第2篇 夏――家天下の代償
前篇の結論は、こうだった。禅譲の構は三代で終わり、血縁という余項が解き放たれ、家天下がそれに取って代わった。
前篇の結論は、こうだった。禅譲の構は三代で終わり、血縁という余項が解き放たれ、家天下がそれに取って代わった。
だが、「家天下」、天下を一族のものにする、と口で言うのはたやすい。実行しようとすれば、未解決の方程式が束になって現れる。禹から啓への継承は、天下を息子に譲るべきかという一つの問いに答えた。その途端、新しい問いが箱いっぱいにあふれ出した。夏は四百年以上かけて、それらにぶつかり続けた。すっきりした答えは、一つも出なかった。後の王朝も、次から次へと同じ問いにぶつかっていく。ぶつかり方は違っても、結果はよく似ていた。
夏についての史料は、きわめて乏しい。『史記』の「夏本紀」はわずか数千字しかなく、『竹書紀年』の夏の部分には欠落が多い。考古学上の二里頭文化を夏に比定できるかどうかも、いまだに議論がある。だから、漢や唐を語るように、夏の政治の細部を語ることはできない。だが、材料の少なさは、出来事よりも構造に目を向けるよう、私たちを促す。出来事は伝説かもしれない。構造はそうではない。ある文明が部族連合を抜け出し、世襲王権へと進む過程で、必ず直面する構造上の問題がある。史料が足りないからといって、その問題まで存在しなくなるわけではない。
夏の物語は、突き詰めれば、三つの構造上の問題をめぐる物語である。
一 最初の問題――どの息子に譲るのか
啓が王位に就いたこと自体には、それほど異論はない。能力があり、従う者がいて、諸侯にも支持されていた。禹の威光も、まだ残っていた。では、啓が死んだあとはどうするのか。
啓には何人も息子がいた。『史記』には、その息子の太康が即位したとある。だが、太康は嫡長子、つまり正妻の長男だったのか。どんな決まりで選ばれたのか。まったくわからない。わかるのは結果だけだ。太康は王位に就き、そして国を失った。
これは偶然ではない。家天下が成立したばかりのころ、「息子に譲る」という原則は明確でも、「どの息子に譲るか」という決まりは曖昧だった。その曖昧さそのものが、余項なのである。
後に周は、嫡長子継承制を発明した。一つの厳格な規則で、この曖昧な領域を封じようとしたのだ。正妻が最初に産んだ男子に継がせる。能力がどうであれ、その子に決まり。この規則の長所は、はっきりしていることだ。言い争う余地がなくなる。代償として、大馬鹿者に譲ることになるかもしれない。だが周の人々は、質よりも明確さを重んじた。曖昧さが引き起こす内輪もめの損失は、たまに大馬鹿者を王にする損失より大きい、と考えたからだ。
夏には、この規則がなかった。禹から桀まで、『史記』によれば十七人の王がいたが、継承の仕方は入り乱れている。父が死ねば息子が継ぐ場合もあれば、兄から弟へ渡った形跡もある。「次は誰か」に答える、安定した制度がない。代替わりのたびに交渉をやり直し、その交渉は、いつ争いに変わってもおかしくなかった。
これが、家天下の最初の代償である。「身内に譲るべきか」は解決した。だが、「身内の誰に譲るか」は、それ以上に難しい。争う者が全員、身内だからだ。よそ者が権力を奪えば簒奪と呼ばれ、道義的な負い目を背負う。では、身内が王位を争うときは、何と言うのか。「俺だって正統な血筋だ」。道義的な負い目は、ほぼゼロである。
家天下は、競争を外から内へ引き入れた。外での競争、つまり禅譲の構における「誰の徳がより高いか」には、少なくとも理屈の上では、当事者を超えた判定基準がある。内での競争、「同じ禹の子孫なのに、なぜ俺ではなくお前なのか」には、その基準がない。血縁上の資格は同じだからだ。お前が禹の孫なら、俺も禹の孫である。違いは年長か年少か、正妻の子か側室の子かだけだが、夏では、そうした違いの扱いがまだ確固たる制度になっていなかった。
だから夏の政治史は、かなりの部分が王室内部の後継争いの歴史である。この問題は、後の商でさらに激しく繰り返される。いわゆる九世の乱だ。本質は、兄から弟へ継ぐ規則と、父から息子へ継ぐ規則の衝突であり、九代も争って、ようやくどうにか決着がついた。
