第5篇 春秋――天子はまだいるが、構はもう空洞だ
紀元前770年、周の平王は諸侯に護衛され、鎬京から東の洛邑へ都を移した。この移動が政治にもたらした変化は、地理上の変化よりはるかに大きかった。天子は独立した軍事力を失い、旧都の豊・鎬を取り巻く肥沃な土地を失い、諸侯の上に立って争いを裁く実権も失った。それでも天子であることに変わりはない。ただし「天子」の二文字の値打ちは、この東遷の日を境に、二度と元には戻らない値下がりを始めた。
紀元前770年、周の平王は諸侯に護衛され、鎬京から東の洛邑へ都を移した。この移動が政治にもたらした変化は、地理上の変化よりはるかに大きかった。天子は独立した軍事力を失い、旧都の豊・鎬を取り巻く肥沃な土地を失い、諸侯の上に立って争いを裁く実権も失った。それでも天子であることに変わりはない。ただし「天子」の二文字の値打ちは、この東遷の日を境に、二度と元には戻らない値下がりを始めた。
春秋時代は、伝統的な時代区分では紀元前770年から前476年までを指す。この時代の本質は、新しい構が古い構に取って代わったことではない。古い構の中身が、ゆっくり抜け落ちていったことにある。周公の仕組みは、一度の戦争で打ち砕かれたのでも、一度の革命で覆されたのでもない。内側から蒸発したのだ。形式は残っていた。天子は相変わらず洛邑におり、諸侯は回数こそ減ったが朝覲を続け、礼の儀式も形を崩しながらなお行われていた。だが、その形式を満たしていた実質は、水気のようにひっそり蒸発していた。
こういう死に方は、暴力による破壊以上に分析する価値がある。暴力による破壊なら、その構より強い外力が現れたということだ。ゆっくりと空洞になるのは、構が自分自身の余項に内側から食い尽くされたということである。春秋は、殺された者の物語ではない。自然死の物語だ。ならば、解剖が必要になる。
一 東遷――構の重心が移る
平王の東遷は、単なる地理上の出来事ではなかった。権力を支える仕組み全体の、物理的な配置を変えたのである。
西周の権力は放射状に広がっていた。中央の鎬京に天子がおり、その周囲に諸侯がいる。力は中心から外へ流れた。天子は周人の本拠地である関中平原を押さえ、直轄軍の六師を持ち、豊かな物資を握っていた。天子と諸侯の実力差は、仕組みそのものに組み込まれていたのだ。天子は名目だけの最高権威ではない。実力でも、確かに最強だった。
東遷はこの配置を根底から変えた。洛邑は象徴的な都であり、周囲で直接支配できる土地はごく狭かった。天子の直轄領は、関中の千里の地から、洛邑周辺の数百里四方ほどの小さな土地へと縮んだ。しかも、その土地さえ絶えず蚕食されていく。六師は戦いで壊滅的な損害を受け、再建する力はない。財源も大幅に細った。
一方、諸侯国は二百年以上続いた封建体制のもとで、すでに大きく育っていた。斉は山東半島の塩と鉄の資源を押さえ、晋は黄河中流の戦略上の要地を占め、楚は南へ領土を広げて長江流域に達し、秦は西周の旧領を引き継いだ。これらの大国は、人口でも軍事力でも経済規模でも、とうに王室を大きく上回っていた。
「強い中心が一つ、その周りに弱い勢力がいくつもある」という配置は、「弱い中心が一つ、その周りに強い勢力がいくつもある」という配置に変わった。中心は残った。だが、その中心こそが、仕組み全体で最も弱い地点になっていた。
名目上は最高の権威を持つ者が、実際にはいちばん弱い。きわめて特異な権力構造である。名と実の分離だ。それは突然起きたわけではない。西周末期にはすでに兆しがあったが、東遷によって動かしがたいものになった。その後二百九十年にわたる春秋の歴史は、基本的には、この名実のずれを前提にした各勢力の駆け引きである。
