第11篇 後漢――バージョン3.0、初めて周期を完走する
劉秀はバージョン3.0のOSを再起動した。骨組みはそのまま、パラメータを少し調整して、システムを再び稼働させた。
劉秀はバージョン3.0のOSを再起動した。骨組みはそのまま、パラメータを少し調整して、システムを再び稼働させた。
こうして後漢(西暦25〜220年)は、きわめて貴重な観察対象となった。バージョン3.0のOSが、「構」の型を入れ替えずに一つの周期を最後まで走りきった、最初の事例だからだ。建国から崩壊まで、およそ二百年。この二百年間をたどれば、変わらない枠組みの内部で余項が少しずつ蓄積し、芽生えから制度化へ、制御不能から崩壊へと至る全過程が、はっきり見えてくる。
前漢の物語は、型を発明し、確立していく物語だった。後漢の物語は、その型が動き、老いていく物語である。そこから得られる教訓は違う。前漢が教えてくれるのは機械の造り方。後漢が教えてくれるのは、機械がどう老い、死んでいくかだ。
一 光武帝によるパラメータ調整
劉秀は骨組みを変えなかったが、いくつかの重要なパラメータには手を入れた。一見ささやかな調整に見えて、その後の後漢二百年の行く末を深く左右する変更だった。
第一に、建国の功臣集団から政治権力を削いだ。
劉秀も劉邦と同じく、功臣たちの力を借りて天下を取った。ただ、劉邦が功臣を暴力的に粛清したのに対し――韓信、彭越、英布は相次いで殺された――劉秀のやり方ははるかに穏やかだった。功臣には封邑、田地、金銭といった手厚い経済的報酬を与える一方、実際の政治権力や軍の指揮権は渡さない。「功臣を退けて文吏を進める」。日々の行政は、功臣集団に代わって文官の組織に担わせた。
後世に「雲台二十八将」と呼ばれる人々がたどったのは、こういう運命だった。栄華と富はあるが、権力の中枢からは遠ざけられる。功臣が軍権を握り、政治上の意思決定にも加わっていた前漢初期とは、鮮やかな対照をなす。
劉秀の論理は明快だ。功臣集団は天下を取るための道具であって、天下を治めるための道具ではない。天下を取るには軍事の能力が要り、治めるには行政の能力が要る。この二つの能力を備えているのは、同じ人々ではない。功臣に権力を握らせ続けるのは、軍事家の集団に行政実務を任せるようなものだ。それは彼らの得意分野ではないうえ、彼らの持つ軍事力そのものが、中央集権への潜在的な脅威でもある。
余項という観点から見れば、劉秀は前漢の歴史から知っていた余項、すなわち功臣の勢力肥大を先回りして防ごうとした。劉邦は暴力、つまり功臣殺しでこの余項を処理したが、代償として政治的な信用を失った。後に続く功臣たちは、漢のために命を懸けるのをためらうようになる。劉秀は経済的に買い取る方法、つまり金は渡すが権力は渡さないという方法で処理した。その代償は、はるかに小さかった。
ただし、この処理には副作用があった。膨大な土地と富を持ちながら政治権力を持たない、地方豪族の一群を生み出したのである。短期的には中央の脅威にならない。だが長い目で見れば、経済力はいずれ政治的影響力に転化する。この人々は、後漢の中期以降に帝国を悩ませる「豪族」の源流の一つとなった。
第二に、尚書台を強化した。
前漢の行政中枢は丞相府だった。丞相の権力はきわめて大きく、皇帝に次ぐ第二の人物だった。武帝の時代にはすでに、「内朝」、すなわち尚書や侍中など皇帝の側近を使って、「外朝」、すなわち丞相を頂点とする正式な官僚組織を迂回するようになっていた。ただし、まだ制度としては固まっていなかった。
劉秀はこの流れを制度化した。尚書台の権限を大幅に拡大し、実際の行政上の意思決定権を丞相、のちの司徒から尚書台へ移したのである。尚書台は皇帝に直接責任を負い、その長官である尚書令が事実上の行政の最高責任者となった。丞相・司徒は名誉職となり、名はあっても実がなくなった。
この調整が構造のうえで意味したのは、皇帝個人の統制力が強まったということだ。尚書台は皇帝の私的な秘書局であり、その権力の源泉は制度的な授権ではなく、皇帝の信任にあった。つまり皇帝は尚書を入れ替えるだけで、いつでも政策の方向を変えられる。制度化された丞相の組織に制約されずに済む。
