鑿構周期律 · 中華帝王シリーズ — 第10篇、全25篇
第十篇:王莽――時間を逆戻りさせようとした男
前漢の末に、奇妙な男が現れた。
前漢の末に、奇妙な男が現れた。
金に執着せず、女色にもふけらず、身内だからというだけで人を取り立てることもない。学識ある者を敬い、へりくだって迎え、質素に暮らし、俸禄や封邑からの収入の多くを人に施した。個人としての徳行なら、前漢の権門のなかに並ぶ者はほとんどいなかった。当時の儒者たちは、周公の再来だと仰いだ。
その男が、漢の帝位を簒奪し、新という王朝を建て、耳を疑うような復古改革を次々と実行した。十五年後、天下は大乱に陥り、彼の首は一人の商人に切り落とされた。その首は、後の王朝の皇室に収蔵品として受け継がれ、二百年以上も保存された。
王莽ほど、中国政治史のなかで分類に困る人物もいない。暴君ではない。殺戮を好まなかった。暗君でもない。政務にはこのうえなく勤勉だった。陰謀家でもない。簒位以前の彼の徳行は本物で、すべてが演技だったわけではない。理想主義者でもない。権力を追い求めるのも本気だった。彼は、自分なら時間を巻き戻せると、心から信じた人だった。
鑿構周期律の視点から見れば、王莽はOSを3.0から1.0へダウングレードしようとした人である。彼は周公の時代に戻りたかった。口で唱えるだけではない。聖人を持ち出して体裁を整えるのは、どんな簒奪者でもやる。王莽は、本当に戻ろうとした。周公の制度こそ最善であり、そこから外れた漢の歩みは誤りであり、誤りを正すには元どおりにするしかない。彼は本気でそう信じていた。
この信念に、彼の悲劇のすべてが根を下ろしている。
一、前漢末期――3.0の老朽化
王莽を理解するには、まず彼がどんなシステムと向き合っていたのかを知る必要がある。
武帝以後の前漢は、およそ百年をかけて徐々に衰退していった。特定の皇帝や一つの事件が衰退を引き起こしたのではない。バージョン3.0のOSが長く稼働するうちに、おのずと積み重なっていった余項が、システムの自己修復能力を少しずつ上回っていったのだ。
最大の余項は、土地の兼併だった。
編戸斉民と土地私有制を組み合わせれば、論理的な帰結として土地の兼併が起きる。土地を売買できるということは、金のある者は買い続けられ、貧しい者は天災や病気、税の重圧に押されて売り続けるということだ。数代たつうちに、土地は少数の大家族に集中し、多くの農民が土地を持たない小作人や流民になっていく。
これは、どこかの皇帝の政策ミスではない。システムの設計に内蔵された傾向である。商鞅の「井田を廃し、阡陌を開く」改革は、土地市場の活力を解き放つと同時に、土地兼併という必然をも解き放った。武帝は塩鉄の専売によって商工業資本に部分的な制限を加えたが、土地問題には手をつけなかった。文帝と景帝は徭役や租税を軽くして兼併の速度を落としたが、その方向は変えられなかった。方向は定まっている。速さなら調節できる。だが、その向きを逆転させられる者はいなかった。
前漢末期になると、土地の兼併は社会の存立を脅かすほどに進んでいた。哀帝の治世(紀元前7年から前1年)、師丹は一人が所有できる土地に上限を設ける限田案を提出した。案は出され、そして棚上げされた。大量の土地を持つ者こそ、朝廷で最も権力を握っている者だったからだ。自分たちの利益を制限する法律を彼らに作らせるのは、自分の手で自分の首を絞めろと言うようなものだった。
蓄積していた第二の余項は、外戚の政治介入である。
漢の制度設計には、構造的な穴が一つあった。皇帝が幼くして即位したら、誰が摂政を務めるのか。たいていの答えは、皇太后とその実家の人々、すなわち外戚だった。
