リュディアの鋳貨:価値を発明せず、物差しに身体を与えた
紀元前7世紀のエレクトロン貨は、金属を毎回量り試す作業を刻印へ圧縮した。見知らぬ者同士の決済を広げた鋳貨が、匿名性の下に発行者の権威を刻んだ過程を追う。
この篇の目次
一 もう、量らなくてよい
一件の売買が、どうやって終わるのか。まず、その場を思い浮かべてみよう。
二人のあいだで、ひとまとまりの品物の値段が決まった。あとは銀を払えばよい。払う側は袋から銀の棒を取り出し、鋏で一片を切り落とす。多すぎたか、少なすぎたか。秤に載せなければわからない。秤には分銅が要る。その分銅を、二人とも正しいと認めていなければならない。量り終えても、それで済むわけではない。今度は品位、つまり銀の純度を確かめる。ほかの金属が混じっていないか、目を凝らし、手で重みを確かめ、切り込みを入れて断面を見る。それでも判断がつかなければ、目利きを呼んで調べてもらう。小さな買い物一つでも、支払いを済ませるだけで、これほどの手順を踏まなければならなかった。
この手順には、どこを取っても人がいる。双方が認める分銅があり、間に立って保証を引き受ける者がいる。銀に混ぜ物がないかを見抜く者も要る。切り取った一片をいくらに数えるかについては、皆が暗黙に従う取り決めがなければならない。支払いは、それだけでひとりでに完了する行為ではなかった。周囲の人々が支え、その場を成り立たせて、初めて終えることができたのである。
リュディア人が登場するより、千年以上も前から、人々はこうして支払っていた。メソポタミアには早くから、重さで数える銀があり、大麦を基準にした価格があり、貸し借りや税の帳簿があった。紀元前六世紀までには、銀は賃金、地代、港の税、城門の税を払う手段となっていた。よく見られる物価は一〜四シェケルの範囲にあり、雇われて働く者の月給は、中央値で約二・五シェケルだった。ギリシアでも事情は似ている。ソロンの名に帰される法律は、すでに銀で罰金を定めていた。職務を怠った執政官には百ドラクマ。神に供える動物の一部にも、銀で明確な値段がついていた。さらに遠くには、別の道もあった。モルディブ近海などで採れるタカラガイは、ユーラシアやアフリカの各地へ運ばれ、異なる社会のなかで、少しずつ貨幣となっていった。小さく、長持ちし、数えやすい貝だった。
したがって、貨幣は、誰かが何もないところから突然発明したものではない。リュディア人が手を動かすずっと前から、人類は穀物、家畜、銅、錫、布、貝殻によって、互いの負い目を測っていた。秤と帳簿を使い、食糧、労働、地代や税を、同じ何かへ換算していた。前篇で見た、粘土板に刻まれた帳簿も、そのためにあった。欠けていたのは物差しではない。その物差しを、誰もが身につけて持ち歩ける方法だった。
リュディア人が発明したのは、交換でも、価格でも、異なる物を同じ尺度に載せることでもなかった。その物差しは、すでにある。彼らがしたのは、別のことだ。物差しに、身体を与えたのである。
この違いは、曖昧にしてはならない。価格は以前からあった。だが、その住みかは、秤の上であり、帳簿の一行であり、二人がその場で交わす言い争いのなかだった。形がないから、手で取り上げられない。どこかへ持っていくこともできない。鋳貨は、その抽象的なものを、実物へと作り替えた。手のひらで握り締めることができる。触れ合えば音を立てる。地面に落として、誰かに拾われることさえある。抽象的なものが身体を持つと、行ける場所が増える。それによって、できる仕事も変わるのだ。
のちにアリストテレスは、この一歩を実に的確に述べた。初め、金属は大きさと重さによってのみ定められていた。やがて、いちいち量らずに済むよう、その上に印が加えられた。その印は、数量を示すしるしとして付されたのだ、という。
一見、淡々とした説明である。だが、そこで語られているのは、あるものの置き換えだ。それまで、金属片の値打ちを判断するには、その場で二つのことをしなければならなかった。重さを量り、純度を調べる。その二つの作業を、一つの印が肩代わりする。印は、中に本当は何が入っているかを教えてくれない。ただ、これだけの額に数えよ、と告げる。直接にはつかめないものが、目に見える記号へ置き換わった。そして、その記号を受け入れる理由も変わる。自分で調べたから信じるのではない。その印を打った者を信じるから、受け入れるのである。
もう、量らなくてよい。この短い言葉のなかに、深い変化がある。それまでは、共通の物差しは秤や帳簿のなかに生き、目利きの目や指先に宿っていた。神殿、宮廷、大商家が握っているものだった。普通の人は、一件の売買をするたびに、その仕組みから力を借りなければならない。鋳貨ができると、物差しは小さな金属片のなかへ押し込まれる。懐へ入れられる。枚数で数えられる。そのまま相手の手へ渡せる。測る力が初めて、秤や帳場を離れ、一人ひとりの手のひらへ落ちてきたのだ。
前篇では、帳簿が初めて身体を得た。その身体は、一枚の粘土板だった。今度は、物差しの番である。その身体は、一枚の硬貨だ。
二つの身体は、気性が違う。粘土板は動かない。倉庫や記録室に横たわり、誰が誰に何を負っているかを覚えている。機関に属し、書記に保管され、普通の人は一生に何枚も手にできないかもしれない。硬貨は歩き回る。こちらの手から、あちらの手へ。この町から、次の町へ。誰が握っていようと、その人のためにものを言う。帳簿は負い目をその場へ固定し、硬貨は価値を外へ走り出させる。走れるようになって初めて、この物差しは本当に、すべてを測りに行ける可能性を得た。どの通りへも、どの人のところへも、届きうるものになったのである。
二 一打のもとで