ただし、この強化には前提がある。皇帝本人に尚書台を使いこなすだけの能力と精力がなければならない。光武帝や明帝のように英明で行動力のある皇帝なら、システムはよく動く。では、皇帝が幼く、統治する力を持たなかったらどうなるか。尚書台の権力は、皇帝の周囲にいる別の人々、太后、外戚、宦官に引き継がれる。
劉秀が皇帝権力を強めようとして施した設計は、まさにその権力が後に外戚や宦官へ流れ出す道を整えた。道具そのものに善悪はない。よく切れる刃物があれば、英雄は野菜を切るのに使い、泥棒は錠をこじ開けるのにも使える。
二 豪族――余項の制度化
後漢で最も重要な社会現象は、豪族の台頭だった。
豪族は後漢の発明ではない。前漢にも大地主、大商人、巨大な一族はいた。ただ前漢では、豪族は抑え込むべき相手だった。武帝期の酷吏は彼らを狙い撃ちにしたし、豪強を関中へ移住させる政策も日常的に行われた。強制移住によって、地方での勢力を削ぐのである。
後漢は違った。劉秀自身が南陽の地方豪族の出身だった。皇族の末裔ではあるが、彼の代にはすでに地方の有力な家として暮らしていた。中核となる支持者にも地方豪族が多い。南陽系と河北系の豪族は、彼が天下を取るうえでの支持基盤だった。天下を取ったとたん、その基盤を今度は自分で締め上げるわけにもいかない。
結果として、豪族に対する後漢朝廷の姿勢は、前漢の抑圧から、黙認や容認、さらには協力へと変わった。
後漢の二百年間に、豪族は経済的な勢力から政治的な勢力へと姿を変えていった。
第一段階は、光武帝から章帝まで、およそ25〜88年。豪族は主として経済的な力を持っていた。広大な土地、大勢の佃客、つまり豪族に従属する農民、そして屋敷の警護役や家兵といった私兵である。経済的には国家から独立していたが、政治に組織的な影響力を及ぼすまでには至っていなかった。
第二段階は、和帝から桓帝まで、およそ88〜167年。豪族は官僚組織へ系統的に入り込み始める。その経路が察挙制だった。察挙制では、地方官が「孝廉」、すなわち徳行に優れた人材を推薦する。推薦権は地方官の手にある。その地方官自身、豪族の出であることが多いから、当然、自分の一族を優先して推薦する。数世代もたつと、特定の大族から代々高官が出るようになる。「四世三公」「累世公卿」が、こうした家の看板となった。
典型的なのが、四代にわたって五人の三公を出した汝南の袁氏と、四代にわたって太尉を出した弘農の楊氏である。一代ごとに個人の才覚だけで、それぞれ官途を上り詰めたのではない。一族の人脈を使い、察挙という登用の経路を組織的に独占したのだ。
第三段階は、桓帝から漢の末年まで、およそ167〜220年。豪族は官僚組織に入り込むだけでなく、地方社会を事実上支配するようになった。彼らの荘園は自給自足の経済圏で、農業も手工業も備え、さらには一族の子弟や門客を育てる私塾まで持っていた。佃客と家兵は、事実上の私設軍隊を構成する。地方での影響力は、中央から派遣されてきた官吏をはるかに上回った。
漢末に中央の権威が崩れると、地方で人々を組織できる勢力は、この豪族だけになった。曹操、袁紹、劉備、孫権。三国の主要な担い手たちは、袁紹の汝南袁氏のように自らが豪族の出身であるか、そうでなければ豪族の支持を頼みにしなければ政権を築けなかった。
余項保存則から見れば、豪族の変化は教科書に載せたいほどの典型例である。
バージョン3.0のOS、つまり郡県制に編戸斉民と土地私有を組み合わせた仕組みは、国家が個々の家族に直接向き合い、その間に緩衝層を置かないことを目指していた。秦の編戸斉民は宗族を解体し、国家と個人の間に中間組織を残さなかった。
だが、その設計目標を永久に保つことはできない。人間はもともと群れをつくるからだ。血縁で、地縁で、経済的な結びつきで、文化的な結びつきで。古い中間層である宗族を解体しても、別の基盤から新しい中間層が育ってくる。土地の兼併と察挙制、この二つの働きによって再び生えてきた中間層が、豪族だった。
