Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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073 / 108 · 生のあとに残る仕事

チャーチル――声

人を励ます声は、その「私たち」に誰が含まれるかも問われる。1940年の演説から帝国の旗へ。功績は他者の苦しみを帳消しにしない。

一、あの言葉

1940年6月4日。イギリス下院。

ダンケルクからの撤退が終わろうとしていた。チャーチルは議員たちに、33万5千人を超える英仏の将兵を救出したと報告した。人は戻ってきた。大量の装備は海峡の向こうに残された。フランスはまだ戦っている。結末はまだ書かれていない。

彼は撤退を、すでに得た勝利として語らなかった。「撤退によって戦争に勝つことはできない」。続く言葉は、そこから始まる。

そして、のちに何度も繰り返される場所の名が現れる。海岸。上陸地点。野原。街路。丘。

「われわれは海岸で戦う」。

「われわれは決して降伏しない」。

地図を声に出して読み、人の暮らしのそばまで引き寄せるような語り方だった。海岸は軍の報告書にしかない場所ではない。街路は毎日歩く道であり、野原にはそこを耕す人がいる。ここまで来ると、戦争は海峡の向こうから届く知らせだけではなくなる。聞いている人の足もとに来るかもしれない。

今日よく耳にする録音は、チャーチルが1949年にあらためて吹き込んだものだ。1940年6月4日の夜、本人がこの演説をラジオで全国に語り直したわけではない。放送ではアナウンサーが抜粋を読み、そのほかの報道を通して言葉に接した人々もいた。励まされた人もいれば、予告された長い戦いに不安を深めた人もいた。一つの声が、同じ時刻に、同じものとして全員の耳に入るわけではない。

演説の結びも、この島だけにとどまってはいなかった。帝国、艦隊、そして大洋の向こうから来るかもしれない援助が語られる。それは未来への呼びかけであって、すでに果たされた約束ではなかった。

ワイルドは法廷で、口にしにくい言葉を口にした。チャーチルのところでは、勇気が浜辺へ、街路へ、丘へと出ていく。「われわれ」と彼は言う。大勢の人が、その言葉を持って持ち場に戻る。声は人をもう一度立たせることがある。だからこそ、話す人がその人たちに差し出すべきものは、声だけでは済まない。

演説は終わった。船はまだ動かさなくてはならない。飛行機は修理を待っている。海峡の両側を守る人々は、まだ家へ帰っていない。

二、彼

ウィンストン・チャーチル。1874年11月30日、ブレナム宮殿に生まれた。父はランドルフ・チャーチル卿、母はジェニー・ジェローム。

サンドハーストの士官学校のあとに、インド、スーダン、南アフリカが続く。それぞれの旅で、彼は軍人として活動し、戦地からの記事も書いた。戦争は早くから彼の経験に入り、ほとんど同時に文章にも入った。戦場を去って初めてペンを持ったのではない。

1900年、オールダム選出の議員となり、翌年から下院で活動した。その後は内務、海軍、財政と、役職が続いていく。名前の横に書かれる肩書きは変わる。紙の上で下した決定は、執務室の外でも働き続ける。

第一次世界大戦中、海軍大臣だった彼はダーダネルス作戦を推進した。のちにガリポリ上陸へとつながる一連の作戦は失敗し、多数の死傷者を出した。作戦上のすべての判断を一人で決めたのではない。だが、決定に加わらなかった傍観者でもない。1915年に海軍省を離れ、続いて残る閣僚の職も辞してフランスの前線へ行き、ロイヤル・スコッツ・フュージリアーズ第6大隊を指揮した。閣内から前線へと持ち場は変わっても、彼の命令で動く人々がいた。

その後、彼は議会へ戻る。

1930年代には後列の議席から、ドイツの再軍備を繰り返し取り上げ、航空機生産の加速を求めた。政府の政策と衝突する声ではあったが、誰にも聞かれない真空の中にいたわけではない。軍備の見直し、同僚からの情報、各部局の仕事は進んでいた。1940年に使えた飛行機は、彼が首相になるのを待って初めて造られたのではなかった。

ただし、イギリスの独立を守るという主張と、インドの自治に対する姿勢は、同じ線の上にはなかった。イギリスについては他国の支配を拒む。インドについては、その政治的な将来を決める場に、帝国政府を残そうとする。この違いは、のちの議会で彼自身が行った説明に、はっきりと現れる。

