判断力の練習と遊び · 競い合う
勝ちたい。でも、あなたはただの対戦相手ではない
思いもよらなかった好手を、相手が指しました。まだ勝ちたい。それでも、その一手は自分が解くべき問題であるだけでなく、相手自身の発見でもあるのだと気づくことがあります。
公園を散歩している二人のうち、一人がふいに言う。「あの木まで競走しよう」。言い終えるかどうかで、二人は走り出す。途中、前の人が振り返り、ほんの少し速度を落とした。後ろの人は外側が空いたのを見て、ここからも抜ける、と気づく。
申し込みの手続きもなく、審判もいないが、競争は始まっている。スタートはさっき立っていた場所、ゴールは木で、先に着いた方が勝つ。そこまでは決めた。しかし、いつ速めるか、どちらから抜くかは決めていない。走っている二人に残されている。
一人で走るなら、向き合うのは道や風、自分の脚だ。もう一人が加わると事情が変わる。相手も先に着きたく、考えており、こちらの走りを見て動きを変える。二人が欲しいのは同じ順位で、一位を同時に二人へ渡すことはできない。
相手も、こちらの見方を見ている
加わったのは、追い越すべき身体だけではない。「あちらは、こちらが内側へ行くと思っているのでは」と考える。その相手も、こちらがそう動くのを待っているかもしれない。次の動きを予測するときには、相手がこちらをどう予測しているかも考える。計算を済ませた途端に動かなくなる材料ではないのだ。
それでも、相手が加速するかを推測することと、いま抜けそうな道を見いだすことは違う。前者は判断に使う材料をくれる。後者が、このシリーズでいう判断だ。ルールが今回について決めきっていない可能性を、自分で見つけた。そこへ飛び出すか、いつ動くかは、そのあとの行為になる。三つはよく隣り合うが、一つに混ぜなくてよい。
その判断も間違うかもしれない。外から抜けると思った途端に相手が速めるかもしれず、道幅が見た目より狭いかもしれない。抜けなかったから判断がなかったことにはならない。抜けたからといって、それだけでよい判断だったとも言えない。そのとき何を、何に基づいて見いだしたかを問う必要がある。
勝ちたいというのは、思いつきでもよい。木へ着いて笑い、また散歩を続けることもある。もっと長い道のりの一部であることもある。何年も走る練習をして、速く走れる人になりたいと思ってきたなら、今回の競走は、なりたい自分につながる。二人に上下をつける話ではない。同じ「勝ちたい」も、本人にとっての重みは違うことがある。
だから勝って笑い、負けて泣いても、それで周りの人がその人を説明し終えたことにはならない。一敗が長年の努力に触れたのかもしれず、いま悔しいだけかもしれない。勝ったあと黙っていたから、遊んでいなかったとも言えない。動作や表情は手掛かりだが、その人の理由をすべて渡してくれるわけではない。
その一手は、まず相手のものだ
盤のそばへ移ろう。相手が、こちらの読んでいなかった一手を指す。駒を一つ捨て、塞がっていた道を開く。こちらは駒を守ることばかり考えていたが、はっとする。そんな指し方もあったのか。
その道に気づくのは自分の判断で、相手が指した一手は相手の判断だ。このあと形勢を戻せるかは、さらに別の問題になる。三つは一緒にあってよい。相手が指したからといって自分の発見を否定しなくていいし、自分が理解したからといって相手の発見まで自分の名義にすることもない。
もちろん、まだ勝ちたくてよい。尊重することは、自分の手を止めたり、わざと負けたりすることではない。競争が協力に変わったわけでもない。この一局の勝敗はなお、もとのルールで分かれる。「好手だ」という一言で、競技上の関係まで変わるわけではない。
それでも勝とうとする中で、解くべき手順以上のものを見ることがある。自分で判断している一人の人だ。自分の勝利を難しくするために存在する人ではない。こちらが見つけなかった一手を見つけた。その事実に重みがあるのは、次の対局で使って勝ち返せる場合だけではない。
試合後の握手や「見事でした」のように聞こえるかもしれない。でも握手は礼儀だけでもでき、褒め言葉も体裁であることがある。投了でさえ、今回の結果を認めたとは分かっても、相手をどう見ているかまでは証明しない。