二 覇政――構の代用品
周の天子には、もう秩序を維持する実力がなかった。だが、秩序は誰かが維持しなければならない。国家間の世界を、いつまでも無政府状態にはしておけない。少なくとも当時はそうだった。周辺で「蛮夷」と呼ばれた戎狄や南方の楚が、中原諸国の安全を絶えず脅かしていたからだ。秩序を失った中原は、力をまとめて動員できない中原でもある。外からの脅威にはひどく弱かった。
この空白から育ってきたのが、覇者を中心とする体制だった。
最初の覇者は斉の桓公である。彼は天子がするべきなのに、もうできなくなっていた仕事を引き受けた。諸侯を集めて会盟を開き、共同の軍事行動を組織し、諸侯間の争いを仲裁する。掲げた旗印は「尊王攘夷」。周の天子の名目的な権威を尊び、蛮夷による現実の脅威を退ける、というものだった。
この標語自体が、よくできた政治の言葉だった。「尊王」といっても、本当に天子の実権を回復させるつもりはない。天子の名を借りて、自分の行動を正当化するのである。斉の桓公よ、何の権利があって諸侯を呼び集めるのか。何の権利があって皆のことを決めるのか。天子があまりに弱いので、私が代わりに出ているのです。天子の名目的な権威は、覇者の営業許可証になった。
「攘夷」のほうは、実際に役に立つという正当性を与えた。天子の旗を振って格好をつけているだけではない。皆をまとめて外敵に対抗するという、有益な仕事を本当にしているのだ。名目だけでは足りない分を、機能で補うのである。
構という観点から見ると、覇政は新しい構ではなかった。一時しのぎの代用品だった。元のシステムが動かなくなったときに最低限の機能を補う、修正パッチのようなものだ。元の設計までは変えない。
覇政には、それ自体を支える制度的な土台がなかった。すべては覇者個人の実力と威望にかかっていた。斉の桓公が生きているあいだは体制も動いた。桓公が死ぬと五人の息子が後継の座を争い、斉は内乱に陥り、覇業はたちまち崩れた。管仲は四民分業や国鄙制などの内政改革を設計したが、それが効くのは斉の国内だけで、国家間の秩序にまで広げることはできなかった。
覇者の地位を引き継いだのは晋の文公である。晋の覇政はその後百年以上続き、斉よりも長持ちした。晋の君主たちが一人ひとり桓公より優秀だったからではない。晋が、覇政をなかば制度にする仕組み、六卿制を発達させたからだ。軍事や政治の決定は君主一人に頼り切るのではなく、六つの卿の一族による集団的な意思決定を通じて行われた。そのぶん晋の覇政には制度としての厚みができ、君主が一人死んだだけで直ちに崩れることはなくなった。
だが、その六卿制こそが、のちに晋の致命的な余項となる。卿の一族は力を膨らませ、最後には三家が晋を分割した。覇者は卿の一族を使って自分の覇政を制度化した。卿の一族は、やがて自分たちの独立を制度化した。解決策が次の問題になったのである。またしても、余項保存則だ。
三 礼が壊れ、楽が崩れる――何が蒸発したのか
「礼壊楽崩」という四文字は、繰り返し使われすぎて、かえって何が起きたのか見えにくくなっている。この過程を理解するには、細部を見なければならない。
第一の蒸発――僭越が当たり前になる。
周の礼では、儀礼の舞の列数は、天子が八佾、諸侯が六佾、大夫が四佾と定められていた。ところが、魯の大夫である季氏は、自分の屋敷で八佾の舞を使った。孔子は怒った。「八佾の舞を自分の庭で舞わせるとは。これが許されるなら、許されないことなど何がある」。
