技術はルールが語らないところで育つ
背面跳びは、ルールがあらかじめ設計した進歩ではない。跳ぶ姿勢を指定しないルールと、あるとき背中からの着地を可能にした発泡素材のマット。そのあいだに開いた隙間から、この技術は育ってきた。
この篇の目次
一 許されていたのに、そう跳ぶ人はほとんどいなかった
1930年代の半ばまでには、走り高跳びのルールから「頭が足より先にバーを越えてはならない」という文言が消えていた。
それ以前のルールには、版によって、こんな条項があった。頭は足より先にバーを越えてはならず、臀部より低い位置にあってもならない。この一文があるかぎり、頭から越える動きも、背中から越える動きも、ことごとく門前で止められる。仰向けになってバーの向こうへ身を翻すことはできない。そうすれば、頭が先に通ってしまうからだ。
1935年から1936年にかけて、身体のどこが先に通るべきかを定めた、この追加の条件が取り除かれた。それ以後、姿勢にかかわる主要な要件として残ったのは、一つだった。片足で踏み切ること。
つまり1936年から、背中を先にしてバーを越える動きは、ルールの上では、もう禁止されていなかった。
ところが背面跳びが主流になったのは1968年以降であり、決勝の舞台を本格的に占めるようになったのは、1980年になってからだった。
そのあいだには、三十年以上が横たわっている。
三十年以上というのは、ちょっとした空白ではない。選手の世代が、まるごと一つ入れ替わる長さだ。その年月のあいだ、跳躍者たちは次々と助走路に立った。背面跳びを使うことはルールに許されていた。それでも、そう跳ぶ者はほとんどいなかった。そんな跳び方が考えつかなかったのではない。一本の横棒を背中から越えるくらいの動きなら、子どもだって思いつく。彼らがそうしなかったのには、彼ら自身が誰よりよく知っている理由があった。その理由はルールブックの中ではなく、バーの向こう側の地面にあった。
この三十年以上に、本篇の急所がすべてある。ルールは1936年に、すでに扉を開けていた。だが、扉が開いて三十年以上たっても、そこを通って外へ出た者はほとんどいなかった。トップ選手たちはベリーロールを使い続け、1970年代の末まで使っていた。ルールが許すことと、現実に起こること。そのあいだには、三十年の隔たりがあった。
すると、問いが一つ生まれる。行く手をふさいでいたのがルールでないとしたら、何がふさいでいたのか。
この問いは、これまでの七篇で立ててきた問いと、形そのものが違う。前の各篇で問うたのは、この構が書き記したルールは何をもたらし、何を取りこぼしたのか、ということだった。答えはルールの中に、成文化された条項の中にあった。今度の答えは、そこにはない。ここでルールは沈黙している。背面跳びをせき止めてもいなければ、後押ししてもいない。何もしなかったのだ。だから答えを探すには、ルールの外へ目を向けなければならない。ルールが語らず、手も届かないところへ。物質の世界で、声もなく働き続ける条件へ。このシリーズで初めて、本篇は、構が何を語ったかという場所から、構が語らなかった広い領域へと視線を移す。
これまでの七篇では、この構がどのように尺度をつくり、記録を登録し、線を引き、共通の物差しでは測れないものを一つの物差しに載せたかを見てきた。いずれも、構が何を語り、何を書き、何を定めたかという話だった。本篇で扱うのは、その裏側、構が語らなかった部分である。現行の走り高跳びのルールは、必ず用いなければならない一つのバーの越え方を定めていない。そして、まさにその書かれなかった一文の空白で、技術の本当の境界は、別の何かによって引かれていた。
その別の何かとは、ルールではない。着地する場所だ。
二 ルールは唯一のバーの越え方を定めていない
まず、走り高跳びのルールをはっきりさせておこう。本篇が足場とするのは、ルールが何を語り、何を語らないか、その違いだからだ。
現在のワールドアスレティックスの走り高跳び規則も、この競技をいくつかの要点に絞り込んでいる。選手は片足で踏み切らなければならない。選手の動作によってバーが支柱の受けに残らなければ、失敗となる。バーを正常に越える前に、身体のどこかがバーの手前側を通る鉛直面の向こうの地面や着地場所に触れた場合も、失敗となる。これに、三回連続で失敗すればその選手は競技を終えるという、おなじみの規定と、助走路の幅や長さ、着地場所の最小寸法を定めた施設の規定が加わる。
ここまでは、ルールが語っていることだ。