二 太康の失国――余項による最初の逆襲
太康は啓の息子で、夏の三代目の王だった。その物語は、中国政治史で最初の「暗君が天下を失う」物語のひな型である。
『史記』の注釈に引かれた言葉によれば、太康は「遊びと狩りにふけり、民の暮らしを顧みなかった」。狩猟にのめり込み、政務は放り出した。有窮氏の后羿が、その隙に権力を奪う。太康は都を追われ、最後はよその土地で客死した。
この話は、その後、数えきれないほどコピーされ、貼り付けられてきた。桀は妺喜に溺れ、紂王は妲己に溺れ、幽王は烽火を使って諸侯をからかう。物語の骨組みは、驚くほど同じだ。君主が享楽にふけり、奸臣や外敵が隙を突き、天下は大乱に陥る。このひな型そのものが、一つの構である。道徳によって説明する構だ。政治の失敗を個人の品性に帰し、構造上の矛盾を「善人対悪人」の話にしてしまう。
だが、太康が国を失った構造上の原因は、「遊びと狩りにふけった」ことより、はるかに深い。
啓が王位に就けたのは、二つの力があったからだ。禹の残した威光と、自分自身の実力である。太康の時代には、禹の威光は二代を経て、すっかり薄れていた。では、太康自身の実力はどうか。生まれながら何不自由のない、二代目の継承者である。禹が十三年の治水でくぐり抜けたような試練を経験していない。啓のように、諸侯のあいだで自分の威望を築いた経験もない。その正統性は、ひたすら血縁に頼っていた。「私は啓の息子であり、啓は禹の息子である」。
血縁による正統性には、致命的な弱点がある。実力は生まれず、名分だけが生まれる。平穏な時代なら、名分だけで足りる。惰性で仕組みは回り、人々も、その座にいる者に拝礼することに慣れているからだ。だが危機のときには、名分だけでは足りない。危機が求めるのは、資源を動員する力、軍を指揮する力、政治的な同盟を結ぶ力である。こうした能力は、血筋と一緒には遺伝しない。
后羿は有窮氏の首領だった。有窮氏は東夷系の部族で、もともと夏の中核をなす集団には属していない。禅譲の時代や、啓が王朝を築いた時代には、こうした周辺部族も夏の中央権威に覆われ、挑む勇気もなければ、挑む必要もなかった。だが、中央の権威が空洞化すればどうなるか。権力を握る者に名分はあっても、実力がない。その途端、周辺部族の遠心力が解き放たれる。
太康の失国は、根本において道徳の物語ではなく、構造の物語である。家天下の血縁継承という仕組みには、能力を受け渡す機能が備わっていない。王位は渡せる。能力は渡せない。威望も渡せない。部族連合の忠誠も渡せない。最初の二代は、創業者の威光が残っているうちは動いた。三代目でそれを使い果たすと、仕組みの底にある欠陥が露わになった。
後の王朝は、どれもこの欠陥にぶつかる。漢もそうだった。文景の治は、高祖を支えた功臣集団の遺産に頼っていた。唐もそうだった。玄宗以後を支えたのは、太宗の貞観の治が残した制度の遺産だった。明もそうだった。朱元璋のあとを動かしたのは、後継者個人の能力ではなく、設計された制度の慣性だった。解決の仕方はさまざまでも、根にある問題はまったく同じである。血縁が伝えるのは名分であって、実力ではない。
余項は、ここにある。家天下という構は、血縁を余項から土台へと格上げした。だが血縁が答えるのは「誰に資格があるか」だけで、「誰に能力があるか」には答えない。能力が、新たな余項になったのだ。禅譲の構では、賢者や有能な者を選ぶこと、つまり能力が中心にあり、血縁は余項だった。家天下では逆になる。血縁が構の中心に座り、能力が余項になる。余項は消えていない。立場が変わっただけだ。
これが、政治制度の次元で初めて全貌を現した、余項保存則である。余項は消せない。配分し直せるだけだ。血縁を余項から土台に変えれば、能力が土台から余項に変わる。総量は変わらず、場所が入れ替わる。
三 少康の中興――構による最初の自己修復
太康が国を失ったからといって、夏がすぐに滅びたわけではない。その後には、きわめて入り組んだ経緯がある。
権力を奪った后羿も、その座を守りきれなかった。腹心の寒浞に殺され、今度は寒浞が権力を奪った。寒浞はさらに、太康の弟・仲康の子孫にあたる相を殺す。夏の王族は、ほとんど根絶やしになった。
