名前はあっても、数字はない
古代オリンピアは、千年にわたる勝者の名簿を残した。だが、競技の成績は残していない。数字が失われたのではない。あの制度は、そもそも数字を生み出そうとしていなかった。
この篇の目次
一 年代を記すための名簿
現存する古代オリンピアの勝者一覧のうち、最もまとまったものは、エウセビオスの年代記に収められている。第一回から第二百四十九回まで、各回に記されているのは一項目だけ。その大会のスタディオン走の優勝者名である。スタディオン走とは、競走路の端から端までを片道だけ走る種目だ。オリンピアで最も古い種目であり、この一覧が最初から最後まで採用している唯一の種目でもある。
この一覧は、競技のために作られたのではない。暦だった。
古代ギリシャには、共通の紀年法がなかった。それぞれの都市国家が自分たちの執政官を基準に年を数え、月の名前もまちまちだった。二つの都市国家にまたがる出来事なら、その年の呼び方も双方で違っていた。オリンピアの祭典は四年に一度、一定の間隔で開かれ、しかもギリシャ全土に認められた場だった。そこで、四年ごとに現れる優勝者の名前が、誰もが使える時間の座標になった。ある出来事がいつ起きたのかを伝えるには、誰それがスタディオン走で勝った大会の年、と言えばよかった。
勝者の名前を連続した目録にまとめたのは、一般にエリスのヒッピアスだとされる。紀元前400年ごろのことである。第一回の優勝者はコロイボスといい、後世の伝承はその大会を紀元前776年に置いた。名簿はヒッピアスから何代もの年代記作者を経て、アフリカヌスに受け継がれ、最後にエウセビオスの著作に入った。ただし、エウセビオスの原本はもうない。現在のよりどころは、アルメニア語訳とラテン語の伝承である。
最初に押さえておきたいことがある。ヒッピアスが編纂に取りかかった時点で、第一回の大会からは、すでに四百年近くたっていた。名前を何もないところから捏造したとは考えにくい。現在の研究では、エリスの地方伝承、オリンピアの聖域についての記述、競技を論じた著作、さらには地方史や祝勝歌に散らばっていた断片的な勝者の情報を利用したと考えられている。だが、そうした材料は、一本につなぎ合わされるまでは、一本の線ではなかった。最初の数十回については、今日では、利用できるが成立の層ごとに吟味すべきものとして扱われる。丸ごと信じるのでも、丸ごと捨てるのでもない。疑う理由は三つある。隔たった年月の長さ、初期ギリシャにおける文字の使用と文書保存の条件の乏しさ、そして伝承の内部に見られる食い違いや後からつくろった跡だ。パウサニアスが各種目の追加時期について残した記述だけを見ても、このねじれは顔を出す。
クリステセンは、見落とされやすいもう一つの点を指摘している。誰かの優勝に触れた文章が、すべて勝者名簿になるわけではない。ある人のために作られた祝勝歌がオリンピアでの優勝をたたえ、地方史が祖先の一人の勝利に言及する。それらは勝利についての記述ではあっても、大会ごとに並べた名簿ではない。名簿を名簿たらしめるのは、誰が勝ったかを記すことではない。どの大会にも必ず項目があり、その項目が同じ方式で並ぶと約束することだ。散在する記述と連続した目録を隔てるのは、量ではなく形式である。ヒッピアスが踏み出したのは、まさにこの一歩だった。前者を後者へと変える。その一歩によって、それぞれ別のことを語っていた勝利の記述は、共通の置き場所を得た。同時に、それぞれがもともと持っていた形を失った。
つまり、この構が最初に生み出したものは、事後の承認だった。四百年のあいだ各地に散らばっていた名前を一本の線に並べ、その線が時間そのものとして使われるようになった。後のギリシャ世界全体が、自分たちの歴史をこの線の上に位置づけた。ところが、その線自体が作られたのは、それが刻む時間の始まりから四百年も後だった。
紀元前776年という起点も、古文書から読み取られたのではない。計算して導き出された年である。連続した名簿さえあれば、どれか一回の絶対年代を特定し、そこからさかのぼって数えることで第一回にたどり着ける。つまり、その年は名簿の根拠ではなく、名簿が生み出したものだ。十九世紀から二十世紀初頭には、この起点をめぐってかなり激しい論争も起きた。今日では多くの人が、実証された歴史上の節目としてではなく、伝統的な年代として使っている。ほかの出来事の年を決めるための道具が、自分自身の最初の年は計算で求めている。
構が何を生み出すかは、何のために作られたかで決まる。この一覧は年を位置づけるために作られたのだから、四年に一つ、ほかと重ならない名前があれば足りた。その人が走るのにどれだけ時間をかけたかは、知る必要がない。前回の勝者より速かったかどうかさえ、必要ではない。その後の二千年あまり、人々はこの一覧に、初めから入っていなかったものを繰り返し探しに来た。そして見つからないと、長い歳月のうちに失われたのだと説明した。失われたものは、たしかにある。だが、この一つは失われたのではない。生み出されなかったのだ。
