最後の頁があっても、人を最後の説明に閉じ込めなくてよい。雨の中の齢官から橋の出会いへ、曹雪芹の情を読む。

一、書き終えられなかった一冊

『紅楼夢』は未完の小説だ、と私たちはよく言う。

けれども、その一言の中には別々の問いが重なっている。作者は結末まで書いたのか。最後の推敲を終えたのか。書いたものはすべて伝わったのか。一つの問いへの答えで、ほかの問いを埋めることはできない。曹雪芹の最終稿と確定できる全篇は、私たちの手元にはない。初期の写本と、のちの百二十回本との間には、切れ目がある。

1791年、程偉元と高鶚が整理した百二十回本が刊行された。二人は序文と翌年の引言で、原稿を集め、つなぎ、手を入れた経緯を述べている。それは編者自身の説明であって、後半の各頁が誰の筆かを保証する証明書ではない。続作、編集、旧稿がそれぞれどれほど関わるのかは、なお本文研究の問題である。

しかし、前八十回を読んだだけでも、私たちはすでに、要約の中へ簡単には返せない人々に出会っている。

第三十回。花陰の娘が簪で地面に同じ字を何度も書いている。「薔」。劇団の娘、齢官である。その心には賈薔がいる。賈家の御曹司、宝玉はそれを見つめ、どんな思いを胸の中で持て余しているのだろうと考える。雨が降り始める。濡れるよと声をかける。相手に問い返されて初めて、自分もびしょ濡れだと気づく。

功績ではない。家が救われるわけでも、大きな使命が一つ進むわけでもない。

一人がもう一人を見て、しばらく自分の濡れた衣を忘れる。

黛玉は散った花を葬る。晴雯は扇を裂く。湘雲は芍薬の花びらに埋もれて眠る。鴛鴦は賈赦の妾になることを拒む。「感傷」「わがまま」「反抗」といった見出しの挿絵ではない。それぞれに声があり、気性があり、ほかの誰にも代われない場所がある。

ただし、優しい場面だけを選んではいけない。同じ第三十回で、宝玉は自室へ戻り、なかなか門が開かないことに腹を立て、開けに来た襲人を蹴って傷つける。さっき見知らぬ娘を案じた人が、今度は身近な人を傷つけている。

小説は、彼を守るために二つの場面を切り離してくれない。

人物たちは、こちらが用意した説明から出てきてしまう。「情」という好ましい言葉でさえ、その人の一件落着にはならない。優しい場面を読むときにも、あの一蹴りを覚えていなければならない。

書物の伝来には欠けたところがある。

人には、こちらの言葉で言い尽くされていないところがある。

それは、別の二つの未完である。

それでも後四十回へ進むと、人々が結末のために働き始めたように感じることがある。宝玉は出家すべきだから出家する。黛玉は死ぬべきだから死ぬ。宝釵は嫁ぐべきだから嫁ぐ。これは作者を判定する証拠ではない。私の読書の中で、結末が人を引く糸が見えてくる、ということだ。

彼らが目的である資格を失うのではない。生き方の幅が狭くなっていく。

本篇は、この楽章の最後にあたる。アリストテレスから曹雪芹へ。床から情へ。

二、情榜

初期の評語には「情榜」への言及がある。情によって人を評する名簿、とひとまず考えてよい。

第十九回の庚辰本の夾批には、「宝玉情不情」「黛玉情情」という二つの評が残る。しかし、全員の名前と評語を揃えた原初の情榜が、そのまま残っているわけではない。三十六人、六十人、百八人などの再構成が論じられてきた。一つの数を選んだからといって、曹雪芹自身が確認した全名簿を得たことにはならない。

「情不情」。情を返してくれないものにも、情を向ける、と読むことができる。花は礼を言わない。燕は恩返しを約束しない。雨の中の見知らぬ人にも、同じだけ心を配り返す義務はない。

「情情」。情ある相手に深く応じる、と読むことができる。だが、黛玉は宝玉に向けて涙を流す一対の目だけではない。詩を書き、冗談を言い、人を誤解し、自分の誤解を認めることもある。第四十五回、黛玉は宝釵に、よその家に身を寄せるつらさを打ち明ける。宝釵は話を聞き、賈家の人々にまた頼み事をしなくて済むよう、食材の燕の巣を届けようと言う。

