Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Buddhist Interfaces · 日本語編集・再構成版
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空は終着点ではない

Han Qin (秦汉)

八不は八本の無関係な刀ではない

中観の空は、何も存在しないという虚無、現象の背後にあるより深い「無」の実体、または「すべて空だから気にするな」という情緒的捷径ではない。それは自性――自ら生じ、自らによって立ち、条件から独立した固有本質――への批判である。縁起するものは自性を持てない。

龍樹『中論』帰敬偈の八不――不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去――は、異なる対象へ向かう八本の刃ではない。自性化された生起と持続という同じ執着を複数の方向から破る。自性的に生じる我がなければ、永久に同一であり、完全に断滅し、実体として来去する我も立てられない。

SAEの座標でこの刃は14DDに特に鋭い。主体が自分を目的とすると、その我をすべての理由の最終源泉に実体化しやすい。ただし八不が直接15DDへ押し上げるのではなく、中観がSAEの他者承認を隠された目的とするのでもない。中観は実体化された中心を緩める。その後の他者への転回はSAEが読む下流の一可能性であって、中観の本来の倫理目的ではない。

破して立てないか、余項とともに立てるか

三論宗の吉蔵がいう「破邪顕正」は、誤説を壊した後に最終的正論を据えることではない。何の説も執着の場所にしないことが正を顕す。SAEも余地なき終点を拒むが、すべての否定は新しい言葉、区別、実践として沈殿すると考える。実際に新しい制約ができたのに「何も立てない」というのは、その効果を隠す。

中観はすべての言説を假名・施設の地位に保ち、自性的な重量を与えない。SAEは構に現実の制約力を認めつつ、終局的な管轄権を与えない。一方は立てたものに住まず、他方は暫定的に住みながら次の切断のために壁を開けておく。似た紀律だが、構築の存在論的地位が異なる。

四重二諦はなぜ出発点に戻らないのか

吉蔵の四重二諦は、有を俗、空を真とし、次に有・空の二を俗、非有非空を真とし、さらに二と不二をともに離れ、最後に前三重すべてを教門として無所依得へ返す。第三重は単なる二重否定ではない。否定の対象を有/空という枠内の項から、二/不二という枠自体へ引き上げるため、「非非有」が簡単に有へ戻ることはない。

第四重もさらに高い真理を追加するのではない。階段そのものを教えの門とし、道と目的地の自性をともに失わせる。SAEの鑿構循環も統合を最終的総合にしないが、その余項は既成の構の外へ、実在するが汲み尽くせない何かを指す。中観は無所得のゆえに到着を禁じ、SAEは余項がゼロにならないゆえに禁じる。

空をも空ずる

「因縁所生法、我説即是空、亦為是假名、亦是中道義」という偈は、縁起、空、假名、中道を結ぶ。假名のものは世俗において因果と教化を支えるが、その作用から自性を得ない。SAEは、幼年期の記憶、法的判断、文法的習慣のような構は依存的でありながら、後に何が容易で何が困難かを現実に制約すると一歩厚く言う。中観はその「現実の制約」に自性の残滓がないかと問い得る。

批判はSAEの起点Negativaにも向く。Negativaへの否定をすべて「否定の作動を証明した」と回収すれば、それは最も破りにくい自性になる。SAEがこれを受け止められるのは、Negativaについての記述も構であり余項を持つと認める限りにおいてだ。中観は「空亦復空」で不建立を守り、SAEは「この本文も構である」として暫定的建立を守る。空を終着点にすれば空に自性を作り、余項を永久真理にすればSAEも同じ場所に住まう。

二諦も、同じ世界を「本当」と「仮」とに二分する二階建てではない。世俗諦によって言葉、因果、苦、修行が働き、勝義諦によってそれらに固定した自性がないと知る。勝義を世俗から独立した対象にすれば、それ自体が新しい自性となる。空が終着点ではないのは、空の後にさらに高い実体があるからではなく、空という理解にも執着できないからである。

SAEと仏教:六つのインターフェース · Paper 3 · DOI: 10.5281/zenodo.20724854。中国語・英語稿を底本とした日本語独立再構成版。