二 名簿に要るのは一つの名前だけ
オリンピアのように冠を授ける祭典では、大会が与える褒賞は、基本的に勝者だけのものだった。二位も三位もない。順位を並べる仕組みそのものがない。クラウザーは明快にまとめている。ギリシャの主要な祭典で、大会から褒賞を受けるのは一位だけだった、と。ただし彼は同時に、勝利だけがすべてだったと言い切りすぎても実態を損なうと注意している。文学作品や碑文には、優勝以外の成績が時折顔を出すからだ。
最も有名なのはアルキビアデスだろう。シチリア遠征をめぐる議論で、自分の力量をアテナイの人々に訴える際、オリンピアの戦車競走で一位、二位、四位を同時に取ったことを持ち出した。トゥキュディデスはこの発言を書き留めている。ヘロドトスの著作にも、誰かが二位になったという記述が時折ある。
だから、二位について語れなかったわけではない。大事な違いは別のところにある。語られることと、登録されることは違う。アルキビアデスの二位と四位がトゥキュディデスの文章に入ったのは、その日の政治的な説得に役立ったからだ。だが、どの名簿にも入らなかった。名簿には必要なかったからである。同じ事実に、語りの中では居場所があり、制度の中では居場所がない。
この違いは後々きわめて重要になる。まだこれほど単純なうちに、見定めておきたい。語りは選ぶ。何を記すかは、そのとき語り手が何を必要とするかで決まる。制度は選ばない。あらかじめ決めた書式に従って埋めていき、入らないものはすべて外に置く。語りのほうが容量は大きく見える。何でも入れられるからだ。だが、入れると約束はしていない。何が入るかは、まったく偶然に左右される。アルキビアデスがあのときアテナイの人々に出兵を説かなければ、あの二つの順位は誰にも知られなかっただろう。制度の容量は小さく見える。しかし、制度は約束する。だから、入れると約束した狭い範囲では、誰も口にしなかったというだけで物事が消えてしまうことはない。
この構の仕組みが、最もすっきり見えるところだ。二位を締め出そうとするわけでも、二位の選手が走ったことを否定するわけでもない。本人があちこちで話して回るのを禁じてさえいない。ただ、二位のための席を用意していない。ここでの余項は、消された欄ではない。初めから線が引かれなかった欄である。以後の陸上競技の歴史は、この形に何度も立ち戻る。構が始末しきれないものは、しばしば、構が取り除いたものではない。受け止める場所を、そもそも設けなかったものなのだ。
褒賞のあり方も、この仕組みに沿っていた。大会の場で渡されるのは野生のオリーブの冠一つ。それだけだった。本当の報酬は、故郷に戻ってからやってくる。現金、公費による終身の食事、劇場の前列の席、いくつかの義務の免除。クセノパネスには、これをわざわざ嘆いた詩がある。足の速い者が、知恵のある者よりはるかに多くを与えられるというのだ。プルタルコスによれば、ソロンはアテナイの市民に対し、オリンピアの勝者には五百ドラクマ、イストミアの勝者には百ドラクマという褒賞を定めた。この記述の出典ははっきりしている。だが、プルタルコスとソロンの時代はあまりに離れており、具体的な額の信頼性には研究者の間で異論がある。古代アテナイの褒賞制度を確かに伝えるものと読む人もいれば、後世に道徳的な意味づけを施された立法の物語と読む人もいる。
アマチュアとプロという言葉の組み合わせには、ここでは踏み込まない。それは後の篇で扱う。いま覚えておきたいのは、褒賞の役割分担だけだ。大会が渡すものには値段がない。野生のオリーブの冠そのものは金目のものではなく、買えないからこそ貴重だった。都市国家が渡すものには、すべて値段がある。しかも、法令に書き込めるほど明確な値段がある。値をつけられないものと、値をつけられる金銭が、同じ一人の人間の上で前後につながる。その間をつなぐ換算の仕組みが、名簿に載ったあの名前だった。
具体的な額が信頼できるかどうかにかかわらず、向いている先ははっきりしている。都市国家が金を払って買うのは、数字ではなく名前だ。名前は金に換えられる。席にも換えられる。ある一族が、その後何代にもわたってどう語られるかにも換えられる。この交換に数字は登場しない。数字が存在しないからだ。
三 長さの違う四本の競走路
四大聖地の競走路は、同じ長さではなかった。文献からの推定ではない。スタートライン、距離の標識、競走路脇の溝の遺構にもとづく、考古学的な実測である。オリンピアは約192メートル、デルポイは約177.5メートル、ネメアは約178メートル、後期のイストミアは約181メートル。イストミアについては、六百尺から五百五十九尺に変更されたとする考古学上の解釈もある。