孔子の怒りは本物だった。だが、怒らなければならなかったこと自体が、それがもう現実になっていた証拠である。季氏が八佾を使えたのは、決まりを知らなかったからではない。決まりを守らせる者がいなくなったからだ。誰が季氏を罰するのか。魯の君主か。その君主は、季氏に実権を奪われている。周の天子か。天子は自分の食い扶持さえ、そろそろ工面できなくなっていた。
僭越しても何も起きなければ、それは例外から先例に変わる。先例がある程度積み重なると、新しい当たり前になる。大夫が皆、六佾どころか八佾まで使うようになれば、四佾で我慢するほうが「損」になる。身のほどを守ることは美徳ではなく、弱みを見せることになった。礼の論理が、そっくり裏返ったのである。かつて礼を守ることは高貴さのしるしだった。今やそれは、弱さのしるしだった。
第二の蒸発――朝覲が途絶える。
諸侯が定期的に天子へ朝覲することは、封建制の中核をなす儀式の一つだった。単に天子の顔を立てる催しではない。諸侯が天子への臣従関係を確認し、儀式を通じて権力の上下関係をそのつど作り直す行為だった。
春秋時代には、その頻度が急激に落ちていく。魯は諸侯国のなかで最も忠実に周の礼を守る国だった。周公の封国であり、周礼がいちばん完全な形で保存されていたからだ。その魯でさえ、春秋中期から後期になると、君主が天子に朝覲する回数はほとんどゼロに近づいた。他の国は、言うまでもない。
諸侯が無作法になった、という話ではない。朝覲の損得勘定が変わったのだ。洛邑まで出向くには時間も資源もかかる。得られるのは、名目上のお墨付きだけ。そのお墨付きは、現実の政治の駆け引きでは、どんどん値打ちを失っていた。軍事力で他国を従わせられる斉が、なぜわざわざ洛邑まで出向いて天子の承認をもらう必要があるのか。
儀式が途絶えたことは原因ではなく、結果だった。儀式とは権力関係を演じて見せるものだ。その土台となる関係が変わり、天子が最強でなくなれば、上演にも説得力がなくなる。全員が芝居だと知っている芝居のために、時間も金も使いたくはない。
第三の蒸発――征伐を勝手に始める。
周の礼に従えば、諸侯間の戦争には天子の許可、あるいは仲裁が必要だった。「礼楽征伐、天子より出づ」。礼も音楽も征伐も天子が決める。それが理想だった。
春秋時代になると、「礼楽征伐、諸侯より出づ」となる。孔子がそう語ったとき、そこには批判が込められていた。だが、それが現実だった。諸侯は天子に何の断りもなく戦い、戦争の決着も天子の裁定には委ねない。天子は審判から観客になった。いや、観客ですらない。起きたことさえ知らされない戦争もあったのだから。
春秋後期には、さらに「礼楽征伐、大夫より出づ」へ進む。諸侯が天子に従わないだけではない。卿大夫も諸侯に従わなくなった。魯では孟孫・叔孫・季孫の三家、いわゆる三桓が君主を骨抜きにした。晋では六卿が軍事と外交の実権を握った。権力を実際に持つ者は、天子から諸侯へ、諸侯から大夫へ、大夫から家臣へと、下へ下へと移っていった。
孔子が見ていたのは、三段階にわたるこの下降である。その記述はきわめて精確だ。「天下に道があれば、礼楽征伐は天子から出る。天下に道がなければ、諸侯から出る。諸侯から出るようになれば、およそ十代も権力を失わずにいることはまれである。大夫から出るようになれば、五代も失わずにいることはまれである。陪臣が国の命運を握れば、三代も失わずにいることはまれである」。
これは単なる道徳上の批判ではない。権力が下へ移る速度は増していく、という構造への洞察がある。天子から諸侯への移行には、およそ十代、西周の全期間を要した。諸侯から大夫への移行には、およそ五代、春秋の前期から中期を要した。大夫から家臣への移行は、およそ三代、春秋後期に起きた。加速はさらに勢いを増していた。
