第十三篇:西晋・東晋・十六国――3.0版に訪れた最初の長期中断
西暦280年、西晋が呉を滅ぼし、天下は再び統一された。ようやくたどり着いた統一だった。後漢末から数えれば、分裂は百年近く続いていたのだ。
西暦280年、西晋が呉を滅ぼし、天下は再び統一された。ようやくたどり着いた統一だった。後漢末から数えれば、分裂は百年近く続いていたのだ。
だが、その統一はわずか十一年しか持たなかった。
291年、八王の乱が勃発する。それから十六年に及ぶ内戦で、西晋の軍事力と行政能力はすっかり使い果たされた。304年には匈奴の劉淵が山西に漢を建国する。のちの前趙である。北方の諸民族が大規模に中原へ入り、支配者となる時代の幕開けだった。316年、前趙が長安を陥落させ、晋の愍帝を捕らえ、西晋は滅亡する。317年、琅邪王司馬睿が建康で晋王となり、東晋が始まる。皇帝を称するのは翌318年である。
316年から、隋が陳を滅ぼす589年まで。南北の分裂は三百年近く続いた。
この三百年は、鑿構周期律のなかでもきわめて特殊な位置を占めている。それまでに起きた構の崩壊、すなわち夏末、商末、西周末、秦末、前漢末、後漢末の崩壊では、いずれも比較的短い期間で再建が成し遂げられていた。劉秀が3.0版を再起動したように、同じバージョンを立ち上げ直す場合もあれば、新しいバージョンへ更新する場合もあった。秦は1.0から2.0へ、漢の武帝は2.0から3.0へ進めた。再建が速かったのは、旧システムの稼働記憶がまだ残り、社会を組織する力が残り、復旧できる条件が残っていたからだ。
三百年の分裂となると、話はまったく違う。三百年あれば、稼働記憶はすべて消し去れる。隋と唐がようやく再統一を果たしたとき、目の前にあったのは、そのまま再起動できる旧システムではなかった。根底からの再建を必要とする廃墟だった。3.0版は再起動されたのではない。書き換えられたのだ。
もっとも、書き換えの話はまだ先である。今回はまず、この三百年の分裂そのものを見ていこう。どうして起きたのか。南と北はそれぞれどんな道を歩んだのか。その歩みが、のちの再建に向けてどんな材料を蓄えていったのか。
一、八王の乱――抑制と均衡を失ったシステムの自壊
前篇では、司馬氏の構の型を分析した。士族による共同統治、つまり豪族を余項から土台へと変える仕組みだった。この型は、権力を牽制し合う余地を消してしまった。権力を握る者が全員、同じ階層の出身であり、その外から仲裁に入れる力がなかったのである。
八王の乱は、その欠陥が全面的に噴き出した事件だった。
表面上は、司馬氏の皇族内部で起きた権力争いである。晋の武帝司馬炎は、多くの皇族を諸王に封じ、実際に兵を動かす権限と地方の行政権を与えた。曹魏では皇族が弱すぎたために司馬氏の簒奪を許した、その教訓を生かすというのが理由だった。だが、この「是正」は行きすぎた。曹魏の問題は、皇族に兵権がなく、皇族以外の臣下である司馬氏が帝位を奪おうとしても、誰も阻止できなかったことにある。そこで西晋は、皇族に兵権を与えるという「解決策」を採った。すると今度は、皇族同士が戦い始めた。
構造から見れば、八王の乱が露呈させたのは、3.0版のOSが抱える、もっと深い難題だった。このOSには、皇族をどこに、どう置けばよいのかがわからない。
皇族に兵権を与えるか。与えれば互いに戦う。八王の乱である。与えないか。今度は皇族以外の臣下に帝位を奪われる。司馬氏による魏の簒奪である。少しは与えるが、多すぎないようにするか。では、「少し」と「多すぎる」の境目はどこにあるのか。この線を正確に引ける制度設計など存在しない。「どれだけあれば十分か」は、結局その人次第だからだ。忠実な王に十万の兵を与えれば、国境を守ってくれる。野心家なら、一万の兵でも反乱を起こす。ところが王に封じる時点では、誰が忠臣で誰が野心家なのか、わからない。賭けるしかない。