どこかの皇太后がことさら強気だった、という個人の問題ではない。制度の論理から生まれる結果である。幼い皇帝には親政ができない。朝廷の大臣たちは互いに牽制し合い、誰一人として、ほかを圧するほどの正統性を持って摂政に就くことはできない。皇太后は皇帝の母である。母が息子の面倒を見るという、ごく自然な正統性の根拠があった。だが、皇太后一人で政務のすべてを処理することはできない。頼るのは、自分が信頼する人々、実家の身内だ。こうして外戚集団が権力を握る。
前漢後期には、外戚が政治を動かすのが常態になった。霍光も、王鳳も、王莽自身も、みな外戚だった。ところが制度には、「皇帝が成人した後、どうやって外戚の手から権力を取り戻すか」という円滑な移行の仕組みが用意されていなかった。結果は三つに限られる。外戚が自ら権力を手放す。これはきわめてまれだった。皇帝が暴力で奪い返す。霍光の死後、その一族が滅ぼされたように。あるいは外戚が、いっそ皇帝に取って代わる。王莽のように。
第三の余項は、儒者層の膨張だった。
儒学が唯一の正統として尊ばれるようになると、官途に就くための正道も儒学一つになった。そこから巨大な儒者集団が生まれた。彼らは察挙制、つまり地方が優れた人材を中央へ推薦する制度を通じて官僚機構に入り、地方から中央まで、膨大な数の行政職を占めるようになった。
この集団には二つの特徴がある。一つは、強烈な道徳的使命感だ。彼らは儒家の理想を心から信じ、その理想によって世の中を作り替える責任が自分たちにあると考えていた。もう一つは、堯・舜・禹や西周に象徴される古代の理想的な政治に対する、宗教にも似た崇拝である。彼らの世界観では、古代こそ黄金時代であり、その後の歴史は堕落を重ねてきた過程だった。政治の最高目標は、古代の制度を復活させることにあった。
この二つが重なり、強大な政治的エネルギーになった。本気で、しかも体系立てて「過去に戻れ」と要求する知識人の階層である。復古の言葉を利用して権力を狙うだけの投機家たちではない。そういう者もいたが、多くは本当に信じていた。
王莽は、この階層が生み出した最高傑作だった。
二、王莽という人物――体制が生んだ完璧な申し子
王莽は、前漢で最も名高い外戚の家、王氏の出身だった。父方のおば、王政君は、元帝の皇后である。王氏は成帝・哀帝・平帝の三代にわたって朝政を牛耳り、その権勢は天を覆うほどだった。
しかし王莽は、王氏のなかでは異端だった。ほかの一族の子弟は「争って奢靡をなす」、つまり金と派手な暮らしを競い合っていた。王莽はその逆を行った。質素に暮らし、地味な服を着て、母と兄嫁には細やかな心配りを欠かさなかった。兄が早世したため、兄嫁と甥の世話を引き受けていたのである。広く儒者と交わり、賢者を敬って迎え、封邑の収入の多くを食客や貧しい人々に分け与えた。
これを全部、演技とは言えない。少なくとも初めのころ、王莽の道徳的な行動は内心から出たものだった。厳格な儒学教育を受け、儒家の価値観を心から自分のものとしていた。その行動は、それらの価値観の自然な表れだった。もちろん、政治のなかで道徳的に振る舞う以上、打算が一切ないというわけにはいかない。質素さと賢者への敬意は、王莽に大きな名声をもたらし、その名声が今度は政治的な資産を増やした。だが、そのすべてを陰謀に還元するのは不公平だ。人は誠実であると同時に、野心を持つこともできる。
王莽の政治人生は、その一歩一歩がバージョン3.0のOSの正常な稼働の結果だった。外戚のつながりで権力の中枢に入る。これは外戚政治の論理。道徳的な名声で儒者たちの支持を得る。これは儒学を唯一の正統とする論理。摂政を務めながら徐々に権力を蓄える。これは幼帝と外戚摂政を組み合わせる論理。そして最後は禅譲によって漢に取って代わる。これは禅譲という物語の論理である。
