NON DUBITO · 映画を読む · 3 / 3
自分の名を忘れず、彼の名を記憶にとどめた
浅い海の上を、電車が走っている。
日が暮れかかっている。車内にはほとんど人がいない。半透明の影がいくつか座り、顔もなく、言葉も交わさない。窓の外では、水が後ろへ流れていく。
十歳の少女が窓際に座っている。向かうのは、行ったことのない場所。会いにいくのは、危険だと聞かされている相手だ。手には四枚の切符を握っている。
彼女はもう、怖くても前へ進めるようになっている。
『千と千尋の神隠し』の中でも、とびきり静かな場面だ。その美しさを覚えている人は多い。だが、ここは映画全体の転換点でもある。ここから千尋は、押されるままに進む子どもではなくなる。
一 彼女は、自分の名を繰り返した
はじめの契約に戻ろう。
湯婆婆は名前から三文字を奪い、「千」の一字だけを残した。ハクは千尋に、自分の名前を必ず覚えているように、一瞬たりとも忘れないように、と警告する。
千尋は、忘れなかった。
短い場面がある。ハクが元の服を返してくれる。千尋はそこに、一枚のカードを見つける。転校前に、同級生がお別れにくれたカードだ。そこには「千尋」と書いてある。彼女ははっとして、もう少しで自分の名前を忘れるところだった、とつぶやく。
まだ、一日もたっていない。
この映画の、とくに優れた仕掛けの一つだ。「自分を失わずにいる」ことを、勇ましい決意として描かない。ほんの弾みで失敗してしまう、とても危ういこととして描く。
誰かが奪いに来る必要も、ひどい拷問を加える必要もない。皆が別の名前で自分を呼ぶ場所に、二日もいればいい。その名前に返事をするようになる。そして、それが自分の名前だと思い始める。
湯婆婆は何もしなくていい。ただ待てばいい。
千尋のすることも、たいして勇ましくはない。前の名前が書かれたカードを、そばに置いておく。「千」と呼ばれて何度も返事をしながら、帰る道を完全には断ち切らずにいる。
二 彼の名前を、彼女が覚えていた
ハクの名前は、同じやり方では守れない。千尋はまだ、その名を知らないからだ。ハク自身も思い出せない。湯婆婆はその空白を利用して、彼を弟子として、道具として手元に置いている。
答えが戻ってくるのは、電車の旅を終えたあとだ。
ハクは銭婆の家へ迎えに来る。湯屋への帰り道、竜の姿をした彼の背に乗っていた千尋は、小さなころの出来事を思い出す。
幼い千尋は、川に落ちたことがある。水が体を支え、岸まで押し上げてくれた。その川は、のちに埋め立てられ、上にマンションが建った。川の名は……。
コハク川。
千尋は、コハク川の名を叫ぶ。
ハクの鱗が一枚ずつはがれ、人の姿に戻る。そこでハクは、自分の本当の名を思い出し、口にする。ニギハヤミコハクヌシ。二人は空から落ちながら、泣き、笑う。
ここで何が起きたのか、よく見てほしい。
ハクは、ひとりでは思い出せなかった。長い年月をここに閉じ込められ、とうに忘れていた。その名を覚えていたのは、別の人だった。
しかも、覚えていたのは、かつて自分が助けた子どもだ。彼女が川に落ちたとき、川の水が岸へ押し上げた。彼は彼女を助けたが、いつか戻ってきて恩を返してくれるなど、期待できるはずもなかった。
何年も前に、何の見返りも求めずにしたことが、何年もたってから、彼自身を救い出す。
この映画は、ハクを一人きりで悟らせたり、もっと強い力に赦してもらったりはしない。ある人を、別の人が覚えている。それによって救う。
三 銭婆の、あの言葉
銭婆の家でのひとときは、挿話のように見える。だが、そこで語られる言葉は、映画全体の底を支えている。
ハクは印鑑を盗んだことさえ、忘れてしまったのかもしれない。そう心配する千尋に、銭婆は伝える。一度起きたことは消えない。ただ、ときどき思い出せなくなるだけだ。
この言葉が大切なのは、映画が自ら定めた決まりを覆すからだ。
湯婆婆の支配は、ある一つの前提に立っている。名前は奪える。奪われた者は、もう帰れない。長年ここに閉じ込められたハクが、生きた証拠だ。
銭婆は、それは違うと言う。本当になくしたのではない。今は見つけられないだけだ。
あとの展開が、その言葉を裏づける。ハクの名前は戻ってくる。千尋も、自分の名を守り抜く。カオナシは、あとから飲み込んだものをすべて吐き出し、もとの姿に戻る。
奪われたものは、それがかつてあった世界から、消えてしまったわけではない。必要なのは、そこへ通じる道を、ふさわしいときに、誰かがもう一度呼び起こすことなのだ。