国家が中間層を取り除くたびに、中間層は新しい土壌からまた生えてくる。取り除き方は異なる。秦は編戸斉民を使い、武帝は酷吏を使い、劉秀は功臣を退かせた。結果は同じだ。中間層は姿を変えて再び現れる。宗族を解体すれば豪族が育つ。豪族を抑え込めば――曹操が許の周辺で進めた屯田にも、豪族の経済基盤を叩く狙いが一部あった――今度は門閥士族が育つ。魏晋南北朝の九品中正制は、豪族による政治の独占を制度にしてしまった。
中間層は、構にとって永遠の余項である。消し去ることはできない。根は特定の制度設計にあるのではなく、人間の社会性そのものにあるからだ。人は群れをつくる。群れには階層が生まれる。階層は中間層を生む。宗族から豪族へ、門閥へ、郷紳へ、そしてまた別の何かへ。その姿を変えることはできるが、中間層という現象自体はなくせない。
三 外戚と宦官――構の内部で消耗し合う二つの余項
後漢の中期以降の政治史は、一言で言える。外戚と宦官が交互に権力を握った。
交代は、次のような仕組みで起きる。
第一段階。皇帝が幼くして即位する。後漢では和帝以後、ほとんどの皇帝が幼少で即位した。和帝は十歳、殤帝は生後百日、安帝は十三歳、順帝は十一歳、沖帝は二歳、質帝は八歳、桓帝は十五歳、霊帝は十二歳だった。
第二段階。太后が政務を執り、太后の実家の一族、すなわち外戚が実権を握る。
第三段階。成長した皇帝が権力を取り戻そうとする。だが朝廷は上から下まで外戚の一派に押さえられ、正式な官僚組織には自分の味方が見つからない。朝から晩まで皇帝のそばにいて、皇帝だけを頼みとして生きる人間は誰か。宦官である。
第四段階。皇帝が宦官と組んで政変を起こし、外戚を滅ぼす。宦官は功績によって力を得て、朝政を牛耳るようになる。
第五段階。新しい皇帝が、また幼くして即位する。前の皇帝が短命に終わることが多いからだ。新しい太后が政務を執り、新しい外戚が権力を握る。宦官は粛清される。
第六段階。第一段階に戻る。
後漢の中期以降、この循環は繰り返し上演され、少なくとも四、五回は一巡した。外戚が滅ぼされるたびに宦官が台頭し、宦官が粛清されるたびに外戚が戻ってくる。二つの集団はシーソーの両端のように、上がっては下がり、いつまでも交代し続ける。
構の観点から見れば、外戚も宦官もバージョン3.0のOSが構造的に生み出した存在だった。
外戚が力を持つ根本の理由は、バージョン3.0が、皇帝個人から独立した権力移行の仕組みを設計していなかったことにある。皇帝が死んだら、あるいはまだ幼かったら、権力は誰に帰するのか。制度上の明確な取り決めがない。太后の摂政は非公式の慣例であって、正式な制度ではなかった。外戚の権力掌握は、その自然な延長にある。太后は誰を信用するか。自分の身内だ。
宦官が力を持つ根本の理由は、バージョン3.0が権力を皇帝個人に極度に集中させたことにある。尚書台の設計は、この傾向をさらに強めた。外戚に支配された官僚組織、すなわち外朝に皇帝が対抗しようとするとき、使える政治的な資源は内廷しかない。そして内廷の中核を占めるのが、宦官だった。
二つの余項が消耗し合う過程は、きわめて有害だった。権力が交代するたびに、殺害、財産没収、流刑という政治的粛清が伴う。消されるのは外戚や宦官本人だけではない。官僚組織の中にいる、多数の同盟者や追随者まで巻き込まれた。粛清を何度か繰り返すうちに、能力と経験のある人々が次々とふるい落とされる。残るのは無害な凡人か、勝ちそうな側につくことに長けた日和見主義者だった。
システムが自分で自分を劣化させていたのである。内部の権力闘争が起きるたび、官僚組織全体の質が落ちていく。何度も洗濯する服のようなものだ。洗うたびに、生地が薄くなる。最後には、もう着られない。
さらに深く見ると、外戚と宦官の交代は、バージョン3.0のOSにある根本的な欠陥を露わにする。最高権力のノードが、ただ一点しかないのだ。システム全体の稼働が、皇帝一人の能力と意志にかかっている。皇帝が英明なら、よく動く。幼く弱い皇帝なら、その一点を奪おうとする諸勢力によって、システムはたちまち引き裂かれる。