どの一歩も、システムが認めていた。当時の制度上の規則や文化的な規範に反する一歩は、どこにもなかった。王莽は体制が生んだ完璧な申し子である。その台頭は体制を壊す行為ではなく、体制自身の論理が展開した結果だった。
だからこそ、彼の簒位は当時、大規模な反対を招かなかった。むしろ幅広い支持を得た。朝廷の官僚の大多数も、民間の儒者の大多数も、さらには多くの庶民まで、王莽が漢に代わるのは天命の帰するところだと考えた。符命、すなわちさまざまな瑞祥や予兆が次々と現れ、民謡は王莽の功徳を歌い、48万7572人が即位を勧める上書を差し出した。この妙に細かい数字は、朝廷が組織的な署名運動を行ったことを物語る。同時に、少なくとも表面上は、かなりの社会的支持があったことも示している。
西暦8年、王莽は漢の皇帝から禅譲を受け、新王朝を樹立した。
鑿と構の視点から見れば、王莽の簒位は、中国政治史上初めて、そして最も純粋なかたちで、バージョン3.0のOSの正常な作動機構を通じて起きた政権交代だった。商の湯王が夏を滅ぼし、周の武王が商を滅ぼしたような武力による打倒ではない。曹丕の漢簒奪の本質にあたる、軍事クーデターでもない。システム内部の合法的な手続きが、行き着くところまで行ったのである。外戚による権力掌握→儒者の支持→道徳的な正統性の蓄積→禅譲の物語の始動。その全過程が、システムの規則の内側で進んだ。
システムは、自分に取って代わる者を自分で生み出した。3.0は、これを予見していなかった。余項を管理する仕組みは設計したが、その仕組み自体がシステムの転覆に使われるのを防ぐ安全策までは設計しなかった。ファイアウォールが、攻撃の道具になったのだ。
三、古代を根拠に制度を変える――3.0から1.0へ
即位した王莽は、すぐさま大改革に取りかかった。向かう先は、これ以上ないほどはっきりしていた。周の時代に戻るのだ。
井田制を復活させる。
王莽は全国の土地を「王田」とし、売買を禁じた。井田制に従って土地を再分配する。各家に人数に応じて田を与え、余った土地は同族や近隣の人々に分けなければならない。土地を売買すれば、禁令を犯したことになる。
これは商鞅の変法以来、四百年にわたって続いた土地私有制を、正面から否定するものだった。商鞅の「井田を廃し、阡陌を開く」は2.0の中核をなす改革の一つであり、秦制の郡県体制を動かす経済的な基盤だった。王莽は漢を変えるだけでは足りなかった。秦まで変えようとしていた。秦以前の土地制度へ戻ろうとしていたのだ。
「五均六筦」を復活させる。
国家は長安と五つの大都市に「五均官」を置き、市場価格を管理する。いわば物価を統制する役所である。それと同時に、塩・鉄・酒・鋳銭・山林や沢の資源・信用貸付という六分野で国家専売を行い、経済に対する国家の統制範囲を大幅に広げた。
武帝の塩鉄専売より、はるかに急進的だった。武帝が独占したのは、いくつかの基幹産業にすぎない。王莽は経済の命脈のほとんどすべてに、国家の手を伸ばそうとした。
貨幣制度を改革する。
王莽は十五年のあいだに、四度の貨幣改革を行った。そのたびに旧貨幣を廃止し、新しい貨幣を発行した。額面も、重さも、材質も次々に変わる。種類の多さには目がくらむほどだった。金の貨幣、銀の貨幣、亀の甲の貨幣、貝の貨幣まである。
その背後にあったのは、古典への憧れが生んだ幻だった。王莽は『周礼』に記された古代の貨幣体系を復活させたかった。『周礼』に、さまざまな材質の貨幣を併用する制度が出てくる。だから、そのとおりにする。当時の経済の現実が、その制度を支えられるかどうかは考えない。考えるのは、古い書物にどう書いてあるか、それだけだった。
官制と地名を改める。
王莽は大量の官職を改称し、『周礼』にある名称に置き換えた。郡県の地名も大がかりに変更した。しかも、一度では済まないところまであった。あまりに変えるので、しまいには政令を出す際、新しい地名の後ろに旧名を書き添えなければならなくなった。そうしなければ、どこの話をしているのか誰にもわからなかった。