同じくらい大切なのは、語っていないことのほうである。跳躍者がバーに正対すべきかは定めていない。頭と足のどちらが先に越えるべきかも、身体を直立させておくべきかも、足で着地するのか手で着地するのかも定めていない。はさみ跳び、ロールオーバー、ベリーロール、背面跳びの、どれを使うべきかも書かれていない。スミソニアンの要約にならえば、跳躍者がどのようにバーを越えなければならないかを指定するルールはない、ということになる。
したがって、ルールが線を引くのは、踏み切りが適法か、バーが残ったか、地面に触れたか、試技は何回か、競技場所はどれだけの大きさか、といったことだ。バーを越える姿勢そのものには、線を引かない。
この空白は意図的なものだったのか。それとも、意図せずできたものなのか。いまとなっては判断しにくいが、おそらく後者の可能性のほうが高い。ルールはたいてい、必要になったところで一条を書き足す。どんな姿勢でバーを越えるかは、長いあいだ、わざわざ定める必要がなかった。実行できる跳び方はもともとわずかしかなく、どれも問題を起こさなかったからだ。ルールの沈黙は、熟慮の末に余白を残したというより、口を開く用がなかったことに近い。
これは、構がこれまでしてきたこととも一致する。第二篇で見たように、ルールはいつも争いの中から育ってくる。すでに揉めた場所を覆い、まだ誰も揉めていない場所については沈黙する。バーをどう越えるかで、長いあいだ争いが起きなかったのは、可能な方法がいくつかに限られ、そのどれにも問題がなかったからだ。だから、ルールはここで黙り続けた。技術のために空間を空けてやろうとしたのではない。この場所で何かを言わなければならない厄介事に、そもそも出会っていなかったのである。
しかし、意図があったにせよなかったにせよ、この沈黙は一つの帰結を生んだ。ルールが姿勢に口を出さないのなら、姿勢の境界はルールの外にある何かが決めるほかない。その何かは、抽象的な伝統でも、選手の想像力でもなかった。ひどく具体的な、物質的な条件だった。人は跳び上がったあと、何の上に落ちるのか。
バーを越える姿勢なら、どんなものでも思い描ける。だが、本当にそう跳べるかどうかは、その跳躍のあとに、どこへ落ちることになるかで決まる。仰向けにバーを越えることは、ルールには許されている。けれども、向こう側にあるのが硬い土や砂場なら、仰向けのまま落ちれば頭や背中を傷める。ルールが許すことと、身体が着地に耐えられることは別なのだ。1936年以降、この二つは分かれた。ルールの側は通行を認めたが、物質の側はまだ認めていなかった。
三 柔らかい土から発泡素材へ
着地する場所には、たどれる物質の変遷がある。柔らかい土と砂から、おがくず、木くず、薄いマットへ。次に、網の中へ束ねて詰めた発泡ゴムへ。そして、専用につくられた、発泡素材を厚く積んだ着地場所へ。
初期の走り高跳びや棒高跳びの選手は、土や砂に着地していた。1960年代になると、一部の大学のチームが、束ねた発泡ゴムを網で固定し、着地用のピットに敷くようになる。現在のワールドアスレティックスの規則は、この現代的な発泡素材の着地場所を正式に規定し、最小寸法も明確に定めている。
この変遷の一段階ごとに、変わってきたものが一つある。人はどこまで後先を気にせず、身を落とせるのか、ということだ。
硬い土や砂に落ちるなら、まず足をつけるか、衝撃を逃がせる三点着地をしなければ、けがをする。するとバーを越える姿勢も、最後に足から降りられるもの、あるいは着地を制御できるものに限られてくる。はさみ跳びならできる。身体は立っていて、足から地面につく。ベリーロールも、どうにかできる。身体を横に向けたり、腕で衝撃をやわらげたりできるからだ。背面跳びはできない。最後に背中と肩から落ちる跳び方だからである。仰向けの身体を硬い土や砂に投げ出せば、けがにつながる。
もう少し具体的に考えてみよう。二メートルの高さから背中を下にして落ちる人は、地面に接する瞬間、かなり大きな衝撃を受ける。それを背中、首、頭で引き受けるとなれば、危険は紛れもなく現実のものだ。身体の中で着地の衝撃を受けるのに最も適しているのは足であり、人間の下肢全体は、その衝撃を吸収するためのつくりになっている。背中や頭は、そうではない。だから足から着地するのは、姿の美しさを選ぶことではなく、緩衝のない地面で選べる、唯一の安全な方法だった。背面跳びは、その唯一の選択肢を捨てるよう人に求める。その代償を払えるようになるのは、地面が柔らかくなってからなのだ。
発泡素材のマットが現れる以前、背面跳びは、誰にも思いつかなかったのではない。思いついても、身体がもたなかったのである。試そうとすれば、最初の着地で代償を支払うことになる。その代償は、本人を断念させるにも、コーチに禁止させるにも十分だった。