考古学の証拠も文献も、おおむね、最初の鋳貨を紀元前七世紀の小アジア西部に置いている。リュディアとイオニアの接するあたり、いまのトルコの西の端だ。最初期の硬貨は、エレクトロンで打たれた。金と銀が自然に混じり合った合金である。ただし、その比率には、人が手を加えた場合もあった。
作り方そのものは簡単だ。まず、小さな金属片の重さを正確に量り、打つ前の素地を作る。それを下側の型に載せ、上から打ち型を当てて一撃を加える。すると、表面に像や模様が浮かび上がる。最初期の硬貨には、片面だけに図像があり、もう片面には打ち型を押し込んだ凹みが残るものも多い。製作を成り立たせるのは、一度の打撃と、その前にきちんと重さをそろえられた金属片だった。
注目したいのは、その順序である。先に量り、あとで印を打つ。つまり、その硬貨が一定の額として通用するのは、半分は、実際にそれだけの重さがあるからであり、もう半分は、その印が保証してくれるからだ。最初の貨幣は、一つの混合物だった。半分は確かな手応えのある金属、もう半分は、誰かの約束でできていた。
この、約束の半分に、のちのあらゆる論争の種がある。金属の側は、まだ扱いやすい。量り、調べれば、誰でも確かめられる。約束の側は、そうはいかない。結局、人がそれを認めるかどうかに懸かっている。一枚の硬貨がどこまで旅できるかを決めるのは、その約束を受け入れる者の数なのだ。多くの人が認めるなら、貨幣になる。認める者が少なければ、ただの金属片に戻る。後世の貨幣の歴史全体は、ある意味で、この二つの半分の比重が移っていく歴史である。金属の側が軽くなり、約束の側が重くなる。その移動は、今日まで続いている。
複雑なのは、額面のほうだ。後世にスタテルと呼ばれる最大の単位があり、その下に三分の一、六分の一、十二分の一がある。さらに四十八分の一、九十六分の一へと細かくなり、百九十二分の一まであった可能性さえある。この幅は、重要なことを語っている。少数の大口取引のためだけに用意された仕組みではなかった、ということだ。百九十二分の一という小さな硬貨で買えるものは、ごく細かなものだったはずだ。しかし、その小ささがあってこそ、物差しは暮らしの底まで降りていける。一食の飯、道中の一区間、ひと束の薪に届く。大きな額しか測れない物差しは、まだ普遍的ではない。何でも測るというなら、最も小さなものまで測れなければならない。
異なるものを同じ尺度へ載せる、通約の野心が、その大きさを初めて見せるのも、ここである。すべてを同じ帳簿へ記入したいなら、大口の売買だけを計算していればよいわけではない。一日分の仕事、一回の食事、一度の渡し賃まで、勘定できなければならない。額面を二百分の一近くまで割ることは、値をつけるに及ばないほど小さいものなどない、と宣言するに等しい。日々の暮らしの、ごく些細なところまでもが、この物差しの届く範囲に入ってきた。
もっとも、当時の「標準」は、まだ統一されたものではなかった。初期の重量体系だけでも、少なくともいくつかの系統に分かれ、互いにそのまま置き換えられるわけではない。さらに厄介なことに、これらの最初期の硬貨は、どれも一目で、誰が印を打ったのかわかるとは限らなかった。
複数の標準が並んでいること自体、当時の様子をよく表している。一つの権力が、上から下へ鋳貨制度を一斉に広めたのなら、重量体系はこれほど入り乱れなかっただろう。乱れているのは、多くの者が多くの場所で、それぞれ試していたからだ。ここでいう発明は、ある日、一人の頭にひらめいた着想というより、あちらこちらから同時に芽を出した、一面の試みだったのである。
三 神殿の基礎に眠る貨幣
最初の鋳貨は、いったいどこまで古いのか。この論争は、いまも終わっていない。その中心にある証拠は、エフェソスのアルテミス神殿の下に埋まっていた。
ある研究者たちは、そこで出土したエレクトロン貨を改めてすべて検討し、百八枚を数えた。そのうち七十三枚は、ある建築段階に属し、少なくとも四十一枚は、基礎を築くときに埋められたものと解釈できるという。そこから、鋳貨の始まりを紀元前七世紀半ばまでさかのぼらせるべきだと主張した。別の概説によれば、少なくとも一枚が、紀元前六三〇〜六一五年の祭祀に伴う堆積層から出たとされる。ところが、それ以前の復元案は、関係する地層をもっと新しいものと見ていた。決め手となる基礎部分を、紀元前六〇〇年近くまで下げる案さえある。「最古」を支える考古学の証拠からして、一本の線にはならない。建築の時期区分、地層の読み方、神殿がどのような過程で建てられたか。その復元の違いに依存する、競合するいくつもの案なのである。
細かな話に聞こえるかもしれない。だが、これは史料に誠実であるとはどういうことかを示している。硬貨は、自分の生年を名乗らない。どの土の層に横たわっていたかから、年代を推し量るしかない。その土がいつ積もったかは、さらに、建物全体の来歴を復元して判断する。一つの段階で見方が変われば、その先も一緒に動く。だから、最初の鋳貨が何年に現れたのかは、長く決着しないかもしれない。確かめられるのは、おおよその時期と、その出来事自体なのである。
この不確かさは、一つのことを思い出させる。鋳貨は、誰かがある日に布告して始めた制度ではなかった。各地の実践から、少しずつ育ってきたものだ。今日、掘り出される初期の硬貨は、一枚一枚が、その長い実験からこぼれ落ちたかけらである。誰が最初だったのかを、厳密に突き止めることは、もはやできない。見えてくるのは、数十年という幅のなかで、小アジア西部の多くの者が、ほぼ同時に同じことをし始めた、という姿だ。
だが、ここには、誰が先だったかより、ずっと重要なことがある。