これらの改革を並べると、何をしていたのかがくっきり見えてくる。王莽は目の前の問題を解こうとしていたのではない。古典の文章に描かれた理想の光景を、現実にしようとしていた。
改革の出発点は、現実ではなかった。まず土地の兼併、流民、貧富の分化といった問題を診断し、それぞれに合った解決策を設計するのではない。出発点は書物だった。『周礼』の制度が最も完璧だと先に決めて、その文章が描く模型のなかに、現実を無理やり押し込もうとしたのである。
構という視点で言えば、OSを3.0から1.0へダウングレードしようとする試みだった。
3.0は、儒家と法家の融合、郡県制、編戸斉民、土地私有を組み合わせ、四百年の変化を経てできあがったものだ。土地の兼併や外戚の政治介入といった問題はあった。だが、その基本構造は当時の社会構造と噛み合っていた。人口の規模も、経済の形も、社会を組織する方法も、すでにこのシステムに適応していたのである。
対して1.0、すなわち封建・井田・礼楽・宗法を支えた社会的な土台は、とっくに失われていた。井田制が成り立つのは、小規模な封建領地の経済があってこそだ。万里に及ぶ領土と五千万人の人口を抱えた大帝国には適さない。五等爵制には、安定した世襲貴族層が必要になる。だが、その階層は秦漢四百年の編戸斉民と軍功爵制によって、すでに解体されていた。
王莽のしたことは、スマートフォンのOSを最新版から十年前の版に戻し、それから、十年前のOSでは今のハードウェアが一つも動かないと気づくようなものだった。
四、なぜ改革はことごとく失敗したのか
王莽の改革は、一つ二つが失敗したのではない。すべてが失敗した。全面的に、システム全体にわたって、一つの例外もなく失敗した。
井田制は失敗した。すでに土地私有制に慣れた地主や農民に、土地の国有化を受け入れさせることはできなかった。地主は土地を手放したくない。何代もかけて積み上げた家産なのだから。貧しい人々は、理屈のうえでは土地の分配を歓迎するはずだった。だが、実際にどんな土地がもらえるのか、どれほどの広さなのか、それで食べていけるのか。いざ実行となれば、問題だらけだった。さらに決定的なのは、政策を執行する官僚機構そのものが地主階級の一部だったことだ。地主出身の官僚に地主の土地を没収させる。それは、一群の人間に、自分たちの金を自分たちで強奪させるに等しかった。
法令が出て三年、「天下は長らくその害をこうむった」というのに、実際にはほとんど執行されなかった。王莽自身も失敗を認め、廃止を命じた。
貨幣改革は失敗した。たび重なる貨幣の交換が、経済の信用を破壊したからだ。改革のたびに古い金は値打ちを失い、新しい金は信用されない。商人も庶民も、手元の金が明日も金として使えるのかわからなくなり、物々交換へと戻っていった。「農商は生業を失い、食貨はともに廃れた」。貨幣経済そのものが崩壊したのである。
しかも王莽の新しい貨幣体系は、複雑すぎた。額面も材質も違う何十種類もの貨幣が同時に流通していて、普通の人にはとても見分けがつかない。この仕組みを管理するために必要な行政能力は、当時の官僚機構の水準をはるかに超えていた。
五均六筦は失敗した。国営経済の非効率は、武帝の時代にすでに露呈していた。塩鉄会議でも批判された問題である。王莽はそれを解決するどころか、国営の範囲を数倍に拡大した。国営が増えれば、権限を利用して私益を得る余地も増える。本来は物価を安定させるはずの五均官が、実際には官僚の私腹を肥やす道具になった。安く買って高く売った差益は、国庫ではなく官僚の懐に入った。