だが、相の妻・后緡は、身重のまま実家の有仍氏へ逃れ、少康を産んだ。少康は有仍氏と有虞氏にかくまわれて育ち、力を蓄え、ついに寒浞を滅ぼして夏の支配を取り戻した。これが、少康の中興である。
少康の中興は、中国政治史における最初の「国を取り戻す」物語だ。構造の面で持つ意味は、出来事そのものよりもはるかに大きい。
まず、血縁による正統性のしぶとさを示した。少康が国を取り戻せたのは、個人の能力だけによるのではない。もちろん、能力があったことは明らかだ。だが、それ以上に重要なのは、夏の王家の末裔だったことだ。有仍氏と有虞氏が受け入れ、支えたのは、少康個人がどれほど立派だったかという話ではない。その体に、禹の血が流れていたからである。血筋が人を集める力を与え、旗印を与えた。寒浞の支配を不満とする部族は、その旗の下に集まることができた。
言い換えれば、太康の失国は、血縁による正統性だけでは足りないことを示した。少康の中興は、それに代わるものがないことを示した。足りないが、代えはきかない。微妙な位置である。血縁による正統性は、必要条件ではあっても十分条件ではない、ということだ。なければ、必ずその座は不安定になる。后羿と寒浞の末路が、それを物語る。あっても、安定が保証されるわけではない。太康の末路が、それを物語る。だが、あれば、少なくとも再起の可能性は残る。
次に、少康の中興は、一つの政治的な物語の原型をつくった。失ったものを、取り戻す。王朝は途絶えることもあれば、簒奪されることもある。それでも血が絶えなければ、復活の可能性がある。この物語は、以後、繰り返し使われる。光武帝の中興がそうだ。北宋を南宋が引き継いだのもそうだ。南明のいくつもの小朝廷さえ、この型によりどころを求めた。成功はしなかったが。
「失ったものを取り戻す」という物語は、深いところで、血縁の正統性を強化する。中興が成功するたびに、こう言っているのだ。ほら、正しい血筋なら、途切れてもまたつなげられる。後の人は、ますます血筋の力を信じ、家天下の正当性を根本から疑おうとしなくなる。少康の中興が修復したのは、夏の支配だけではない。家天下という構の信用も、修復したのである。
だが、信用を修復しても、欠陥を修復したことにはならない。太康の失国が露わにした構造上の問題、血縁では能力を伝えられないという問題は、少康の中興によって何一つ解決されていない。少康本人には能力があった。運がよかったのだ。その子孫はどうか。少康のあとも夏は何代か続き、よい王も悪い王も現れ、最後は桀に行き着いた。欠陥は、ずっとそこにあった。たまたま有能な後継者が来れば運がよく、たまたま無能な後継者が来れば運が悪い。それだけだ。運頼みの仕組みは、よい仕組みではない。
第三に、少康の中興は、構の自己修復が実際にはどう起こるのかを明らかにした。構が自分で自分を直すわけではない。夏の制度には、内部で誤りを正す機能が一つもなかった。王を退かせる仕組みも、摂政の制度も、自動的に動き出す非常時の手順もない。修復は、外の力によって行われた。有仍氏がかくまい、有虞氏が支え、少康自身が軍事の能力と政治の腕を振るったのである。
つまり、家天下の構の「修復」は、実のところ、鑿と構の循環が新たに一回起きたということだ。太康の夏という古い構が打ち破られたとき、それを取り戻したのは、古い構の内部の力ではなかった。逃亡中の少康という周縁の人物が、構の外で力を蓄え、暴力によって秩序をつくり直したのである。少康の行動と啓の行動は、構造上、同じかたちをしている。どちらも実力で現状を打ち破り、その結果を血縁で正統化した。
構は自己修復しない。修復に見えるものは、すべて新たな構築である。これも、その後繰り返し現れる型だ。光武帝は前漢を修復したのではない。後漢という新しい構を築き、劉氏の血筋を根拠に、これは「修復」なのだと主張した。修復という物語は、新たな構が自分の正統性を得るための戦略であって、事実の記述ではない。
四 桀――構の終点か、ひな型の出発点か
夏の最後の王は桀である。伝統的な物語が描く桀の姿は、いかにもお決まりの悪役だ。怪力の持ち主だが残虐で道に外れ、妺喜という女性に溺れ、巨大な土木工事を繰り返し、酒池肉林にふけり、忠実で善良な臣下を殺す。
