Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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【理論深掘り・選読】「非」はどこから来るのか

Han Qin (秦汉)

「もし」を残したまま始める

この最終篇も理論深掘りの選読である。SAEは物理学から自由意志を証明したとは主張しない。出発点は、意図的に条件を残した文だ。もし世界に存在論的なランダム性があるなら――情報不足による予測不能ではなく、出来事自体が以前の条件だけでは一意に決まらないなら――巨視的過程は前因で尽くされない余項を保存できるだろうか。

「もし」は削れない。量子論のランダム性には複数の解釈があり、ベル実験は重要な局所的隠れ変数の類型を退けても、形而上学の全論争を終わらせてはいない。ここで示すのは条件付きの経路であり、科学の権威を借りた倫理的結論ではない。

微視的な揺らぎから巨視的な余項へ

存在論的ランダム性があっても、そこから主体は直接生まれない。多くの微視的揺らぎは平均化され、散逸し、失われる。問題は、複雑なシステムが揺らぎを拡大し、保存し、後の状態へ書き込み、同じ外部条件だけでは次を完全に決められなくできるかである。

一瞬の雑音は否定性ではない。巨視的な余項には記憶を持つ過程が要る。決定されていなかった変化が構造を変え、その構造が次の応答を変え、システムが自分の履歴の産物に反応する。余項が一度だけ現れるのではなく、自らの展開へ参加するなら、世界の非閉鎖性を保存し組織する物理的候補になりうる。

ランダムであることは自由ではない

サイコロには作者が生まれない。決定が偶然に起きただけでは「私の決定」にならない。ランダム性から主体性までには、拡大、保存、再帰的応答、自己組織化、そして承認が必要である。ここでの議論は必要条件の起源候補であって、十分条件の証明ではない。

したがって決定論が直ちに倫理を無効にするわけでも、ランダム論が自由を証明するわけでもない。物理学は世界に余項があるかを問い、複雑系研究は余項がどう保存されるかを問い、倫理は持続する過程をいつ目的の出所として承認するかを問う。それぞれの管轄を入れ替えてはならない。

倫理を守る防火壁

この篇を最後に隔離した理由は明確だ。人を守る倫理が、論争中の量子解釈への同意を入場条件にしてはならない。私たちは人、動物、脆弱な主体を、実験室が各個体から「主体の粒子」を検出するまで待って尊重するのではない。

前十三篇は、人を主体として承認したうえで、目的であり続ける制度的・関係的・個人的条件を示した。この最終篇は、その下に置きうる存在論的説明を探すにすぎない。両者の間には防火壁がある。物理前提が崩れればこの経路は失敗するが、前十三篇の倫理的効力は損なわれない。もしランダム性があり、もし巨視的過程が余項を保存し組織できるなら、外部条件で尽くされないことに物理的可能性が生まれる。その余項を主体として承認する次の一歩は、なお私たちの責任である。

この条件付きで失敗可能な姿勢こそ、防火壁を実際に機能させる。

本篇はSAE基礎論文4をもとに、一般読者向けに独立して再構成した。完全な論証と学術上の境界は原論文にある。 How Is Subjecthood Possible. 原論文 ↗ · DOI ↗