十六年の八王の乱で、西晋の精鋭部隊は消耗し尽くし、行政機構はばらばらに打ち壊され、社会秩序は維持できないほどに傷めつけられた。各陣営は内戦に勝つため、北方から内地へ移住してきた匈奴や鮮卑などの騎兵を大量に動員した。それは晋に対する忠誠心などない人々に武器を渡し、戦争が終わればおとなしく返して、故郷で畑を耕してくれると期待するようなものだった。
彼らは武器を返さなかった。その武器で、自分たちの政権をつくった。
八王の乱の果てに起きたのは、晋が自らパンドラの箱を開けたということだった。北方諸民族が中原の支配者となったのは、外から侵入された結果ではない。内側から崩れた結果である。傭兵という形で彼らを招き入れたのは、晋自身だった。そして、その傭兵を制御できる中央の権威を消し去ったのも、晋自身だった。システムは殺されたのではない。自殺したのである。
二、永嘉の乱と衣冠南渡――3.0版の物理的分裂
316年に長安が陥落すると、中原の士族や民衆が大挙して南へ移った。いわゆる「衣冠南渡」である。衣冠や礼楽、一族の系譜、文化の記憶を携えて長江を渡り、南の地で暮らしを築き直した。
衣冠南渡は、途方もない規模の移住だった。最も多い時期には、南へ移った人口が百万人近くに達した可能性もあると推定される。史料によって数字には大きな開きがあるが、数十万から百万という桁で考えるべきだろう。しかも移動したのは、ばらばらの個人ではない。家族や共同体が組織を保ったまま移った。一族丸ごと、小作人も私兵も財産も連れていく。大族のなかには、自前の行政組織まで南へ持ち込むものもあった。こうして生まれたのが「僑郡」「僑県」であり、北に残してきた旧地名を付けた新しい行政単位だった。
構の側から見ると、衣冠南渡は3.0版のOSが物理的に二つへ裂かれた出来事である。ハードウェア、すなわち官僚機構・軍隊・人口と、ソフトウェア、すなわち儒家のイデオロギー・士族のネットワーク・文化的伝統が、二つに引き裂かれた。ハードの大半は北に残った。土地も都市もインフラも、運んでいくわけにはいかない。一方、ソフトの大半は、人々とともに南へ移った。
この割れ方が、その後の南北をまったく違う道へ進ませることになった。
南は3.0版のソフトを受け継いだ。士族のネットワーク、儒家の言説、礼楽の文化、そして自らの正統性を支える物語である。だが、ハードの基盤は弱い。当時の南方は北方よりはるかに開発が遅れており、経済の生産力も人口密度も交通網も、北に及ばなかった。
北には3.0版のハードの基盤が残った。豊かな黄河流域、密集した人口、発達した都市網と農業の仕組みである。だが、ソフトはひどく壊れていた。士族が大量に南へ去り、行政機構は崩れ、儒家のイデオロギーを伝えるネットワークは断ち切られていた。
それからの三百年は、南北がそれぞれ、不完全な半分のシステムを使って、完全な秩序をつくり直そうとする過程だった。
三、東晋――門閥共同統治の構
東晋を成立させたのは、司馬皇族の力ではなかった。この時点で、司馬氏はとうに独自の軍事力を失っていた。頼りとなったのは、南へ渡った士族の支持だった。
琅邪王氏の中心人物、王導と王敦が司馬睿を支え、建康で帝位に就かせた。王導は内政を、王敦は軍事を握った。東晋の建国を実際に仕切っていたのは、皇帝ではなく王氏一族である。当時、「王と馬、天下を共にす」といわれた。「王」は王氏、「馬」は司馬氏。この二つの家が、政権を共同で所有していたのだ。
これは大げさな言い方ではない。東晋の政治構造を正確に言い表している。
東晋の型は、「門閥共同統治の構」と呼べる。西晋の「士族共同統治の構」とは血縁関係にあるが、重要な違いがある。
西晋の士族共同統治は、皇帝権力を中心に据えた全国規模の仕組みだった。皇帝と士族は協力するが、名目上の最高権力者はあくまで皇帝であり、九品中正制が全国共通の人材選抜制度として機能していた。
