Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Interfaces with the Philosophy of War · 日本語再構成版
インターフェース 02 / 08

誰が許可したのか

Han Qin (秦汉)

戦争は派遣された手段である

クラウゼヴィッツも『持久戦論』も、戦争が独り歩きしてはならないと考える。戦争は外部の政治目的によって送り出され、そこへ報告し、目的が達成されたら止まる。この形は、軍事的成功を目的そのものにしないための重要な歯止めになる。

ただし綱のもう一方の端が固定されている、という前提がある。政治目的が途中で「防衛」から「報復」へ、さらに「体制の作り替え」へ広がれば、戦争は目的に忠実なまま際限なく進める。手段を縛るだけでは、許可を出す側を縛れない。

実行する人びとも動く

マキァヴェッリが照らすのは別の層だ。目的が動かなくても、戦争で生計を立てる組織は戦争の継続に利益を持つ。さらにクラウゼヴィッツの「摩擦」が示すように、前線では情報の遅れ、疲労、恐怖、地形が判断材料を削っていく。原則が破られる前に、原則を適用する条件が摩耗する。

だから基準は戦場で毎回計算されるだけでは足りず、摩擦の前に組織と人へ内面化されていなければならない。実行者を判断できない機械に変えて摩擦を消すなら、守るはずだった主体性も一緒に消える。

基準と動員の言葉を分ける

SAE では「涵育を守るために、その担い手を消してよい」という自己許可は成立しない。拡大のたびに、より穏やかな道が本当に閉じたのかを問い直す。基準の権威は、国家意志や指導者ではなく、その都度問い直せる構造にある。

もっとも、「祖国のために」は人を動かせても、構造的な基準はスローガンになりにくい。これは弱点というより役割の違いだ。人を動かす具体的理由と、行動を許す基準をどう公共の場で結び、しかも前者に後者を乗っ取らせないか。それはこの論考が残す課題である。