この肖像は、どこまで本当なのか。何とも言えない。ただ、一つ確かなことがある。その物語の構造は、後の紂王、秦の二世皇帝、隋の煬帝についての物語と、ほとんど同じだ。偶然とは考えにくい。もっとありそうな説明は、後世の人が、あるひな型に沿って桀の物語をつくった、というものである。「王朝末期の暗君」というひな型だ。
このひな型の標準装備は、こうだ。武力はあるが徳がなく、歌舞や女色にふけり、賢臣を遠ざけて小人を近づけ、国を傾ける美女がそばにいて、最後は徳のある者に取って代わられる。商の湯王が夏を滅ぼしたあと、自らの行為を正統化するためにつくられた型であり、その後の王朝の創始者は、みなそれを借りて、前の王朝の最後の君主にかぶせた。
なぜ、こんなひな型が必要なのか。家天下の構には、どうしても辻褄の合わない箇所があるからだ。天命と血縁の関係である。
家天下の論理は、天命がある一族にあり、その一族が代々受け継ぐ、というものだ。だが、天命が永遠にその一族にあるのなら、王朝の交替を正統化できなくなる。前の王朝を倒すことは、天命に背くことだからだ。すでに天命が移っていた、と証明するほかない。では、なぜ天命は移るのか。前の王朝の最後の君主が、徳を失ったからだ。徳が天命の条件であり、徳が失われれば、天命も移る。
この論理の巧妙さに注目してほしい。天命は一族にあるという家天下と、天命は移りうるという王朝交替を、同時に守っている。矛盾する二つの命題を共存させるために、「徳」という弁を一つ取り付けるのだ。徳があれば天命はそこにとどまり、徳がなければ天命は移る。普段、この弁は閉じている。天命は動かない。王朝が交替するときだけ開く。天命は移ったのである。
だが、この解決法には代償がある。王朝が交替するたびに、前の王朝の最後の君主には徳がなかったと証明しなければならない。その証明手段が、末代の暗君の物語をつくることだ。桀の話は、この生産ラインの最初の製品だった。紂王の話が二番目である。その後二千年にわたって、新しい王朝はみな、前の王朝の最後の皇帝を「徳がない」という札で埋め尽くしてきた。札に書かれたことが事実かどうかは、お構いなしに。
ここに、桀の本当の歴史的な意味がある。実際に悪い君主だったのかもしれない。そこまで悪くはなかったのかもしれない。だが、大事なのはそこではない。物語のひな型の原型になったことだ。この型は、家天下という構が辻褄を合わせるために、どうしても生み出さなければならなかった。家天下には、王朝が交替することを説明する必要がある。そのために見つけた説明が、末代の暗君の物語だったのだ。
余項の側から見れば、末代の暗君の物語は、余項を管理する技術である。家天下の構に内在する矛盾、永遠の天命と王朝の交替との矛盾は、一つの余項だ。王朝は現に交替するのだから、消し去ることはできない。できるのは、物語にすることだけだ。話にし、道徳上の教訓にし、「制度の問題ではなく、人の問題だ」と言う。この語り方は、きわめて成功した。二千年のあいだ、制度の次元で家天下そのものを疑う者は、ほとんどいなかった。批判はことごとく、個々の皇帝に向けられた。こちらの皇帝は暗愚すぎる。あちらの皇帝は残虐すぎる。制度そのものはよい。ただ運悪く、悪い人間に当たってしまったのだ、と。
末代の暗君の物語は、家天下の構を守った。攻撃の矛先をすべて個人に向け、制度を無傷で残した。王朝が交替するたび、それは「人の入れ替え」であって、「制度の入れ替え」ではないと説明される。人は替わっても、制度は変わらない。家天下は、死ぬたびに生き返った。死因を制度の失敗ではなく、人間の失敗に帰することで、生き返ったのである。
これは、余項の管理のなかでも、高度なやり方だ。余項を解決せず、物語に変えて、その物語に衝撃を吸収させる。構そのものは、何度も崩壊をくぐり抜けながら、傷一つ負わずに残る。崩壊は毎回、「設計の欠陥」ではなく、「操作ミス」だったと物語によって説明されるからだ。
五 夏の遺産――家天下の基礎コード