東晋の門閥共同統治では、権力の共有がさらに徹底している。皇帝の家も、いくつかある大族の一つにすぎない。しかも、最も強い家ですらなかった。権力は皇族と最上位の門閥のあいだを、順繰りに移っていく。王導の次には庾亮と庾冰、その次には桓温と桓沖、さらに謝安と謝玄。どの時期にも、一つの大族が朝政を主導し、皇帝がそれに合わせた。
この構の動き方には、いくつかの特徴がある。
第一に、軍事権力と政治権力が分かれている。
東晋の軍事力の中核は、長江上流の荊州にあった。荊州の兵権を握れば、中央に対して軍事的優位に立てる。流れに乗って川を下れば、そのまま建康を突けるからだ。一方、建康の中央朝廷が握るのは、行政権と文化的な正統性だった。
典型的な配置は、ある大族が荊州の兵権を握り、別の大族が中央の行政権を握るというものだ。前者には王敦、桓温、桓玄、後者には王導や謝安がいる。両者のあいだには、緊張をはらんだ均衡が成立する。桓温がそうだったように、兵を握る側が帝位を奪おうと思い立てば、朝廷を握る側は正統性を盾にし、ほかの大族との連携を使って牽制する。
第二に、北伐が政治の道具になる。
東晋の百年間には、祖逖、庾亮、殷浩、桓温、劉裕らによる北伐が何度もあった。ただし、その動機も成果も同じではない。
祖逖の北伐は、最も純粋なものだったかもしれない。彼は本気で中原を取り戻したかった。だが、与えられた支援はきわめて限られていた。朝廷の中枢を占める南渡士族が、北伐にさほど熱心ではなかったからである。なぜか。彼らはすでに、北にいたころよりよい地位を南で手にしていた。北では、数ある士族の一員にすぎなかった。南では「僑姓」、すなわち長江を渡ってきた上等な人々として、在地の士族より上に立てた。北伐が成功すれば北へ帰ることになるが、そこではもう土地も社会的な足場も失っている。それなら南に残り、人の上に立っていたほうがよい。
桓温の場合、北伐の動機はもっと複雑だった。その軍事行動には実際の戦略目標があったが、強い政治的狙いもあった。北伐で戦功と名声を積み上げ、いずれ帝位を奪うための下準備をするのである。北伐のあと、桓温は部下に「私は劉琨や陶侃と肩を並べられるか」と尋ねた。部下は、並べられると答えた。満足しなかった桓温は、さらに「では、王敦と比べてどうか」と聞いた。この問いの裏にあるのは、もう北伐の話ではない。王敦は、あと一歩で帝位を奪うところまでいった人物だからだ。
東晋の政治のなかで、北伐は軍事上の問題ではなく、門閥間の駆け引きの道具だった。兵を握る側は北伐で権勢を広げ、政務を握る側は北伐を妨げたり制約したりして、相手が強くなりすぎるのを防いだ。その結果、北伐が東晋という国全体の戦略目標になることは、ついになかった。一つ一つの北伐は、ある門閥の私的な事業であり、国家の意志の表現ではなかったのである。
第三に、南方の在地豪族が仕組みとして排除されている。
長江を渡ってきた北方士族、すなわち僑姓と、南方の在地士族、すなわち呉姓とのあいだには、深い亀裂があった。僑姓は自分たちを呉姓より上と見なしていた。中原文化の正統性も、北の名門につながる系譜も、自分たちにあるからだ。呉姓は南方で実際に土地と人口を押さえていたが、政治的な序列では僑姓の下に置かれていた。
この仕組みが何のために働いていたのかは明白である。文化の序列で、経済的な実力を抑え込むのだ。呉姓には金も土地も人もある。だが政治の中心からは締め出される。彼らを権力の中枢へ入れれば、僑姓の優位は保てなくなるからである。
だが、この配置は長く残る余項も生んだ。南方の在地勢力の政治的要求が、押し込められたまま積み重なったのである。その要求は東晋の中期から後期にかけて噴き出し始める。孫恩と盧循の反乱には、南方の在地勢力が僑姓支配に抗うという側面があった。そして最後に東晋を倒す劉裕も、南へ移ってきた流民からなる軍隊、北府兵の将軍だった。彼の台頭は、新しい力の登場を意味する。僑姓の門閥でも、南方の在地豪族でもない。門閥の仕組みの隙間で育った武人の階層、軍事上の新興勢力である。
