Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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第三篇:殷――王がシャーマンでもあるとき

夏王朝の権力を支えていたのは、血縁と武力だった。この二つで用は足りた。だが、十分とはいえなかった。用が足りたというのは、四百年の統治を維持できたということだ。十分ではなかったというのは、最後まで一つの層が欠けていたということだ。「なぜ、お前の家なのか」という問いに、根底から答える物語である。

Han Qin (秦汉) · 鑿構周期律 · 中華帝王シリーズ — 第03篇、全25篇 · 2026年

夏王朝の権力を支えていたのは、血縁と武力だった。この二つで用は足りた。だが、十分とはいえなかった。用が足りたというのは、四百年の統治を維持できたということだ。十分ではなかったというのは、最後まで一つの層が欠けていたということだ。「なぜ、お前の家なのか」という問いに、根底から答える物語である。

血縁が答えるのは「誰に王位を渡すか」であって、「なぜ王位が存在するのか」ではない。武力が答えるのは「誰なら王座を守り通せるか」であって、「誰がそこに座るべきか」ではない。夏は、こうした問いを曖昧なままにしていた。なぜわが家なのか。禹に治水の功績があるからだ。そもそも、なぜ王位が必要なのか。誰もそうは尋ねない。あって当然だと思っている。

殷の人々は違った。彼らは、本格的なイデオロギーをつくり上げた。

その核心はこうだ。王こそが、天と人をつなぐ唯一の仲介者である。

普通の人は、天、すなわち帝や上帝、祖先の神々と直接やり取りすることができない。それができるのは王だけだ。手段は祭祀と占卜である。王は祭祀を執り行い、祖先に供物を捧げ、天上で人間のために取りなしてくれるよう頼む。王はまた占卜を執り行い、亀の甲や獣の骨に生じた亀裂から天意を読み取る。亀裂は天の言葉だ。それを解読できるのは、王と、その側に仕える貞人、つまり占卜の専門家だけだった。

つまり王は、政治の指導者であると同時に、最高の祭司でもある。人間を治めるだけでなく、天と人を結ぶ情報の通り道まで押さえている。王の政治的な命令に従わないことはできても、王を通さずに天と交信することはできない。自分で神に通じる力を持っていれば別だが、殷の仕組みは、まさにそれを認めない設計になっていた。神に通じる権利は、王室の独占物だった。

これが殷の「構」である。祭祀の構、あるいは神権の構と呼んでもよい。夏の血縁と武力による構より、一段階上にある。「この地位はわが家のものだ」と言うだけではない。「この地位はなくてはならない。なければ天と人のつながりが絶える。そして、この地位に就けるのはわが家だけだ。天上にいる祖先を持つのは、わが家だけなのだから」と言うのである。

論証は三層になった。王位は存在しなければならないという機能の論証。その王位にはわが家の者が就かなければならないという血縁の論証。わが家の中でも私が就かなければならないという祭司の論証。夏には真ん中の一層しかなかった。殷は三層をそろえた。構の型は、ここで大きく進化した。

一、甲骨文字――構を支える物質的な土台

私たちが殷について知っていることの大半は、甲骨文字に由来する。その史料がどのような性格のものかを見るだけでも、多くがわかる。

十数万片に及ぶ甲骨の、圧倒的多数が占卜の記録だ。内容は何でもありである。今日は戦うべきか。今年の実りはよいか。王の歯痛は治るか。ある女性の出産は無事に済むか。ある祖先に牛を三十頭捧げるべきか。大事も小事も、すべて占卜で決める。

これは何を意味するのか。占卜は、たまに行う儀式ではなく、日々の統治を動かす中心的な仕組みだったということだ。王が占うのは重大な決断のときだけではない。ほとんど毎日、占っていた。占卜こそが、権力を行使する基本の方法だった。

構という観点から見れば、祭祀の構は飾りではなく、オペレーティングシステムそのものだったことになる。夏の血縁の構は、「私は禹の子孫だから王である」というものだ。この論理さえ定まれば、日々の統治は通常の行政で進められる。毎日あらためて正統性を論証する必要はない。殷は違う。殷王は毎日、占卜を通じて、自分と天とのつながりを確認し直していた。一回の占卜が、一回の小さな正統性の生産なのである。