同じ人が口にする「自由」も、場所が変われば、その及ぶ範囲が変わりうる。

声の大きさだけでは聞き取れないことがある。誰のために話しているのかも、聞かなくてはならない。

三、1940年

5月10日、チャーチルが首相になった。同じ日、ドイツはフランスと低地諸国に侵攻した。

五月末の戦時内閣では、問題はまだ、後世の記念演説に残る一文にはなっていなかった。ハリファックスは、ムッソリーニを通じて調停の可能性を探れないかと提案した。手元にある降伏文書を差し出したのではない。イギリスの独立を損なわずに済む条件があるか、探ろうとした。チャーチルは、その道に踏み出せば、譲歩を重ねるうちに艦隊や再軍備の能力、自ら行動する余地を失うと論じた。

議論は、不完全な情報の中で進んだ。フランスはあとどれほど持ちこたえるのか。イタリアは参戦するのか。空襲は何をもたらすのか。海軍、空軍、海外とのつながりで、どれほど支えられるのか。彼らが話し合わなければならない問いだった。結果を保証する地図など、どこにもなかった。

ハリファックスとチャーチルの相違も、一方は自由を望み、もう一方は望まない、というだけの会話ではない。得られそうな条件と、それを尋ねることで生じる事態について、判断が違った。アトリー、グリーンウッド、チェンバレンも議論に加わっていた。5月28日までに、内閣はその時点でイタリアに調停を求める提案を採用せず、戦闘を継続する決定を維持した。

のちには、ある一人の声が録音や記憶に残りやすくなる。だが、その会議の席についていたのは一人ではなかった。

立ち去ることを拒んだソクラテスを思い出す。一人の人が言う。私は引き受ける。政府が言う。われわれは戦い続ける。どちらにも決意がある。けれども後の言葉が下されると、会議の席にいなかった大勢の人も、それを背負うことになる。ここでは勇気の肩に、その人たちの重さもかかっている。

自分の危険を承知で、これは賭ける価値があると言うことはできる。しかし「われわれ」と言えば、会議の席にいなかった人にも向き合わなければならない。その人々への説明、物資、防護、問い返せる場を、話し手の決意で置き換えることはできない。

だから声の力は、一つの文を最後まで言い切ることだけにあるのではない。

そのあとにも、誰かが尋ねられること。では、この先はどうするのか。

四、帝国

その「われわれ」は、どこまでを含むのか。

6月4日の演説には、すでに帝国と艦隊が入っている。海峡のそばの島は、世界から切り離された石ではない。海外の軍隊、食料、港、輸送路も戦争に組み込まれていた。

けれども地図の上でそれらを同じ色に塗ると、違いが見えにくくなる。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの自治領と、植民地支配下にあったインドでは、イギリスとの政治的な関係が同じではなかった。同じ戦争に参加していても、どの地域も同じ仕方で参戦を決めたわけではない。

1945年の終戦時、英領インド軍は約250万人に拡大していた。その数字の中には、異なる言語、宗教、出自を持つ人々がいる。彼らは兵士であり、地図からロンドンへ自動的に送り出される数列ではない。兵員統計で規模はわかる。一人ひとりがなぜ入隊したのか、家で誰が待っているのか、この戦争をどう受け止めていたのかまでは、統計が代わりに語ることはできない。

1941年9月9日、チャーチルは下院で大西洋憲章について説明した。人民が政府を選ぶという原則をめぐり、ナチス占領下のヨーロッパ諸国の主権回復と、インドやビルマなどの政治的発展を区別し、従来の帝国政策がこれによって変更されたわけではないと述べた。

同じ「自由」に、演説の中で違う時間割が与えられている。

イギリスの独立は、今、守らなければならない。インドが自らの将来をどう決めるかは、なお帝国政府が説明する過程の中に置かれる。待っている人にとって、「あとで」は重さのない言葉ではない。その人もまた、自分の今を生きている。

地図に印刷された「帝国」は平らだ。その厚みは名前の後ろに隠れている。港、鉄道、国境は描けても、ある人が協力を望む時、もう人に決められたとおりにはしないと言う時を、地図は描けない。

この連作でガンディーが示す非協力も、その問いのそばにある。従わないことによって、命令を出し慣れた人は、相手が命令の延長ではないと知る。インドの政治的な要求は、ガンディー一人の声よりはるかに広かった。一人でそのすべてを代表することも、ロンドンが代わりに答えを出すこともできない。