この物質の変遷は、世界中で同時に進んだわけではない。段階があり、場所による時間差があった。確かに言えるのは、1950年代末にアメリカの大学が束ねた発泡ゴムを使い始め、1960年代初めにはアメリカの高校が追いかけるようになった一方で、ほかの多くの学校では、なおおがくずのピットを使っていた、ということだ。国ごと、あるいは施設の種類ごとに、いつ切り替わったかを網羅した調査は、調べられる資料の中には見当たらない。確かめられるのは、この入り交じった移行の姿だけである。まずアメリカの大学、次にアメリカの多くの高校。資金の乏しい施設や更新の遅い施設は、その後ろに残った。
いまでは、この物質的な条件は、その土地ごとのやり方から、成文化された規定へと変わっている。
現在のワールドアスレティックスの規則は、主要な競技会の走り高跳びの着地場所について、六メートル×四メートル×〇・七メートル以上という寸法を明示し、助走路の寸法や傾斜にも制限を設けている。各国の規則に添えられた図でも、中心になるのはマットの状態と大きさ、そして安全を確保するための配置である。
ここで一度、立ち止まっておきたい。ルールは人がどうバーを越えるかを定めないのに、その人を受け止めるマットがどれだけ大きく、どれだけ厚くなければならないかは、細かく定めている。姿勢は自由で、着地は規定される。構は姿勢について沈黙しながら、着地面についてはきわめて具体的なのだ。そして、この具体的に規定された着地面こそが、どんな姿勢なら物理的に可能かを決めている。つまりルールは、着地面を定めることを通じて、間接的に、事実上、姿勢を定めている。姿勢そのものについては、一字も直接書かずに。
この間接的な規定は、直接の規定よりも奥に隠れていて、目に入りにくい。「背面跳びを禁ずる」と一条書いてあれば、誰もが禁止を知り、その禁止は妥当なのかと議論できる。ところが、着地面を定めることによって姿勢が間接的に制限されているとなると、ほとんど誰も気づかない。見たところ、それは安全に関する技術上の規定にすぎず、姿勢とは何の関係もなさそうだからだ。着地面の規定は姿勢に言及しない。それでも、姿勢の境界を引いている。本当に効いている制限は、しばしば、それが制限する当の事柄の項目には書かれず、一見無関係な規定の中に隠れている。
これが、本篇の芯をなす構造である。ルールの沈黙と、施設基準の具体性が、一緒に働いている。跳び方そのものはほとんど規制されないが、背中から安全に着地できるかどうかは、その施設が物質的な切り替えを済ませているかどうかにかかっている。この命題は、制度の姿をとるとき、ここに最もすっきりと現れる。
四 取り替えられた一枚のマット
フォスベリーが新しい方法を試し始めたのは、高校生だった十六歳のときだ。きっかけは、ベリーロールでは、ごく普通の標準の高ささえ越えられなかったことだった。
彼はまず、身体を立てたはさみ跳びから、背中を向けてバーを越える跳び方へと移っていった。その動きが実行できるようになったのは、彼の中学時代より後に、メドフォード高校が木くずのピットを、もっと柔らかい着地面に替えていたからだった。
この一文に、本篇で最も大切な事実がある。
フォスベリーが背面跳びを育てられたのは、ほかの誰よりも想像力が豊かだったからではない。少なくとも、それだけではない。彼の通っていた高校が、ちょうどその時期に、着地用のマットを替えたからだ。もしメドフォード高校が替えていなかったら、あるいは交換が数年遅れていたら、彼は最初に背中から降りたとき、木くずの中へ落ちていた。木くずでは、背中からの着地に必要な衝撃吸収は足りない。彼のコーチも、初めはこの新しい方法に賛成しなかった。成績が上向いてから、ようやく反対しなくなったのである。
ただし、ここでは慎重でなければならない。資料が繰り返し、話を大きくしすぎてはいけないと戒めているのも、まさにこの点だからだ。
取り替えられたマットは、フォスベリーが背面跳びを育てるための必要条件だった。しかし、十分条件ではなかった。マットが新しくなった同じ学校で、ほかの生徒が背面跳びを発明したわけではない。マットの交換は背面跳びを可能にしただけで、それを自動的に生み出しはしなかった。生み出すためには、フォスベリー自身の試行も、曲線を描く助走も、踏み切りの調整も、記録が伸びてなおやめなかった、たゆまぬ磨き上げも必要だった。
正確に言えば、物質的な条件が可能性の空間を開き、選手の発見、コーチの対応、そして動作を身につけるうえでの経済性が、採用される速さと、やがてその技術が競技を占めるまでの道筋を決めたのである。マットは扉であり、フォスベリーは、その扉をくぐった人だった。扉が開いたからといって、誰かが入ってくるとはかぎらない。だが扉が閉じていれば、どれほど入りたい人でも入れない。