オリンピアはデルポイより、十五メートル近く長い。小さな差ではない。もし、この四か所のスタディオン走でタイムが計られていたとしても、その数字を互いに比べる意味は何もなかったはずだ。
事情を最もよく物語るのは、ネメアの資料である。ミラーは発掘報告でも現地での解説でも、この競走路が地元の尺度で六百尺、約178メートルだったことを強調している。ところが、百尺ごとに置かれた標識の間隔は、実測するとそろっていない。そこでミラーは、古代の人々がこれらの標識を置いたのは、現代の意味での精密な成績を作るためではなかった、と明言している。
この証拠に重みがあるのは、実物だからだ。古代文献には成績が記されていないと言えば、文献が失われたのだという反論ができる。だが、競走路はそこにあり、標識の間隔は測れる。距離を測るための標識なら、等間隔でなければならない。そうでなければ、測って得た数に意味がなくなる。実際には等間隔ではない。しかも、石工の技術では等間隔にできた時代なのに、そうなっていない。つまり、間隔がそろっていなくても困らなかった。困らなかった理由は、一つしかない。誰もそれを使って測っていなかったのだ。
ここで一度、立ち止まりたい。最も間違えやすい判断が、この一文にあるからだ。競走路の長さが統一されていないことは、この構の欠陥ではない。欠陥とは、ある目的に照らしてうまくいっていないことをいう。聖地をまたいだ比較は、初めから目的ではなかった。だから、四本の競走路の長さが違っていても、当時の誰にとっても何の問題にもならなかった。誰も不満を述べなかった。同じである必要が、誰にもなかったからだ。
この点をさらに動かしがたくする事実がある。同じ選手が、一年のうちにいくつかの聖地で続けて出場することもありえた。四大祭典は開催周期がずれており、巡回してすべてを制覇しようと思えば、四か所全部を訪ねなければならない。つまり、同じ一対の脚が、同じシーズンに、長さの違う四本の競走路を走ったわけだ。当時、比較できることを気にする人がいたなら、真っ先に問題に気づくのはこの選手だったはずである。差が自分の身に直接かかってくるからだ。ところが、換算を提案した人や、デルポイではオリンピアより楽に走れると不満を述べた人の記録は、一つもない。彼が欲しいのは四つの冠だった。四つの冠に、同じ長さは要らない。
ここから、もう一つ問うことができる。長さが違うなら、長い競走路で勝つほうが、短い競走路で勝つより難しいのではないか。現代では自然な問いに思えるが、当時は出てこない問いだ。二つの競走の難しさを、同じ物差しで評価できるという前提に立っているからである。当時の評価の物差しは、対戦相手だった。オリンピアで勝つのが難しいのは、そこに最も強い相手が集まるからであって、競走路がいちばん長いからではない。構が勝利の重みを量るとき、見るのは誰を倒したかだった。何メートルを走り抜けたかではなかった。
今日、この数字の並びを見ると、つい換算したくなる。192メートルにそろえたら、デルポイの成績はいくつに相当するのか、と。その反射は、後の構から来ている。当時の出来事から来ているのではない。後から作られた必要を、初めからあった必要のように扱い、振り返って古代の人々がそれを満たさなかったと指摘する。古代の制度を読むときに、最もよく起きる誤読の一つだ。そして、この誤読は十九世紀にまで続いていく。
ついでに、もう一点はっきりさせておこう。競走路は地元の尺で測られ、その一尺の長さが土地ごとに違った。四大聖地で共通していたのは六百尺という数であって、尺のほうは共通していなかったのである。同じ数を使いながら、実際の長さは異なる。それでも当時の人々は、そこに矛盾を見なかった。数は儀礼に属し、長さはその場所に属していた。場所をまたいで比較するつもりのない世界では、数をそろえて実際の長さをそろえないことに、何の不整合もない。後の構がしたことは、その正反対だ。実際の長さを統一し、儀礼的な数を手放した。四百メートルは四百メートルであり、一メートルは一メートルである。一メートルとは何かは競技場の外で決められ、競技場とは関係がない。この二つのやり方を隔てるのは、精度ではない。目的なのだ。
四 測った数字はある。それでも、いまだに決着がつかない
古代に数字がまったくなかったわけではない。いくつかあり、しかもどれも驚くような数字だ。
クロトンのファユロスは、ある碑銘詩の伝承によると、五十五尺を跳び、円盤を九十五尺投げたという。この文章は後世の注釈と『スーダ辞典』を通じて伝わり、ハリスが1960年にこの詩を詳しく論じている。スパルタのキオニスにも数値の記述がある。ただし、こちらの数字は定まっていない。現在確認できるエウセビオス系統の伝承では二十二尺となっているが、アフリカヌスや本文校訂にもとづいて五十二尺とすべきだとする研究の系統もある。厳密に扱うなら、五十二尺は異論のある校訂結果と明記すべきであり、争いのない確定値として使うことはできない。
