SAE · Consciousness in Everyday Life · 日本語再構成版
05 / 05
死へ向かう生から Non Dubito へ
死を知ったあと、どう生きるか
いつか死ぬから何も無意味だ、と言うことも一つの意味判断である。残り時間にできるだけ詰め込めば有限性に勝てる、という考えも同じ問題を逃れない。忙しさは時間を無限にはしない。
有限な存在にできるのは、自分の行為に理由を与え、その理由を自分の人生として引き受けることだ。死への自覚は、借り物の基準から生命を取り戻し、「これは私が生きる意味なのか」と問わせる。
自分の意味では他者を作れない
しかし意味づけは「私」から始まる。相手を大切にする十分な理由を自分の体系の中に作れても、その理由は相手自身ではない。理解できる部分、役に立つ部分、愛せる部分を集めても、他者の主体性を私の内側から生産することはできない。
ここで Non Dubito が必要になる。相手を正しく理解したかは疑える。相手の判断に反対し、共に行くことを拒むこともできる。それでも、相手もまた目的であり、私の意味の材料や障害にすぎない存在ではないという点は疑わない。
二つの法が互いを必要とする
死へ向かう生だけなら、世界は私の意味を中心に閉じる。Non Dubito だけなら、自分が何を引き受けるかを持たない抽象的な敬意になりうる。一方は「自分の生を生きよ」と言い、もう一方は「その生で他者を呑み込むな」と言う。
このサイトの名は、世界について確実だという宣言ではない。私は誤りうるし、問い直される。それでも、他者も目的であるという構造的な一点を都合に合わせて取り消さない。その不疑から、有限な私の意味は他者と出会える。