この宝釵を「冷たい」の一語には収められない。黛玉の言いにくさを聞き取り、次に頼みごとをする際のためらいまで思いやる。

しきたりを知る人が、しきたりの隙間で誰かに少し便宜を図ることもある。世話を受ける人が、世話をする相手を見直すこともある。「冷」を「温」に貼り替えれば済むのではない。どちらの一字も足りないのだ。

宝玉も、「情不情」で審査を免れることはできない。

第十九回、彼は襲人の美しい親戚まで自分の家の者だったらよいのにと思う。襲人は、自分が奉公人だからといって親戚まで奉公人であるべきなのか、と問い返す。みんなと離れたくない宝玉には、まだ学ぶことがある。別れたくないことと、相手を引き留める権利があることは、同じではない。

情は距離を縮める。握った手に力を込めすぎることもある。

情榜に意味があるとすれば、生きた人を欄に釘づけにすることではない。もう一度、その人の前に戻ることだ。

ここでは「百八の情」を想像し、この連作の百八の人生と向かい合わせてみたい。見つかった原簿ではなく、この散文の構想である。

宝玉に心を動かされるのは、情がいくらでも湧くからだけではない。ほかの人がもう役に立たないと思っているところに、彼はまだ一人の人を見る。

黛玉の情には、はっきりした宛先がある。誰にでも開くのではなく、自分を分かってくれる人に開く。あなたであって、別の誰かで埋められる席ではない。狭いのではなく、正確なのだ。

人を目的として見る、見ない、見たいのにできない。百八のあり方。私には情榜が、人名で書かれた『道徳形而上学の基礎づけ』のように見える。しかも一人一人が、自分の名の横に置かれた一語からも、はみ出していく。

三、彼

曹雪芹自身の輪郭は、彼の書いた多くの人物よりもぼやけている。

祖父の曹寅は江寧織造を務め、南巡する康熙帝を四度迎えた。あの屋敷と、一家の粥との間には、どれほどの隔たりがあるだろう。そこを埋める思い出を、私たちがすべて作ってしまうことはできない。

生年には1715年説や1724年説があり、没年では1763年と1764年がしばしば論じられる。一族は江寧、現在の南京で宮廷用織物の行政を担い、宮廷への供給と江南の繁栄に深く結びついていた。のちに財産は没収される。1728年前後の家の没落は、その生涯を考える大きな節目だが、当時の彼の年齢や、目撃した一つ一つの場面まで確定してはくれない。

小説は家の記録を一頁ずつ複写したものではない。

それでも、あれほど賑やかだった家が、なぜ急に静まってしまうのか。その経験を、この本を読んで通り過ぎることはできない。

友人の敦誠は「贈曹芹圃」に、道に雑草が茂り、一家は粥で暮らし、酒は掛けで買う姿を書いた。別の「寄懐曹雪芹(霑)」では、残り物を恵む側の恩着せがましい顔と、黄葉の村で本を書くことを対置している。

前の詩は困窮を残す。後の「徳色」は、残飯を食べながらも徳を失わない曹雪芹を褒める語ではない。わずかな施しを大恩のように見せる、施す側の顔である。友人は、そんな門ばかり叩かなくてもよい、と勧めている。

第一回には、曹雪芹が十年にわたって読み直し、五度の増刪を行ったとある。しかしその言葉は、石、道人、写本、題名の変更が幾重にも入り組んだ物語の中にある。日ごとに照合できる勤務記録ではない。

それでも、書き直すという動作は残る。

一度で足りなければ、もう一度見る。

宝釵を書くとは、宝玉が彼女をどう思うかだけを書くことではない。襲人を書くとは、彼女が宝玉の世話をどうするかだけを書くことではない。家の衰えを書くときも、全員を「衰え」の証人にしてしまってはいけない。

貧しさが、これらの選択を代わりに行ったのではない。苦しみは自動的によい小説を生まない。よい小説が生まれたとしても、苦しみに感謝すべき理由にはならない。

失うことのただ中で、彼はなお、この仕事を続けた。

四、構は閉じきらない

なぜ彼は書き終えなかったのか。

むしろ、なぜ私たちには彼の本全体が届かなかったのか。

物語を書き終えていないこと、推敲が終わらないこと、書いた頁が失われることは別である。今の切れ目は、当時の出来事を証言してくれない。朝廷や一派の文人が原稿を奪ったという証明にもならない。