五十五尺は、換算するとおよそ十六メートルになる。現代の走り幅跳びの世界記録は8.95メートルだ。ならば、この数字は別のことを指しているか、さもなければ信頼できない。
跳躍に道具を使っていたことは確かだ。選手は両手に一対の跳躍用の重りを持っていた。パウサニアスはその形を、半円形でやや楕円に近く、指を通せるものと記している。ピロストラトスによれば、この重りは五種競技の選手が発明した。また、笛の音でリズムをとることが規則で認められていたとも述べている。現代の生体力学の実験でも、重りの効果は認められている。適切な重さなら、センチメートル単位で距離が伸びる。センチメートル単位で、だ。十六メートルとの間には、倍ほどの隔たりがある。
笛のくだりにも目を留めておきたい。ピロストラトスによれば、笛の音でリズムをとることが規則で認められていた。つまり、当時の跳躍は伴奏つきだったのである。伴奏のある種目と、ストップウオッチで計る種目は、気にかけているものが違う。伴奏が支えるのは動作の完成度と見映えであり、ストップウオッチが支えるのは結果を比較できることだ。当時の規則がわざわざ前者のために条文を置いたのは、そこがこの種目の大切な部分と考えられていたからである。
こうして説明の道筋は四つに分かれ、今日まで並び立っている。どれもほかを圧倒できない。一つ目は、複数回跳んだという説。ゲントの研究チームや、その後の多くの研究者は、五回連続の立ち幅跳びだった可能性を唱えている。実験でも、十五メートルを超えることは実際にできる。二つ目は、競技方式が違ったという説。現代のような一回の走り幅跳びではなく、定められた助走区間があり、測り方も今とは違ったのかもしれない、とする研究者もいる。三つ目は、本文の誤伝。とくにキオニスの例では、写し伝えるうちに数字が変形した可能性は十分ある。四つ目は、修辞的な誇張。ハリスはファユロスの詩を論じる際、文学的な誇飾や風刺としての誇張を、明確に一つの解釈として挙げている。碑銘詩という文体では、そうした表現が許されるからだ。
これらの数字が今も争われているのは、まさに当時、照合できる帳簿がなかったからである。数字が出てきたのは記録保管所ではない。一篇の詩からだ。詩なら誇張もできる。誤って伝わることもある。写されるうちに一字抜けたり、一字加わったりもする。帳簿には、それが許されない。ある数字が照合可能なものになるために必要なのは、誰かが書き留めることだけではない。必ず書き留めると約束する制度があり、二度目も三度目も同じやり方で書き留めると約束していることだ。
ここは、この篇で最も注意してほしいところである。点々と残る数値は、記録制度があった証拠ではない。なかった証拠なのだ。制度があったなら、ファユロスのあの一跳には、同じ大会のほかの選手の成績という比較対象があったはずだ。前後の大会の同じ種目のデータという背景もあったはずだ。途方もない数字なのかどうかを判断できる分布があったはずだ。そのどれもない。一篇の詩の中に、その数字だけがぽつんと立っている。二千五百年。四つの読み方。
見方を変えれば、数字の信頼性は、初めからその数字だけで成り立つものではない。周囲にある別の数字から来ている。いま誰かが世界記録をはるかに上回る成績を申告したとしても、真偽を判断するために現場へ戻る必要はない。分布のどこに位置するか、同じ競技に出たほかの選手の成績、その人の過去の成績の曲線、当日の風速と競技場の状態を見ればいい。こうした参照先が一枚の網を作り、数字はその網に乗って初めて重みを持つ。ファユロスの数字には、網がない。下は空っぽだ。だから証明も反証もできず、できるのは解釈だけになる。解釈なら、いくつも成り立つ。四つの道筋がいまだに並んでいる理由は、そこにある。
この資料に接した現代人がまず尋ねるのは、結局、何メートルだったのか、ということだろう。だが、その問いはすでに、数字を確定できるという前提に立っている。もっと的確なのは、こう問い直すことだ。照合されるつもりのない数字と、照合されることを前提にした数字は、そもそも同じものなのか。書けば同じ姿になるとしても、両者はまったく別物なのである。
五 高度に発達した構。ただし、量るのは成績ではない
オリンピアの審判は、全ギリシャ審判官と呼ばれた。制度が変わるたびに人数も繰り返し変わったことを、パウサニアスが明記している。最初はイピトス一人だったという。第五十回からは、くじで選ばれた二人になった。第九十五回には九人、その後十人に増え、第百三回には十二人となる。第百四回には部族数の減少に伴って八人に減り、第百八回に再び十人に戻った。以後はその人数が続いた。