夏が後世に残したのは、具体的な制度ではない。夏の制度について、私たちはほとんど何も知らない。残ったのは、土台に埋め込まれた三つのコードである。後の王朝は、どれもこのコードを実行してきた。たいていは、そうとは意識せずに。
第一のコード――血縁による継承が初期設定である。
禹から啓へ位が渡った瞬間、このコードは中国政治のオペレーティングシステムに書き込まれた。その後二千年、どんな政治改革も、このコードを根本からいじることはなかった。科挙で官僚を選んだではないか。選ぶのは官僚であって、皇帝ではない。内閣制度はどうか。行政の仕組みであって、皇位継承には影響しない。あらゆる制度の革新は、このコードの上の層で動いており、コードそのものには触れていなかった。
王朝を倒し、新たな王朝を建てることでさえ、本質的には、このコードを書き換えることではない。実行する一族を替えるだけだ。劉邦の一族が嬴政の一族に、李淵の一族が楊広の一族に、趙匡胤の一族が柴栄の一族に取って代わった。替わったのはコードを走らせる一族であり、コードそのものではなかった。
このコードの実行が止まったのは、ようやく一九一二年のことだった。だが、停止は完全な削除ではない。袁世凱が皇帝を称したのは、再起動の試みだった。その後の政治でも、血縁が最高権力の継承を決めることはなくなったとはいえ、「誰の子飼いか」「どの系統か」「どういう出身か」といった言い方には、家天下のコードの影が、今なおかすかに見える。
第二のコード――能力は余項であり、運に頼るしかない。
家天下の構は、後継者の能力という問題を解決しなかったし、解決することもできない。後に周が選んだ嫡長子継承制は、確実さを取り、質を犠牲にする案だった。ほかの案、賢者を選ぶ、有能な者を立てる、候補を見極める、といった方法は、情報が足りず実行できないか、内輪もめを招いて代償が大きすぎるかのどちらかだった。結局、どの王朝も「確実さ」と「質」のあいだを揺れ動き、両方を満たす策を見つけられなかった。
この問題が解けないのは、どこか一つの制度に欠陥があるからではない。家天下という構の論理が、そこで頭打ちになるからだ。血縁を継承の第一原則に据えた時点で、能力は永遠に二の次になる。だが、政治には能力が要る。この矛盾は解消できず、管理するほかない。管理の仕方は実にさまざまだ。補佐の大臣を置く。外戚が摂政となる。皇太后が簾の奥から政治を行う。内閣に権力を分ける。だが、どれも根本的な解決にはならない。
第三のコード――王朝最後の君主を暗君にする物語。
先に述べたとおり、これは余項を管理する技術である。家天下の構そのものを守る代わりに、王朝最後の皇帝は、歴史に残る自分の姿を犠牲にされる。実際にひどい皇帝もいた。桀は本当に悪かったのかもしれない。それほど悪くはなかった皇帝もいるだろう。崇禎帝は暗君だったのか。かなり疑わしい。だが、物語が気にかけるのは真実性ではなく、働きである。末代の暗君の物語の働きは、新しい王朝に正統性を与えると同時に、家天下という基礎コードが疑われないように守ることなのだ。
この三つのコードこそが、夏の本当の遺産である。夏のどこかの王が、意識して設計したものではない。禹から啓への継承から、桀が国を失うまでの四百余年をかけて、少しずつ沈殿したものだ。法律をつくったのでも、書物に書いたのでもない。実践を繰り返すなかで、当然のやり方として定着した。当然のやり方は、法律よりも長く残る。法律は改正できる。だが、当然のやり方を変えられるのは、まずそれがそこにあると、人々が気づいたときだけだ。そして、たいていは気づかない。
いちばん長く動き続けるコードは、誰も気に留めていないコードなのである。
六 哲学的な脚注――世代を経るほど構は弱る
夏の物語は、さらに深い、構造上の法則をも露わにする。「構の世代間減衰」とでも呼べるものだ。
禹は、鑿と構を担った者だった。十三年かけて水を治めた。これが、鑿、削り開く仕事である。部族連合から世襲王権へと進む、新しい秩序を築いた。これが構である。鑿と構を担った者は、構をじかに理解している。なぜこう設計するのか。どこで妥協したのか。どこに危うさが潜んでいるのか。それを知っている。この理解は、知識ではない。体でわかっている、ということだ。