なぜ加速するのか。一段下へ移るたびに、権力を制度的に守るものが弱くなるからだ。天子の権力は礼楽制度の全体に守られ、侵食には時間がかかった。諸侯の守りはそれより弱い。諸侯の地位の正当性は天子による冊封に由来し、天子の値打ちが下がれば冊封の値打ちも下がるからだ。だから侵食は少し速くなる。大夫の守りはさらに弱く、侵食もさらに速い。下へ行くほど壁が薄くなるので、突き破られるまでの時間も短くなるのである。
四 鄭の荘公――天子に公然と挑んだ最初の人物
礼壊楽崩の出発点を一人の人物に求めるなら、最もふさわしいのは鄭の荘公だろう。
鄭は少し変わった諸侯国だった。封じられたのは西周末期と遅く、現在の河南省中部、洛邑に近い場所にあった。天子に近かったため、鄭の君主は代々、周王室の卿士、いわば天子の行政の最高責任者を務めた。このため鄭は、独立した諸侯国であると同時に王室の内臣でもある、二重の立場を持っていた。
鄭の荘公は、紀元前743年から前701年まで在位した、活力と野心にあふれる政治家である。まず国内で、弟の共叔段の反乱を鎮めた。この事件そのものが、兄と弟のどちらが継ぐかをめぐる争いの典型でもあった。荘公の母は弟を偏愛し、兄を退けて弟を立てようとしたのである。数十年前、幽王が嫡子を廃して庶子を立てようとしたのと、構造はまったく同じだった。違うのは、今回は諸侯国の水準で起きたことだ。周王室の内紛を、鄭が一回り小さな規模で再演した。これは個々の君主の好き嫌いではなく、人間の情念から圧力を受けた宗法制に、仕組みそのものの亀裂が走っていたことを示している。内を片づけた荘公は、今度は外へ目を向けた。
荘公は周の桓王と衝突した。直接のきっかけは、荘公が朝覲をやめ、桓王がこれを罰しようとしたことだった。両軍は繻葛で戦った。結果は天子の軍の大敗。桓王自身も肩を矢で射抜かれた。
その矢が射抜いたのは、桓王の肩だけではなかった。「天子には逆らえない」という、二百年以上保たれてきた政治的な幻想をも貫いたのである。
ここで、戦いの後の荘公に注目してほしい。勝ちに乗じて追撃せず、周王室の領地にも攻め込まず、外に向かって勝利を大々的に自慢することさえしなかった。それどころか、傷ついた天子に使者を送り、うやうやしく「お見舞い」した。その振る舞いが伝えたのは、こういうことだ。あなたの名目上の地位は否定しない。ただし、あなたの実際の権威は私には通用しないと知っておいてほしい。名はあなたに、実は私に。
これが春秋政治の基本ルールだった。周の天子の正当性を公然と否定する者はいない。そんなことをすれば、道義上の代償が高すぎる。だが実際の行動では、誰もがそれを無視した。名と実は完全に離れた。天子は商標になったのである。ブランドは残っているが、会社はもう倒産していた。
鄭の荘公が先鞭をつけ、その後の斉の桓公、晋の文公、楚の荘王は、同じ論理をより大きな規模で繰り返したにすぎない。桓公の「尊王攘夷」、晋の文公の「践土の盟」、楚の荘王が「鼎の軽重を問う」行為。手口は違っても、構造は同じである。天子の名を借りて、天子の実権を行使する。借りる者が使えば使うほど、天子の手元に残るものは減っていった。
五 楚――構の外からの挑戦
春秋時代を大きく動かした、もう一つの変数が楚である。
楚は周の封建体制に属していたが、そのいちばん端にいた。楚人の始祖、鬻熊はかつて文王の師を務め、成王の時代に熊繹が楚に封じられた。爵位は子爵。五等爵の上から四番目で、きわめて低い地位だった。春秋初期には領土でも実力でも中原の諸侯の大半を上回っていた国にとって、それはひどく釣り合わない扱いだった。