一点に依存するシステムには冗長性がない。一つのノードが機能しなくなれば、ネットワーク全体が機能しなくなる。現代の分散システムでは、重要なノードに代替となるバックアップを備えることが求められる。中国の皇帝制には、この発想がなかった。皇帝は唯一であり、複製も代替もできない。その唯一の席を二歳の幼児が占めれば、太后、外戚、宦官による非公式の権力配分に頼って、なんとか動かすしかない。しかも非公式の権力配分には規則の縛りがなく、すべては参加者の実力のせめぎ合いで決まる。
そのせめぎ合いの結果が、外戚と宦官のシーソーだった。
四 党錮の禁――保守する側が挑戦する側に変わるとき
西暦166年と169年、後漢で二度にわたる「党錮の禁」が起きた。
発端は、太学の学生や地方の士人を中心とする儒者の集団が、宦官の専横を公然と批判したことだった。人物を品定めし、その時々の政治の善し悪しを論じる。これが歴史にいう「清議」であり、彼らは「党人」と呼ばれた。宦官集団は反撃に出る。仲間を組んで私利を図っていると非難し、桓帝と霊帝を説得して、党人の逮捕と仕官の禁止を命じさせた。当事者が官職に就くことを禁じられただけではない。親族、弟子、友人にも累が及んだ。二度の党錮で数百人が巻き込まれ、影響は数千人に広がった。
大量の優秀な人材が官僚組織から排除された。その政治的な帰結は明白である。だが鑿と構の観点から、より注目すべきなのは構造上の意味だ。儒者という階層が、構を維持する側から、構に挑戦する側へと変わったのである。
バージョン3.0のOSの設計を振り返ろう。儒学を唯一の正統として尊ぶ狙いは、儒家のイデオロギーによって余項を符号化し、社会が自ら進んで秩序を受け入れるようにすることだった。この設計で、儒者は何を担うのか。イデオロギーを生産し、広める役だ。経典を学び、解釈し、その基準で政治を評価し、次の世代を教育する。彼らはバージョン3.0の「ソフトウェア保守チーム」だった。
システムが正常に動いているかぎり、この役割は安定をもたらす。儒者は天人感応の枠組みに従い、災異を根拠に皇帝の個々の振る舞いを批判するが、システムそのものは疑わない。批判は建設的なものだ。正しいパラメータから外れた箇所を指摘し、元へ戻すよう求める。その批判が実際には、システムの自己修復を助けていた。
ところが、狂いがパラメータではなく構造の問題になったらどうか。宦官が官僚組織全体を組織的に腐食させ、皇帝が一貫して宦官の側に立つようになれば、儒者の批判は建設的なものから対決的なものに変わる。もはや「設定値がおかしい」と言うだけではない。「操作している者に問題がある」と言い始める。人物を評し、政治の善悪を論じる行為の実質はこうだ。誰に権力を握る資格があり、誰にないのかは、われわれ知識人が判断する。それは、皇帝の人事権への直接の挑戦だった。
宦官集団は、この脅威を見逃さなかった。党人に貼った「徒党を組んでいる」というレッテルは政治攻撃ではあるが、まるきり根拠がないわけでもない。党人は実際に、組織を持ち、価値観を共有し、政治の方向に影響を与えようとする集団になりつつあった。その集団が成功すれば、宦官は終わりだ。生き残るためには、党人を潰さなければならない。
余項の観点から見ると、党錮の禁は儒学の独尊が抱える深い矛盾を露呈させた。道徳的な批判を天職とする知識人階層を育てておいて、その彼らに批判を許さないのである。
儒学を唯一の正統とする設計は、儒者をシステムのソフトウェア保守チームにするつもりだった。だがソフトウェアを保守する者は、必ずそのバグを見つける。見つければ報告する。皇帝が諫言を聞き入れ、報告を受け入れれば、システムは修復され、誰もが喜べる。皇帝が宦官と手を組んで退ければ、保守チームはますます失望し、ますます急進化し、やがて維持する側から反対する側へ変わっていく。
自分の頭で考える知識人集団を、正統性の生産と政策批判のために欲しがりながら、聞きたくないときだけ黙れと言うわけにはいかない。独立した思考は、都合に合わせて開け閉めできる蛇口ではない。いったん開けたなら、見たくない水も流れてくることを受け入れなければならない。