門閥共同統治の構に終止符を打ったのは、別の門閥ではなかった。門閥のシステムには吸収できない新たな余項、軍人だった。
四、十六国――軍事強者型の構、その目まぐるしい交代
北の物語は、南とはまったく異なる。
304年に劉淵が漢を建ててから、439年に北魏が北方を統一するまでの百三十五年間、北には二十を超す政権が次々と現れた。そのうち主要なものを、歴史書は「十六国」とまとめている。
建国者の出自も、匈奴の前趙・北涼、羯の後趙、鮮卑の前燕・後燕・南燕・西秦・南涼、氐の前秦・後涼、羌の後秦、漢人の前涼・西涼・北燕・冉魏と、きわめて複雑だった。
しかし、建国者がどの民族に属していても、構の型はよく似ている。軍事強者型の構である。軍事的な力量をもつ人物、多くは部族の首長や軍の将領が、武力で一定の土地を奪い、政権を立て、王や皇帝を名乗る。その政権が安定するかどうかは、強者個人の能力と、直属部隊の忠誠心だけにかかっている。本人が死ねば、後継者がほかの軍事指導者を押さえきれずに分裂するか、別の強者に滅ぼされるかのどちらかだった。
土地・人口・都市という3.0版OSのハードは残っていても、イデオロギー・官僚機構・正当性を語る物語というソフトがない。そのときの初期設定が、この状態である。社会をまとめるイデオロギーがなければ、暴力だけが組織の原理になる。地方を管理する官僚機構がなければ、軍事占領だけが管理の手段になる。「なぜ支配者がお前なのか」を説明する正当性の物語がなければ、「俺は戦に強いからだ」だけが答えになる。
軍事強者型の構は、入れ替わりの速さが際立っている。百三十五年間に二十を超す政権が、時に前後して、時に並び立ちながら現れては消えた。その交代は目まぐるしかった。それは建国者たちが特別に無能だったからではない。軍才に秀でた人物は少なくなかった。石勒は奴隷から皇帝にまで上りつめ、苻堅は一時、北方全域を統一した。それでも続かないのは、軍事強者型の構が、構造上、長命を許さないからだ。
長命を許さない理由は、秦が抱えた問題と似ている。ただし、現れ方は違う。「天下を取る」ことから「天下を治める」ことへ、移行を果たせないのである。
天下を取るには、軍事指導者個人の能力と、直属部隊の忠誠がものをいう。天下を治めるには、行政機構、社会の合意、制度化された権力の継承が必要になる。軍事的な強者はたいてい前者には長け、後者は苦手だ。しかも、前者での成功そのものが後者の整備を妨げる。自分の武力で問題を片づけられるのに、なぜわざわざ官僚機構をつくるのか。配下の軍事指導者たちが暴力で争いを決着させることに慣れきっているのに、どうやって制度に沿った権力配分を受け入れさせるのか。
石勒は興味深い例である。羯の出身で、若いころ奴隷として売られ、その後、戦乱のなかで頭角を現して後趙を建国した。在位中は漢化を進めようとし、学校を設け、儒者を用いて国を治めた。だが、死後二年もたたないうちに、甥の石虎がクーデターで権力を奪った。石虎は徹底した暴力の統治者だった。恐怖と搾取で政権を維持したのである。石虎が死ぬと、後趙は数年のうちに完全に崩壊した。
石勒の例は、こう教えている。軍事的な強者自身に制度をつくる意欲と能力があったとしても、その制度は彼の死を越えて生き延びることが難しい。社会という土壌に自然に育った制度ではなく、暴力を基礎とする権力構造へ接ぎ木された制度だからだ。接ぎ木された制度には、自分自身の根がない。接ぎ木した本人が死ねば、枯れてしまう。
十六国の目まぐるしい交代には、一つのよい副産物があった。北方の民族融合を速めたのである。政権が替わるたびに、人口は大規模に移動し、組み替えられた。百三十五年のあいだ、北方の諸民族は混戦のなかで何度もかき混ぜられた。匈奴の人間が鮮卑の政権で官僚になり、漢人が羯の政権で幕僚となり、氐の首長が儒家の経典で子弟を教育する。戦争という攪拌機のなかで、文化の境界はしだいにぼやけていった。