啓は、構を受け継いだ最初の世代である。すべてに自分で関わったわけではないが、鑿から構へ至る過程をまだ見ている。構についての理解は一人を経由したものでも、少なくとも体で知る感覚が、いくらか残っていた。
太康は、構を受け継いだ二番目の世代である。生まれたときには、構はすでに出来上がっていた。その成果、「王位は自分のものだ」ということは知っている。だが、その代償、削り開く過程がどれほど苦しかったかは知らない。構についての理解は、さらにもう一人を経由しており、体で知る感覚はほぼない。
太康の世代になると、構は本人にとって空気のようなものになる。吸ってはいるが、わかってはいない。王権には手入れが要ることを知らない。部族連合は、関係を育て続けなければならないことを知らない。正統性は、絶えず生み出し直す必要があることを知らない。どれも自然にあるものだと思っている。生まれたときから、そこにあったからだ。
これが、世代間減衰である。構の継承者は、代を経るごとに、前の代よりも構がわからなくなる。頭が悪くなったのではない。鑿の経験から遠ざかったのだ。削り開くことには痛みがあり、痛みが理解を生む。その経験を持たない者には、構がなぜ別のかたちではなく、このかたちなのか、本当にはわからない。なぜここは動かしてはいけず、あそこは省いてはいけないのかも、わからない。
世代間減衰は、家天下だけの現象ではない。ある特定の世代がつくった仕組みは、どんなものであれ、後の世代へ渡る過程で、つくった者が体で知っていたことを失っていく。企業の創業者と二代目の後継者の関係も、同じ構造だ。違いは、企業なら失敗してもやり直せるが、王朝が失敗すれば人が死ぬ、ということにある。
夏は、世代間減衰がひととおり姿を現した最初の事例である。禹が削って構を築き、啓が構を守り、太康が構を失い、少康が再び削り開く。そこで循環は再開する。少康以後の夏も、何代ものあいだ緩やかに弱まり続け、最後は桀のもとで再び限界を割り込んだ。そこへ商の湯王が、鑿を入れに来る。
この型には、後世、俗な呼び名がついた。「富は三代続かない」。だが、この言い方は、問題の構造を覆い隠してしまう。三代目がとりわけ駄目なのではない。三代目に至るころには、鑿と構を担った者の身体に根ざす知が、構を正常に動かせないところまで減衰しているのだ。三代目は原因ではない。限界に達する地点なのである。弱まり方の遅い王朝なら、五代、六代と持ちこたえる。速い王朝なら、二代で問題が起きる。速さは違っても、構造は同じだ。
七 次篇へ 祭祀の構――商が進んだ別の道
夏は商に滅ぼされた。商の湯王が桀を倒し、新しい王朝を開いた。
だが、商は夏の焼き直しではない。商の人々は、夏とは別の道で権力を組織した。その道の中心にあったのは、祭祀である。
夏の権力の土台は、血縁と武力だった。精神的な面はぼんやりしたままで、体系だったイデオロギーは形づくられていない。商は違った。祖先への崇拝と政治権力を結びつけ、占い、祭祀、人を殉葬させる儀礼を中心に据えた、神権の構を発明した。この構のなかで、王は単なる政治の指導者ではない。天と祖先に通じることのできる、唯一の仲介者でもある。王の正統性は、血縁そのものから来るのではない。血縁はなお重要だが、根拠になるのは、天と人とをつなぐ、その独自の位置なのだ。
これは、大きな進化だった。夏の血縁の構が答えたのは、「誰が王位に就くべきか」だけである。商の祭祀の構は、「王はなぜ王なのか」に答えようとした。正統性の問題を、もう一段深く掘ったのである。
だが、祭祀の構にも、それ自身の余項がある。王権と神権を結びつけた以上、神権の土台が揺らげば、構全体が揺れる。たとえば占いに不都合な結果が出たとき、あるいは、自分にも神と通じる力があると言い出す者が現れたときだ。
しかも、祭祀の構は継承の問題を解決していない。商の初期の九世の乱は、本質的には、兄から弟へ継ぐ規則と、父から息子へ継ぐ規則とが入り乱れて争ったものだった。祭祀の構は正統性を語る物語を用意したが、継承の規則は用意しなかった。二つの問題は別々に扱われ、一つに組み合わされていない。その組み合わされていないこと自体が、余項なのだ。
次篇は、商――王が巫でもあるとき。