最初期の貨幣は、大量に、神殿の基礎を据える穴から現れる。祭祀のあとに残された骨や灰のあいだから出てくる。市場の店の金箱に、きちんと並んで収まっていたわけではない。人々が、この新しいものを手にして、初めのうちにしたことの一つは、それを神の建物の土台へ埋めることだった。
この動作のところで、少し立ち止まりたい。硬貨の最大の力は、流通することにある。一人の手から、次の人の手へ渡れることだ。基礎に埋めてしまえば、その力を自ら奪い、永久に動けなくしてしまう。世に出たばかりの、何とでも交換できる宝物を手にして、人々がまずしたことの一つ。それは、そのなかから何枚かを選び、二度と何も買えなくすることだったのである。
基礎の下の貨幣は、人がわざわざ流通から取り除いた貨幣だ。もはや何も買わず、何も測らない。そこにとどまって、ただ一つのことを示す。この場所には、交換に差し出さないものがある。
もともと祭祀にも、支払いの性格があった。人は神に願いを果たしてもらい、その返礼をし、供え物を納める。その層は、はるかに古い時代から存在した。だが、打たれたばかりの硬貨を使うと、同じ献納の意味が変わる。何にでも換えられる物を使って、何にも換えられない関係を示すことになるからだ。片方の手で硬貨を神へ差し出しながら、人はもう片方の手で、認めてもいる。この硬貨では測れないものがある、と。
新しく、最もよいものを神に献じること自体は、古い習慣である。特別なのは、このとき献じられた物が、まさに、違いをならして同じものへ換えるための道具だったことだ。人はそれで穀物を買い、土地を買い、家畜を買い、一日分の労働を買う。それから何枚かを選び出し、土台の下へ埋め、何も買わないものにする。同じ一つの物が、片方ではあらゆるものを平らにし、もう片方では、どうしても平らにはしない場所を示している。
こうして、あらゆるものを測るはずの物差しが世に姿を現すのと同時に、微妙な変化が起きた。それまでも、交換しないものはあった。神のもの、祖先のもの、自分の家のもの。しかし、何でも測れると称する物差しがなかったために、交換しないものは、特に目立つわけではない。他のものに交じり、ただ、そこにあった。それが変わるのである。
ごく簡単な比喩を使おう。明かりのない部屋では、家具も隅も一つに溶け、どこがどこだかわからない。灯をともすと、光の届く場所が明るくなる。そのとき、光の届かない隅も、初めて、隅としての姿を見せる。物差しは、その灯に当たる。灯が隅を作ったのではない。けれども、灯がともるまでは、そこはまだ、はっきりとした隅ではなかった。何にでも値札をつけられる硬貨ができたあと、値札を拒むものは、初めて輪郭を持つ。例外となり、これは売らない、と特にしるしを付されたものになる。
物差しが、それらを生んだわけではない。ただ、照らし出したのだ。そして照らされたものは、この瞬間から、それ自身の形を持つようになる。
この一歩は、話全体にとって重要である。それまでも、勘定しきれないものはあった。神に属する分、祖先からの土地、一人の人間の名声。しかし、それらには対抗するものがなく、したがって、輪郭もなかった。何でも測ると称する物差しが現れて初めて、人々の前に取り出される。説明しなければならない。居場所を決めなければならない。わざわざ線を引き、区別しなければならない。「売らないもの」という一群ができる。余項はこうして、曖昧な残りから、はっきりした存在へ変わった。新しく生まれたからではない。ついに、それを浮かび上がらせるものが現れたからである。
ここには、この先の歴史で何度も起こることが、すでに表れている。物差しが一段鋭くなるたび、その外へ区切られたものは、いっそう目立つ。目立つほど、今度こそ取り込みたいという欲望も強くなる。基礎に眠る数枚の硬貨は、このせめぎ合いを残した、最初期の実物の証拠だ。人は一方の手で、あらゆるものを数へ換えながら、もう一方の手で、自分から一画を取り分けている。そして言う。ここは、勘定に入れない。
四 誰の印なのか
貨幣の力が、相手は何者かと詮索しなくて済むことにあるのなら、最初の硬貨がしていたのは、ほとんど、その逆だった。
初期の硬貨のある一群には、ギリシア語で、私はファネスのしるしである、という意味の銘がある。同じ系列の三分の一の額面には、ファネスに属する、とある。ファネスとは誰か。いまも一致した答えはない。特定の人物なのか、ある発行者なのか、土地の有力者なのか。あるいは、アルテミスと関係する称号なのか。それぞれの説がある。別の、獅子の頭を打った一群には、リュディア語の銘文がある。こちらは、王アリュアッテスと関わる銘と読まれることが多く、王家の系列と見なされている。
貨幣に名前を刻む行為と、その貨幣が果たそうとする仕事は、実のところ、少し食い違う。貨幣が便利なのは、来歴を問わず、誰が持っていても同じように使えるからだ。ところが最初期の硬貨は、誰のしるしなのか、誰に属するのかを、わざわざ表面へ書き込む。発行する側は、明らかに承知していたのだ。金属だけでは足りない。誰かが前へ出て、その金属を保証しなければならない。名前は飾りではなく、保証だった。
ただし、初期の鋳貨が、この二つの系列で尽くされるわけではない。エレクトロン貨には、およそ四百の系列があり、その多くは、どこで鋳造されたかさえ確定できない。どういう事情で作られたのかも、わからないものがある。さらに重要なのは、異なる系列が、しばしば同じ埋蔵貨のなかに交じっていることだ。鋳造する権利は、おそらく、単一の権力に独占されていなかった。王室、都市国家、商人、神殿、土地ごとの慣行のあいだに散らばり、それぞれの試みが、互いに重なっていたのだろう。