この区別を何度も強調しなければならないのは、二つの読み違えが、どちらも出来事の姿をゆがめてしまうからだ。一つは天才の物語である。フォスベリーが一人の想像力で背面跳びを創造したと言ってしまえば、あのマットが消える。物質的な条件のもとで生まれたものが、純粋な個人のひらめきに変わってしまう。もう一つは物質決定論である。柔らかいマットさえあれば背面跳びは必ず生まれると言ってしまえば、今度はフォスベリーが消える。人が発見し、磨き上げなければならなかったものが、物質から自動的に生じた産物に変わってしまう。どちらの読み違えも、半分ずつを消している。正しい図は、その二つの半分を合わせたところにある。柔らかいマットが可能にし、フォスベリーが現実にした。
1968年までのフォスベリーの記録の推移は、おおよそたどることができる。高校一年のころには、五フィートを安定して越えることさえできなかった。新しい跳び方に変えてから、高校在学中に五フィート三と四分の三インチから、六フィート三と四分の三インチまで記録を伸ばす。大学二年には六フィート十インチ。1968年の室内シーズンには、初めて七フィートを越えた。そして同じ1968年、大学選手権、アメリカの代表選考会、オリンピックの決勝を制し、オリンピックでは二メートル二四を跳んだ。
五フィートも越えられなかったところから、オリンピックの王者へ。この曲線には、取り替えられたマットの働きも、あきらめなかった一人の人間の働きも刻まれている。どちらも欠かせない。そして、どちらも欠かせないという事実そのものが、この出来事を片方だけの手柄にはできないことを教えている。
目を留めておきたいのは、フォスベリーが跳び方を変えた発端が、ベリーロールで標準の高さを越えられなかったことにある、という点だ。革新を成し遂げようという野心が先にあって、背面跳びを発明したのではない。まず古い技術にふるい落とされ、行き場をなくして、別のことを試したのである。技術の革新は、しばしばこんなふうに起こる。頂点にいる人が成功にもう一つ飾りを添えるのではなく、脱落しかけた人が、残されたすべてを賭けるところから起こる。ベリーロールですでに成功している人には、危険を冒して動きを変える理由がない。うまくいかなかった人にこそ、ほかの人が怖がって試さないものを試す動機がある。ただし、その動機が実際の一回の試みに変わるには、着地面がすでに柔らかくなり、試して失敗する代償が下がっていなければならなかった。
五 知らない相手と、同じ動きにたどり着く
ブリルもまた、よく似た背中向きの跳び方を独力で育てていた。「ブリル・ベンド」と呼ばれる跳び方である。
彼女がそれをつくり出したのは、まだ子ども、あるいは少女と呼べる年ごろ、自分の家の農場でのことだった。そこには父親が手づくりした、発泡素材の着地場所があった。ブリティッシュコロンビア・スポーツ殿堂の記述によれば、彼女はこの跳び方を独力で生み出し、時期も、ひょっとすると少し早かったかもしれないという。『カナダ百科事典』も、彼女の方法を、フォスベリーと並行して進んだ独立の発展として扱っている。
フォスベリーとブリルのあいだに接点はあったのか。その点について最も有力な証拠は、それぞれが自分の跳び方を育てていた時期には、相手の存在を知らなかったということだ。スポーツ殿堂の記述では、ブリル・ベンドとフォスベリーの背面跳びが初めて出会ったのは1966年、バンクーバーで開かれたブリティッシュコロンビアとオレゴンのジュニア対抗戦だった。それまでは、二人とも相手を知らなかった。互いを参考にしたのではなく、本当に独立して並行に発明された。そのことを最もはっきり示す証拠である。
この並行する発明は、本篇にとって非常に強い意味を持つ。なぜそれほど強いのか、ここは十分に考えておきたい。
背面跳びを発明したのがフォスベリー一人だけだったなら、一人の天才の例外、たまたま現れた特別な頭脳の話で済んだかもしれない。天才の物語は言うだろう。この技術を創造したのは、フォスベリーという人間に固有の想像力だった、と。だが、ブリルの存在が、その物語を崩す。互いを知らない二人が、ほぼ同じ時期に、それぞれ独力で、ほとんど同じ動きへたどり着いている。
二人の人間が同じ時期に同じことを思いつくとき、それはたいてい、ただの偶然ではなく、共通する何らかの条件に促されて生まれたことを示している。では、フォスベリーとブリルに共通していた条件は何か。知り合いだったことではない。二人は知り合いではなかった。同じコーチがいたことでもない。コーチも違った。共通していたのは、それぞれが、十分に柔らかい着地面を持っていたことだ。フォスベリーの学校はマットを替えていた。ブリルの父親は発泡素材の着地場所をつくっていた。