四 最後の問い
湯婆婆は負けを認めない。最後の試練を用意する。
十数頭の豚が並んでいる。どの二頭が自分の両親か当てられたら、帰してやる、と言う。
千尋は、並んだ豚たちを見る。
そして答える。ここには、お父さんもお母さんもいない。
正解だった。
どうして正解できたのか。とっさの機転が利いたのだ、と考える人は多い。だが、この答えは、一つの拒絶として読むこともできる。
目の前の姿だけで両親を定義することを、千尋は拒む。
豚は、湯婆婆が人を変えた姿だ。豚になれば、人は家畜になる。やがて屠られる肉になり、数え、囲い、処分できるものになる。湯婆婆の問いは、突き詰めればこうだ。この家畜の群れの中から、お前の親を見分けられるか。
千尋の答えは、その前提で答えること自体を拒んでいる。豚の中に両親を探しはしない。湯婆婆に変えられた姿が、両親のすべてではないからだ。
湯婆婆は自分の決まりで問いを出し、千尋は別の決まりで答える。
これが彼女の勝ち方だった。千尋は、最初から最後まで、この場所の価値の換算を受け入れなかった。
金のために働いたのではない。地位のために誰かに取り入ったこともない。ここで何かの座を得ようとしたこともない。入ってきたのは両親を救うためであり、出ていくのも両親を救うためだ。その目的は一度も変わらず、別の何かにすり替えられることもなかった。
ここで自分の価値を何かに換えるつもりのない人を、この仕組みで捕まえておくことはできない。
五 振り返らないこと
ハクは千尋を、干上がった川床のほとりまで送り、足を止める。自分はこれ以上行けないと言い、まっすぐ進むように、トンネルを抜けるまでは振り返らないように、と告げる。
千尋は両親を見つける。二人はもとの姿に戻り、何も覚えていない。ただ、早くついてくるようにと急かす。親子は草地を横切り、来たときのトンネルへ入る。
千尋は振り返らない。
トンネルを抜け、もとの世界へ戻ってから、初めて出口で立ち止まる。振り向き、後ろを見る。
車には落ち葉と埃が積もり、ずいぶん長く置かれていたようだ。両親は何も知らず、新しい家の話をしている。千尋は車に乗り込む。髪を束ねている髪留めが、きらりと光る。銭婆の家で、仲間たちが一緒に編んでくれたものだ。
ほかには何も残らなかった。これ一つだけだ。
振り返るな、とは、忘れろということではない。まず、こちら側へ渡りきらなければならない。そうして初めて、起きたことをすべて、日々の暮らしへ持ち帰ることができる。
六 入っていったのは、怖がりの子どもだった
この連載を書いてきて、ここで初めて、勝った主人公に出会った。
それまでの人々を思い出す。刑務所を出たあと、首をつった年老いた図書係。誰かが書いた死に方で、自ら命を絶った役者。一生でたった一つの願いを口にし、映画からストリップの舞台を与えられた女。金を他人の手に残したまま、階段のところで死んだ殺し屋。
千尋は、出てきた。自分の名前を取り戻し、両親を救い、ハクが名前を取り戻すのを助け、カオナシを静かにいられる場所へ送り届けた。
はじめは、後部座席に寝そべってふくれ、暗がりを怖がり、歩くときには母親の腕につかまり、何を言っても聞いてもらえない、十歳の子どもだった。
強くなったわけではない。最後まで魔法も力もなく、走ればやはり転ぶ。
したことは、ほんのいくつかだ。どれも小さなことだった。
自分の名前を、忘れずにいた。
川の神が来たとき、逃げずに、あのとげを抜くのを手伝った。
雨にぬれている人を見て、戸を少し開けた。
何年も前にあった川を覚え、その川の名前も覚えていた。
豚の群れの中に、両親を探すことを拒んだ。
どれ一つ、偉業ではない。共通しているのは、相手がものとして扱われているときも、そのものだけでは語り尽くせない存在として、見続けたことだ。
あの場所の決まりは、何を生み出せるかが、そのままお前自身だ、というものだ。名前は取り上げられる。人は豚に変えられる。客の大きさは、どれだけ金をまくかで決まる。
千尋は、その決まりに従って生きたことがない。だから、その決まりは彼女を引き留められなかった。
持ち帰った品は、あの髪留め一つだけだ。金にはならず、何かの証明にもならない。ただ、あのすべては本当に起きたのだと伝えている。そして彼女は、覚えている。
本稿で取り上げたのは、宮崎駿が脚本・監督を務め、スタジオジブリが制作した二〇〇一年の映画『千と千尋の神隠し』である。