この融合は、平和でも自発的でもなく、温かい交流でもなかった。激烈で、強いられたものであり、血にまみれていた。それでも、実際に変化は起きた。439年に北魏が北方を統一したころ、北方社会はもう、純粋な漢人社会でも純粋な胡族社会でもなくなっていた。それは混合体だった。新しく、まだ形の定まらない、自らが何者なのかを探し続ける文明の姿だった。
五、前秦――成功に最も近づいた失敗
十六国時代に現れた二十を超す政権のうち、前秦は別に取り上げて考える価値がある。
苻堅は氐の出身で、前秦の第三代皇帝である。王猛の補佐を得て、十六国の君主がほとんど誰もなしえなかったことを成し遂げた。比較的安定した行政機構を築いたのだ。
王猛は漢人で、貧しい家に生まれたが、抜群の政治的才能をもっていた。苻堅と王猛の関係は、劉備と諸葛亮の関係にたとえられる。一方が軍事力と政治的な決意を担い、もう一方が統治の能力と制度の建設を担う。
王猛が前秦で進めた統治は、3.0版の設定に近かった。胡漢を問わず豪強を抑え、法による統治を進め、出自ではなく能力を基準に人材を選び、農業と教育を発展させた。そのもとで、前秦の関中地方には秩序と繁栄が戻った。
370年代には、前秦は東晋を除く北方全域の統一をすでに果たしていた。苻堅は、西晋滅亡後に北方を統一した最初の、そして唯一の十六国の君主となった。
そのあと、彼は致命的な決断をする。東晋への南征である。383年、淝水の戦いで前秦は大敗した。
戦闘の経過を細かく追う必要はない。構の側から見ると、淝水の敗戦は前秦の根本的な弱点を明らかにした。前秦は多民族による軍事同盟であり、共通の帰属意識をもつ統一国家ではなかったのである。
苻堅が北方を統一できたのは、軍事征服による。征服された諸民族の政権、鮮卑の前燕、氐の仇池、そのほかのさまざまな地方勢力は前秦の枠内に組み込まれたが、忠誠心はきわめて薄かった。苻堅に従うのは、戦って勝てないからであり、同じ国への帰属意識があったからではない。淝水で大敗したように、苻堅が大きな軍事的挫折を味わえば、征服された側はたちまち離反した。淝水の戦い以後の前秦の崩壊は、秦王朝と同じほど速かった。二年もたたずに、四分五裂した。
王猛が死の間際に残した言葉は、実に的確だった。「晋は呉越の鄙びた片隅にあるとはいえ、正統を受け継いでおります。仁ある者に親しみ、隣国とよく交わることこそ、国の宝です。私の死後、どうか晋を攻略なさらぬよう。鮮卑・羌の蛮族こそ、われらの敵であり、いずれ災いとなります。しだいに取り除いていくべきです」
王猛には二つのことが見えていた。第一に、東晋は片隅に安住しているとはいえ、正統としての正当性がある。これを攻める政治的な代償はきわめて大きい。第二に、本当の火種は、征服された鮮卑や羌などの諸民族である。名目上は帰順していても、実際にはいつでも反乱を起こすつもりでいる。まず内部の問題を片づけるべきなのだ。「しだいに取り除いていくべき」とはそのことである。外へ広がるのは、そのあとで考えればよい。
苻堅は聞き入れなかった。南征を選んだ。そして結果は、王猛の判断を一つ残らず裏づけた。
前秦の教訓は、曹操の構の型とも響き合う。抑え込む戦略が働くかどうかは、もっぱら操作者個人にかかっている。王猛がいるあいだ、前秦の内政はうまく回り、征服された諸民族も効果的に抑えられていた。375年に王猛が死ぬと、苻堅は内政を任せられる人物を失い、自分の注意も南征へ向けてそらしてしまった。内部に余項がたまり始めた。淝水の敗戦は引き金にすぎない。崩壊の本当の原因は、王猛の死後八年間で、内部の余項がすでに臨界点まで積み上がっていたことにある。