そこには利点がある。正統性が、一度つくって蓄えておくストックではなく、絶えず生み出されるフローになる。夏の正統性は、禹から啓へ王位が渡った瞬間に生産を終えた。その後は消費されるだけで補充されず、減っていく。殷の正統性は毎日補充される。毎日占卜があり、そのたびに「天は今も王と交信している。仕組みは今も動いている」と示されるからだ。

だが、その利点には裏がある。生産が止まれば、正統性もその場で途絶える。夏の正統性は預金に似ている。過去の蓄えで食いつなげる。殷の正統性は給料に似ている。支払いが止まれば、それまでだ。もしある日、占いが繰り返し外れるようになったら。占いそのものの真偽を疑う者が現れたら。あるいは王室が占卜の技術を独占できなくなったら。正統性を支える体系全体が崩れ落ちる。

これが、祭祀の構の第一の余項だ。儀式の体系が途切れず動き続けることに、絶対的に依存している。儀式は止められない。間違えられない。他人に習得されてもいけない。どこか一つでもつながりが切れれば、構に亀裂が入る。

二、祖先の系譜――血縁を神聖なものにする

殷の人々は、血縁に基づく正統性に決定的な手を加えた。祖先を神にしたのである。

夏の血縁の論理は、世俗的なものだった。私は禹の子孫だ。禹には功績がある。だから私には資格がある。だが功績は、過去に属する。時がたつほど、その力は薄れる。太康の代ともなれば、「禹の治水」はもう祖父の世代の昔話であり、人を奮い立たせる効果はほぼゼロに近づいていた。

殷は、別のやり方をした。祖先を歴史の中ではなく、天上に生かしたのである。亡くなった先王は祖先神となり、天帝の側に席を持ち、人間界の禍福に影響を及ぼす。祀っているのは、単なる思い出ではない。今も力を持つ存在なのだ。

これによって血縁は、「王位はこの一族に属する」という政治原則であるだけでなく、「この一族の死者は天上で神の力を持つ」という宗教原則になった。政治原則なら疑うことができる。なぜ、お前の家の人間が王でなければならないのか。だが宗教原則を疑うのは難しい。それを疑うには、代わりになる神学が必要だからだ。殷の世界には、そのような神学を持つ者がいなかった。

少なくとも、殷の中期より前にはいなかった。のちに周の人々が「天命」という概念を生み出す。天命は一つの一族に固定されず、徳のある者に与えられる。この考えによって、ようやく別の神学が用意される。だが、それはまだ先の話だ。

祖先の神聖化は、血縁という余項を、政治の問題から宗教の問題へと変えた。夏における血縁は、挑戦可能な政治上の取り決めだった。実際、后羿が挑戦した。殷では、その血縁が神権の殻に包まれている。血縁への挑戦は、そのまま神への挑戦になる。払う代償は、はるかに大きい。

ただし、神聖化は余項を消してはいない。余項が噴き出すまでのハードルを高くしただけだ。ハードルが上がれば、噴き出す頻度は下がる。その代わり、いったん噴き出したときの激しさは増す。殷内部の継承危機は、夏ほど頻繁には起こらない。だが、起これば「九世の乱」ほどの規模になる。

三、九世の乱――継承ルールをめぐる内戦

殷の継承制度には、夏にはなかった独特の問題があった。二つの継承ルールを、同時に動かしていたのである。

一つは「父死子継」。父親が死ねば、息子が継ぐ。もう一つは「兄終弟及」。兄が死ねば、弟が継ぐ。

この二つは、論理の上で両立しない。父から子への継承は縦の論理だ。権力は一本の線をたどり、下の世代へ渡っていく。兄から弟への継承は横の論理だ。同じ世代の中を一巡し、それから次の世代へ降りていく。

兄から弟への継承を厳密に守るなら、兄弟の間を一巡した王位は、そのあと長兄の息子に渡すのか、末弟の息子に渡すのか。長兄の息子は言うだろう。「うちの父が先に王になった。こちらが直系だ」。末弟の息子は言うだろう。「うちの父が最後の王だった。王位にいちばん近いのはこちらだ」。どちらにも理屈がある。判定を下す者はいない。

二つのルールを混ぜて使えば、事態はもっと悪くなる。あるときは息子、あるときは弟。何が基準なのか。今回はどちらのルールを使うか、誰が決めるのか。答えは、基準などない、ということだ。そのつど政治的な駆け引きで決まる。決着を左右するのは力関係であって、ルールではない。ルールは、あってないようなものになる。