けれども考証の本を閉じても、もう一つの問いは残る。

人が目的である小説は、終えられるのか。

最後の頁は書ける。では、その頁で前の頁の人々まで閉じ込められるだろうか。宝玉は去り、黛玉は死に、園は散る。「完」。振り返れば、あの笑いは涙の準備、あの出会いは別れの準備だった、と言いたくなる。

百八人が生きた時間のすべてが、先に用意された結論に着くためだったなら、彼らは結論の手段になる。

けれども手段ではない。目的である。

花の下で眠る湘雲は、家の衰えの伏線を務めているのではない。扇を裂く晴雯も、将来の死を悲しくするためだけにいるのではない。その時の笑いや機嫌は、それ自体で生きている。

小説は終われる。結末は、人を使い切れない。

ここで「構は閉じきらない」と言うのは、そのことだ。「完」と書けないのではない。その字で、人の意味をすべて持ち去ることができないのだ。

家の再興だけを見せる結末なら、その代償を払った人を思い出す。一面の白だけが残るなら、その前に彼女たちがどう笑ったかを思い出す。

構は砕けた。それでも人は残る。人は構のために生きるのではない。人は目的である。

曹雪芹の失われた頁を発見したのではない。読んでいるうちに、問い続けずにはいられなくなった場所なのだ。

八十回の先で足を止め、また彼らのところへ戻る。黛玉は次に何と言うだろう。宝釵が言わなかったことは何だろう。鴛鴦は拒んだあと、どう生きたいのだろう。

余りは残る。情は生きている。二百年以上、読者はその先の日々を書き続けてきた。書くものは違う。読者それぞれの情が違うからだ。

百八の情。百八通りの続き。

構は閉じきらない。残欠の本がこの命題を証明するわけではない。それでも曹雪芹の人々は、何度でも私をそこへ連れ戻す。

五、1750年代と1785年

二人。二つの大陸。

東方で曹雪芹が『紅楼夢』を改めている。およそ1750年代から1760年代。一家は粥で暮らす。彼は頁へ戻る。

ケーニヒスベルクではカントが『道徳形而上学の基礎づけ』を書く。刊行は1785年。規則正しい暮らしで知られる人。

一方は困窮の中で人を書く。一方は机で原理を書く。一方は紙の上に人々を生かし、一方は誰に対してもしてはならないことを問う。

カントは、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単なる手段としてのみ扱わないよう求める。曹雪芹の本には「情不情」がある。

二人を並べる。情を義務と呼ぶためでも、小説を哲学論文にするためでもない。違う二つの声が、ここで同じ問いに出会う。

人は、誰かにとっての役立ちだけになってよいのか。

一人はドイツ語の概念で、一人は中国語の人物で書く。形而上学と小説。

往復書簡も、互いの本を読んだ記録もない。相手の机まで来て、別の書き方を見つけたと言った者はいない。

それでも読む私には、出会ったように思える。

「人は目的である」は、誰かが授ける資格ではない。誰も言葉にしない場所でも、奪われてよいものではない。カントは概念の形を探す。曹雪芹の人々は、顔と声と気性を与える。

二冊が同じ本だと言うより、その出会いのほうが心に残る。

六、大観園

大観園は、完成した自由として地面から生えてきたのではない。

皇帝の妃となった元春の里帰りのために造られ、その後、宝玉と姉妹たちが暮らし、詩を書き、本を読む場所になった。壁の内側の時間は、壁の外と内の収入、労働、奉仕、身分の序列に支えられている。

花の間で眠る人がいる。いつ食事を届けるべきか気にかける人もいる。

だから、ここは実現済みの「目的の王国」ではない。主人と奉公人の違いは残る。年長者の命令は門前で失効しない。いちばん愛しい集まりでさえ、「ずっと別れずにいたい」という願いの中へ、残りたくない人を数え入れるかもしれない。

