Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE 方法論
第 0 篇 / 12

非(Negativa)――存在に先立つ否定

Han Qin (秦汉)

SAEはこれまで、あらゆる構造に先立つ未分化を0DD、すなわち渾沌と呼んできた。だが「未分化」と言うだけで、すでに差異の可能性を使っている。「以前」と言えば順序を、「無差別」と言えば差別を前提にしてしまう。0DDは真の起点ではない。より根源的なものが自分を振り返ったときに残す、最初の痕跡である。

本稿がその根源に与える名は非(Negativa)である。ただし、これは通常の否定作用 negation でも、何かが持つ否定性 negativity でもない。対象も担い手もまだ成立していないところで働く、純粋な「非」である。本稿の公理は一つだけ――非。0DDを含め、その後に展開するすべては定理として扱われる。

1. 「非非」を問うと四相が現れる

出発点は「非非とは何か」という自問である。「非」を状態として近づけば、非非は有でも無でもない。この否定のうちに有と無が現れる。「非」を作用として近づけば、非非はその作用そのものでもない。否定の双対として結合が現れ、さらに「または」は「非(非有かつ非無)」として四相の内部に回収される。

同じ自問から余項ρも生じる。非の一回の働きは完全ではない。完全でないことの痕跡がρであり、次の働きが着地できる場所を残す。ここで重要なのは、余項が次の出来事を自動的に起こすわけではないことだ。余項が与えるのは着地点であり、実際に次の一刀を入れるかどうかは別問題である。

こうして四相が得られる。

  • 非「有かつ無」
  • 非「非有かつ非無」

第四相は否定そのものを否定し、自己言及的に閉じる。第五相のための新しい対象は残らない。0DDとは、非が自分を描いた最初の四枚の像なのである。

2. 非ではないもの

非を肯定的に定義すると、定義という構が源泉を置き換えてしまう。そこでVia Negativaによって境界を引く。非は鑿ではない。鑿は非の局所的な働きである。非は構ではない。構は働きの沈殿物である。非は余項ではない。余項は不完全な働きの痕跡である。非は橋でも物自体でも0DDでもない。それらはいずれも、展開した世界の内部で非が見せる切断面だ。

非は存在でも虚無でも概念でも動作でもない。存在と虚無はすでに有/無の区別に属し、概念と動作は主体・対象・順序を要する。さらに「非を否定する」と言った瞬間、その否定の働きによって非は現れている。最後の排除は排除そのものを排除し、系列は閉じる。

3. 二重否定としての自己呈示

非は肯定文では語れず、単純な禁止としても語れない。唯一可能なのは二重否定による自己呈示である。「非は働かない」と言おうとすれば、その文自体が働きを否定している。したがって非は働かずにはいられない。これは定義ではなく、消そうとしたその瞬間に姿を見せる遂行的な現れである。

0DDの「発展せずにはいられない」、ソクラテス的な「無知を認めずにはいられない」、16DDの「鑿せずにはいられない」は、この同じ形式を異なる入口から表す。絶対的なものが単純な肯定ではなく「~せずにはいられない」という形を取るのは偶然ではない。

4. 四つの伝統が触れた限界

道家は「道の道とすべきは常の道にあらず」と、名づけの手前を一息で示した。仏教の「非想非非想」は否定を自分へ折り返し、四無色定は0DDの四相とよく似た運動を示す。偽ディオニュシオス、マイモニデス、クザーヌスへ続く否定神学は、名づけ・知・構成を一枚ずつ剝がして、語りえない限界へ近づいた。

SAEは逆方向から来る。1DDから16DDまで構造を展開し、1DDの条件を問い、0DDへ戻り、さらに0DDの条件を問う。その長い経路の末に、他の伝統が信仰や修行から触れたものと構造的に似た限界へ達する。ただし、これは宗教的同一性の主張ではない。同型性を認めることと、その限界を神、涅槃、道と呼ぶことは別である。

日本語では「非」は漢語としてすでに哲学語彙に深く埋め込まれている。そのため「非」を単なる接頭辞として読まず、主語も目的語も持たない純粋な働きとして読む必要がある。翻訳語の便利さが、対象化の罠にもなるからだ。

5. 存在より先へ

サルトルは「実存は本質に先立つ」と言い、本質主義の構を鑿った。本稿はそこからもう一歩進む。存在はすでに有であり、有は無との差異の中でしか成立しない。その差異を可能にするのが非である。ゆえに、非は存在に先立つ

この命題はサルトルを退けるのではなく、彼が自由として記述した作用の条件を遡る。自由とは「そうしないこともできる」という非が13DDで自己へ折り返した現れである。ニーチェは価値を槌で打ち、サルトルは否定を個体の中心に置いた。SAEはその作用を、0DDより前まで追跡する。

6. 公理の再配置と残る壁

公理を非だけに置けば、0DDの四相、鑿構循環の五切面、1DDから16DDまでの次元列は第一・第二群の定理になる。「存在は構に先立つ」は展開世界の内部ではなお有効だが、全域的には「非は存在に先立つ」の下位に置かれる。16DDも終点ではなく、一つの非が別の非に出会う位置として読み直せる。相互非疑とは、二つの否定性が互いを消せないまま出会うことである。

それでも「非はどこから来るのか」は残る。この問いは方向や因果を要求するが、方向は3DD、因果は4DDの産物である。産物を使って源泉へ道をつけることはできない。ここでは鑿が鑿自身に当たり、槌が槌を打って壊れない。Via NegativaでVia Negativaの条件を扱う本稿は、最後に自分自身を余項として残す。