九世の乱の根は、ここにある。仲丁から陽甲まで、殷の九代の王にわたって継承は乱れ、王室の内紛が絶えなかった。『史記』は「弟子或いは争いて相い代わりて立つ」、すなわち弟や子が互いに争って王になったと記す。諸侯はその隙に統制を離れ、殷の国力は著しく衰えた。

九世の乱は、構造を分析するうえで格好の事例だ。そこから一つのことがわかる。一つの構の中に、両立しない二つのルールが同居しているのは、ルールがないのと同じなのである。

ルールの役割は、不確実性を取り除くことだ。父から子へというルールしかなければ、後継者は決まり、争う余地はない。兄から弟へというルールしかない場合も、「弟まで回ったら、次は誰に戻るのか」という細部さえ片づけておけば、後継者はほぼ決まる。だが二つが並び立つと、継承のたびに選択問題が生まれる。今回は、どちらを使うのか。その選択問題そのものが、争いの種なのだ。

さらに一段深く見れば、二つのルールが併存したのは、殷の人々に制度を設計する能力がなかったからではない。それぞれの背後に、異なる政治的利害の構造があったからだ。

父から子への継承が守るのは、王室の中核の利益である。王とその嫡長子によって安定した権力の継承路ができ、傍流の宗族は締め出される。兄から弟への継承が守るのは、王族全体の利益だ。王の兄弟にも王位に手を伸ばす機会があり、権力はより広い範囲で分かち合われる。

この二つの利害構造は、抽象的なものではない。それぞれに支持者がおり、武装した勢力がおり、政治的なつながりがある。一方のルールを選ぶことは、もう一方を支える利益集団を押さえ込むことにほかならない。殷の初期には、どちらにも相手を完全に押さえつけるだけの力がなかった。だから二つのルールを並べておくしかなかった。その帰結が、九世の乱だった。

この問題がひとまず抑え込まれるのは、盤庚が殷へ遷都してからである。ここは注意したい。抑え込まれたのであって、解決されたのではない。

四、盤庚、殷へ遷都――構の内側から命をつなぐ、その手本と限界

盤庚は殷王朝の第二十代の王で、九世の乱が終わりに近づいたころに即位した。彼は一つ、大きなことをした。都を奄から殷へ移したのである。

古代の遷都には、とてつもない費用がかかる。単なる引っ越しではない。政治の中心を、丸ごと物理的に動かすのだ。宗廟を建て直し、貴族を連れていく。あるいは、置いていく。祭祀の体系を新しい場所に据え直し、行政のつながりを編み直す。なぜ盤庚は、わざわざそんなことをしたのか。

『尚書』の「盤庚」上・中・下の三篇には、遷都の前後に盤庚が行った演説が残されている。中国に現存する、最古級の政治演説の記録である。盤庚の言葉は厳しい。繰り返し訴える核心はこうだ。お前たち貴族は、自分の利益ばかり考えるな。私について来い。来なければ、ただでは済まない。その口調は、ほとんど脅しに近い。

この演説から、遷都の本当の目的が透けて見える。旧都に洪水が起きたからではない。それは表向きの理由だ。旧都の利権構造が固まりきり、王権でさえ中に切り込めなくなっていたのである。

九世の乱の本質は、王族の各系統による王位争いだった。その足場となったのが、旧都とその周辺に、それぞれが蓄えた勢力である。土地、人口、武装、祭祀に関わる資源。それらは根が絡み合うように結びつき、従来の空間配置に食い込んでいた。盤庚が殷へ移ろうとした本当の狙いは、物理的な空間をリセットすることで、既存の勢力図を崩すことにあった。奄で何代もかけて地盤を築いたって? 結構。では引っ越そう。その地盤は、もう使えない。新しい土地では、全員が出直しになる。王権は再び、資源を配る主導権を握れる。

手厳しい一手である。ルールの問題は解いていない。父から子か、兄から弟かという矛盾は、手つかずだ。だがルールの背後にある力の問題には手を打った。各系統の実力の土台をリセットし、王が一時的にせよ、圧倒的な優位を取り戻せるようにしたのだ。

構という観点から見れば、盤庚の遷都は、構の内側からの自己救済だった。構の設計は変えない。祭祀の構の核心にある論理はそのままだ。構のルールも変えない。継承制度もそのままだ。変えるのは、その構が動く環境である。環境をリセットすることで、構の命をつなぐ。

