Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Plato's Republic · 日本語編集・再構成版
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太陽と、見ることのできないもの

Han Qin (秦汉)

支払われない元金

将来の統治者が学ぶべき最大の対象は何か。ソクラテスは善のイデアと答えるが、それが知識なのか快楽なのかと迫られると後退する。善そのものではなく、その子である太陽について語ろう、と提案する。子を意味するギリシア語には利息という響きもあり、グラウコンは今日は利息を受け取り、元金は後日払ってもらおうと言う。しかし元金はついに支払われない。

目と色だけでは視覚は成立せず、光が要る。太陽は目でも見る行為でもないが、物を見えるようにし、生成と成長を支える。同じように善は、認識する力と対象の可知性だけでなく、存在と本質まで与え、「存在を超える」とされる。

源と操作の違い

SAEも通常の内容で埋められない最下層へ行く。それが「非」、区別を行う否定である。否定しようとする行為も区別を実行するため、否定は迂回できない。しかし否定そのものは何を考えるべきか、何を望むべきかを配らない。包丁があらゆる料理に使われても、料理が包丁から生まれるわけではない。

ここで構造が分かれる。プラトンの善は源であり、下位のものへ存在、方向、価値を与える。SAEの否定は操作であり、すべてがそこを通るが、何も引きつけない。遍在する操作を万物の起源へ昇格させないための区別である。

内容のない基礎は基礎か

プラトンの反問は重い。上に立つものを支えず、内容を生まず、方向も示さないものを、なぜ基礎と呼べるのか。否定できないことは特別な地位を示しても、生産力を示さない。

一方、プラトンは最高位を「一」や「必然」ではなく「善」と名づけた。その語は説明される前から人生を方向づける力を持つ。ソクラテスがためらったのは、この力を知っていたからだろう。後世の体系が堂々と語った場所で、彼が口ごもったこと自体が、善についての最も正確な証言かもしれない。