熊通、のちの楚の武王が即位したころ、楚はすでに南方随一の強国になっていた。彼は随を通じて、周王室に爵位の引き上げを求めた。これほどもっともな要求もない。周の礼の論理に従うなら、爵位は実力や功績、領土とおおむね見合っているべきだからだ。王室はこれを断った。
王室が断った理由は理解できる。一度でも楚の昇爵を認めれば、五等爵制全体に穴が開く。他の強い諸侯も、自分たちの位置を見直せと求めるだろう。序列を丸ごと組み替えろという圧力が生まれてしまう。王室は体制全体の安定を揺るがすくらいなら、楚一国の機嫌を損ねるほうを選んだ。
熊通の返答は、有名な八文字だった。「王不加位、我自尊耳」。王が位を上げてくれぬなら、自分で上げるまでだ。くれないのなら、自分に自分で与える。彼は自ら王を名乗った。のちにいう楚の武王である。「王」は天子だけに許された称号で、諸侯が使ってよいものではない。真正面からの、隠す気もない挑戦だった。
構造のうえで重要なのは、楚が構の内側の挑戦者から、外側の挑戦者に変わったことである。しかも、その変化を促したのは周王室自身の硬直だった。柔軟に昇爵を認めていれば、楚は斉や晋のように、構の内側で動き続けたかもしれない。王室が選んだのは、五等爵制を字面どおり無傷で守るという教条だった。その代償に、内側に収めて手なずけられたはずの大国を、構の外へ押し出してしまった。
制度の厳格さは、ときに制度自身の敵になる。硬直しすぎた規則の前に、設計時の想定を超えた事態が現れる。そこで柔軟に調整できなければ、規則そのものが丸ごと捨てられる。この教訓は、のちの歴史にも繰り返し現れる。古代をよりどころにした王莽の制度改革、明末の銀流入への対応、清の通商要求への対処。いずれも似た構造を持っている。楚の武王が自ら王を称したとき、この失敗の筋書きは中国史で初めて、ひと通り演じられたのである。
こうして楚は、構の外に立つ存在となった。
この挑戦は、鄭の荘公のものとは性質が違う。荘公は構の内側の挑戦者だった。構のなかで動き、その資源を利用しながら、決まりだけを守らなかった。楚は構の外側の挑戦者である。この構に自分を管轄する権利があるとは認めず、自分の秩序を作ろうとした。
外からの挑戦は、内からの挑戦より致命的だ。内側の挑戦者は、どれほど規則を破っても、まだその構の言葉で話している。鄭の荘公は天子を矢で射たあとも「お見舞い」を欠かさず、斉の桓公は覇者になっても「尊王」の旗を掲げた。外側の挑戦者は、そちらの言葉さえ使わない。楚が王を称すること、他国を滅ぼすこと、中原の称号や諡号の決まりに従わないこと。それらはどれも、同じことを告げていた。そちらの流儀など、こちらには関係ない。
楚の存在は、中原諸国に、本来やりたくなかったことをやらせた。団結である。斉の桓公の「攘夷」に人を動かす力があったのは、楚の北上による圧力が現実のものだったから、という面が大きい。楚の脅威がなければ、中原諸国の内輪争いは、もっと早く、もっと徹底的に周公の仕組みを壊していただろう。外の脅威は構を延命させた。構が良くなったからではない。死が目の前に迫れば、しばらくは内輪もめどころではなくなるからだ。
しかし楚の挑戦は、別の面では構の土台を侵食した。周公の仕組みだけが可能な秩序ではない、と証明したからである。楚には独自の制度があった。県制、王族による政治、中原とは異なる文化の体系。楚は県制を最も早く用いた国の一つで、秦よりずっと早かった。しかも、それらの制度はなかなかよく動いた。春秋の列国のなかで、楚は領土を最も速く広げ、最も多くの小国を滅ぼした。
別の秩序が存在し、しかも立派に機能していれば、古い秩序の正当性は、もはや自明ではなくなる。「礼楽と封建こそが唯一正しい組織のあり方だ」とは言えない。南には、それをまったく使わずに、ますます強くなる国があるのだから。