地名の改革も失敗した。これに至っては、原因を分析するまでもない。交通も通信も馬と徒歩に頼る時代に、地名を大規模に変えて得られるものは、行政の混乱だけである。政令は末端まで届かず、地方官は自分の転任先がどこなのかわからず、庶民は自分がどの行政区に属しているのかわからなくなった。
これらの失敗に共通する根は、どこにあるのか。
実行力の不足ではない。もちろん、実行力には実際に問題があった。既得権益集団の妨害でもない。妨害も確かにあった。天災でもない。新王朝の初めに黄河が流路を変え、それが大規模な人道的惨事をもたらしたのも事実ではある。
根本にあったのは、四百年の変化を経てきた現実を、すでに時代遅れとなった模型で扱おうとしたことだった。
構は逆戻りできない。これは鑿構周期律の基本法則の一つである。
社会構造がいったんAからBへ変化すれば、来た道をそのまま引き返してAに戻ることはできない。AからBへ進む過程で、Aを支えていた条件が壊れているからだ。人口構成が変わり、経済の形が変わり、社会の組織の仕方が変わり、人々のものの見方や期待が変わる。紙の上なら、Aの制度の名前を復活させることはできる。しかし、Aが動くための条件までは復活させられない。
井田制には、流動性の低い農業社会が必要だった。前漢末期の社会には、すでに大規模な商業活動があり、人々は移動し、都市化が進み始めていた。その社会の上に井田制をかぶせるのは、高速道路に牛車用の車線を引くようなものだ。線は引ける。通る者はいない。
これは王莽一人の失敗ではない。「過去に戻る」ことを目指す改革者すべてに共通する運命である。構は前へ進みながら変わることができる。どちらへ進むかは予測できないが、後ろへ戻ることはできない。時間の向きは、一つしかない。
五、さらに深い問い――王莽の失敗は儒家の失敗なのか
王莽は儒家の理想を掲げて改革を行った。その政策は一つ残らず、儒家の経典に根拠を見いだすことができる。彼が失敗したということは、儒家の理想そのものが実現不可能だったということなのだろうか。
この問いは、すでに当時から突きつけられていた。王莽が倒れた後、光武帝劉秀が漢を復興する。後漢の儒者たちは、気まずい事実に向き合わなければならなかった。自分たちの理想どおりに行動した人間が、天下をめちゃくちゃにしてしまった。これをどう説明するのか。
後漢の儒者たちの主流の説明は、王莽は本当の儒者ではなかった、というものだ。儒家の言葉を利用して権力を追い求めた偽善者だった。改革も、本気で三代の治を復活させるためではなく、自分の簒位に正統性を与えるためだった。だから失敗の責任は儒家の理想にはない。王莽の偽りにある、というわけだ。
道徳のうえでは便利な説明だが、分析としては足りない。仮に王莽が百パーセント誠実だったとしても、改革はやはり失敗したはずだからだ。実像は、誠実さと偽りのあいだのどこかにあったのかもしれない。それでも失敗の理由は、誠実さが足りなかったことではない。構が逆戻りできないことにある。
さらに深い問題がある。儒家の理想には、正面から検証されたことのない前提が潜んでいた。過去は現在よりよかった、という前提である。三代の治こそ黄金時代で、その後の歴史は堕落を重ねる過程であり、政治が目指すべき最高の目標は古代の復活なのだ、と。
この前提は、一度も実証されていない。しかも、反証も難しい。三代の治についての情報は、その大部分が『尚書』や『周礼』など、後世の人々の理想化した叙述に由来する。考古学的な証拠や、信頼できる同時代の記録がもとになっているわけではない。周公の制度が実際にどれほど機能したのか、私たちは知らない。知っているのは、あれほどよく機能したのだと、後の人々が語ったことだけだ。
王莽は、この前提を本気で検証した最初の人だった。「三代を復活させる」という議論を、学問の場から政治の実践へ移した。結果は惨憺たるものだった。
