ほんとうの強さは内に向かう
本章の中国語原文
帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み
知人者智也,自知者明也。胜人者有力也,自胜者强也。知足者富也,强行者有志也。不失其所者久也,死而不忘者寿也。
底本と句読点について
著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。
一 外へ、それとも内へ
仕事の多くは、外を見る訓練である。市場を知り、利用者を理解し、競争相手を見極め、資源を得る。どれも本当の能力だ。他人の必要に関心のない組織は、よい仕事をしにくい。
ところが、人の反応に敏感になるほど、自分がわからなくなることがある。相手に好かれる言葉はわかるのに、なぜそこまで好かれたいのかわからない。議論に勝つ方法は知っているのに、勝ったあと、相手とどうつきあいたいのかは考えていない。
第三十三章は、外を見るのをやめろとは言わない。その能力の隣に、別の問いを置く。最初の二組の対句と、続く四句。六組の道しるべである。他人の徳を採点する表ではなく、注意を自分へ戻すための小道だ。
二 人を知ること、自分を知ること
知人者智也、自知者明也。
人を知るのは智、自分を知るのは明。「明」を分解して、内側から発する光だと字源的に証明する必要はない。光はこの句を読む助けになる像であって、文字の成立についての証拠ではない。
人を知るのも簡単ではない。行動を一つ見ても、動機の全体はわからない。沈黙は同意かもしれず、不安かもしれず、考え中なだけかもしれない。人を読むのが上手になるほど、読み違える可能性を忘れずにいたい。
自知の難しさは別のところにある。自分への説明はすぐ見つかる。仲間のためだから、すべて私を通すべきだ。責任感があるから、間違いを認めるわけにいかない。本当の部分もあって、その陰に地位を失う怖さが隠れる。
投資家のためらいを鋭く見抜く創業者が、なぜ会社を大きくしつづけたいのかは尋ねたことがない。新しい必要を見たのか。不安を避けるために成長を求めるのか。相手を読む技術は、その答えを代わって出してくれない。
内を見ることは、外からの声を閉め出すことではない。友人の一言や同僚の反対が、盲点を照らすこともある。それを自分の暮らしと照合してみることも、明察なのだ。
三 人に勝つこと、自分に打ち克つこと
勝人者有力也、自勝者強也。
勝つには能力も機会も資源も要る。容易ではない。しかし勝ったからといって、自分の恐れや虚栄や防御に対処できるとは限らない。
「強」の字を、持久力のある虫から説明する根拠はない。『説文解字』の「蚚也」は虫の名を挙げるだけで、持久力を記してはいない。段玉裁の注には強弱の「強」としての借用も論じられている。虫の名を人格の字源的証明にはできない。字書の本文はこちら。
それでも、自分に打ち克つという方向は力強い。会議で反論を用意したあと、相手の指摘が一部正しいと気づく。もう一度鮮やかに言い返すより、そこで答えを変えるほうが難しい。手放すのは判断力ではなく、すべてに勝たなくてはならないという要求だ。
自分を敵にする必要もない。疲れには休みが、恐れには支えが必要なことがある。痛みは弱さとは限らない。克服したいのは、休むな、助けを求めるな、と命じる内なる声のほうかもしれない。
内に向かう強さは、もっと厳しい鞭ではない。まず自分を辱めなくても、行動を変えられる力だ。
四 足りるを知る
知足者富也。
比較は「足りる」の基準を動かしつづける。収入は十分だと思っていたのに、誰かが広い家を買う。仕事を終えた喜びが、同僚の受賞を聞いて縮む。持ち物が減ったわけではないのに、足りなさは増す。
人が持つ前から、自分はそれを欲しかっただろうか。欲望を捨てる命令ではない。一度自分の手元へ戻して、見てみる誘いだ。