この救済のやり方は、のちにも繰り返し現れる。北魏の孝文帝が都を洛陽へ移したのは、表向きには漢化改革だが、深いところの論理は盤庚とまったく同じだ。空間をリセットして、旧貴族の勢力基盤を崩す。明の成祖が北京へ遷都したのにも、似た構造的な動機がある。建文帝の旧臣たちが根を張る、南京の利権網から離れるのである。

だが、構の内側から命をつなぐことの限界も、盤庚ははっきり示している。できるのは延命であって、生まれ変わらせることではない。盤庚のあと、殷は確かにしばらく安定した。だが継承問題は解けていない。力関係を一時的に組み替えたために、先送りできただけだ。先送りは解決ではない。古い問題は、遅かれ早かれ新しい環境にも生えてくる。根があるのは制度の設計であって、地理上の位置ではないからだ。

引っ越しで、貴族をその土地から引き離すことはできる。構の穴までは、置き去りにできない。

五、武丁の中興――祭祀の構が頂点に立つ

盤庚のあと、三人目の王として即位したのが武丁である。殷でも屈指の業績を残した王で、在位五十九年。その統治のもとで、殷は最盛期を迎えた。

武丁の統治には、特に注目すべき特徴が二つある。

第一に、祭祀の体系を大幅に広げたことだ。武丁時代の甲骨卜辞は数が膨大で、内容も細かい。祀る対象は直系の祖先から、傍系や配偶者へと広がった。王后の婦好も、死後には祭祀の体系に組み込まれている。さらには、河や山、風、雲といった自然の神々まで含むようになった。祭祀の頻度も規模も、かつてない水準に達した。

何を意味するのか。武丁は意識的に、祭祀の構が覆う範囲を広げていたということだ。祭祀は、王と祖先だけをつなぐ私的な通路ではなく、ありとあらゆるものを包み込む情報の仕組み、支配の仕組みになった。祀る相手を増やせば、王はより多くの力と交信する権利を得る。その分だけ、より広い領域を解釈し、統制する権利も手に入る。

第二に、婦好の存在だ。武丁の王后である婦好は、中国の文字記録に登場する最初の女性軍事指揮官である。たびたび軍を率いて出征し、多いときには一万三千人を指揮した。同時に、祭祀を執り行う重要な役割も担っていた。

婦好の存在は、殷の構の型を理解するうえで重要な意味を持つ。のちの儒家の枠組みでは、女性は政治権力からも祭祀の権力からも完全に排除される。だが殷の祭祀の構では、祭祀を行う権力と政治を行う権力は、同じものだった。そして祭祀の権力を配分する論理は、全面的に父系に従っていたわけではない。王后は王の配偶者として、祭祀の体系に独立した地位を持つ。だから、独立した政治権力も持っていた。

祭祀の構は、のちの礼楽の構とは、性別の扱い方が違うのである。礼楽の構は、倫理的な序列によって女性を排除する。男尊女卑が倫理の原則だからだ。祭祀の構は、儀式での役割によって権力を配る。儀式に自分の位置があれば、性別を問わず権力がある。婦好が兵を率いて戦えた根本の理由は、祭祀の体系に、独立した正統な地位を持っていたことにある。

武丁の時代、祭祀の構は頂点にあった。覆う範囲は最も広く、動きは最も滑らかで、正統性も最も潤沢に生産された。だが頂点のあとには、衰退が来る。その原因は外からの衝撃ではない。構の内側にある矛盾が、噴き出し始めたのだ。

六、紂王――祭祀の構が自らをすり減らす

武丁から紂王、すなわち帝辛まで、およそ二百年、八、九人の王を隔てている。この二百年に何が起きたのかは、よくわかっていない。この時期の甲骨卜辞は比較的少ないからだ。だが結果から見るなら、紂王の時代には、祭祀の構は内なる矛盾を全面的にさらけ出す段階に達していた。

伝統的な物語では、紂王は暴君である。酒池肉林にふけり、炮烙の刑を用い、妲己を寵愛し、箕子を幽閉し、比干を殺して心臓を切り開き、その穴を調べた。桀の物語と、型はまったく同じだ。「王朝最後の暗君」というひな型から生まれた、二つ目の製品なのである。