だからこそ、並行する発明は、物質的な条件の働きへと目を向けさせる。一つの物質的条件が複数の場所で同時に整うと、そこから開かれた可能性を、違う人々が、それぞれ独力で見つけるようになる。背面跳びは、一人の天才だけに属する専売特許ではない。柔らかいマットが広まる時代に、遅かれ早かれ誰かが発見するものだった。そしてフォスベリーとブリルは、たまたま、その最も早い一群にいた。
ここには、もう一人、もっと早い時期の人物を加えなければならない。フォスベリーがオリンピックで一躍有名になる以前にも、背中を向けて、あるいはそれに似た姿勢で跳ぶ試みはあった。確認できる中で最も有力な例は、モンタナのクアンデである。1963年、彼が背中を向けてバーを越える姿が写真に撮られている。ただしクアンデは、その動きを、一流の競技成績へと結びつけることはなかった。
クアンデを最初の背面跳びの選手と呼べるのかについては、後年の記述でも意見が分かれている。フォスベリーが世に知られるより前に、彼が背中向きの技術を用いていたことを示す証拠はある。だが、発明者が誰かを正式に裁定した統括団体はない。しかもクアンデの動きは、後にフォスベリーやブリルの名と結びつくことになる、十分に型が整い、世界へ広められる一流の競技技術と、同じものではなかった。
これで三人になった。フォスベリー、ブリル、クアンデ。互いを知らなかった三人が、それぞれ独力で、背中を向けてバーを越える動きへたどり着いた。このことは、あの動きが誰か一人だけの独創ではなく、その時代の着地条件によって生まれた可能性だったことを、いっそうよく示している。複数の人間が、それぞれ、その可能性に出くわしたのだ。違いは、それを勝てる技術にまで磨き上げたのは誰で、そうしなかったのは誰か、というところにある。
クアンデの例は、もう一つのことも教える。可能性に出くわすことと、可能性を実現することは、別である。クアンデは背面跳びに出くわした。1963年には、すでに背中からバーを越えていた。フォスベリーが世に知られるより早かった。だが、それを勝てる技術にまで磨き上げなかったために、歴史の中では、一枚の写真、一つの脚注にとどまった。フォスベリーも同じ可能性に出くわし、それから数年をかけて、オリンピックで勝てる技術に仕上げた。物質が扉を開き、何人もの人がそこへ飛び込んだ。それでも、扉の奥にあったものを本当に世界の前へ運び出したのは、飛び込むだけでなく、何年もかけて磨くことを引き受けた人だった。可能性を与えるのは物質であり、実現を与えるのは人なのだ。
六 ベリーロールは論破されていない
よく聞く説明がある。背面跳びがベリーロールに取って代わったのは、力学的に優れていて、よりよい技術だったからだ、という説明だ。この説明には、修正が必要である。
確かにダペナの1980年の論文は、背面跳びの曲線助走、身体の傾き、バーを越えるときの弓なりの姿勢によって、跳躍者がバーに対し、身体の質量を有利な位置に置けることを示している。背面跳びの最も有名な力学的利点は、身体そのものがバーを越えながら、身体の重心はバーと同じ高さ、あるいはそれより低い位置を通ることができる、という点にある。この利点は、確かにある。
しかし、その後のダペナの論考は、ベリーロールが力学的に論破されたわけではないことも示している。ベリーロールの力学によって、より大きな上昇を得られる選手がいる。一方で、背面跳びのより速い助走や、自由に振る腕や脚の動作を小さくできることから、利益を得る選手もいる。したがって彼の結論は、純粋に力学だけを考えるなら、今日もこの二つの技術が、ともに使われているはずだというものだった。ベリーロールの消失は、どの場合にも劣っていたからと考えるより、習得しやすさの違いで説明するほうがよいのである。
これは大切な結論だ。あまりに単純な因果の説明を、一つ、取り払うからである。
背面跳びがこの種目を席巻した。それは事実だ。だが、それはあらゆる身体、あらゆる動きのタイプにとって、力学的に最適だからではない。その点について、文献には合意がない。多くのコーチや物理学による解説は、重心とバーの幾何学的な関係、曲線助走から生まれる回転を理由に、背面跳びをより有利なバーの越え方としている。しかしダペナの論考は、そこからさらに踏み込んで、あらゆる身体と動きのタイプに対して背面跳びが力学的に最善だと言うことには、明確に異を唱えている。
もっと確かな言い方は、もう少し範囲を絞ったものになる。背面跳びは、実際の競技では、一流選手たちの普遍的な標準となった。しかし、どの選手にとっても最善である、理論上ただ一つの解だと、文献が一致して証明しているわけではない。