楚は、周公の仕組みから追い出された余項だった。本来は内側にいたのに、仕組み自身の硬直によって外へ押しやられた存在である。システムはそれを消化できず、それどころか、自分の土台を侵食する外部の力に変えてしまった。
六 管仲――現実から組み立てた最初の政治の技師
周公が理想主義の設計者、つまり設計図を描いてから構を建てる人だったとすれば、管仲は現実主義の技師だった。まず問題があり、それから解決策を考えるのである。
管仲は斉の桓公を助け、覇者に押し上げた。だが、彼の本当の貢献は戦場の勝利ではなく、斉の内政改革にあった。その改革には、いくつかの柱がある。
四民分業。士農工商を、それぞれ決まった場所に住まわせる。これは、よくある職業の分類ではない。職業ごとに居住区域を固定し、互いを隔てて管理しやすくする、社会統制の技術だった。士は士どうし、農民は農民どうし、職人は職人どうし、商人は商人どうしで暮らす。同じ職業の者が集まれば、技術や経験は親から子へ効率よく伝わる。だが同時に、階層をまたぐ移動は制限される。
国鄙制。国、すなわち都城と近郊には、鄙、すなわち遠郊の農村とは別の統治を行う。国人には軍役の義務と政治的な権利があり、鄙の人々には労働の義務しかない。場所によって濃淡をつける管理である。中核には多くを投入して強く統制し、周辺には投入を抑え、統制も薄くする。
塩と鉄の専売。生産と販売を国家が独占する。これは中国史で初めての、体系的な国家専売経済だった。単なる財政政策ではない。権力を行使する道具である。塩と鉄を押さえれば、誰もが日々使う必需品を押さえられる。国家が社会の隅々まで入り込む力は、飛躍的に強くなった。
これらの改革をまとめて眺めると、管仲と周公の仕事は、性質からして違うことがわかる。周公が設計したのは、倫理を中心に据えた秩序だった。人々は礼の価値に納得するからこそ、自ら進んで守るべきだ、と考える。管仲が設計したのは、機能を中心に据えた仕組みである。納得するかどうかは問わない。設計そのものが、従わざるをえなくする。
周公の構は、人間の道徳的な自覚に頼った。管仲の構は、制度による強制力に頼った。どのように構を作るか、その哲学がまったく違ったのだ。
管仲は、それを明確な理論として語り残したわけではない。『管子』の大部分は、後世の人が彼の名を借りて書いたものだ。だが、その実践は、のちの法家の中心的な発想を切り開いた。人の道徳に期待するな。規則を守らざるをえない仕組みを設計せよ。商鞅の変法も、韓非の理論も、ここまでさかのぼることができる。
周期律の視点からいえば、管仲には、構を作る基本原理の転換が芽生えていた。周公型という古い原理は、共有された価値観のうえに秩序を築く「倫理の構」。管仲型という新しい原理は、利益の計算と制度の強制のうえに秩序を築く「機能の構」である。春秋時代には両方が並び立ち、管仲型はまだ全面的には展開されていなかった。戦国時代に新しい原理が広く行き渡り、最後に秦で極限まで押し進められる。
だが、管仲の解決策にも独自の余項がある。機能の構は、人を服従させることはできても、心から納得させることはできない。服従は計算できる。負担より利益が大きければ従い、利益より負担が大きければ逆らう。つまり、機能の構が安定するかどうかは、この損得の釣り合いを保ち続けられるかにかかっている。国家が利益を与え続ける力、あるいは罰を科し続ける力を失えば、服従はたちまち崩れる。機能の構には緩衝地帯がない。倫理の構には、少なくとも惰性がある。従っても得にならなくなったあとも、人はしばらく習慣で従い続ける。機能の構には、その惰性さえない。利益が消えた瞬間、服従も消える。