この数字の並びだけでも、ずいぶん多くのことがわかる。審判の数はエリスの部族の数に従い、部族が増減すれば、審判も増減した。つまり、競技場で何人が判定を下すかを決めていたのは、競技場の外で起きた行政区分の変更だった。構の内部の組織が、外部の組織によって決まる。しかも、大会自身の語りの中では、それは何の問題にもなっていない。審判の人数を競技上の理由で決めているなどと、初めから言っていなかったからだ。
選出方法と権限についても、直接の記述がある。審判はエリス人の中から選ばれ、エリスにある審判官の宿所に十か月続けて滞在し、法の守護官から指導を受けなければならなかった。競技当日は夜明け前に会場へ入り、走者の組分けを行う。正午には五種競技と格闘種目を監督する。彼らは審判であると同時に、大会の行政官でもあった。
宣誓もあった。パウサニアスによれば、選手本人だけでなく、父親、兄弟、そして指導者も、誓いをつかさどるゼウスの像の前で誓わなければならなかった。選手が規定の十か月の訓練を確かに終えていること。そして、大会で不正をしないこと。その二つである。
誰が誓うのか、もう少しよく見てみよう。競技に出るのは一人なのに、その父親も兄弟も指導者も誓いに加わる。構はここで、出場しない周囲の人々にも責任を分けている。理由は難しくない。本当に十か月の訓練を積んだかどうかは、身近にいた者にしかわからない。大会はその十か月を調べられないから、知っている者たちにも、自分自身を一緒に賭けさせるしかない。これは典型的な処理の仕方だ。あることを直接観測できないとき、構は観測できる代わりのものを探し、その代わりのものに、もとの事柄を保証させる。
罰もあった。体罰、罰金、資格の剝奪があり、鞭打ちは専門の鞭打ち役が執行した。リカスは規則に反して自分の御者に勝利の帯を結び、その場で鞭打たれた。エウポロスの贈賄事件も詳しく記録されている。そして、この仕組みの中で最も面白いのは、罰金の使い道だ。罰金はゼウス像を鋳造するために使われ、像は競技場への道沿いに置かれた。台座には処罰された者の名前と警告の言葉が刻まれた。オリンピアの遺跡には今も、その石の台座が並んでいる。
これらを合わせて見て、この構を粗雑だとは言いにくい。十か月の集団訓練、競技前の宣誓、部族に応じて調整される審判の人数、くじ、組分け、鞭打ち、罰金、そして罰金で鋳造され、必ず通る道に並べられた警告。制度の細かさは、どの現代の大会の懲戒規定にも引けを取らない。部分によっては、もっと容赦がない。
後世の人は、古代競技に数字がないことを、まだそこまで発達していなかったからだと説明しがちだ。だが、この資料群はその説明を支持しない。発達と未発達は一本の軸の前後を指す。ここにあるのは、二本の軸だ。この構は、持てる精密さをすべて、もう一方の軸に注いでいた。保証したかったのは、その勝利に不正がないことであり、成績の数値がどれほど大きいかではなかった。不正への警戒はきわめて強く、数値の大きさへの関心はほとんどゼロだった。
しかも、この二つに必然的なつながりはない。不正を厳しく調べ、同時にタイムも正確に計る大会は、もちろん成り立つ。現代の大会がそうだ。だが、前者だけを行うことも十分にできる。古代の大会がそうだった。二つを一つに束ね、同じ進歩の二つの側面と見るのは、後から生まれた習慣にすぎない。潔白さと数値の大きさは、独立した二つの問題だ。構は片方にだけ答えることができる。そして、その答えを非常によく仕上げることもできる。
もう一歩、踏み込んでおこう。ある人がどれほど速く走ったかを測ることと、その人の勝ち方が規則にかなっていたかを判定することは、別の仕事である。必要な装置も違う。前者には統一した物差しと時計が要り、後者には宣誓への立会い、監督、確認、懲戒が要る。古代は資源をすべて後者に注ぎ、かなり完備した仕組みを作った。だから精密さとは、一本の線に沿って積み上がっていくものではない。つねに、何か具体的な方向へ伸びていく。その方向を決めるのは、構が何を生み出そうとしているかである。
この節で最も確かな手触りを持つのは、罰金で鋳造されたゼウス像だ。罰金は、不正を大会から取り除くためのものだった。ところが、その取り除き方は、不正をした者の名を青銅に刻み、入場する誰もが通らなければならない道に立てることだった。排除されたものが、警告の姿をとって、その場に残る。さらに言えば、像の石の台座は今もあるのに、勝者の像は大半がとっくに失われている。構が取り除こうとしたもののほうが、構がたたえようとしたものより、長く生き残った。
六 記されるのは誰か
キュニスカは紀元前396年と紀元前392年の二度、オリンピアの四頭立て戦車競走で優勝した。パウサニアスは、彼女がオリンピアに像を立てたことを記している。その碑文も残っており、彼女はそこで、この冠を勝ち取った女はギリシャ全土で自分一人だと名乗っている。ここは動かない。異論のない事実である。