ただ、必要を知れば貧困が消えるわけではない。家賃、食事、治療、家族の世話の費用は、心構えでは払えない。正当な賃金や安全を求めるのは、足るを知らないことではない。多くを持つ側が、この句で持たない人を黙らせてはならない。
比較に支配されない余裕を読むことはできる。物質的な条件の差を消す言葉にはできない。外の基準を問いながら、「今の私は本当に足りていない」と言ってもよい。
五 志を暮らしの中に置く
強行者有志也。
ここでは「強行」を、勉めて実行する方向で読む。現在の日本語でいう強引な実施とは違う。一度願いを宣言することと、暮らしの中に繰り返しその場所を作ることは別だ。
外国語を学びたいなら、今日一ページ読む。なりたい人物像の宣言を繰り返すだけではない。関係を大切にしたいなら、必要な話し合いの時間を決める。大事だと言うだけでなく、何かしら実際の形を与える。
だが実行は、無休という意味ではない。病気で止まる、休む、方向が違うと気づいてやり直す。それで志がないことにはならない。継続とは、時間の中で戻ってくることでもある。一度の欠席も許さない出勤簿ではない。
第二十四章の自己誇示への警戒も、自分の達成を認めれば必ず停滞する、という規則にしてはいけない。できたことを喜んで続けてもよい。助けが必要でもよい。次の一歩を、無理のない形で置けるだろうか。
六 自分の足場を失わない
不失其所者久也。
「所」を私は生活の足場として読む。割り当てられた社会的位置から、決して離れてはいけないという意味ではない。外の要求に引かれつづけ、自分の方角が消えてしまわないようにする。
傷つけられる職場を去ることは、居場所を失うのでなく取り戻すことかもしれない。成人した子どものことをすべて決めなくなった親も、役割を失ったのではなく学び直しているのかもしれない。
守るのは同じ椅子ではない。何を引き受け、どこからが越境かを判断する力だ。職や暮らしの形が変わっても、その力まで捨てなくてよい。
「久」は方向であって、永続的成功の契約ではない。強制や所有をやめても、喪失から免れる保証はない。すべてをつかもうとして、先に自分の足場を失わないことだ。
七 忘れられない生
死而不忘者寿也。
採用した「忘」に沿って、本シリーズは関係と記憶の中の持続を読む。亡くなった人の教えたやり方が使われ、苦しい日に言われた言葉が思い出される。肉体の不死ではなく、影響がまだ暮らしで起きている。
後代の文学的な言い回しで、この読みを証明する必要はない。伝世本の「亡」も、必ず肉体の不死しか意味しないわけではない。滅びないことには複数の理解がある。記憶を読むことと、別の字を迷信と決めつけることは違う。
何より、記憶は人の価値の証明書ではない。名を残さない世話は多く、出どころのわからなくなった親切も多い。忘れられても人の価値はなくならない。長く記憶されることも、善さの証拠とは限らない。
先生は知らないかもしれない。昔の一言が、今もあなたのある午後を支えていることを。持続はこんなに小さくてよい。歴史に名を残す必要はない。ただし、誰の人生にもその証拠を要求する権利は、私たちにはない。
八 机の横に置く道しるべ
六組の言葉を置いても、新しい六つの自己非難にしなくてよい。
他人を分析しながら、自分の必要を避けていないか。勝とうとしすぎて、判断を変える余地をなくしていないか。本当に欲しいものと、人より少ないことへの恐れを区別できるか。
願いに、実行できる次の一歩はあるか。続けるために休む必要はないか。守っているのは自分の暮らしか、暮らしを傷つける位置か。
記憶されることまで目標管理にしないでよい。今日、誰かの話をよく聞き、価値があると思う仕事をする。将来の功績の記録を先に確保しなくてよい。
外へ向かう力は貴重だ。内へ向かうのは、その力に自分を全部持っていかれないためである。ときには強さとは、ただこう認めることだ。「さっきは守りに入っていて、聞いていなかった」。そして、もう一度最後まで聞く。