では、なぜ背面跳びが勝ったのか。ダペナが示した答えは、習得のしやすさだった。背面跳びはベリーロールより覚えやすい。初心者は背面跳びの基本動作を、より短い時間で身につけられる。ベリーロールをうまくこなすには、もっと長く磨く時間が要る。大勢の選手を育てなければならない仕組みの中では、覚えやすい技術が自然に広がる。同じだけの練習を注いだとき、成果が早く現れるからだ。
こう考えると、背面跳びがベリーロールに取って代わったという出来事は、力学の優劣の問題から、学習の経済性の問題へと移る。背面跳びが一人ひとりにとってよりよい、というのではない。教えやすく、覚えやすいから、全体として広まる速度が速かったのだ。二つの説明が指し示すものは違う。一方は背面跳びそのものが優れていると言い、もう一方は背面跳びのほうが伝わりやすいと言う。そして証拠がより強く支えているのは、後者である。
この違いは、ほかの分野にもよく現れる。覚えておく価値がある。あるものが主流になるのには、大きく異なる二つの理由がありうる。一つは、それ自体が最善だから。もう一つは、最も広まりやすいからだ。この二つは、しばしば一緒くたにされる。主流のものは、いつでも最善のものに見える。そうでなければ、どうして主流になれたのか、と考えてしまうからだ。だが、主流であることと、最善であることは違う。最も広まりやすいものは、最善でなくても主流になる。反対に、最善のものでも、伝えるのが難しければ、いつまでも少数者だけのものにとどまるかもしれない。背面跳びの勝利は、広まりやすいものが主流になる、そちらの側にある。誰にとっても最善だったからではなく、伝えやすかったから勝った。この違いが見えてはじめて、主流を最適と取り違えずにすむ。
だからベリーロールの退場にも、一つの日付を打つことはできない。それは長い過程だった。1972年には、まだオリンピックの金メダルを獲得している。その年、タルマクはベリーロールで二メートル二三を跳んで優勝し、この姿勢でオリンピックの金メダルを得た最後の男子選手となった。1978年には、まだ世界記録をつくっている。ヤシチェンコが二メートル三五を跳び、ベリーロールで男子世界記録を保持した最後の選手となった。背面跳びが決勝を席巻するのは、1980年になってからだ。フォスベリー本人が後に振り返って挙げた数字によれば、1980年のオリンピック決勝の十六人中、十三人が背面跳びを用いていた。また、彼自身の回顧における集計では、1972年から2000年にかけてのオリンピックのメダル三十六個のうち、三十四個を背面跳びの選手が獲得したという。
だから、ベリーロールは背面跳びに打ち負かされたのではない。少なくとも、力学の上で負かされたのではない。広まることを競ううちに、少しずつ後れを取ったのである。覚えやすい技術が、数十年をかけて、劣っていない技術を競技場から押し出した。
この過程は、第七篇で見た出来事と並べてみる価値がある。あちらで扱ったのは、十種競技の採点表の書き換えだった。採点表の傾向しだいで、ある技術の価値が上がったり下がったりする。ここには採点表はない。走り高跳びには一つの高さがあるだけで、換算はない。それでも、同じように選別が起きた。ただし選別の基準は、採点表ではなく、学習の経済性だった。大勢の選手を育てる仕組みの中では、覚えやすい技術が自然に勝つ。力学的に優れていなくても、勝つ。二つの出来事に共通するのは、技術の盛衰を決めるのが、しばしば、その技術そのもののよさではなく、ある仕組みの中で置かれた立場だ、ということである。
七 ルールは境界を設け、そして引っ込めた
背面跳びについては、もう一つ、申し立てと裁定を分けて扱わなければならない問題がある。それを禁止しようとした人は、いたのか。
後年の逸話には、ときおり、ライバルや競技役員が、危険だという理由で背面跳びを禁じようとしたのではないか、とほのめかすものがある。これは、申し立ての側の話だ。
一方、確認できる資料の中には、ワールドアスレティックス、あるいは国際陸上競技連盟が、背面跳びそのものを正式に禁止した、または禁止寸前まで進んだと示す、当時の公式な規則制定の記録は一つも見当たらない。記録からわかるのは、身体がバーを通過する順序についての古い条項がなくなったあとは、適法かどうかを決めるのは通常の走り高跳びのルールであり、それに、その競技場が実際に備えていた着地場所の条件が加わる、ということだ。こちらが、裁定の側の話である。
この二つは分けなければならない。禁止したいという考えが、どこかにあった可能性はある。それは逸話の次元に属する。正式な禁止令は存在しない。こちらは記録の次元に属する。禁じたかったという噂があるからといって、かつて背面跳びは禁止されていた、と言うことはできない。それは申し立てを裁定として扱うことになる。