斉の桓公が死んだあと、覇業が急速に崩れたことは、この弱点を部分的に裏づけている。管仲の設計した仕組みは、管仲が生きているあいだは実によく動いた。だが管仲が死に、桓公も死ぬと、それを動かす個人の能力に頼っていたことが、たちまち露呈した。周公の仕組みと同じ弱点である。現れ方が違うだけだった。
七 春秋の本質――構の相転移
鑿構周期律のなかで春秋が占める位置を、一つの言葉で表すなら「相転移」である。
物理学でいう相転移とは、物質がある状態から別の状態へ移ることだ。氷が水になり、水が気体になる。特徴は、移り変わりが完了するまで、二つの状態が共存することにある。氷水には氷と水が同時にある。だが、それは安定した状態ではない。温度が上がり続ければ、氷はやがてすべて水になる。
春秋は、中国政治にとっての氷水だった。古い構、すなわち封建制・礼楽制・宗法制が氷である。諸侯の自立、大夫の専権、機能を重んじる統治という、新しい政治の現実が水である。この二つは、同じ容器のなかで三百年近く共存した。
共存といっても、平和に住み分けていたわけではない。古い構は溶け続け、新しい現実は広がり続けた。ただし、溶ける速さは一定ではない。大きな軍事衝突のあとには速く、強力な覇者が秩序を保っている時期には遅くなる。場所によっても違った。矛盾の集中する鄭や晋では速く、意識的に古い秩序を守ろうとした魯では遅かった。
相転移には、もう一つ重要な特徴がある。移行が完了するまでは、新しい状態の論理だけで古い状態の残りを理解することも、古い状態の論理だけで新しい状態の芽を理解することもできない。春秋の政治家が、礼を壊しながら礼を尊重すると言う。その振る舞いが矛盾して見えるのは、彼らが同時に二つの状態を生きていたからだ。偽善なのではない。彼ら自身が氷水だったのである。ある部分はすでに溶け、別の部分はまだ固まっていた。
この氷水の状態を最も精確に体現したのが孔子だった。周の礼を復興するという理想は固体であり、周礼がどこまで崩れたかを誰よりもよく見抜く観察は液体であり、現実を認めながら理想を手放さない実践は、両者の混合だった。孔子は氷と水を同時に見ていた。氷が水に変わりつつあることも、それが逆戻りできないことも知っていた。それでも、氷は水になるべきだとは認めたくなかった。そこに、彼の苦しみがあった。
「其の不可なるを知りて、これを為す」。できないと知りながら、なお行う。普通は道徳的な勇気を表す言葉とされる。だが鑿と構の視点から見れば、これは相転移のさなかに、構の最後の守り手が発した声である。元には戻れないと知っている。それでも受け入れない。理性を欠いていたからではない。氷と水のどちらを選ぶかと問われ、氷を選んだからだ。この選択が、二千年の儒家の基調を定めた。できないとわかっていても、やる。守る者が一人もいなくなれば、構の相転移は制御を失うからである。
八 春秋が戦国に残したもの
春秋が終わったとき、何が残ったのか。時期としては、およそ紀元前476年。三家による晋の分割を区切りにするなら、前453年である。
第一に、名と実の分離が染み込んだ政治文化。
周の天子はまだいる。だが、誰も本気で相手にはしない。諸侯の称号も残っている。だが実権は、卿大夫が握っているかもしれない。卿大夫の身分上の地位も残っている。だが実際に決めるのは、その家臣かもしれない。上から下まで、どの段階でも名と実が離れていた。
この分離は、政治文化に深い刻印を残した。その後の中国政治は、「名」と「実」の違いにきわめて敏感になる。「正名」が政治の中心概念の一つになった。孔子が「必ずや名を正さんか」と言ったのも、名と実がひどく混乱した時代に生きていたからだ。その後二千年の政治理論も、そのかなりの部分を、名と実の関係を論じることに費やすことになる。
