この機械は何か
これは道徳判定機ではない
七篇の最後に問うべきは、この理論が何のための機械かである。答えは構造診断だ。権力がどこから生まれ、何を媒体にし、どれほど残余項を生み、育成と切削のどちらへ向かい、どのように解消しそうかを記述する。ある権力が善いか悪いかを自動的に裁くものではない。
切削型が崩壊へ向かうという命題は非難ではなく構造予測であり、育成型が解消へ向かうという命題も賞賛ではない。規範判断は、人を目的として扱うとは何かを問う道徳論の仕事である。記述と規範を混ぜないからこそ、両方を組み合わせたときに見えるものが増える。
できること、できないこと
この機械は、強制、物語、承認のどこで関係が動いているかを診断し、残余項と抑圧費用の蓄積から構造的傾向を読むことができる。また歴史上の出来事を、何への応答で、何を生み、何によって解消されたのかという連鎖に置ける。
しかし、来週何が起きるか、誰が導火線になるか、当事者が何を選ぶべきかは答えられない。同じ構造圧力でも事件と人物によって展開は異なる。政治哲学の同意、社会学の制度と言説、マルクス主義の資本はどれも重要だが、この理論はそれらを起源ではなく、より基礎的な非対称の上に現れる配置として位置づける。
勢と道
「勢」は個人の徳や腕力ではなく、位置が与える力を指す。王が臣民より賢くなくても命令できるのは、構造上の位置に勢があるからだ。権力論はこの非対称な力場を見る。対になる「道」は、主体が互いを目的として認める対称的な共有地形を示す。
勢と道は、単純な悪と善の対立ではない。勢は差のある現実を扱うために必要であり、道はその差が人を手段だけに変えないための地平を与える。勢だけを見れば秩序を自己目的化し、道だけを唱えれば現実の非対称を見失う。二つを同時に置くことで、権力の必要と限界を同じ画面に収められる。
権力は悪でも徳でもない。親と子、教師と学生、異なる能力を持つ者のあいだに非対称は避けられない。だから権力を消すことでも、権力そのものを目的化することでもなく、その構造、残余項、方向、退場条件を見えるようにする。この機械の役目は、判断を代行することではなく、判断できる視野を増やすことにある。