だが、この道徳的な物語を剥がしてみると、紂王の本当の問題は別のところにあったのかもしれない。彼は祭祀の構の内部で改革を試み、失敗したのではないか。

紂王が、殷末に硬直化を深めていた祭祀の体系を変えようとしたことをうかがわせる、間接的な証拠がいくつかある。『左伝』は、紂王が「昏くして其の祀りを棄つ」と記す。普通は、神を敬わなかったという意味に取られる。だが、別の読み方も可能だ。紂王は一部の祭祀を削り、それを権力基盤にしていた旧貴族の利益に手をつけたのではないか。

この読みが成り立つなら、紂王の置かれた状況は、のちの多くの改革者と同じだ。古い構は硬直している。祭祀の体系が大きくなりすぎ、資源を食いすぎる。貴族は祭祀の権限の一部を独占して、王権の手足を縛る。だが、その構を改革すれば、既得権を持つ者すべての取り分に手をつけることになる。結果として紂王も旧貴族も傷つき、周の人々がその隙に入り込んだ。

牧野の戦いの、ある重要な細部がこの見方を支えている。「紂の兵は皆、戈を倒した」。殷の軍は決戦のさなかに矛先を反転させ、周の武王についたのだ。これは、暴君に極限まで虐げられた軍の行動ではない。虐げられた軍なら、崩れて逃げる。部隊ごと敵に降伏するわけではない。むしろ、すでに内紛で反紂王の側を選んでいた軍が、戦場で最後の一歩を踏み出したように見える。

言い換えれば、牧野の戦いは、周による殷の征服を決定づけた瞬間ではなく、殷内部の分裂が最後に表へ出た場面にすぎなかったのかもしれない。本当の瓦解は、戦場に出るずっと前に、すでに終わっていたのだ。

もっとも、紂王の具体的な事情がどうであれ、構の次元で見るなら、殷の滅亡は祭祀の構が抱える根本的な弱点をいくつか露呈させた。

第一に、祭祀の構は維持費が増え続ける。

祭祀の体系は、ひとたび成立すると、自ら膨らんでいく傾向がある。歴代の王は、それ以前の祖先をすべて祀らなければならない。祖先が増え、祭祀が頻繁になり、家畜も、殉葬の犠牲者も、青銅器も、貞人という占い師も、ますます多く必要になる。増える一方で、減らない仕組みだ。どの祭祀を削っても、その祖先と、その祭祀に依存する貴族を怒らせることになる。だから事実上、削れない。

殷の末期になると、祭祀が消費する資源は、もはや支えきれない水準に達していた。すべての祖先を一定の周期で順番に祀る「周祭」の制度は、標準化によって費用を抑えようとしたものだ。だが、その効果には限りがあった。世代が重なるにつれ、祭祀の総量はやはり増え続けたからだ。

これは構に共通する持病である。組み上げるのは易しく、解きほぐすのは難しい。新しい要素を構に加えることは簡単にできる。だが、すでにある要素を取り除くのは、ほとんど不可能だ。その一つ一つの背後に、利害の根が張っているからである。構は膨張することしかできず、縮むことができない。膨らみ続け、周囲の環境が支えられる限度を超えたところで、崩壊する。

第二に、神権の土台は差し替えられる。

殷の正統性の核心は、「わが家の祖先は、天帝の側にいる」という命題にある。弱点は、天帝が殷の祖先としか話さない、という前提だ。もし誰かが新しい神学を持ち出したらどうなるか。天帝が誰と話すかを決めるのは、血縁ではなく「徳」だと言い出したら。殷の独占は破れる。

まさに、その新しい神学を持ち出したのが周の人々だった。周の「天命」という考えでは、天命は一つの一族に固定されない。徳のある者がそれを受け、徳を失った者はそれを失う。これは、殷の神権の構の理論的な土台を、直接崩すものだった。もはや「天帝が話すのは、わが家の祖先とだけだ」とは言えない。天帝が見るのは徳であって、血筋ではないからだ。

これは根本に及ぶ「鑿」、つまり既存のものを削り崩す働きだった。周の人々は、祭祀の構の中で改革をしたのではない。まったく新しい神学で、その根底の論理を差し替えた。古い論理は、「祖先が天命を決める」という血縁本位のもの。新しい論理は、「徳ある行いが天命を決める」という行動本位のものだ。表面上は同じ天命論でも、その下で動く論理は、すっかり入れ替わっていた。