ただ、この奥にはもう一段深い話がある。第十篇で扱うことにもつながる話だ。
初期の走り高跳びのルールには、「ダイビング、宙返り、ハンドスプリングをしてはならない」という禁止条項があった。つまり構は、早い時期には、実際にバーの越え方にいくつかの境界を設けていたのである。飛び込むように越えることも、宙返りで越えることも禁じた。ルールは、最初から一度も姿勢に介入しなかったわけではない。介入した時期があったのだ。
だが、その介入の仕方は興味深い。禁じたのは、その時点ですでに誰かが試し、問題があると見なされた動きだった。宙返りでバーを越える人がいた。だから禁止した。背面跳びのほうは、「頭が足より先にバーを越えてはならない」という条項があるあいだは、この、より一般的な規定に巻き込まれるかたちで、行く手をふさがれていた。その条項が1936年に取り除かれると、背面跳びはルールの上では禁止されなくなった。
ここには、ちぐはぐなところがある。構は1936年に、背面跳びを阻むはずの条項を取り除きながら、宙返りを禁じる条項は取り除かなかった。なぜか。1936年には、背面跳びはまだ存在せず、それで成績を出す人もいなかったからだ。背面跳びを阻む条項を削っても、当時の目には何の危険もない。ただ余計に見える古い規定を片づけるだけだった。一方、宙返りの条項は、すでに現れた具体的な動きを対象にしていた。だから残された。
つまり、構が1936年に背面跳びを通したのは、それを予見して受け入れたからではない。まったく逆で、背面跳びなど現れるとは思ってもいなかったからだ。条項を取り除いたとき、構がしていたのは、もう役に立たないと思った古いルールの整理だった。その行為が、三十年以上先に世界に知られる技術のための扉を、知らずに開けた。そのとき自分が何を開けたのかを、構は知らなかった。
構はしばしば、境界を越えられた瞬間になって初めて、自分の境界がどこにあったかを知る。1936年には、もう要らない規定を一つ消しただけのつもりだった。三十年以上たって、フォスベリーが、その消した場所を通って跳んだとき、ようやく、あの規定は扉だったのだとわかる。この層は、第十篇であらためて詳しく扱う。そこにはもっと鮮明な例がある。前方宙返りによる走り幅跳びである。構は、自分が越えられたそのときになって、禁止のルールをつくった。
ここでは、まずこの理屈を押さえておこう。ルールと技術の関係を理解する鍵だからだ。構は、ありうるすべての技術のために、あらかじめルールを用意しておくことはできない。まだ現れていない技術を、想像できないからである。ある技術が現れてから、初めて、それを規制すべきかを判断する。だからルールはいつも後から来る。すでに起きたことへの反応であって、これから起こることへの準備ではない。1936年にあの条項を取り除いた人々に、フォスベリーを予見することはできなかった。当時、その技術は存在していなかったのだ。彼らはただ、余計に見える古いルールを片づけていた。そして、その古いルールが、たまたま未来の技術の前に立つ扉だった。ルールの境界がどこにあるのかは、誰かがそこを越えてからでなければ、構自身にもわからないことが多い。
八 扉が開いたのは、物質の側だった
本篇の話を、ここで束ねておこう。
現行の走り高跳びのルールは、必ず用いなければならない一つのバーの越え方を定めていない。この沈黙は、構のうっかりした見落としではなく、いつものあり方である。構は、必要なときにだけ口を開く。しかし、その沈黙は一つの帰結を生んだ。ルールが姿勢を定めないのなら、姿勢の境界は、ルールの外にあるものが定めることになる。
その境界を定めていたのは、着地する場所だった。
どんな姿勢でバーを越えられるかは、どんな姿勢で安全に落ちられるかにかかっている。硬い土や砂に着地するなら、足から降りなければならない。そのため、姿勢は直立か半ば直立した、いくつかの形に限られる。厚い発泡素材に落ちるなら、背中から着地できる。そこで背面跳びが可能になる。ルールが許す姿勢の空間は、つねに、物質が許す姿勢の空間より広かった。本当に詰まっていた場所は、ルールの側ではなく、物質の側にあったのだ。
これが、ルールが1936年に扉を開けていたのに、そこから三十年以上、外へ出る人がほとんどいなかった理由である。ルールの側の扉はとっくに開いていたが、物質の側の扉はまだ閉じていた。1960年代に発泡素材のマットが広まって、ようやく物質の側も開いた。すると、互いを知らない何人もの人が、ほとんど同時に外へ出ていった。
ただし、ここでも、先ほどの留保を守らなければならない。これを物質決定論にしてはいけない。