振り返りの話し合いでも、違いがすぐ分かるとは限らない。勝つことしか考えていない人でも、相手の解説を丁寧に聞き、自分の理解を変える。なお見ていきたいのは、相手の考えをその人自身の考えとして聞いたのか、次の試合の情報として仕入れただけなのか、ということだ。変わったのは、この指し手を考えた人についての理解だろうか。それとも、その人の戦法についての情報だけだろうか。
二つが並行することもある。まだ勝ちたいから相手を認めるはずがない、と決めつけないでおきたい。振り返りに付き合ったから、相手を尊重していると認定してもいけない。あとで交わす会話は、前の瞬間について新しい手掛かりをくれるが、当時の内心を直接映す装置ではない。材料が足りないときには、その足りなさを残す方が誠実だ。
試合後、ある一手を二人で解き明かすなら、その振り返り自体が協力の遊びになることもある。同じ「チェス」という活動でも、二人の関係は変わっている。活動全体へ、永久に競争か協力かの札を貼るより、こうした変化を区別する方が役に立つ。
一つの名前で、すべてを片づけない
プロの試合では、とくに重なりがある。選手はその場で打ち手を考え、同時に契約に従って出場し、結果は賞金や収入、資格につながる。同じ試合に遊びと仕事が共存できる。お金を受け取っても、その場の発見が偽物になるわけではなく、実際に遊んでいても労働や契約は消えない。
順位や点数は、もともとルールの中に置ける。トロフィーを得ることと、自分のお金を勝敗へ賭けることは同じではない。このシリーズが賭博としての側面を議論から外すのは、遊びの外の賭け金とのつながりに注目するからで、賭ける人に判断力がないと言うためではない。選手自身が自分の試合へ賭けたなら、外すのはその人のその側面であり、ほかの人が普通に続けている試合まで消すのではない。参加費が賞金になる場合をどう分けるかは、原論文にも問いが残る。純粋な運任せの一局についても、ここで判断力の練習が保証されたわけではない。
不正は、問いを別のところへ進める。二人は同じルールで争っているつもりなのに、一方が秘密に進行の条件を変えている。相手が参加したつもりの一局と、実際に向き合っている一局が、違うものになる。札を一枚盗み見ても、勝つ確率を変えただけで、あとの一手一手に判断が不要になったとは限らない。
このシリーズの区分では、不正をする人のその側面は、もう遊びとして数えない。元の約束どおりに向き合っている相手の側面は、なお遊びだ。全員が結託して不正をすれば、もとの一局にとどまる側面は残らない。ただし、この境界をどう十分に説明するか、結託と全員で公然とルールを変えることをどう分けるかは、原論文ですべて解決されたわけではない。問いを書き出すことと、証明し終えることは違う。
賭けのためにわざと負けることは、負けを見て投了することとも違う。前者は結果を外の賭け金へつなげ、後者は一局を終わらせる行為であるかもしれない。負けという結果だけで、二つを同一視できない。「これもゲームだ」と呼んでも、約束をひそかに入れ替えたことまで消えるわけではない。
実力が大きく違っても、何も起こらない一局になるとは限らない。上級者が初心者と指すとき、勝敗の見込みは初めから偏っていても、初心者は初めて一つの道に気づくかもしれない。確かに言える練習は、その人自身が見つけた今回にある。周りが計算して与える上達点にあるのではない。次にも残るか、遊びの外へ持ち出せるかは、なお別に見なければならない。
公園の木に、二人はようやく着いた。誰が先だったかは、競走が出した結果だ。走る途中で見つけた道は、その人の今回の判断だ。相手がどう走るかは、なお相手のこととして残る。真剣に競いながら、それも残しておく。そうすれば、勝つことしか考えないか、勝ちたくないふりをするかという、狭すぎる二択に自分を閉じ込めなくてよい。
出典と読書上の注意
対応するSAE論文をもとにした読者向けの散文で、技術的な論証の全体を段落ごとに訳したものではありません。英語版は英語の読者に向けて独立して書かれています。日本語は公開済みの中国語散文から独立して書き直しています。遊びが開く可能性は、上達の保証でも、人格を測るテストでも、参加しなければならない課題でもありません。原論文への入口は別に示します。