自由な協力を選んでもらえれば、兵士も食料も支持も増えたのだろうか。実際には起こらなかった道筋に、歴史は保証書を出さない。人の選択を尊重する条件を、将来もっと役に立つはずだという約束に求めることもできない。

人を同じテーブルに招くとは、自分があらかじめ書いていない答えも受け取るということだ。

五、代償

1943年、ベンガル。

八月のアメリカ外交文書には、現地からの報告が転載されている。飢えた人々が農村からカルカッタへ流入し、街路で亡くなる人、病院に受け入れてもらえない人がいた。報告の中には道があり、戸口がある。前節の地図が、ここでは短い道のりになる。力の尽きかけた人が、それでもそこを渡らなければならない。

飢饉と、それに伴う病気は、数百万人の命を奪った。推計には違いがある。数字の検討が続くことは、亡くなった事実が曖昧になることではない。

ビルマ陥落後の米の輸入途絶、1942年の暴風雨と稲作の損失、戦時の買い付け、物価上昇、輸送の混乱、救済の遅れが重なり合った。どこかに食料があることと、一つの家庭がそれを買い、運び、間に合うように受け取れることは違う。かつて一食分を買えた金が、同じ一杯分の米にも届かなくなる。

日本軍の侵攻に備えて、当局は米と船を敵に利用させないための「拒否措置」を実施していた。船を徴用し、移動させ、あるいは壊すことは、住民から輸送手段や生計を奪うことにもなりうる。安全のための措置と、現実の損害が、同じ水路で生じる。ロンドンの海図だけから眺めるわけにはいかない。

1945年の調査報告は、救済の開始の遅さと組織の不備を批判した。調査委員会の内部にも意見の相違が残る。ナナヴァティはとりわけ、農村の収入が食料価格の上昇に追いつかなかったことを強調した。カルカッタと農村との食料配分についても、多数派の説明を全面的には受け入れなかった。報告書の中にある声も一つではない。

もう少し後の文書を開く。1944年4月29日、チャーチルはルーズベルトに食料輸送の船を求めた。アメリカの外交文書集に残された電文の要約によれば、ウェーヴェル総督は輸入の必要を繰り返し訴えていた。チャーチル自身も、アメリカに援助を求めてほしいという総督の要請に、しばらく応じなかったと認めている。この時には要請を行い、イギリスがすでに手配した輸送も記した。

アメリカ側は軍事輸送の逼迫を理由に、求められた援助を断った。七月には英国大使館が、別の軍事輸送計画を一部削って追加の船を回すことにイギリス側が同意したと報告している。要請、拒否、調整。それぞれが通信に残る。何を優先して船に積むかは、誰の決定も介さない自然現象ではない。

しかし、それは1944年の通信だ。届いた時、1943年に亡くなった人々は、もう一度街路を歩いて戻ってこない。紙上のトン数は実際の航海になり、航海は荷揚げされた穀物になり、穀物は必要とする人のもとへ届かなければならない。それぞれの段階に、それぞれの時間がある。

責任を問うには、具体的な決定をたどる必要がある。誰が情報を持っていたのか。誰が船を回せたのか。誰が調達と配分を決めたのか。誰が待つ間に、生き延びる条件を失ったのか。州政府、インド中央政府、ロンドンの関係を一つの名前に塗りつぶすことはできない。段階を分けることは、組織と組織の間に責任を消してしまうことでもない。

あの声に励まされた人にも、ベンガルで食べ物を待つ人にも、それぞれ一つの命があった。一方を救っても、他方の空腹は満たせない。一方が助かったからといって、他方の死に線を引いて消すこともできない。二人は功罪を並べた帳簿の数字ではない。

六、彼とオッペンハイマー

橋の上でオッペンハイマーは灰を背負っている。チャーチルは旗を持ってくる。

その重さは、想像の橋にだけ残っているのではない。記録に戻れば、二人が関わった決定があり、名前の残る紙がある。

1945年6月16日、オッペンハイマーは四人の科学者からなる小委員会を代表し、核兵器の即時使用について勧告を提出した。報告は科学者の間に意見の相違があることを記し、小委員会自体は直接の軍事使用を支持した。兵器をどう使うかは彼らだけで決めたのではない。しかし決定する側に、この助言を渡したことは残る。

同じ年の十一月、ロスアラモスでの演説で、オッペンハイマーは兵器製造に加わった科学者の責任を語った。将来の平和利用によって、目前の問題が消えるわけではないとも述べた。二つの文書の間には数か月がある。後の懸念が、先の勧告を資料から消したわけではない。