第三に、祭祀の構は継承の余項を消化していない。

九世の乱から盤庚の遷都、そして殷の滅亡に至るまで、継承問題が制度として解決されることはなかった。盤庚以後、父から子への継承が徐々に優勢となり、兄から弟への継承は脇へ追いやられていく。だがこれは、明確な制度改革による転換ではない。実際の権力争いを通じて、少しずつ形が定まっていっただけだ。ルールになっていないものに、拘束力はない。殷末の微子・箕子・比干・紂王の間の対立の背後にも、王族内部の継承をめぐる緊張が残っていた。

祭祀の構は、神権という正統性の物語を与えた。だが、実際に使える継承ルールは与えなかった。物語とルールは別物だ。物語は「なぜ王が必要か」を語る。ルールは「次の王は誰か」を決める。殷には強力な物語があり、明確なルールがなかった。その穴のために、王位の引き継ぎは毎回、危機の引き金になりうるものとなった。

七、殷から周へ――王朝ではなく、構の型が入れ替わる

構という観点から見れば、殷が滅びて周が興ったことは、単なる王朝交代ではない。中国政治史上、初めて構の型が丸ごと入れ替わった出来事である。

夏が殷に取って代わられたとき、構の型は根本的には変わらなかった。殷は祭祀という外殻を一枚加えたが、その下にあるのは、やはり血縁と武力だった。性能を引き上げたのである。構の改良版ではあっても、新しい構ではなかった。

殷が周に取って代わられたときは、事情が違う。周の人々は、天下を握る一族を入れ替えただけではない。新たな政治理論を一式打ち出し、新たな制度の組み合わせを一式つくり上げた。祖先の神権を唱える理論に天命論が、殷の方国連合制に封建制が取って代わった。そして社会秩序を組織する中心原理は、祭祀から礼楽へと移った。

鑿と構の周期律にとって、これは重要な節目となる。それまでの政治変動、すなわち禹から啓への継承、太康が国を失ったこと、少康の中興、九世の乱、盤庚の遷都、湯による夏の滅亡は、いずれも同じ型の構の内部で起きた変動だった。型はそのまま、運営者が代わり、設定値が調整される。殷から周への転換では、初めてその型自体が差し替えられた。

構の型を入れ替えることと、構の内部を調整することの違いは、根底の論理に手をつけるかどうかにある。内部の調整なら、「なぜ王が必要なのか」という問いへの答えは変わらない。型の入れ替えは、その答えを書き換える。殷は「わが家の祖先が天に通じているからだ」と言う。周は「天が徳のある者を選んだからだ」と言う。同じ問いに、まったく異なる答えを返している。

だが、ここでの「だが」が何より重要だ。構の型が入れ替わっても、古い構の余項が消えるわけではない。周の人々は殷の神学を差し替えたが、殷の根底を動かしていた三つのコードのうち、二つは引き継いだ。血縁継承を初期設定とすること。そして、王朝最後の暗君の物語を、正統性をつくる道具にすることだ。紂王の姿は、桀のひな型どおりにつくられている。周は、新しい語りの戦略を発明しなかった。殷の湯が夏を滅ぼしたときにできたひな型を、そのまま使い回したのである。

さらに深く見れば、周の天命論そのものにも、まだ解かれていない矛盾が含まれている。天命は徳によって決まる。では、周王室の子孫に徳があるかどうかは、誰が判断するのか。天が判断するのなら、その基準は何か。「滅びたのだから、徳を失っていたのだ」が基準なら、天命論は、いつでも正解になる事後説明に化けてしまう。倒された王朝は、どれもあとから「徳を失っていた」と認定できる。成功した反乱は、どれもあとから「天命がそこに帰した」と認定できる。

この循環論法こそ、周が後世に残した最大の余項である。権力の交代は、いつでも正当化できるようになった。同時に、どんな在位者も、いつまでも安心できなくなった。あとから来る者は、いつでも「徳を失った」という告発をつくり出せるからだ。天命論は諸刃の剣だった。周が殷に代わる正統性を守ると同時に、その後、周に取って代わろうとするすべての者に、理論上の武器を与えてしまった。

どんな構も、古い問題を解くそばから、新しい問題を生み出す。その新しい問題が、新たな余項となる。古い余項が吸収され、新しい余項が放出される。総量は保存され、形だけが変わる。

次篇は「西周――周公、礼を定める」。中国史上、初めて自覚的に仕組みを設計した人物が、個人の資質ではなく制度によって構を動かすことを、初めて試みる。その成果と限界が、以後八百年の政治の枠組みを定めることになる。