その惨事は、何を証明したのか。三代の治が悪いものだったと証明したのだろうか。そうとは限らない。その時代、その条件のもとでは、十分にうまく機能していたのかもしれない。証明されたのは、制度を、それが属する時代や条件から切り離して移植することはできない、ということだ。よしあしは条件によって決まる。井田制は西周ではよい制度だったかもしれない。本当に真面目に実施されたことがあるのなら、という留保はつく。だが、それを前漢末期に持ってくれば、悪い制度になる。変わったのは制度そのものではない。条件のほうである。
王莽の失敗は、儒家の理想の失敗ではなく、時間旅行の失敗だった。千年前の地図を持って、今日の道を歩くことはできない。地図は精確に描かれているかもしれない。だが、街路のほうが変わっている。
六、赤眉と緑林――余項の全面的な噴出
王莽の改革の失敗は、連鎖反応を引き起こした。経済の崩壊→貨幣の信用喪失→商業の停滞→農民の土地喪失→流民の急増→社会の動揺。そこへ黄河の流路変更に伴う大洪水が重なった。主な被災地は山東・河北一帯だった。社会の耐えられる限界は、ついに突破された。
西暦17年から18年ごろ、湖北一帯で緑林軍が、山東一帯で赤眉軍が、相次いで蜂起した。
赤眉軍を構成していた人々には、目を向けておきたい。主力は土地を失った農民と流民だった。政治綱領はなく、新しい制度の案もなく、体系だった組織さえなかった。求めるものはただ一つ、生き延びること。彼らは眉を赤く塗って仲間を見分けた。これは、組織を作る費用がほとんどかからない身元識別の仕組みであり、組織化の水準がまだごく初歩的だったことを示している。
緑林軍の事情は、もう少し複雑だった。農民もいれば、没落した劉姓の宗室もいた。劉玄も劉秀も、そのなかにいる。劉氏の皇族が加わったことで、緑林軍は漢の政治的遺産のうち、決定的な資源を一つ手にした。血統による正統性である。劉姓であることは、漢室の正統につながることだった。この旗のもとに人を集める力は、どんな農民指導者が独力で作り出せる正統性をも、はるかに上回った。
更始元年、西暦23年、緑林軍が長安に攻め入り、王莽は殺された。新王朝は滅んだ。
余項の視点から見ると、新の滅亡は余項が一挙に噴き出した出来事だった。王莽の改革は、前漢末期に蓄積した余項、すなわち土地の兼併、流民、貧富の分化を解決できなかったばかりか、経済の崩壊と行政の混乱によって、大量の新たな余項まで作り出した。古い余項に新しい余項が重なり、システムの耐荷重を超えたのである。
注目すべきは、その滅び方だ。王莽は、組織された政治勢力に倒されたのではない。項羽と劉邦の連合軍が秦を倒したのとは違う。政治綱領を持たない飢えた人々の群れに、のみ込まれたのだ。王莽の死後も混乱は続いた。西暦25年に長安へ攻め入った赤眉軍の振る舞いも、放火、殺戮、略奪ばかりで、何一つ築こうとしないものだった。そこには「統治を引き継ぐ」という発想がなかった。新しい秩序を作るために来たのではない。古い秩序を壊すために来たのである。
この滅び方は、構造のうえでは陳勝・呉広の蜂起に似ている。相手が強すぎたのではなく、システムが空洞になりすぎていた。内部はすでに余項に食い荒らされている。外から一つ力が加われば、それがどれほど小さく、どれほど組織だっていなくても、倒れてしまう。
王莽の在位は十五年。秦も十五年だった。偶然ではない。二つの構の型はまるで違う。秦は法家一色の極端な中央集権であり、王莽は古代を根拠にした復古だった。だが、失敗の構造は同じだ。社会の現実に合わない構を、その上から無理やり押しつける。社会は適応できず、余項が急速に積み重なり、十五年ほどで臨界点に達して、爆発する。