だからといって、集まりがすべて偽物になるわけでもない。

自由でない暮らしの中にも、有用性だけには占領されない一刻がある。詩社は身分を廃止しない。それでも、書かれた一首は家の名誉のためだけに存在するとは限らない。病人を訪ねることも、人付き合いの手続きを済ませるだけではない。

園の貴重さは、そうした瞬間にある。その危うさも、ずっとそこにある。

園の取り調べののち、晴雯は追い出される。迎春の結婚は、本人の意思ではどうにもならない別の場所へ彼女を連れて行く。第八十回には、夫の虐待を実家で訴える場面がすでにある。後段の死を持ち出さなくても、傷つけられていることは分かる。

追い出された人が、目的でなくなり物になったのではない。

本来受けるべき承認と保護を、人が取り上げたのである。

園を惜しむ歌だけでは足りない。鍵を持つのは誰か。門が開くのを待たなければならないのは誰か。好かれなくなっただけで、いる資格まで失うのは誰か。

情のある場所にも、なお自制が必要である。

ジャンヌは仮面を焼き、ワイルドは偽善に切り込む。曹雪芹は別のことをする。園を造る。八十回、人々をそこで生かし、同時に何が園を散らしていくのかを見せる。

園が散って泣くのは、筋書きのためだけではない。彼女たちは目的なのに、犠牲にしてよいものとして扱われる。そのために泣く。

七、彼と、ほかのみんな

曹雪芹まで来ると、それまでの人影がまた見えてくる。

アリストテレスは床を敷き、ファラデーは持ち上げ、マクスウェルは方程式を書く。ここでは世界を理解しようとしている。

ジャンヌは燃え、ワイルドはあの言葉を話し、ラマヌジャンは夢で数学をし、オッペンハイマーは灰を背負う。ここでは自分の命を差し出している。

トルストイは処方し、ディケンズは温かい家を建て、チャーチルは声を、ルーズベルトは仕組みを見つける。ここでは社会に向かっている。

曹雪芹は、何に向かうのか。

人へ。一人ずつ。宝玉、黛玉、晴雯、鴛鴦。この百八人の列では、一人一人が目的だ。

床を敷くのでも、持ち上げるのでも、処方箋を書くのでもない。人を見る。見たことを書く。

情榜は、見なくて済むようにする理論ではない。百八回、見ることになる。

シャーロットを読むと、私が見えますか、と聞こえる。ジェイン・エアは見てもらうことを求める。ゴッホも求め、生前の応答は死後よりはるかに少なかった。曹雪芹はここで、視線を求めるのでなく一人ずつに向ける。それぞれの情に一語を探しながら、一語では足りないことを知る。

八、1763年、あるいは1764年

彼が去った年さえ、論争を終えていない。

甲戌本第一回の眉批には、「壬午除夕、書未成、芹為涙尽而逝」とある。これはまず評者の悼む言葉であり、曹雪芹の遺言ではない。壬午の年の大晦日は、西暦では1763年に入る。他方、没年を1764年に置く年譜もよく用いられる。二つを混ぜて、一つの正確そうな日付にしてはならない。

最後に筆を置いたとき、まだ次の一句が心にあったのか、私たちは知らない。

知らないというところで、その文を止めておく。

惜しいものは、ただ惜しいままでよい。

それでも、残った書物の中では多くの暮らしが続く。誰かが雨の場面を読むたび、齢官の簪はまた地面で動く。宝釵の見舞いを読むたび、黛玉にはもう一度、思い直す機会がある。