党錮の禁は、バージョン3.0のOSによる自傷行為だった。システムは自分のソフトウェア保守チームを切り取ってしまった。短期的には、宦官集団の安全が確保された。長期的には、システムから自己修復能力が失われた。誰も批判しなくなったのは、問題がなくなったからではない。批判する者が口を封じられたからだ。問題は積もり続けるのに、指摘する者がいない。沈黙は健康の証しではない。治療を放棄したということだ。
党錮の禁から二十年もたたないうちに、黄巾の乱が起きた。ソフトウェア保守チームを切り捨てたあとでは、ハードウェアが崩れるのも時間の問題だった。
五 黄巾の乱――社会の底辺の余項が宗教を通じて噴き出す
西暦184年、張角率いる太平道が、全国で一斉に蜂起した。信徒が黄色い頭巾を巻いていたため、黄巾の乱と呼ばれる。掲げたのは「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉」という標語だった。
中国史上、宗教という形で組織された最初の大規模な農民蜂起である。
なぜ宗教だったのか。
それ以前の農民蜂起、陳勝・呉広や緑林・赤眉は、いずれも世俗的なものだった。組織の土台は、同郷という地縁や、同じ部隊に属するという軍事上の関係にある。人々を動員する標語も、「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」「漢を復興せよ」といった政治的なものだった。
黄巾の乱は違った。太平道は、宗教組織として一通りの仕組みを備えていた。『太平経』という教義があり、符水で病を治す儀礼があり、三十六の「方」に分けられ、それぞれ数千から数万人を擁する組織がある。指導者崇拝もあり、張角は「大賢良師」と呼ばれた。信徒は全国八州に広がり、現在の河北、河南、山東、湖北、安徽、江蘇にまたがっていた。
なぜ社会の底辺からの抵抗が、宗教の形を取ったのか。
バージョン3.0のOSが、世俗的な抵抗の経路をすべて塞いでいたからだ。
儒家のイデオロギーは、政治秩序を道徳の問題にした。君臣や父子の関係は天地の道理であり、反抗すれば不忠、不孝となる。この符号化は、平時には世俗的な抵抗意識を抑え込むうえでよく働いた。儒学の基本的な教化を受けた農民にとって、自分の反抗を世俗の政治の言葉で弁護するのは難しい。反抗そのものが間違いだと、儒学に教えられているからだ。
だが宗教は、この符号化を迂回する道を開いた。「蒼天すでに死す」。自分は君主に背いているのではない。さらに上位の権威である天、黄天に従っているのだ。天命はすでに移った。古い天である蒼天、すなわち漢王朝は死に、新しい天である黄天、すなわち太平道がそれに取って代わる。これは反乱ではない。天命の帰するところなのだ。
宗教の言葉は、反抗を別の符号に置き換えた。「不忠不孝の反乱」から「天命に従う革命」へ。しかも、その符号化は一段上の階層で行われる。天命は君臣の倫理より上位にある。だから天命が移れば、君臣関係を覆すことも正当化できる。
余項の観点から見れば、黄巾の乱は、世俗的な出口を完全に塞がれた底辺の余項が、代わりの出口を見つけた出来事だった。農民の貧困、怒り、絶望が、その余項である。儒家のイデオロギーは世俗の経路を閉ざした。「朝廷が自分を不当に扱うから反抗する」とは言えない。宗教は世俗を超えた経路を開いた。「天命が変わったから反抗する」なら言える。
この型は、その後も繰り返し現れる。後漢には太平道と五斗米道。元末には白蓮教と弥勒教、そして紅巾軍。明末には聞香教。清代には白蓮教と太平天国がある。底辺の抵抗が宗教化するたび、同じことが示される。公認のイデオロギーは世俗的な抵抗の道を塞ぐと同時に、抵抗をさらに制御しにくい宗教の次元へ押しやっているのだ。一階の扉を塞げば、人は二階の窓から飛び出す。