チャーチルの紙には、別の種類の行為が残っている。内閣の決定、議会の演説、ルーズベルトへの援助要請。それぞれ異なる相手に向けられ、異なる問いに答えている。一つの声だけで、すべての文書の説明を終えることはできない。

それぞれの夜、二人が自分とどう向き合ったかは分からない。それでも文書があるから、問いを置く場所はある。この意見を出したのは誰か。決めたのは誰か。最後に、誰の暮らしに届いたのか。灰と旗は、ただ重そうな姿で終わらない。行ったことへ、人を連れ戻す。

なお、簡単には言い切れないことが残る。後世の人々は、二人の残した知識や言葉を手に取るだろう。それを受け取るとは、もう問い返すなという遺言を受け取ることではない。一つの演説から力を得ながら、その話し手の文書へ戻ることもできる。

灰を見たと認めるだけで、灰が減るわけではない。重い旗を背負うだけで、旗の下にいた人々への答えを済ませたことにもならない。

道具は、読者の目を紙の外へ向ける。まだ話す機会を得ていないのは誰か。

七、1945年7月

ヨーロッパの戦争は終わっていた。日本との戦争は続いていた。

7月5日、イギリスの総選挙が行われた。海外からの票を待ち、結果は26日に発表された。労働党が下院で多数を獲得し、アトリーが首相となり、チャーチルは政府の長の座を離れた。

ただし、ウッドフォードは引き続き彼を議員に選んだ。首相の職を失っても、議会から消えたわけではない。1951年には再び首相となる。一度の選挙で、その政治人生のすべてが使い捨ての箱に収められたのではなかった。

1941年、アメリカ議会で演説した時、彼は自らを下院に仕える者と呼び、下院の採決一つで職を解かれうると説明していた。その時も戦争は続いていた。職を返す可能性は、退任した後になって初めて出てきた話ではない。

1945年の選挙では、住宅、雇用、復員、社会保障など、戦争の外にある生活も争点となった。次の暮らしのために政府を選ぶことと、それまでの記憶を消すことは同じではない。投票するために、かつて励まされたことなど一度もないと装う必要はなかった。

他方で、有権者は一人の演説家に永続する職を約束したわけでもない。その言葉に耳を傾けたからといって、その先の暮らしをいつまでも彼に任せることにはならない。

声と椅子は違う。声は残りうる。椅子を誰に渡すかは、別の、公開された手続きで決まる。

椅子を離れる人も、なお一人の人である。別の政府を選んだ人々にも、それぞれ続いていく暮らしがある。

八、ノーベル文学賞

1953年、チャーチルはノーベル文学賞を受賞した。

授賞理由は、歴史と伝記の叙述を、演説と並べている。彼の書いたものも、戦時の一つの録音だけではない。『世界の危機』、『マールバラ伝』、『第二次世界大戦』は、長い時間を書物の中へ収めた。書き手自身が、その出来事の一部に参加していた。のちに再びペンを取り、それらをどう語るかを組み立てた。

そこには、当事者の文章ならではの近さがある。同時に、読者が見分けなければならない距離もある。参加したことは、すべてを知ることではない。自分の会議を覚えていることは、その影響を受けた全員を記録したことではない。

6月4日の演説を、もう一度開く。録音は流さない。文字だけを見る。

「われわれは」という句が帰ってくる。あとに続く場所は変わっていく。繰り返される文型が、先へ続けていけるリズムを生む。地名はそのリズムを、海岸、野原、街路という具体的な場所へ引き戻す。そこを本当に守るには、修辞だけでは足りない。それでも言葉は、まだ来ていない状況を、今ここで人々がともに話せるものにする。

そこから、仕事を続ける力を受け取る人がいる。別の人は、この「われわれ」に私は含まれるのかと尋ねる。一冊の本が、その二つの読み方に勝敗をつける必要はない。

ディケンズは読者に暖かい部屋を残した。その炉火で、キャサリンの経験を覆うことはできない。チャーチルの残した声にも、窓と戸口が必要だ。後から来る人が入り、出ていき、別の記録を持ち込めるように。

文学賞は言葉の仕事を顕彰する。ほかの文書を押さえつける文鎮ではない。

「決して降伏しない」という言葉には、今も力がある。別の記録を読んでから戻っても、その力は消えない。ただ、以前は聞こえなかった人の声が、耳に残っている。

九、声

1965年1月24日、チャーチルは亡くなった。九十歳だった。

彼は終戦から二十年目の年まで生きた。インドとパキスタンは1947年に独立し、帝国の地図に描かれる関係は変わった。彼自身も首相の職を離れ、戻り、また離れた。1940年のあの言葉は、そうした変化の中に残り続けた。