十五年は、およそ一世代の時間である。誤った構に圧迫される社会でも、第一世代、つまり古い構を実際に生きた人々がまだ健在なうちは、耐えるための根拠がある。戦争や混乱といった、もっとひどい時代を覚えているからだ。今もよくはないが、少なくとも秩序はあると思える。第一世代が老い、あるいは世を去ると、第二世代にはその忍耐の根拠がない。新しい構の圧迫しか知らず、昔の混乱を覚えていないからだ。彼らの比較の基準は「もっと悪かった過去」ではなく、「もっとよいはずの現在」である。十五年とは、第一世代の忍耐が尽き、第二世代の不満が噴き出し始める、まさにその時間幅なのだ。
七、劉秀――3.0の再起動
王莽亡き後の権力争いは、ほどなく一人の人物へと収斂していった。劉秀である。
劉秀は漢の景帝の子孫だが、皇帝の血筋とのつながりはすでに遠かった。長沙定王劉発の後裔で、彼の代には爵位は何一つ残っていない。父は県令を務めたことがあり、家には田畑もあったから、南陽の小さな地方豪族といったところだった。ここにもまた、宗法制の下降経路が生んだ人物がいる。天子の子孫が、数代後には地方の有力者になる。皇族としての名分は消え、残るのは、系譜をたどることはできても、政治上の実権を何一つ伴わない血のつながりだけだった。
しかし、その遠い血のつながりも、政治ではまだ役に立った。「劉秀」という名は、彼が漢室の子孫であり、「漢の復興」を旗印に挙兵できることを意味した。少康の中興、光武の中興。同じ物語の原型が、またも呼び出されたのである。
劉秀の軍才も政治手腕も、一流だった。昆陽の戦いでは一万人に満たない兵で王莽の四十万の大軍を破っている。中国史でも屈指の、驚くべき少数による勝利である。だが、彼の真の貢献は軍事ではなく、政治判断にあった。新しいものを何も作ろうとしなかったのだ。
劉秀がしたのは、バージョン3.0のOSを再起動することだった。
郡県制は変えない。儒家と法家の融合も変えない。中央集権も変えない。察挙制も変えない。土地私有制も変えない。枠組み全体を、そのまま復活させた。新しい思想体系を作らず、新しい経済制度を押し出さず、官制を改めず、貨幣を取り替えもしなかった。王莽がかき乱したものを、王莽以前の状態に戻しただけだった。
これは、きわめて現実的な選択だった。劉秀は王莽の失敗から、単純な教訓を一つ学んだのかもしれない。システムを設計し直そうとするな。問題はあるかもしれない。それでも、問題がありながら皆がすでに慣れているシステムは、「もっとよい」はずなのに誰も適応できないシステムより、一万倍ましなのだ。
ここには、王莽の予想しなかった3.0の性質も表れている。しなやかな回復力である。一時的に止めることはできる。王莽の十五年のように。だが、止まった後でも再起動できる。再起動の費用は、設計し直す費用よりはるかに安い。システムを動かすための知識が、まだ社会の記憶に保存されているからだ。官僚は郡県をどう治めるかを知っている。儒者は経典をどう解釈するかを知っている。農民はこの仕組みのなかでどう暮らすかを知っている。十五年では、四百年分の稼働の記憶は消せなかった。
この回復力は、3.0の設計上の特徴から来ている。硬い仕組みと柔らかな仕組みを組み合わせていたことだ。硬さだけのシステム、すなわち秦制は、いったん止まると復旧しにくい。暴力と恐怖によって維持されているため、暴力の機械が停止すれば、再起動できなくなる。柔らかさだけのシステム、すなわち周礼も、いったん止まると復旧しにくい。信仰と、人々の内面に根づいた規範によって成り立つため、信仰が一度壊れれば、築き直すのは難しい。3.0では両者が組み合わされている。硬い部分、つまり行政の枠組みは素早く再建できる。各地に官僚を派遣すればよい。柔らかな部分、つまり儒家の価値観は、社会に十分深く根を張っている。十五年の中断では、根こそぎにはできなかった。
