二日間にあったもの
ムルソーは養老院で棺を開けず、門衛と煙草を吸い、ミルク珈琲を飲み、居眠りする。葬列では太陽と疲労を強く感じるが泣かない。翌日はマリーと泳ぎ、喜劇映画を見て眠る。ここへ「本当は深く悲しんでいた」という内面を補うと、彼を受け入れやすくする代わりに記述を別の人へ直してしまう。
冷淡ではなく感覚に開かれている
海水、マリーの髪の塩気、白く焼けた石、日曜の街路、夕暮れを語る文章は豊かである。犬を失ったサラマノの話も聞く。彼に感情がないのではない。感覚と目の前の人には反応するが、その反応を「母を愛する息子」「野心ある社員」という社会的役柄へまとめない。
感じていない一語を足さない
マリーに愛を問われれば、たぶん愛していないし問題に意味はないと答える。パリ勤務にも、レーモンとの友情にも「どちらでもよい」と言う。相手が欲しい言葉は簡単で、言っても損はない。それでも彼は、実際に感じた分以上を足さない。この過不足のなさが、他者には欠落として見える。
不足ではなく別の場所
社会は葬儀の涙、求婚の愛、昇進への高揚を交換可能な証明として求める。ムルソーの手元にある海の温度や午後の光は、提出書類にならない。彼は空ではなく、評価体系の外に多くを持つ。問題は人間性が欠けているかではなく、何を人間性の読める形として数える共同体なのかである。
対象作品: Albert Camus, The Outsider (L’Étranger). カミュの原作を主要テキストに、感覚・内面の物語・社会的可読性を読む独立した日本語批評です。