彼女は戦車を操っていない。戦車競走の勝者として記されるのは、御者ではなく馬主だった。
実際に戦車を操った者が、すべてをやった。その人は名簿にいない。名前は記録されておらず、どの都市国家の出身かも、自由人だったのか奴隷だったのかもわからない。
構が彼の存在を見落としたわけではない。戦車競走の規則は、御者を扱わずには成り立たない。スタート、反則、衝突。その結果を引き受けるのは御者であり、鞭が下りるのも彼の身体だ。だから彼は、規則の中には存在し、名簿の中には存在しない。ある人が一つの制度によって隅々まで統制されながら、その制度にはまったく記録されないことがある。統制することと記録することは別なのだ。前者が必要とするのは、彼がそこにいること。後者が必要とするのは、彼の名が記されること。そしてこの構が彼を必要とするのは、そこにいてもらわなければ困る場面だけだった。規則はきわめて明確で、運用にも曖昧さはない。勝利は馬主に帰属する。
出場資格も、一般向けの説明で言われるほど一律ではなかった。ヘロドトスによると、マケドニアのアレクサンドロス一世は、出場にあたってまず自分がギリシャ人であることを証明しなければならなかった。アルゴスにつながる系譜を示して論じ、ようやく出場を認められた。従来の教科書は、これを根拠に「自由身分のギリシャ人男性に限る」と書いてきた。だが、レミセンは大きな修正を提案している。汎ギリシャの祭典には非ギリシャ人を正式に排除する規則があったという考え方は、そのかなりの部分が十九世紀のナショナリズムによる再構成だという。史料を読む限り、普遍的で安定した厳格な法があったというより、個々の状況の中で、誰をギリシャ人とするかが交渉されていたように見える。ここにあるのは解釈をめぐる争いであり、確定した一つの規則ではない。両方の読み方を置いておく必要がある。
奴隷や非市民の位置は、さらに曖昧だ。奴隷に出場資格はなかったというのは、確からしさの高い通説として挙げられる。しかし、明文による直接の裏づけは、一般向けの文章から受ける印象より乏しい。また、どこかの都市国家の市民でなければならなかった、という条件は、通俗的な説明より慎重に書くべきだろう。王族、植民地の住民、地域をまたいで活動する有力者、そして馬主を勝者とする戦車競走。どれを見ても、実際の運用は現代の国籍法よりずっと柔軟だったことがうかがえる。
女性の側には、別の構があった。ヘラ祭の競技会は実在した。種目は少女の短距離走で、年齢別に分かれ、最年少の組が最初に走り、次に中間の組、最後に最年長の組が走った。距離は男子のスタディオン走より少し短かった。これは独立した競技会であり、同じ構の枠を広げたものではない。
この違いは陸上競技の歴史全体で繰り返し現れるので、ここではっきりさせておきたい。自分の中に収められない人に出会ったとき、構には二つのやり方がある。自分の境界を押し広げて迎え入れるか、隣に別の構を立てるか。後者も受け入れに見えるが、実際には二つのことを同時に済ませている。その人たちに行き先を与え、同時に、もとの構には一字も変更を加えずにすむようにする。ヘラ祭とオリンピア祭は二つの祭典だった。別の日に、別の人々が運営し、走る距離も違った。共通の一枚の名簿を必要としたことはない。既婚女性の観戦禁止についても触れておこう。パウサニアスによると、エリスの法は、禁止された日にオリンピアに現れた女性をテュパイオン山の崖から突き落とすよう定めていた。カリパテイラの物語は、この禁令を前提にしている。現代の疑問は、禁令の伝承が存在したかどうかではなく、誰に適用され、どれほど実行されたかに向けられる。対象はすべての女性ではなく既婚女性で、女祭司や特定の役目を担う女性には例外があった可能性がある。また、崖から突き落とすという極刑は、規範としての威嚇に近く、十分な執行例が確認されていない。控えめに言うなら、禁令の伝承には確かな史料上の根拠があるが、その運用は条文の字面よりずっと柔軟だったかもしれない。
この節に出てきた人々は、みな何らかの形で名簿の縁に立っている。キュニスカは入った。彼女のために戦車を操った者は入らなかった。アレクサンドロスが入れたのは、一度の競技ではなく、一つの系譜によってだった。ヘラ祭の少女たちは別の名簿に入った。あの禁令の対象になった人々は、見る資格さえ判定されなければならなかった。
構は量り始めるより先に、誰を量ってよいかという線を引く。この線自体は数字を一つも生まない。だが、その後に現れるすべての数字が、どの母集団から出てくるかを決めている。陸上競技の歴史から、この層が消えたことは一度もない。線を引く根拠が変わり続けただけだ。血統から国籍へ、性別からホルモン値へ、身体から器具へ。根拠が何に変わっても、線はずっと残っている。
七 古代の人々も比べていた。ただし、数字ではなかった