混じり合った埋蔵貨は、ひどく具体的なことを教えてくれる。当時の人の懐には、出所の違う何種類もの金が、しばしば同時に入っていた。一つの国には一つの通貨。私たちは、その形に慣れている。だが、当時はそうではなかった。さまざまな印の硬貨を並べ、どの一枚を、どこまで認めるか。持ち主は、それぞれの発行者を見定めて判断する。貨幣は、選び、比べ、出所を確かめなければならないものだったのである。
さらに、当時の空気をよく伝える細部がある。多くのリュディア貨には、あとから手にした者が打ち込んだ、小さな刻印が残っている。発行者の印がすでにあっても、受け取った者は、なお自分で調べ直したのだ。調べたうえで、自分のしるしも残す。次に受け取る者に、私は確かめた、私はこれを認める、と知らせるために。
この小さな刻印が硬貨の顔に書き込んでいるのは、印を打てば終わりではない、ということだ。発行者が通用すると言っても、受け取る者は全面的には信じない。自分の目で確かめたい。確かめてから、もう一打を加える。その人も自分の信用を賭けることで、次の人が検査を一つ省けるようになる。長く流通した一枚には、そうしたしるしが、何層にも重なる。道すがら、一人ずつ署名を加えてきたようなものだ。金属の純度は変わらない。変わるのは、そのために保証を引き受けた人が増えていくことである。
ここには、小さくない逆転がある。貨幣を使えば、相手の素性を調べる面倒から解放される。そう考えられがちだ。だが、この刻印は逆のことを語っている。見知らぬ者のあいだを渡り歩くからこそ、貨幣には、もっと多くの保証人が必要になる。鋳造した者、調べた者、受け取った者、そして背後に立つ都市までが、支えなければならない。目の前の一人について調べる手間は減る。代わりに、一つながりの人々を信頼する必要が生じるのだ。
一枚の硬貨には、こうしていくつもの層が押し重なる。発行者の印は、私が出したものだ、と告げる。検査者の刻印は、私が確かめた、と言う。都市の図像は、これはわれわれのものだ、と言う。匿名の媒介であるはずの貨幣は、生まれた日から、人名や顔で覆われていた。信頼を追い払ったのではない。その置き場所を組み替えたのである。取引相手に目を凝らす代わりに、発行者を見、検査する者を見、都市全体の信用を見るようになった。
だから、鋳貨ができたあとも、人を見なくてよくなったわけではない。見るべき相手が、目の前の一人から、遠くの人々へ移ったのだ。品物を売っている者が誰かは、知らなくてもよい。けれども、アテナイという都市は知っていなければならない。そのフクロウのしるしを知り、銀の純度をごまかさない都市だと信じなければならない。信頼が減ったわけではない。一回一回の交わりから取り出され、抽象的な名へと移されたのである。この移し替えは、その後も何度も繰り返される。国家へ、銀行へ、今日の、姿の見えないさまざまな機関へと。
二つの力は、初めからこうして絡み合っていた。一つは、誰をも同じように扱い、互いの名を知らずに済ませようとする、匿名の物差し。もう一つは、名前、印、検査の刻印、都市の紋章といった、これは誰のものかを、どうしても見分けさせようとするものだ。前の段階が終わり、次の段階へ移るという関係ではない。同じ一枚の硬貨の両面である。匿名であろうとすればするほど、名のあるものの保証に頼らなければならない。この絡まりは、本シリーズの最後の篇まで、ほどけずについてくる。
近年は、さらに踏み込んだ読み方も現れた。エレクトロンを、鋳造による差益だけから説明するのは足りない、とする研究者がいる。当時、この金属は贅沢品にもよく使われていた。それなら、王室の贈与の政治へ戻して考えるべきではないか。臣下を結ぶ網や、主従の依存関係のなかへ置いてみるべきではないか。そもそも最初から、ためらいなく硬貨と呼んでよいのか。むしろ、王家の印を打った貴金属の贈り物に近かったのではないか、というのである。この説が広く合意されているわけでは、まだない。しかし、そこには鋭く刺さる点がある。最初期の貨幣は、見知らぬ者どうしが互いの顔を知らずに済むために、作られたのではなかったかもしれない。ある王が、自分の顔を貴金属へ刻み込むためだったのかもしれないのだ。
五 正確な重さ、見通せない純度
出来上がったばかりのこの身体には、初めから一本のひびが入っていた。
初期のエレクトロン貨は、重さがきわめて精密にそろえられている。その一方で、純度には大きなばらつきがあった。いくつもの分析から、金の含有率が四五〜八五パーセントに及ぶ試料群が知られている。さらに広く見ると、銀の含有率は三〇〜八五パーセントまで動きうるとされる。この幅は、天然のエレクトロンに通常見られる変動を、はるかに超えている。人の手で銀を加えた可能性がある、ということだ。
つまり、最初の硬貨は、今日の私たちが思い描くような、国家が純度を保証する規格品ではなかった。より正確には、ある規則に従えば、ある額面として受け取れると、発行者が保証する規格品だったのである。では、その規則とは何だったのか。あとで引き換えるという約束なのか。法律による強制か。それでなければ税を受け付けないという仕組みか。あるいは、ただ政治的な権威そのものか。まさにそこが、のちに最も激しく争われることになる。
このひびは、身体が初めから抱えていたものだ。一枚の硬貨を遠くまで通用させるなら、その金属自体に額面どおりの値打ちがあり、誰の保証も必要としないほうがよい。だが、使いやすくするなら、毎回調べ直さなくてよいよう、値打ちは印を見れば決まるほうがよい。前の望みは金属を頼り、後の望みは権威を頼る。エレクトロンは、この両立しにくさを露わにした。重さなら、寸分違わずそろえられる。純度は、表から見ただけではわからない。では、この一枚は、何によって一定の額として通用するのか。その問いは、硬貨が生まれた日から宙に浮いていたのである。