物質的な条件は可能性を開いたのであって、結果を決定したのではない。柔らかいマットは背面跳びを可能にしたが、マット自身が背面跳びを跳ぶわけではない。可能性を現実にしたのは、フォスベリーであり、ブリルであり、柔らかいマットが広まってから試みを始めた人々である。そして、一人の技術を世界の標準にしたのは、その覚えやすさ、ベリーロールよりも動作の習得に無駄が少ないことだった。物質が扉を開け、人が入っていく。覚えやすさが、さらに多くの人をその後から招き入れる。この三つの層は、どれも欠かせない。どれか一つだけに帰してしまえば、間違える。
だから、正確にはこう言わなければならない。身体が通過する順序を定めた古い条項が廃止されたあと、安全に繰り返し行える、背中向きの一流の跳躍技術に残された決定的な境界は、着地面だった。それは、跳躍スタイルを定める正式なルールの、おおむね外側にある物質的な条件である。ただし物質が変わるだけでは、背面跳びの出現は保証されない。独立した発明、習得のしやすさ、助走の力学、競技会での成功も、同じく原因をなしている。
本篇の余項は、これまでの各篇の余項とは、また違っている。
前の各篇の余項は、構が帳簿の外に取り残したものだった。名簿に載らなかった名前、捨てられた測定値、勘定しきれない原因、説明しきれない換算率。本篇の余項は、物質的な条件によって封じられていた、可能性の広がりそのものだ。発泡素材のマットが普及する前から、背面跳びは可能性として存在していた。ルールは許し、人間の身体にもその動きはできる。だが、それを受け止められるマットが一枚もない。だから、その可能性は宙づりになっていた。許されているのに実現できない。ルールはよいと言い、物質はだめだと言う。誰かに禁止されていたのではない。適したマットが一枚もないという事実に、三十年以上、黙って行く手をふさがれていたのである。
こうして物質に封じられた可能性は、物質的な条件が変わると、一気に湧き出してくる。ほかの余項とは、この点が違う。ほかの余項は、一度帳簿の外に落ちると、そのまま永遠に外にあることが多い。名簿に載らなかった名前が、自分から戻ってくることはない。だが、物質に封じられた可能性は違う。ずっと扉の後ろで待っている。物質の扉が開けば、そこから出てくる。しかも何人もの人が、同時にそれを連れ出す。フォスベリー、ブリル、クアンデ。彼らが運び出したのは、ずっと扉の後ろで待っていた、同じものだった。
この点で、本篇の余項はシリーズ全体の中でも特別である。余項が存在することは必然であり、それが姿を現すことは偶然である。ただ、その偶然が物質的な条件に引き起こされるとき、それはもはや一件きりの偶然ではなく、いくつもの同時に起こる顕現になる。柔らかいマットという条件が複数の場所で同時に整い、それまで封じられていた可能性に、複数の場所で人が出くわす。三つの孤立した偶然の一致ではない。一つの共通条件が生み出した、三つの並行する結果なのだ。物質に封じられていた可能性は、物質の手がゆるむと、一つだけでなく、ひとまとまりの広がりとなって湧き出すことが多い。
最後に、記録の曲線を見よう。それは本篇を、ずっと先の場所へと導いていく。
ソトマヨルは1993年に二メートル四五を跳んだ。この男子世界記録は、2025年末まで破られていない。その後の年間最高記録は後退した。1994年は二メートル四二、1995年は二メートル四〇、1996年は二メートル三九。その後はおおむね二メートル三六から二メートル四〇のあいだを揺れ動き、2013年には一時、二メートル四一へ戻り、2014年には二メートル四三に達したが、また下がる。2024年は二メートル三七、2025年は二メートル三六だった。
これは、長期にわたる停滞である。指数関数的な成長が続いているのではない。
しかも、その停滞が起きているのは、背面跳びが支配する種目だ。力学的に最適で、どこよりも絶えず限界を押し広げるはずだと考えられてきた、あの技術の種目なのである。物質の扉が開き、背面跳びが湧き出し、記録を押し上げていった。1993年の二メートル四五まで押し上げ、そこで止まった。三十年以上、動かない。技術がエンジンになるとされてきた競技が、まさにそのエンジンの働くはずのところで、三十年以上止まっている。
それが何を意味するかは、第二十三篇で答える。ここでは、このことだけを置いておこう。扉が開いたあとに湧き出したものも、やがて湧き尽くすときを迎える。そして湧き尽くしたとき、構は新しい問いに向き合わなければならない。それまで避け続けてきた問いだ。人は結局、どこまで速く、どこまで高く、どこまで遠くへ行けるのか。
物差しは、まだ正しく測れていない。それでも、測り続けている。