四大祭典の「巡回制覇者」は、一つの称号だった。四大聖地の祭典すべてで優勝した人を指す。これは積み重ねによって得る称号である。一度の競走の速さを帳簿に閉じ込めるのではない。一人の人間が四つの聖地で次々に勝ち取ったものを積み重ね、それとわかる一つの肩書にする。
それは、たしかに比較の役割を一部担っていた。この称号があれば、誰が巡回を制したのか、誰が先に成し遂げたのか、誰が二度以上成し遂げたのかを問える。それに近いものとして、優勝の総数、一族全体の勝利数、前の世代や後の世代を冠の数で上回ることをめぐる比較もある。パウサニアスの著作にも、こうした一族どうしの比較が出てくる。
仕組みの面でも、もう一つ違いがある。積み重ねた栄誉は、中央の機関に保管してもらう必要がない。碑文に宿り、彫像の台座に宿り、賛辞に宿り、誰かを紹介するときに、その名前の前に添えられる言葉に宿る。誰が語り継いでもよく、誰が刻んでもよい。数値の記録はそうはいかない。どこか一か所で認定しなければ、同じ種目に、互いに矛盾する最高記録がいくつも同時に存在してしまう。積み重ねの制度は保管を皆に分散させる。数値の制度は認定を一か所に集めなければならない。積み重ねの制度にも、もちろん争いはある。だが、争われるのはその栄誉を認めてよいかどうかであって、その数字が有効かどうかではない。
だから、古代には記録という観念がなかった、とまで言ってしまうのは言いすぎだ。古代の人々は比較に関心を持ち、そのためのものをわざわざ作ってもいた。ただし、それは一つの数字ではなく、一連の栄誉だった。正確には、場所も時代も越えて直接照合できる、統一された数値記録の制度がなかったのである。これは言葉遣いの問題ではない。構全体の動き方を決める違いだ。
積み重ねの制度には、数値の制度にはない性質がある。これは別に取り上げておきたい。巡回制覇者という称号は、後世の誰にも破れない。同じ称号を得て肩を並べるか、制覇した回数で上回ることしかできない。称号は無効にならず、どこかの午後に誰かに一本線で消されることもない。それは一本の記録線ではなく、その人の履歴なのだ。
数値の記録は違う。記録は、消されるのを待つという仕方で存在する。成立するたびに、同時にその予告もしている。この地点で二つの構は枝分かれする。そして、このシリーズの後に続く厄介事のほぼすべては、数値の側の枝に生えている。積み重ねの制度は、暫定性を処理しなくてよい。暫定性を生み出さないからだ。生み出すのは、増えるだけで減らない列である。その列に一度入った項目は、いつまでもそこに残る。
代償も同じところにある。積み重ねの制度は、速いか遅いかという問いには一つも答えられない。その時代に誰が最も優れた選手だったかは教えられる。だが、別の時代の選手より速かったか遅かったかは教えられない。三百年を隔てた二人の巡回制覇者の間には、並べて見ることのできる量が一つもない。栄誉の列は延ばせるが、世代を越えた換算はできない。
もう一つ、見えにくい代償もある。積み重ねの制度が報いるのは、勝ち続けること、各地を巡り尽くすことだ。ある一日の極致ではない。ある午後、それまで誰も出したことのない速さで走ったのに、ほかの大会では何も得られなかった人に、この制度は居場所を与えない。その午後の痕跡も、何一つ残らない。数値の制度なら、その人を拾い上げる。積み重ねの制度は拾わない。逆に、毎回勝つが、毎回苦労して勝つ人は、積み重ねの制度では最高級でも、数値の制度では何者でもないかもしれない。二つの構が選び出すのは、同じ人々ではない。取りこぼすのも、同じ人々ではない。
これが、この構の境界である。後の構より劣っているのではない。別の問題を解いていたのだ。そして、自分の問題はかなり徹底して解いていた。そこに残る余項と、数値の制度が残す余項は、同じ人々ではない。
八 後世の人々には、古代にもそれが必要だった
古代の祭典がどのように終わったのかは、確定できない。
よくある説明では、テオドシウス一世が393年に禁止を命じたことになっている。現在の研究では、この説明は大づかみにすぎると広く考えられている。オリンピアの祭典を名指しして廃止する、完全な形で残った勅令はないからだ。近年は、四世紀末から五世紀にかけての過程として終わりを捉える研究が多い。反異教の立法、祭祀の機能の衰え、地方の財政、自然災害など、複数の要因が絡んでいたという見方である。別の終期としてよく挙げられるのは426年だ。その年には、より徹底した異教の排除と聖域の破壊があった。一つの終焉の年を置くより、五世紀半ばになってようやく完全に継続不能になった、と記すほうを選ぶ研究者もいる。