エレクトロン貨の印が保証したのは、金属の含有量ではなく価値だ、とする説がある。発行者が、決まった価値で受け取ると約束した。その約束があるから、人々も受け入れた、という説明だ。別の説は、国家が閉じた貨幣圏を作り、鋳造から利益を得る仕組みを重く見る。リュディアは、金の含有率が約五五パーセントのエレクトロンを、もっと純度の高い金属として流通させ、差額を得ていたのだという。エレクトロンそのものを失敗した実験と見なし、最終的に純金貨と純銀貨へ置き換えられたとする者もいる。さらに、どの説明にも納得しない者がいる。発行する側が、金属の実価値より高い額で通る貨幣を出したがる理由は、わかる。難しいのは、受け取る側が、なぜそれを受け入れようとしたのかだ。供給する側の都合だけでは、需要する側の問いには答えられない。
クロイソスの時代になると、このひびに、もう一度手が加えられる。サルディスには、エレクトロンを純金と純銀へ分離するための金の精錬工房がある。使われていたのは紀元前六世紀前半であり、世界最初の純金貨と純銀貨が現れた時期に当たる。以後の金銀の貨幣を、ギリシア人はクロイソス貨と呼んだ。最初の金貨は約一〇・九グラム、銀貨は約八グラム。その後ほどなく、金貨は軽い規格へ改められ、銀貨と同じ重さになった。
ヘロドトスが残した一節には、この時代の手触りがよく残っている。クロイソスはデルフォイの神託所へ献じるため、大量の黄金を溶かし、半分の煉瓦のような形をした金塊を作らせた、と彼は記した。そのうち四個は純金で、残りは「白い金」だったという。この白い金は、通常、金と銀の合金と理解される。クロイソスの世界では、金と言っても、いつも純金であるとは限らない。貴金属の光沢そのものに、混じり合うものがあった。
この改革を、貨幣がようやく高い発展段階へ進んだ話として書くべきではない。もっと慎重に言うなら、リュディアのエレクトロンをめぐる最初の大きな実験は、重さの精密さと、純度の不透明さとのあいだにある緊張を露わにした。クロイソスのもとで、その緊張の組み立て方が改められたのである。技術の突破だったのかもしれない。財政上の計算だったかもしれない。統治のあり方を組み直したのかもしれない。いくつかが重なっていた可能性もある。
単に進歩と書けば、見失うものがある。純金貨と純銀貨が解いたのは、純度を見通せないという問題だ。なぜ人は金を受け取るのか、という根本の問いは解いていない。純度が明らかになっても、人はなお尋ねる。この硬貨は、どこで使えるのか。誰が受け取るのか。いくらとして数えてくれるのか。技術の力で金属をきれいにしても、その答えまでは手に入らない。以後二千年以上、この問いはさまざまな姿を取って、繰り返し戻ってくることになる。
クロイソスの改革には、もう一つ、考え込ませる細部がある。金と銀を分けたなら、今度は二種類の硬貨のあいだで、交換比率を決めなければならない。その比率を決めるのは、人である。自然が自動的に与えてくれるのではない。分離によって、それぞれの金属は純粋になった。だが、それによって、人が裁定しなければならない問題が、かえって前へ出てくる。一枚の金貨は、いったい何枚の銀貨に相当するのか。技術は混じりものを金属の内側から追い出し、二つの金属のあいだへ、もう一度招き入れたのだ。
そもそも、リュディアのたどった道だけが、可能な道だったわけではない。地中海と近東には、もっと成熟した交易の網が、すでにあった。フェニキア、バビロニア、エジプトが遠くの土地と商売をしてきた経験は、アルカイック期のギリシアやリュディアより長い。それなのに、どこも先に、印を打ったエレクトロンという一歩へは進まなかった。リュディアが重要なのは、市場はいずれ自然に鋳貨へ至ると証明したからではない。むしろ、ある周縁の土地、ある具体的な政権、ある特殊な金属の難題が、のちには普遍的に見えるものを生み出すことがある。そのことを示しているからだ。
覚えておきたい点である。市場がある程度まで発展すれば、当然、鋳貨が生まれる。この滑らかな説明に、歯止めをかけてくれるからだ。史料は、その必然を裏づけない。交易がより古く、より大きく、より成熟した土地で、先に生まれたわけではなかった。生み出したのは、たまたまエレクトロンを産し、たまたま、そこへ自分の印を打ちたがる王権のあった周縁の土地だった。条件は可能性の形を作る。だが、条件が人に代わって決断するわけではない。
六 フクロウ、ウミガメ、ペガサス
鋳貨は、サルディスだけに長くとどまってはいなかった。早くにあとを追ったのは、アイギナ、コリントス、アテナイである。紀元前五七〇〜五〇〇年ごろのあいだに銀貨を作り始め、その後、この方法は地中海の各地へ急速に広がっていった。
これほど早く広がれたのは、それ以前の歴史に、大きく助けられたからだ。アルカイック期のギリシア人は、銀貨の登場より前から、銀を重さで使うことに慣れていた。価値を金属へ収める方法を、ゼロから学んだわけではない。すでに銀を量ることができ、銀で罰金を定め、犠牲にする動物に銀の値をつけることもできた。鋳貨が変えたのは、その手順だ。それまでは一件ごとに量り直し、調べ直す必要があった。鋳貨なら、支払いをより速く、より頻繁に済ませられる。公の側からも、徴収し、支給しやすくなった。