王莽は、3.0も破壊できることを証明した。劉秀は、3.0は再起動できることを証明した。二つを合わせると、3.0の生命力が見える。完璧ではない。だが、失敗から立ち直れるだけの回復力がある。OSに与えられる評価としては、これ以上のものはない。「クラッシュしない」ことではない。どんなシステムもクラッシュする。「クラッシュしても再起動できる」ことだ。
八、王莽が本当に残したもの――構の不可逆性の証明
中国政治史における王莽の位置は、たいてい「簒奪者」か「失敗した改革者」と定義される。どちらも間違いではない。だが、どちらも一番大事なことではない。
王莽の最も重要な歴史的貢献は、自らの失敗によって、構は逆戻りできないと証明したことにある。
それまで「三代に戻る」は、実地に試されたことのない理想だった。儒者はそれを語り、帝王はそれを引き合いに出したが、真剣に実行した者はいなかった。それは、いつまでも正しい未来の約束として存在していた。いつまでも正しくいられたのは、まさに一度も試されなかったからである。
王莽は試した。結果は惨事だった。
この検証は、二重の効果をもたらした。表に見える効果としては、後の改革者たちが、もう気軽に「三代を復活させる」と言えなくなった。少なくとも、王莽ほど本気で実行する勇気は持てなくなった。「過去に戻る」は、実行可能な政治案から、言葉のうえで掲げる道徳的な物差しへと格下げされた。「三代の治」を使って現実を批判することはできる。その伝統は一度も途切れていない。だが、それを使って政策を設計することはできない。そうするとどうなるかは、王莽が証明してしまった。
見えにくいところでは、王莽の失敗がバージョン3.0のOSの正統性を強めた。3.0には問題がある。土地の兼併、外戚の政治介入、流民。誰もが知っている。だが今や、生きた反面教師ができた。3.0が気に入らないのか。それなら、1.0に戻るとどうなるかを見てみればいい。代替案が否定されたことによって、3.0はますます揺るがなくなった。
これは、秦を扱った篇で述べた一つの論点と響き合う。勝ち抜き戦は多様性を消し去る。王莽の失敗は、「古代に戻って制度を変える」という路線から信用を奪った。その後の二千年、中国の政治改革に残された余地は、さらに狭くなる。後ろには戻れない。王莽が証明した。前へ進んで未知の領域に踏み込むのも難しい。先例がないからだ。できるのは、3.0のパラメータの範囲内で調整することだけだった。
そこには、中国政治の安定の源泉と、新しいものを生み出す力の限界が、同時にある。安定するのは、皆が同じ枠組みのなかで動くからだ。限界が生じるのは、枠組みそのものの境界を突破できないからである。
余項は枠組みの内側にたまる。限界までたまると、枠組みが崩壊する。崩壊した後、同じ枠組みを再起動する。再起動すれば、また余項がたまり始める。これがバージョン3.0のOSの時代における、鑿構周期律の具体的な動き方だった。もはや、1.0→2.0→3.0というように構の型が交代するのではない。同じ型が、崩壊と再起動を繰り返すのである。
王莽以後の二千年、王朝が交代するたびに、この循環が一周した。人は替わっても、枠組みは替わらない。王朝の名は変わり、皇帝の姓は変わっても、OSは変わらなかった。余項が積もり続ける以上、鑿は止まらない。再起動のたびに古い余項を新しい周期へ持ち越す以上、構は閉じない。
次篇は後漢。3.0を再起動した後の、最初の完全な一周期をたどる。豪族は新しい余項として制度のなかに組み込まれ、外戚と宦官の交互の台頭は、構の内側にある二つの余項が互いを消耗させる過程となる。そして党錮の禍は、儒者層が構の守り手から構への挑戦者へ転じる、その転換点となる。