ギリシャ世界全体の年を位置づけるための名簿なのに、自分の終点には年がない。年代を記すものに、自分自身の年代がない。偶然ではない。この篇でここまで述べてきたことと、同じ話なのである。この構が最初から最後まで生み出したのは名前だけだった。だが、制度の死は、誰かの名前として名簿に入ることはない。自分自身の終わりを記す項目を、この構は用意していなかった。
もう少し言えば、終わりを確定できない理由の一つは、祭典が一度に閉じられるようなものではなかったことにある。祭祀であり、市であり、仲裁の場であり、都市国家どうしが情報を交換する場所だった。競技は、そのうちの一層にすぎない。一つの法令で供犠は禁じられても、人々が同じ時期に同じ場所へ行くことまでは禁じられない。だから、祭典は一層ずつ消えていった。各層にはそれぞれの時間があり、それらは重ならなかった。いくつもの層が重なってできたものには、きれいに一つにそろった死亡日などない。
千五百年後、それはもう一度作られた。だが、作り直した人々には、別の姿をしたものが必要だった。
1896年の復興は、古代に根拠のないものをいくつも、古代精神への回帰として包み直した。アマチュア主義がそうだ。古代の競技は初めから、褒賞、後援、名声、都市国家からの報いの体系の中にあった。物質的な見返りのない純粋な競技という考えは、十九世紀の貴族や紳士のスポーツ倫理を古代に投影したものだった。マラソンもそうだ。古代オリンピアにこの種目はなく、1896年にブレアルとクーベルタンが導入した。国際平和と普遍的な兄弟愛を中心に据えた理念もそうだ。それは十九世紀末の国際主義と国民国家の政治が生んだものである。「参加することに意義がある」も同じだ。古代の競技文化が重んじたのは勝利、栄光、そして恥であって、参加ではなかった。
もう一つある。統一された記録という考え方だ。
大切なのは、復興を担った人々の間違いを指摘することではない。その中には、古典学の素養を十分に持った人も少なくなかった。しかも、こうした組み立ては当時、隠れてではなく公然と行われていた。大切なのは、なぜ彼らにとって、それは古代にも存在していなければならなかったのか、である。
できたばかりの制度が、世界中の人々に、同じものを同じ物差しで測るよう求める。さらに、その結果には国境も時代も越える効力があると、全員に認めさせようとする。そんな制度には、この物差しはたった今発明したものではないと証明してくれる由来が要る。生まれたばかりの物差しは疑える。千年以上の歴史を持つ物差しは、疑いにくい。そこで古代が動員された。ところが、古代の側には物差しがない。長い長い名前の列があるだけだ。名前では、物差しの由来を証明できない。だから、物差しが付け足された。過去の中へ。
しかも、その付け足しは、きわめて具体的なものになった。アマチュア原則は標語では終わらなかった。資格審査になり、順位を取り消す根拠になり、その後数十年にわたって、実際に選手たちの運命になった。古代についての誤った判断も、規約に書き込まれた途端、もう判断ではない。それにもとづいて執行できる規則になる。資格を剝奪された本人にとって、その規則に古代の根拠があるかどうかは、何の違いももたらさない。このシリーズでは、こうした場面に何度も出会う。構の正当性の根拠は、虚構でありうる。それによって構の効力が少しでも弱くなるわけではない。
ここから先、このシリーズの残りの篇がすべて扱うのは、一つのことだ。付け足されたあの物差しが本物として受け止められ、実際に作られた。それは測り始め、ますます正確になっていく。精度が一段上がるたび、その物差しでは測れないものの形も、一段くっきりと現れる。
古代の祭典は千年以上続き、長い名前の列を残した。その名前の後ろに続くはずだと思われるものは、何一つ残っていない。失われたのではない。初めから生み出されていなかった。名簿の縁に置かれたものも、すべて同じだ。キュニスカのために戦車を操ったあの人。アルキビアデスの、帳簿に入らなかった二つの順位。ファユロスのあの一跳が、実際にはどれほど遠かったのかということ。ネメアの、間隔のそろわない標識の間を走るのに、実際にかかった時間。どれも消されたのではない。この構に、その欄がなかったのだ。
最後に、もう一つ付け加えたい。それらがみな、不当な扱いだったとも限らない。あの御者は、自分が損をさせられたとは思っていなかったかもしれない。戦車競走の勝利が馬主のものになる世界に生き、それが規則だと知っていた。余項は被害者と同じではない。余項とは、構の帳尻が合わない部分である。その部分にいる人が何を思っていたかを、構は知らない。今日の私たちにも知るすべはない。名簿の外に落ちた人を一人残らず、不当に扱われた人として描くなら、それは後の構を使って、彼らに代わって語ることになる。まさにそれこそ、この篇全体で避けようとしてきたことなのだ。
後の構は、その欄を付け足した。付け足して初めて、一欄では足りないとわかった。
物差しはまだ、正確には測れていない。それでも、測り続けている。