徴収と支給がしやすい。この言葉を、小さく見てはいけない。国家が税を集め、数千人の兵士へ給金を払い、職人へ賃金を渡そうとするとき、そのつど金属を量っていたのでは、ひどく手間がかかる。枚数で数えられる硬貨に替われば、扱える規模が一気に大きくなる。公の収入と支出を、数で処理できるようになるのだ。しかも、国家がその金で給金を払い、その金で税を取るようになると、市場でも、ますます受け入れられやすくなる。誰もが遅かれ早かれ、税を納めるために、それを必要とするからである。
広がった理由については、一つの説明だけがあるわけではない。最も古くからの説明は、商業上の便利さに求める。金属を量るより、硬貨のほうが手軽だからだ。別の説明は、新たな都市国家の成立に結びつけ、法制度や公的な支払いとの関係を見る。軍費と国家支出を重く見て、兵士や役人に一定の規格で報酬を払うには、鋳貨がとりわけ都合よかったとする説もある。一方、近年大量に出土した小額の銀の分割貨は、アルカイック期のギリシアの硬貨は、土地の低額取引には使われなかった、という旧来の見方を弱めた。市場、国家、軍の給金、法制度。おそらく、どれもその場にあった。ただ、その重さは同じではなかったのだろう。
小額貨の発見は、とりわけ重要である。かつては、アルカイック期の硬貨は、主として大口の取引や公の支払いに使われ、普通の人の暮らしは、掛けと現物で回っていた、と考える者がいた。いまでは、小さな額面の銀貨がまとまって掘り出されている。硬貨は、早い時期から日々の売買へ降りていたのだ。物差しが届いていた深さは、従来思われていた以上だった。国庫や軍の支払いだけを測っていたのではない。一人の人間の、一日分の働きまで測っていたのである。
日常へ物差しが届くと、結果は二つの方向へ出る。普通の人が、同じ一つのもので野菜を買い、税を納め、賃金を払えるようになる。主人の顔色をうかがい、掛けを認めてもらわずに済む。それは、確かな解放だった。同時に、それまで値をつける必要のなかったやり取りにも、比べるための価格が生まれる。隣人に手を貸すこと、親戚どうしで融通し合うこと。人はいつしか、その値段を、あらゆる関係へ当て始める。物差しが一段下へ届くたび、測らずに済んでいた暮らしの一層が、新たに測られるようになるのだ。
面白いのは、標準のあり方である。ギリシアの都市国家には、それぞれ独自の重量体系と額面があり、互いの貨幣を両替するのは、相変わらず面倒だった。共通の物差しが身体を持ったとはいえ、身体は一つではない。アイギナのウミガメ、コリントスのペガサス、アテナイのフクロウ。それぞれ異なる身体だった。その一枚一枚が、二つのことを言っている。これは一定の額として通用する。そして、これは、われわれの都市のものだ。
この二つの言葉は、少し張り合っている。前の言葉は、誰にでも使ってほしいと言い、広く通用するほどよいと考える。後の言葉は、どこのものかをわかってほしいと言い、他との違いがはっきりするほどよいと考える。一枚の硬貨が、この逆向きの仕事を同時にしているのだ。皆に共通する物差しになりたい。同時に、ある一つの都市のためにものを言いたい。この緊張は、のちも貨幣について回る。広く天下に通用してほしいと願う一方で、ある権力は、そこに自分の顔が刻まれることを望む。
したがって、鋳貨がもたらしたのは、統一された一本の物差しではなかった。互いに競い合う、何本もの物差しだった。どの都市の金がよく受け取られるか。どこの純度が安定し、どこの信用が厚いか。それ自体が、都市どうしの競争になる。異なるものを同じ尺度へ載せる仕組みは、城壁の内側では成り立つ。壁の外へ出れば、改めて交渉しなければならない。その後も、同じことが続く。通約が広がるたびに、より大きな範囲で、このせめぎ合いが演じ直されるのである。
ここまで来ると、通約は、のちに何度も見せる姿を現す。都市のなかでは成し遂げられている。アテナイの市場では、誰もがフクロウの一枚を受け取る。外へ出たとたん、そのまとまりは割れてしまう。別の土地では、また量り、また調べ、また値を交渉しなければならない。普遍的な物差しは、初めから一本だけあるのではない。自分こそ普遍的だと名乗る何本もの物差しが、境界で、互いを擦り合わせているのだ。
七 貨幣は、どこから来たのか
貨幣は、いったいどうやって生まれたのか。長く競い合ってきた、三つの説明の道筋がある。互いに重なり、互いの考えを借りてもいる。だが、本当に答えようとしている問いは、それぞれ違う。
一つは、貨幣は市場のなかから育った、と見る道筋である。代表的なのは、経済学者カール・メンガーの説明だ。貨幣は法律から生まれたものではなく、その起源においては、国家が作った制度ではなく、社会から生まれた制度である、という。要点は、商品によって売りやすさが違うことにある。容易に売れる物ほど、交換の場で多くの者が受け取るようになり、ついには、あらゆる物との交換を仲立ちする一般的な等価物になる。国家は、あとから規格や規則を整えることはできる。だが、貨幣そのものを作り出したのは、国家ではない。
もう一つの道筋は、ほとんど正面からそれに反論する。法学者ゲオルク・フリードリヒ・クナップは、貨幣は法の造物であり、ゆえに貨幣の理論は法律の歴史を扱わなければならない、と言い切った。この立場で重要なのは、どの商品なら手放しやすいかではない。どの記号、証票、金属、紙が、義務を果たすための支払い、ことに納税に使えるものとして、権力から指定されたかだ。のちの論者たちは、さらに進めて考える。国家は、税を課し、何をもって支払いが完了したと認めるかを定めることで、自らの貨幣に基本的な需要を作り出すのだ、と。
第三の道筋は、焦点を、さらに前へずらす。グレーバーとハドソンによれば、本格的な鋳貨や現金のはるか以前から、記帳、掛け取引、祭祀上の義務、制度を通じた分配は存在していた。グレーバーの考えを短く言えば、貨幣に先立って、まず負債があった、となる。ハドソンは、その根を、シュメールの神殿と宮廷の会計実務に求める。最初の銀や穀物は、その場の物々交換から自然に生じたのではない。まず、生産、貢納、債務、利息を組織するための、制度上の尺度だったのである。