黄巾の乱そのものは、ほどなく平定された。主力は一年もたたずに打ち破られた。だが、その後に残したものは致命的だった。鎮圧するため、朝廷は地方豪族や州郡の長官が独自に兵を募ることを認めざるをえなかった。軍事権力を中央から地方へ渡したに等しい。一度手放した軍権は、二度と取り戻せなかった。董卓、曹操、袁紹、劉表、孫堅といった各地の軍閥は、この権力の空白から台頭した。
後漢を倒したのは、黄巾の乱ではない。それに対抗するために後漢自身が解き放った軍事力が、後漢を解体した。病気を治す薬が、命を奪う毒に変わったのだ。
六 後漢の死因――全容を記した検死報告
後漢は、たった一つの原因で滅んだのではない。複数の余項が同時に臨界点へ達した結果だった。検死報告の全容を記すなら、こうなる。
直接の死因――軍閥の割拠による中央権威の崩壊。
董卓が都に入った189年以降、中央政府は名ばかりの存在となった。そこから曹丕が漢に代わる220年までの三十年間は、長い死の過程だった。皇帝はまだいるが、すでに傀儡である。権力は各地の軍閥の手に分散していた。
間接的な死因その一――外戚と宦官の交代が、官僚組織の質をすり減らした。
度重なる政治的粛清によって有能な人々が脱落し、官僚組織は凡人と日和見主義者で埋まった。黄巾の乱という危機にシステムを挙げて対応しなければならなくなったころには、行政能力はすでに、有効に対処できる水準を下回っていた。
間接的な死因その二――党錮の禁が、システムの自己修復能力を切り取った。
儒者たちが官途から締め出されたあと、システムは問題を見つけて報告する能力を失った。問題は処理されないまま蓄積し、ついには取り返しのつかないところまで積み上がった。
間接的な死因その三――豪族の台頭が、中央による地方の実質的な支配を空洞化させた。
豪族の荘園経済、私兵、人材登用を独占するネットワークによって、地方社会は事実上、中央から独立していた。中央の権威が崩れても、地方にはそれを引き戻す求心力がない。それどころか、さらに引き裂く遠心力が働いた。
根本の死因――バージョン3.0のOSが、一点に依存する構造だったこと。
ここまで挙げた問題に共通する根は、システム全体の稼働が皇帝一人という一点にかかっていたことにある。皇帝が幼い→外戚が権力を握る→宦官が反撃する→官僚組織が劣化する→自己修復能力を失う→底辺で反抗が起きる→軍権を地方へ渡す→軍閥が割拠する→中央が崩れる。この因果の鎖の起点は「皇帝が幼い」という、システムには制御できない偶発的な出来事だった。
一つの偶発的な出来事で、後戻りできない崩壊の連鎖が始まるシステムは、よいシステムとは言えない。それなのにバージョン3.0は、この要のノードに冗長性を設けていなかった。摂政には慣例があっても制度がない。権力分立はなく、すべての権力が皇帝に集中する。最高権力者を選ぶ独立した仕組みもなく、血縁で継承し、嫡長子を優先するだけで、能力による選別は行わない。
この根本的な欠陥は、後漢だけのものではない。バージョン3.0をインストールするたびに、必ずついて回る。前漢にも同じ問題があった。前漢末の外戚による政治介入も、重要な要因である。ただ、前漢の皇帝は平均すると在位期間が長く、即位年齢も高かったので、後漢ほど問題が集中して噴き出さなかった。後漢の不幸は幼帝が次々と現れ、この欠陥を極限まで押し広げたことにあった。
とはいえ、幼帝が続いたのも、まったくの偶然ではない。後漢後期の外戚も宦官も、幼い皇位継承者を選びたがった。幼帝のほうが操りやすいからだ。継承者の選択を左右できること自体が、外戚や宦官の権力の一部だった。一点依存の構造が幼帝の危険を生むというシステムの欠陥を、その欠陥を利用する外戚や宦官が、自ら進んで増幅した。これは正のフィードバックである。欠陥が、それを利用する者を生み出し、利用する者がまた欠陥を大きくする。
七 後漢が周期律に加えた教訓
後漢の二百年は、バージョン3.0のOSが初めて一つの周期を最後まで動いた期間だった。そこから得られる、時代を超えた教訓がいくつかある。
第一に、余項は制度化する。