前秦は、十六国で最も成功に近づいた政権であり、その失敗の仕方から最も多くを学べる政権でもある。多くの民族と勢力が入り交じる環境でも、軍事征服によって形の上での統一はできる。だが、文化的な統合と制度の建設がそれに続かなければ、その統一は少しぶつかっただけで砕ける。統一の頑丈さを決めるのは軍事力の大きさではなく、社会に根づいた帰属意識の深さなのだ。
六、南北を比べる――並行して進んだ二つの実験
東晋と十六国を並べてみると、構造上の面白い対照が浮かび上がる。
南の問題は、ソフトはあるのにハードがないことだった。
東晋は3.0版のイデオロギー資源をすべて受け継いだ。儒家の言説、正統としての正当性、士族のネットワーク、礼楽の文化的伝統である。ところが、それらのソフトを実際の支配力へ変えるためのハードが足りない。軍事力は不十分で、北府兵のような半ば独立した武装組織に頼っていた。経済の開発も限られ、南方の大規模開発が加速するのは南朝になってからである。行政能力も弱く、中央が地方を掌握する力は、前漢や後漢に遠く及ばなかった。
つまり東晋には文化も理屈もあったが、力がなかった。なぜ自分が正統なのか、自己弁護はできる。だが、北伐が何度も失敗したように、自らの勢力を広げることはできない。現状を保つことはできても、現状を変えることはできなかった。
北の問題は、ハードはあるのにソフトがないことだった。
十六国の諸政権は、中国で最も豊かな土地である黄河流域、最も密集した人口、最も発達した都市網を押さえていた。ところが、そのハード資源を有効に組織するソフトが足りない。諸民族の文化的伝統は相容れず、共有するイデオロギーがない。軍事占領は行政管理とは違い、成熟した官僚機構もない。広く受け入れられた正当性の物語もない。「俺は戦に強いからだ」では、いつまでも支配を正当化できないからだ。
つまり十六国には力はあったが、向かう先がなかった。戦争も拡張もできる。だが安定せず、長続きしない。ある政権が別の政権を滅ぼしても、自分も長くは持たず、第三の政権に滅ぼされる。ハードは何度もフォーマットされ、再インストールを繰り返すのに、安定して動くOSだけが、いつまでも欠けていた。
この南北の対照は、構についての基本的な真理を示している。ソフトとハードは、互いに適合していなければならない。
ソフトだけがある東晋の場合。自分がなぜ正しいのかは説明できる。だが、その「正しい」を現実にはできない。正しさは抽象的で、宙に浮き、無力なままだ。
ハードだけがある十六国の場合。力を使って多くのことはできる。だが、何をすべきなのかわからない。その力は盲目で、消耗をもたらし、自らを壊していく。
どちらも欠けていた。どちらも相手を探していた。南には、自らの正統性を現実のものにする力が必要だった。北には、自らの力を安定させる制度が必要だった。最終的な解決策は、北から現れる。北魏の孝文帝による漢化改革は、本質的には、北のハードに改良版のソフトをインストールする試みだった。だが、それは次篇の話である。
七、三百年の分裂が周期律に示すもの
三百年の分裂は、鑿構周期律のなかでどこに位置するのか。それは、それまでにはなかったいくつかの経験をもたらした。
第一に、構は長いあいだ中断されうるが、構の記憶は完全には消えない。
三百年は十分に長い。そのあいだに南と北は、まったく違う道を歩いた。だが、隋唐がようやく再統一を果たしたときに築いた制度の骨格には、なお3.0版の根底の論理が見て取れる。科挙制は南朝で九品中正制の改革が求められたことから、三省六部制は北朝の行政実践から、府兵制は北方で胡漢が融合した軍事的伝統から生まれたものだった。それでも郡県制は変わらない。中央集権も変わらない。儒家と法家を合流させる基本的な発想も、変わっていない。
構の記憶は、どこか一か所に保存されているのではない。社会全体の無数の片隅に分散している。家の訓え、村の風習、知識人による経典の読み方、行政官の日々の仕事の慣行。どの保存拠点を壊すこともできる。だが、すべてを同時に壊すことはできない。十分な数の拠点が生き残れば、そこに残る断片からシステムは再建できる。