人がもう話さなくなっても、録音は再生できる。スイッチを入れれば声が部屋へ来る。切れば部屋は静かになる。生きていた話し手は、そんなふうに一つのボタンに収められる人ではなかった。その声は、議会を出て、書類を受け取り、また決定をする人と切り離せなかった。

ここからは、彼がこの橋に来たところを想像しよう。

橋のたもとに、また一人が現れる。小柄で、ずんぐりとした体つき。手もとには葉巻。二本の指をV字に上げ、それからゆっくり下ろす。

ペンと、帝国の旗を持ってきた。多くの色が縫い合わされ、厚く巻かれている。それを肩に載せ、片手で旗竿を支え、もう一方の手にはペンを持つ。先に響きが届く。足音はあとから来る。

ソクラテスは空き地に立つ。プラトンはしゃがんで図面を描く。ヒュームはバックギャモンの盤を前にしている。ショーペンハウアーは橋の下をのぞく。キルケゴールは跳んだ。チューリングは手の中のリンゴを見る。チェーホフは欄干にもたれ、カントールは空を見る。コペルニクスは本を置いて去った。サルトルはパイプを持って歩き回り、ボーヴォワールは鏡を掲げる。クワインが小さく一言、口にした。

テスラは低い唸りに耳を澄ます。エジソンは灯らない電球を持っている。ハイゼンベルクの位置は定まらない。ボーアの手には出されなかった手紙。トルストイは処方箋を手にチェーホフと向き合う。シェイクスピアはいない。彼は橋の下の水だ。スピノザの手にはガラスの粉。アリストテレスはしゃがんで床を張り、ファラデーは板を一枚持ち上げ、マクスウェルは立って方程式を書く。

ジャンヌ・ダルクは橋の上方で火を抱えている。ワイルドはあの一文を手に、姿よく立つ。ラマヌジャンは隙間から半身をのぞかせる。オッペンハイマーは灰を背負って前へ進む。シャーロットはペンを持つ。エミリーは橋の外の荒野にいて、風は彼女のほうから吹く。ボルツマンは方程式を刻んだ石を抱える。ゴッホの服には絵の具がつき、筆からはまだ色が滴る。ディケンズは亀裂の上に立ち、ペンもマッチ箱も手放していない。

チャーチルはオッペンハイマーを見る。灰を抱いた人は、ゆっくり歩いている。旗竿がチャーチルの肩を押す。手をずらし、重みのかかる場所を少し変える。

今度はジャンヌを見る。上では火が揺れ、風が旗の端を少しほどく。彼はその端を肩のそばへ戻す。布は広がらない。橋にいる人々の姿は、それぞれの場所に残る。

遠くにカントが立っている。

チャーチルは橋の面から返ってくる自分の声を聞く。あの言葉は遠くまで届く。一歩進むと、旗竿が肩に当たる。

前で待っているのは、一文だけではない。ヒュームが駒を一つ動かす。チェーホフはまだ欄干を離れない。ディケンズの足もとで、紙がかすかに鳴る。

チャーチルは立ち止まり、旗を載せ直す。さっきまであれほど響いていた言葉の代わりに、今は息の音がする。ペンはまだ手にある。顔を上げ、先の道を見る。

カントのほうへ歩いていく。声は先に着ける。肩に載っているものは、それでも足を運んで連れていかなければならない。

風が吹いてくる。旗の端が動く。

旗を背負っている。重い。それでも、歩いている。

読書のための注記と出典

6月4日の演説、当時の報道、1949年の録音は別の資料である。33万5千人余りは演説時に報告された英仏軍人の合計。戦時の判断は議会記録と閣議録の抜粋に基づき、文学的な比較でその経緯を置き換えない。

ベンガルの章では1943年の被害と1944年の援助要請、回答、輸送の調整を区別した。外交文書281号は要約と明記されている。輸送の手配は食料が被災者に届いた証明ではなく、調査委員の異論も残した。

ノーベル賞の授賞理由は閲覧可能な転引に基づく概要。第九節の橋は文学的想像であり、旗、灰、しぐさは歴史上の会見や免罪を意味しない。他者の尊重は、その人が返してくれる利益を条件としない。

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中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。