豪族の変化が示すように、余項は静止した存在ではない。育っていく。小さなものが大きくなり、緩やかなつながりが緊密になり、非公式なものが正式なものになる。システムができたばかりのころに見えていた小さな余項、たとえば引退した数人の功臣の荘園が、百年後には、地方社会全体を支配する豪族ネットワークとなって、システムを呑み込む怪物に化けるかもしれない。
余項の制度化こそ、構が老いる中心的な仕組みである。構そのものの設計が悪くなったのではない。バージョン3.0の骨組みは二百年間、根本的には変わらなかった。その内部で余項が蓄積し、固まっていき、ついには骨組みを中から空にしてしまったのだ。
第二に、構の自己修復機能は、構自身によって切り取られうる。
党錮の禁が示したのは、構が自己修復能力を備えていても――儒者集団の批判機能のように――その能力自体が、内部の権力闘争によって消されうるということだ。システムは、自分の医者を殺すことがある。
気の滅入る発見である。自己修復の仕組みを設計に組み込んだところで、いつかシステム自身がそれを止めてしまわないという保証はない。システムの免疫機構は、その内部の「自己免疫疾患」によって破壊されうるのだ。
第三に、出口を一つ塞げば、余項は別の出口を探す。
黄巾の乱は、それを示している。イデオロギーで世俗的な抵抗の道を塞げば、抵抗は宗教の衣をまとい、別の次元から顔を出す。余項は水だ。一つの道を塞げば、別の道を探す。すべての道を塞げば、地面の下から染み出してくる。
第四に、病気を治す薬が、命を奪う毒になりうる。
黄巾の乱に対抗するため地方へ渡した軍権が、最後には中央の権威そのものを破壊した。この教訓は、その後も繰り返される。安史の乱の勃発後、唐は鎮圧のために藩鎮の権力を拡大し、その藩鎮が新たな脅威となった。明がモンゴルに対抗するため設けた辺境の軍事組織は、ついには李自成の反乱軍へ兵を供給する源になった。
力で問題を解決するたび、その力自体が新たな問題になる可能性がある。力を使うべきではない、という意味ではない。ほかに選択肢のないときもある。使う側は、いったん解き放った力が制御できなくなることを自覚すべきだ、という意味である。薬には必ず副作用がある。飲ませる前に、副作用が病気以上に致命的ではないか、見極めなければならない。
第五に、構の崩壊は一つの事件ではなく、一つの過程である。
後漢は、ある一日に崩れたわけではない。和帝が即位した88年から曹丕が漢に代わった220年まで、百三十年以上にわたって、ゆっくりと解体していった。その途中には、回復したかに見える時期もあった。鄧綏太后のもとで政治が清明だった時期や、順帝初年の短い安定期である。だがそれは、崩壊の途中での一時停止であって、流れの逆転ではなかった。
崩壊が過程だということは、どの段階にも「まだ直せる」と考える人がいるということだ。自分を欺いていたのではない。その段階では、システムは実際にまだ完全には壊れていなかった。ただし彼らは、すでに積み上がった余項の総量を過小評価していた。表面ではまだシステムが動いていても、その下では余項が、もう後戻りできないところまで蓄積している。
「まだ直せる」が「もう取り返せない」に変わるのは、いつなのか。その場で正確に判断できる者はいない。臨界点がはっきり見えるのは、後から振り返ったときだけだ。これが構の老化で最も残酷なところである。自分が臨界点の手前にいるのか、その先にいるのか、いつまでもわからない。わかるころには、すべてが手遅れになっている。
次篇は三国。比較するには、これほど格好の題材はない。後漢の崩壊が残した中心的な余項は豪族だった。主要な四者は、この余項にまったく異なる四つの対応を取る。曹操は抑え込み、劉備は迂回し、孫権は交渉し、司馬氏は抱き込んだ。四つの方法には、四つの代償がある。最後に勝ったのは、抱き込む方法だった。司馬氏は豪族を余項から政権の基盤へと変え、その階層との共同統治と引き換えに天下を手に入れた。一番賢いやり方に見えるが、代償も一番大きい。余項と一体化すれば、もはやそれを抑え、均衡を保つ余地がなくなる。その代価は、西晋の八王の乱と、続いて北方の諸民族が中原を支配する大分裂のなかで、全額を支払うことになる。