SAE · Interfaces with the Philosophy of War · 日本語再構成版
インターフェース 08 / 08
あの子ども
死を求めることは勇気ではない
新渡戸稲造の『武士道』は、通俗的な印象よりはるかに生を重く見る。死を急ぎ、死を求めるのは臆病であり、死ぬ価値のない理由で死ぬのは「犬死に」だという。生きるべき時に生きる方が、戦場へ飛び込むより真の勇気を要する。
ただし理由は生命それ自体の価値ではなく、名誉と天命にある。安易な死は、耐えるべき務めから逃げ、見かけの名誉を買うから卑怯なのである。ここでは「何のために死ぬか」を外から与えられた義務が決める。
身代わりにされた子
分岐は、新渡戸自身が紹介する物語に集中する。追われる主君の子を救うため、顔の似た少年が代わりに首を差し出される。新渡戸は読者の「残酷だ」という反応を予想し、その少年は事情を知り、自ら進んだ犠牲者だと答える。
しかし同意は、人が目的である位置を自動的に回復しない。少年の役割のすべてが「別の子に似た顔」へ縮められているからだ。しかも新渡戸は、子どもに恥を教え込む力も記している。外部の視線で形成された「自発性」という言葉に、論証できる以上の重さを担わせることはできない。
伝統全体への判決ではない
これは武士道や日本文化全体への判決ではない。同じ著者のなかに、SAE が深く同意できる生と死の基準もある。批判の対象は、この一つの配置と、それを正当化するこの一つの論証である。
同時に新渡戸は、担い手を守るという言葉が単なる降伏の口実になりうることを思い出させる。生き残る計算だけをする人には何も守れない。線は犠牲の大きさではなく、譲歩のあとも自分で判断し、拒み、続ける位置が残るかにある。恥に頼らず子どもへ規範を伝える方法は、なお答えられていない。