第二に、異なる構の型が共存した経験。
春秋の諸侯国は、それぞれ別の統治法を試した。斉の管仲型、晋の六卿による集団的な意思決定、楚の県制と王族政治、鄭の子産による法治の実験、すなわち刑書の鋳造。どれも異なる構の型である。それらは競い合いながら、互いを観察し、学び合い、淘汰し合った。
こうした共存は、戦国時代に全面的な制度改革を進めるための、経験の蓄積を残した。戦国の改革者は、新しい制度をゼロから設計したのではない。春秋三百年の実験データを参照できたのである。商鞅の変法も、空から降ってきたものではなかった。楚の県制、斉の管仲の改革、鄭の子産による刑書鋳造。そうした一連の先行実験を組み合わせ、極端にまで押し進めたものだった。
第三に、埋められるのを待つ理論の空白。
周公の仕組みは、もう役に立たなくなっていた。だが、それに代わる新しい仕組みはない。春秋は「古いものはすでに死んだが、新しいものはまだ生まれていない」という端境期だった。この隙間が、理論への巨大な需要を生む。周公の方法では駄目だとしたら、どんな方法ならよいのか。
百家争鳴は、この需要に応えたものだった。儒家、法家、墨家、道家、名家、兵家、農家、縦横家。これらの学派が現れたのは、たまたま知が爆発したからではない。政治の空白が、知的な答えを求めたからだ。古い構が死に、新しい構がまだ定まらないとき、「秩序はどうあるべきか」へのあらゆる答えに、提案され、論じられ、試される機会が生まれる。
百家争鳴は、相転移の過程で生じる激しい熱運動だった。固体から液体へ移るとき、水の分子は激しく動く。古い構から新しい構へ移るとき、思想も同じように激しく動く。秦の統一によって新しい構が確立すれば、その熱運動は、焚書坑儒によって抑え込まれる。自由に考える窓が開くのは、相転移のあいだだけなのである。
第四に、構の柔らかな統制には限界がある、という根本的な教訓。
周公の礼楽制度は、人類の政治史でも指折りの精緻な、柔らかな統制の仕組みだった。暴力ではなく、文化と倫理と儀礼で人を動かす。実行のために軍隊を出す必要がなく、運用の費用はきわめて低い。だが、効力が続く期間には限りがあった。利害の衝突であれ、血縁の希薄化であれ、世代を経るごとの衰えであれ、参加する人々が心からその仕組みを認めなくなったとき、柔らかな統制は効かなくなる。
戦国、そして秦が向かったのは、柔らかな統制だけで足りないなら、硬い統制を加えようという方向だった。法律、刑罰、官僚機構、軍功爵制。いずれも硬い統制の道具である。内心からの納得など求めない。恐れてくれるか、欲に駆られてくれれば、それでいい。
ただし、柔らかな統制が失敗したからといって、価値がないわけではない。使える条件がある、ということだ。仕組みの規模が小さく、参加者のあいだに実感を伴う共同体意識があるとき、最もよく働く。一定の規模を超えて、その感覚が薄くなれば、硬い統制による補いが必要になる。
のちに最もうまくいった政治の仕組み、たとえば儒家と法家を併用した漢は、いずれも硬軟を組み合わせていた。儒家の礼教が柔らかな統制を担い、法家の刑罰が硬い統制を担う。柔らかいだけでは駄目だ。それは春秋が証明した。硬いだけでも駄目だ。それは、これから秦が証明する。
次篇は戦国。七つの国が並び立ち、七つの構の型が同時に競い合う。整然とした実験ではない。血まみれの勝ち抜き戦である。最後に勝つのは、最も優れた型ではなく、最も極端な型だ。その極端さの代償が清算されるのは、秦の時代になってからである。