実のところ、三つの道筋は、同じものを争っているわけではない。第一の問いは、人はなぜ、自分には必要のない物を受け取るのか。第二の問いは、権力はいかにして、ある物を使わずには済まないものにするのか。第三の問いは、それらに先立って、人はどう勘定をつけ、互いに借りを負っていたのか、である。どれも現実にある問いだから、それぞれの答えも、自分を支える材料を見つけられる。
リュディアへ戻ると、三つの説明にはどれも根拠が見つかる。そして、どれもすぐに難題にぶつかる。
市場の側に立つなら、ヘロドトスの言葉は使いやすい。われわれの知るかぎり、金銀の貨幣を最初に鋳造し、使ったのはリュディア人であり、小売の商いを最初に始めたのも彼らだった、という記述だ。交換を便利にし、量る手間を省くために鋳貨が生まれたとするアリストテレスの説明も、同じように使いやすい。しかし、フェニキアや近東には、もっと発達した遠距離交易がありながら、先にこの一歩へ至らなかった。それに、最初の硬貨に選ばれたエレクトロンは、ことのほか純度を測りにくい。市場が自然に選ぶ素材だったとは、言い切れないのである。
国家と財政の側に立てば、根拠は別のところにある。印、王家の系列、リュディアによる品位の管理、そして鋳造が生みうる差益だ。しかし、ここにも難点がある。異なる系列が交じる埋蔵貨、並存する重量体系、ファネスの系列、発行者が複数いた可能性。こうした材料を前にすると、国家が独占していたという説明は、あまりにも整いすぎて見える。
負債、神殿、軍費の側から見る説明には、共通の物差しが、なぜいつも権力、徴収、人を養うこと、賃金と結びつくのかを、よく説明できる長所がある。難点もまた、明らかだ。初期の傭兵への支払いに、必ず硬貨が要ったとは限らない。鋳貨がなければ本当の傭兵はいない、という古い見方に異を唱えた研究者もいる。また、神殿から硬貨が出土したというだけで、神殿が貨幣を発明したことにはならない。
この論争には、おそらく容易に決着がつかない。問うていることが、大きすぎるからだ。貨幣は、市場が生んだのか。権力が生んだのか。それとも、互いの負い目が生んだのか。そして、この三つの答えの背後には、三人の違う人間が立っている。損得を計算する取引者。名を帳面へ記された臣民。人に借りがあり、人に貸しもある隣人。どの説明を選ぶかは、歴史の一節を選ぶことだけではないのである。
とはいえ、この三人は、互いを排除する存在ではない。同じ一人が、市場では取引者であり、役所の前では臣民であり、近所づきあいのなかでは恩を負う隣人である。貨幣の出自をきれいに言い切れないのは、初めから、この三つの身の上を同時に支えていたからかもしれない。売買の勘定を済ませ、国庫の収入と支出を運び、互いの負い目にも跡を残す。そのすべてをしていたのだ。
だから、リュディアの鋳貨の始まりについて、最も堅実で、史料に近い言い方は、おそらくこうなる。市場、王権、神殿、軍費、贈り物、税。そのどれもが、そこにあった。異なる証拠が、異なる面へ光を当てている。一本の光だけで、全体を透かして見ることはできない。最初の硬貨は、神殿の地層から出土し、人の名や王室のしるしを帯び、重さは正確なのに純度は見通せない。支払いの道具にも、献げ物にも、政治の刻印にも見える。重要なのは、まさに、初めから一つの仕事だけをしていたのではない、ということなのである。
八 物差しが照らし出したもの
ここまでを見渡せば、鋳貨が何を変えたのかは、はっきり言える。
価値を生んだのではない。価値は、とうにあった。計算を生んだのでもない。計算なら、さらに古い。鋳貨がしたのは、あの共通の単位を、複製でき、持ち歩け、数えられる物へ押し込むことだった。異なるものを同じ尺度に載せる仕組みが、初めて、一つのまとまった実物の身体を得た。そして、その身体は現れるやいなや、それまでの秤や帳簿にはできなかったことをした。測る力を、一人ひとりの手へ渡したのである。どんな二人の見知らぬ者でも、相手が何者かを知らず、来歴や評判を尋ねずに、その場で一件の勘定を済ませ、互いに何の借りも残さずにいられるようになった。
それが、貨幣の最も見事なところであり、最も冷たいところでもある。同じ一つの力が、人を特定の誰かへの従属からほどき、同時に、人と人とのつながりからも剥がしていく。
この二面は、初めから切り離せない。手元に金があれば、ある主人の家に頼って生きる必要はなくなる。一族の長や地主の顔色をうかがわずに済む。出ていける。自分で決められる。これは、言葉だけの解放ではない。後世の無数の人々が、その力で、それまで割り当てられていた場所から抜け出してきた。しかし、同じ一枚の硬貨は、別のことも可能にする。一件の取引が終われば、二人は互いに何の気掛かりも残さず、立ち去れる。誰も誰にも負っていない。もう、相手の面倒を見る必要もない。自由を得ることと、つながりを失うことは、同じ硬貨の表と裏なのである。
だから、鋳貨を評価するとき、一方だけを選んで語ることはできない。それは確かに、多くの人の身を縛る縄をほどいた。どの家に生まれたかによって、一生、そこのものとして暮らさずに済むようにした。同時に、確かに多くのつながりを引き抜いた。人と人とのあいだに残るのが、一度支払えば、それぞれの道へ戻っていく取引だけになることもある。どちらが重いかは、いつの、誰の話なのかによる。だが、二つはいつも一緒にやって来た。片方だけを残すことは、誰にもできない。