三百年の分裂は、多くの拠点を壊した。しかし、全部を壊したわけではなかった。それで十分だった。
第二に、分裂の時代は、構の新しい型が盛んに生まれる時代である。
これは戦国時代の教訓と一致する。複数の型が並び立つ時代こそ、革新が最も活発になる。
南方の門閥政治は、「弱い皇帝+強い門閥」という権力共有の形を試した。成功はしなかったが、その失敗の仕方は、のちの制度設計に手がかりを与えた。門閥による独占を、どう防げばよいのかという手がかりである。
北方の多民族融合は、胡漢が入り交じった社会を治めるさまざまな方法を試した。劉淵の「匈奴の漢化」、石勒の「胡漢分治」、苻堅の「民族平等」、さらに北魏の「全面的な漢化」。どの方法にも得るものと失うものがあり、そのすべてが、のちに多民族帝国を治めるための経験として蓄えられた。
この時代、仏教が中国へ大規模に流入し、まったく新しいイデオロギー資源をもたらした。儒家とは別の、世界を説明する方法である。3.0版のソフトには、大きな補強が加わったことになる。のちの唐に見られる儒・仏・道の「三教並行」も、この土台の上に育った。
第三に、余項の現れ方は、分裂の時代と統一の時代では異なる。
統一の時代、余項は主に枠組みの内部に蓄積し、最後にはその枠を内側から破る。土地の兼併、外戚と宦官、流民がそうだ。そこでは力は中心へ向かう。余項は中心にたまっていく。
分裂の時代、余項は主に枠組みと枠組みのあいだで衝突し、最後には新たな枠組みを生み出す。南の門閥の構にも、北の軍事強者型の構にも、それぞれの余項がある。だが、それが噴き出す先は中心ではない。そもそも中心がないからだ。向かう先は、互いに相手のほうである。南の文化的な優位と北の軍事的な優位は、衝突しながら互いに浸透し、やがて純粋に南のものでも純粋に北のものでもない、新しい何かを生み出した。
隋唐の制度設計は、南から来たのでも北から来たのでもない。南北がぶつかり合う交点から生まれた。隋唐政権の中核をなす関隴集団そのものが、北方の胡漢融合の産物だった。彼らは北方の軍事力で天下を統一し、手を加えた南方の文化的伝統で天下を治めた。3.0版を単純に再起動した人々ではない。南北それぞれに残された不完全な半分のシステムから、必要なものをそれぞれ取り出し、つなぎ合わせて新しいバージョンをつくった人々なのである。
第四に、人を目的として扱うという相転移は、三百年の分裂のなかでも逆戻りしなかった。
三百年の戦乱は、きわめて残酷だった。北の殺戮、南の門閥による抑圧、諸民族間の暴力的な衝突。いずれも、人を手段として扱うことの極端な例である。それでも、最も暗い時代にさえ、「人は目的である」という認識は完全には消えなかった。
仏教の伝来は、むしろその認識を強めた。仏教の中心的な主張の一つは、すべての衆生は平等であるというものだ。どの命にも仏性があり、尊重に値する。この主張は根底で、儒家の「仁」、墨家の「兼愛」と通じ合っている。北方で、官吏の選抜制度や官僚機構という儒家の制度的な表現が崩壊したとき、仏教はある程度、「人は目的である」という命題を広める役割を引き継いだ。寺院は乱世の避難所となり、僧侶は胡漢を分け隔てず、すべての人に奉仕する集団となった。
相転移は不可逆である。三百年の大混乱のなかでも、それは逆戻りしなかった。何より驚かされ、何より安堵させられるのは、そのことだ。
次篇は南北朝へ。北魏の孝文帝による漢化改革は、構の型を自覚的に設計し直す、もう一つの試みだった。その帰結が六鎮の乱である。改革から排除された余項が、反撃に出たのだ。一方、南朝の四代、宋・斉・梁・陳では、門閥の構がしだいに力を使い果たしていく。二つの道は、その終点で同じ場所に合流する。関隴集団である。