前の人物像でキャサリンが残した手紙も、決着したかに見えた物語を開き直した。彼女自身の声を聞けば、すべてを他人に語らせておくわけにはいかない。

私たちは続きを書き、論じ、新しい結末を考えてもよい。ただし、自分の筆跡を残すべきだ。これは自分の想像であり、発見された曹雪芹の原稿ではない、と。

原稿がないことは、制約がないことではない。

原稿が見つかっても、判断する仕事はなくならない。

死と頁の散逸は、気の利いた演出ではない。曹雪芹は「続きは君たちが書いて」と遺言したのではない。

それでも頁の端では、誰かが振り向く気がする。この人々は私たちの暮らしに入ってきた。紙が止まったからといって、気にかけることまで止められない。

失われたものは、読者の手に渡ったあと、招きにもなる。

宝玉の、黛玉の、晴雯の次の日々を考えてみてほしい。それぞれに違う情があるから、思い描く日々も違う。

二百年以上。まだ書いている。まだ。

九、情

この楽章の橋を、もう一度明るくしよう。ここからは文学的な想像である。

この楽章の最後の人が来る。

ここの誰とも違う。ジャンヌは火を、ワイルドは言葉を、シャーロットはペンを、オッペンハイマーは灰を持つ。ゴッホは絵の具だらけだ。

曹雪芹は何も持たない。両手は空だ。

持ってきたものは後ろにある。百八の情がついてくる。

どの情にも、一人の人の姿がある。

先頭の宝玉は手ぶらで皆を見る。情不情。黛玉は拾った花を持つ。情情。宝釵は穏やかな顔で確かに歩く。顔に出さない思いがある。湘雲は大声で笑い、探春は急ぐ。惜春は歩きながら描く。迎春は傷を隠してうつむく。妙玉は遠くで見ている。晴雯は何かを裂く。扇かもしれない。襲人は宝玉の近くに、紫鵑は黛玉のもっと近くにいる。鴛鴦は一人で歩く。平児は皆の物を整える。

百八の情が、ゆっくり橋へ上がる。

空き地のソクラテスは、一人ずつ話しかけたくなる。どの徳を表すかと問うより前に、名前は、と尋ねたい。百八の、具体的な人生。

プラトンは図面から顔を上げる。分類して描こうとする。どの人も枠から出る。

ヒュームはバックギャモンの手を止める。一人の相手に全生涯を賭けた黛玉。因果を考えるが、ほどけない。

ショーペンハウアーは、うつむいて通る迎春を見る。その苦しみを知っている。

キルケゴールは何度も跳んできた。選びたくないのに選ばなければならない宝玉に、親しさを覚える。

チューリングはリンゴを見て、遠い妙玉を見る。なじめない。橋に上がらない。分かる。

欄干のチェーホフは笑う。彼の小説にも、一語では済まない生きた人が大勢いる。曹雪芹との間に翻訳はいらない。

カントールは顔を上げる。百八は有限だ。けれどもこの像の中では、一人ずつが無限へ開く。百八の無限。

処方箋を持つトルストイは、一つの世界を書いた同業者を見つける。だが曹雪芹には処方箋がない。人しかいない。

シェイクスピアはいない。橋の下の水だ。来た人を知って、水音が変わる。ハムレット、リア、オセロー。彼も大勢を書いた。運命に向き合う孤独なハムレットが水から浮かぶ。曹雪芹の後ろでは、人々が互いにつながっている。情の行き先は運命よりも、もう一人の人なのだ。

スピノザの手にはガラスの粉。情榜から自分の『エチカ』を思う。幾何学的に並べた感情。こちらの榜は乱れている。熱い、冷たい、泣く、笑う。生きている。

アリストテレスは二千年、床を敷いてきた。分類、定義、類と種差。人々は目地から出てくる。敷き詰められない。一人ずつが分類の外に余りを残す。

ファラデーは板を持ち上げ、宝玉が出てくるのを見る。誰かの敷いた床の下を見る人だと分かる。

マクスウェルの手にペンがある。四つの方程式は電気と磁気を結ぶ。百八の情を一つにする式は書かない。

ジャンヌは晴雯を見る。もう一つの激しい火。持つ人自身を燃やす火。

ワイルドは宝玉に笑いかける。彼も世間の規則のままには生きない。「あの言葉」は話していない。生き方がそれを話す。

ラマヌジャンは隙間から半身を出す。大勢が出てきても驚かない。開いた場所には、いろいろなものがある。

オッペンハイマーは灰を背負って進む。曹雪芹も、家と園の壊れたあとを知っている。それを書いた。頁の中で、灰は人になった。

シャーロットと黛玉の目が合う。見てほしいという二つの願い。ジェイン・エアから私が聞く問いを、黛玉は全身で問う。

エミリーは橋の外の荒野にいる。妙玉も外にいる。風が二人をつなぐ。

ボルツマンは文字のある石を抱く。百八人が別々の方向へ動く。彼は一列に並べない。方程式は石に残り、彼は賑わいを見て笑う。

ゴッホは百八の色を見て、描き始める。

ディケンズは大勢を書いた仲間を見る。オリヴァー、デイヴィッド・コパフィールド、タイニー・ティムを思う。少しでも善意を届けたかった。曹雪芹は、まず晴雯の言葉を聞かせる。徳を証明してはいない。怒っている。生きている。