それでも、この身体が、あらゆるものを計算可能な平面へ吸い込んだことは、一度もない。平らにされなかったものが最もよく見えるのは、かえって最初期の資料なのだ。エフェソスの初期の硬貨は、大量に、基礎を据えた穴や祭祀の残骸のあいだから出てくる。人々は硬貨を、売買のためだけでなく、献納にも使っていた。ギリシア世界でも、鋳貨の出現から長い時がたったあとまで、重さを量って使う銀塊と銀貨は並んでいた。古い銀塊と新しい銀貨が、同じ場所に埋められている。メソポタミアでも同じだ。紀元前六世紀までに、賃金、税、小さな取引の支払いで、銀の役割がますます大きくなっても、掛け取引、収穫後の清算、機関を通じた分配、穀物の配給は、どれも消えていない。はみ出したものは、舞台を去らなかった。硬貨のすぐ隣に立っていたのである。
ここは重要なところだ。鋳貨は、古い世界を一掃し、その廃墟に新しい秩序を建てたのではない。古い世界ですでに動いていた、さまざまな決済の習慣、人情の貸し借り、神聖な献納、制度による徴収を、いっそう測りやすく、持ち運びやすく、繰り返しやすい一枚の面へ、強く引き寄せたのである。引き上げられたものは、帳簿に入った。上がらなかったものも、消えたわけではない。帳簿の脇にとどまり、自分たちの昔からのやり方で動き続けた。
そして、物差しが鋭くなるほど、それに切られるものは、抽象的な何かでは済まなくなる。新バビロニアの記録には、国家に対する多くの負担を、銀で納めなければならなかったことが表れている。賦役を課された土地保有者は、何とか銀を手に入れ、自分に代わって働く者を雇わなければならなかった。グレーバーは、鋳貨、軍隊、奴隷売買の絡まりを、一つの複合体として論じた。ハドソンは、穀物と銀を帳簿や債務へ組み立てた最初の主体は、神殿と宮廷だったと、繰り返し強調する。こうした大きな歴史像に、同意しないことはできる。だが、少なくともそれらは、ある一点から目をそらせなくする。共通の物差しが研ぎ澄まされるとき、切り分けられるのは、収穫であり、労働であり、税の重みであり、子どもであり、人の身体なのだ。
もう少し具体的に考えてみよう。一人の農民が、国家に対して、何日分かの働きを負っている。それまでは、自分の力を出す義務だった。それが今度は、銀の額へと換算される。自分で働いて銀を稼ぐか、何かを売って銀に換えるかしなければならない。その銀を使い、自分に代わって賦役へ出る者を雇う。換算だけを見れば、帳簿の書き方が変わったにすぎないように思える。だが、それによって、一人の時間と力は、市場で売買できるものになる。銀へ換えられるものは、人に買い取られうる。買い取られるものは、誰かのもとへ蓄積されうる。共通の物差しが一歩進むたび、売買の対象になるものが、一つずつ増えていくのである。
よく引用されるヘロドトスのあの記述にも、たいてい読み飛ばされる、もう半分がある。リュディア人は最初に鋳貨を作り、最初に小売を始めた。そう書いた同じ一節で、彼は、彼らが娘たちに身を売らせていた、とも続けている。異国の習俗を記したギリシア人の文章であり、書き手自身の視線や先入観を免れてはいない。どこまで信頼できる記録なのかは、わからない。だが、この古代の記憶自体が、最初の市場の民と、娘の身体への支配とを、一緒に記しているのである。貨幣、小売、家計、生身の身体。最古の記述の段階から、それらは、互いに関係のない別々の話ではなかった。
この一節をどこまで信じるかにかかわらず、そこには、あの物差しが行き当たる限界が見える。あらゆるものを測れると言う物差しは、遅かれ早かれ、人間に触れる。そのとき、道は二つある。ここは測れないと認め、人を帳簿の外に残すか。それでも測ろうとし、人を一つの数へ換えてしまうか。その後の経済史では、この二つの道が、何度でも歩き直される。無理にでも測ろうとするたびに起きる衝突が、本シリーズのこの先の篇で語る出来事を生んでいく。
これで、はっきりする。リュディア人は、手のひらに握れる物差しを、この世界へ渡した。その物差しが最初に成し遂げたのは、すべてを測り尽くすことではなかった。測り尽くせないものに、初めて形を与えることだったのだ。それまで、売らないものは、名をつけられもせず、暮らしのあちこちに散らばっていた。それが以後は、明確な例外になる。わざわざ基礎へ埋められる。わざわざ選び出され、これは交換しない、と言われる。余項は、ずっとそこにあった。この物差しが、それを照らし、輪郭を与えたのである。
照らされたものは、かえって片づけにくい。見えないうちは、ただ、帳簿の外にぼんやり広がる何かだった。見えるようになると、そこに確かにありながら、誰にも帳簿へ押し込めないものになる。そして、清算のたびに思い出させる。この帳簿には、まだ最後の一件が足りない、と。
鋳貨という一幕の重みも、ここにある。勘定を、すべて合うところへ近づけたわけではない。むしろ、どうしても合わないという事実を、初めて、目に痛いほど鮮明にした。それまでは、何かが勘定から抜け落ちていると、漠然と感じていた。今度は、あるものがことさらに選び出され、帳簿の外へ置かれているのが、はっきり見える。「構」、組み立てられた秩序が精密になるほど、余項は姿を現す。姿が見えるほど、人はそれを取り込みたくなる。入らなければ、もっと細かな物差しに持ち替え、もう一度やり直す。そして、最も頑なに帳簿へ入りきることを拒むのは、つねに同じものだ。一枚一枚の銀には換算できても、どうしても、余すところなく換算することのできない、あの人間である。
勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English