チャーチルは演説を持ち、ルーズベルトは座る。シュレーディンガーの横の箱は開き、猫は出ている。ファインマンは太鼓を打つ。ホーキングは飛ぶ。

ハイゼンベルクはまた見る。誰かが次の言葉を言う。さっきの判断はもう足りない。今度は公式を書かない。

ボーアは出さなかった手紙を持つ。補い合う見方を思う。宝玉と黛玉、晴雯と襲人、探春と惜春。一方からだけでは見落とす。

橋はいっぱいだ。ここまでの旅人と、物語から来た百八人。

曹雪芹はその中で黙って見ている。ソクラテス、ジャンヌ、ボルツマン、ゴッホ。一人ずつが目的だ。

やがて橋の向こうへ体を向ける。

遠くにカントが立つ。

曹雪芹を見る。その動きは、これまでと違う。

アリストテレスには先輩としてうなずき、ヒュームには目覚めへの礼を言った。自分で飲めない処方箋を持つトルストイには眉を寄せた。ジャンヌの前では黙った。人を育てるために払われた代価。

曹雪芹には、迎えに出る。

これまでは橋のもう一端のように待っていた。今度は一歩踏み出す。

空の手にあるものが分かったのだ。その何もなさに、生涯の問いがある。人は目的である。

カントは定言命法と目的の王国で問う。曹雪芹は百八人で書く。情榜。

一人の人は、役立ちだけにはならない。

1785年、ケーニヒスベルク、『基礎づけ』。およそ1750年代、東方、『石頭記』。

何十年、何千キロ。手紙の往復もない。それでもここでは、互いを見つける。

歩いてきた道は違う。

誰も相手の道を代わりに歩かなかった。誰の本も、相手の本を収めきれない。

人は目的である。カントは概念の形を探し、曹雪芹は人の形を与える。

カントがもう一歩進む。一歩だけ。

曹雪芹もゆっくり進む。後ろに百八人がいる。

二人は近づく。

けれども触れ合わない。

間で橋が切れている。

崩れたのではない。初めからつながりきっていなかった。この連作の初めから、アリストテレスの床とカントの場所との間にある隙間。皆ここまで来た。誰も埋めていない。

この寓話では、それが余りであり、構の閉じないところであり、八十回の先の開口部である。

カントは知っている。曹雪芹も知っている。

そこに何が育つのか。

情。

二人の間に、床板の間に、八十回の先に育つ。ジャンヌの火とワイルドの言葉のあとに。ゴッホの色が滴るところに。シャーロットが呼びかけた読者の中に。飛ぶホーキングの下の空間に。

情は橋ではない。橋の閉じきらない場所に育つものだ。

片側に曹雪芹、向こうにカント。曹雪芹の後ろに百八人。橋には旅してきた皆がいる。

誰も話さない。

そのとき曹雪芹が読者へ振り返る。

あなたを見る。

宝玉、黛玉、晴雯、鴛鴦、百八人の一人一人を見た、同じ目で。

その目は言う。あなたも目的である。

隙間は残る。橋は閉じない。本は終わっていない。

今度は、あなたが。

読書のための注記と出典

場面は下記の転写本文による。第19回は情榜評語と襲人の反問、第30回は雨と蹴傷、第45回は宝釵の見舞い。園と婚姻の各章も参照。情榜の断片は全名簿ではなく、「冷情」は確定した原評語としない。

程高本の序は編者の説明であり、後四十回の帰属を確定しない。生没年と稿本の伝来には争いが残る。壬午の除夕は批者の悼辞で、西暦1763年初めに当たる。没年1764年説もある。詩や第一回は日々の執筆記録ではない。

カントの目的の定式は『道徳形而上学の基礎づけ』4:429。「同時に目的として、決して単なる手段としてのみではなく」を保つ。曹雪芹との並読は本稿の解釈であり、影響や理論の同一性の証明ではない。第九節は文学的想像である。

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中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。