大知が読む『荘子』 · 第2篇
なぜ、その親切に海鳥は耐えられなかったのか――魯侯のもてなし
よいものを贈ったかより、「よい」を誰が決めているかを見てみます。
『荘子』至楽篇には、こんな物語があります。
昔、一羽の海鳥が魯の郊外に降りた。魯の君主は鳥を迎え、祖先の廟で酒を供し、九韶の音楽を奏で、太牢の料理を整えた。鳥は目がくらみ、悲しみ、肉を一切れも食べられず、酒を一杯も飲めず、三日で死んだ。これは自分を養う仕方で鳥を養ったのであり、鳥を養う仕方で鳥を養ったのではない。
海鳥が魯の国の郊外にとまります。君主はその鳥を祖先の廟へ迎え、酒宴でもてなし、荘重な古楽「九韶」を演奏し、格式の高い「太牢」の膳を出しました。ところが鳥は、目がくらみ、不安と悲しみに沈み、肉を一切れも、酒を一杯も口にできず、三日で死んでしまいます。人が自分を養うやり方を鳥にも当てはめ、鳥には鳥の養い方があることを見なかったのです。
一 ほとんど正しい読み方が、別の話になるところ
よくある読み方は、ほとんど正しい。他人に、自分流の扱いを押しつけるな、というものです。ほとんど正しいからこそ、読みが途切れるのは字面ではなく、その答えが何に置き換わるか、というところです。相手の好みに合わせよう。利用者を理解し、個別化し、顧客中心で考え、相手の立場に立とう。こうして物語は一つの技術になります。贈り物を相手にもっと合わせれば、魯侯の失敗はしない、と。けれど、その個別化も、「あなたによいもの」を私が決め、より的確に届けているだけかもしれません。
「鳥を養う仕方で鳥を養う」とは、贈り物をもっと好みに合わせることではありません。何がよいかを決める基準は、私の側ではなく、もともと鳥自身の生の中にある、という話です。
二 彼は不足を埋めていたのではない
前の篇の儵と忽は、渾沌に欠けたものを見つけ、補おうとしました。魯侯は、鳥に何か欠陥があると考えたわけではありません。九韶は荘重な古楽で、太牢は牛・羊・豚の三種をそろえた、格式高い祭祀の供物です。しかも鳥を祖先の廟へ迎え、酒を供した。ここで見えるのは、いいかげんな扱いではなく、心を尽くしたもてなしです。それだけに見抜きにくい。「あなたには欠陥がある」という判断さえ出ず、ただ大切にもてなされる。また、魯侯が鳥から何かを見返りとして得ようとしたとも書かれていません。
寓話は彼の心のすべてを明かしていませんから、私心が皆無だったと証明してあげる必要はありません。見るべきことは一つです。たとえ計算ずくでなくても、もてなしは、大切にしたい相手を傷つけることがある。この点を覚えておいてください。あとで戻ってきます。
三 七日と、三日
渾沌は七日間、穴を開けられました。海鳥は三日です。並べると切迫感がありますが、七日と三日は、与えた量と影響の関係を計算できるデータではありません。見えてくるのは、別々の食い違いです。一方は相手に何かを足し続け、もう一方は自分にとってよいものを一式差し出した。どちらも、その暮らしに相手が耐えられるかを、先に問わなかった。鳥の死に方も見てください。目がくらみ、思い悩み、食べられず、飲めない。原文に刃物を持つ犯人はいません。鳥を追い詰めたのは、申し分なく立派に見える、あのもてなしでした。
「肉を一切れも口にできない」を、鳥が機嫌を損ねていた、と読む必要はありません。すでに目はくらみ、悲しんでいます。その後に原文が挙げる餌やすみかも、廟の宴席とはまるで違います。
四 基準は、鳥自身の暮らしにある
自分のやり方で鳥を養うことと、鳥のやり方で養うことの違いは、手間や思いやりの多さではありません。「よい」を誰が定義するのか、という違いです。鳥が本当に必要とするものは、続く原文に挙がっています。深い林にすみ、水辺の砂州を歩き、川や湖に浮かび、ドジョウや小魚を食べ、仲間の列に加わってとまり、のんびり過ごす。魯侯のもてなしの序列では、値打ちのあるものに見えないかもしれません。でも鳥にとっては、生きていく条件です。もっと口に合う宴席をもう一度開こう、という献立ではない。何を食べ、どこにすみ、誰といるかという、一つの暮らし全体なのです。
深い林、砂州、川や湖と、礼楽に囲まれた廟は、違う世界です。もてなしの格式を上げても、暮らす環境の食い違いは埋められません。唯一の生理学的死因を、こちらで確定する必要もないでしょう。問題はすでに見えています。魯侯は、人がよいと思うものを供給しながら、海鳥には海鳥の生き方をさせなかった。贈り物を取り違えただけではなく、最初から最後まで、自分が「よい」を定義する人であり続けたのです。ここで二つの死を並べられます。渾沌は、別のものへと埋め尽くされて死んだ。海鳥は、自分のやり方で営むべき暮らしを営めなくなって死んだ。
一方は相手を予定した姿に変え続け、もう一方は相手が自分の仕方で生きる条件を失わせる。二つを並べて、私にはそうした二つの道が見えます。前の篇の物差しは、してはいけない側を示しました。変えたあと、相手を埋め尽くすな。この篇は、その反対側を示します。残された場所は空っぽではありません。もともとそこにあるものがあり、それをあなたが書き決めるのではない。一つの物差しの、表と裏です。
五 もっと気を利かせればよい、では済まない
ここでも、前の篇と同じ逃げ道をふさいでおきたいと思います。魯侯が十分に利用者調査をした、としましょう。鳥が小魚を食べると知り、牛や羊や豚を下げ、いちばん新鮮なドジョウや小魚を美しい器に盛る。置く場所は廟で、九韶はそのまま演奏する。これでは、まだ解決していません。餌を正しく替えたからといって、ほかの生活条件まで合ったわけではないからです。廟は廟のまま、音楽は彼の選んだ音楽のまま。そして、この鳥が今日どんな一日を過ごすかを決めるのも、まだ彼です。個別化で内容は変わっても、決める人は変わっていません。
「相手に合う」という判断も私だけのもので、相手の反応で私が考えを変えることがないなら、私はまだ魯侯の場所にいます。世話をするには判断が必要です。大事なのは、その判断を、相手の必要に応じて訂正できるかどうか。前の篇では「もっとよい評価表を作ろう」を止めました。今回は「もっと親身になろう」を止めます。同じ逃げ道の、別々の出口なのです。
六 金の手錠
シリコンバレーでは、この話に「金の手錠」という名前があります。まだ権利が確定せず、辞めれば失うかもしれない株式が、目の前の豪華な贈り物です。見えるし、金額も計算できるけれど、まだ待つ必要がある。ただし、鳥と同じではありません。鳥は宴席に耐えられませんが、人はそのお金を本当に欲していることがあり、家計がかかっていることさえあります。似ているのは、他人が「最良の待遇」と呼ぶものが、ほかの暮らしの余地を少しずつ押しのけうることです。だまされなければ起こらない話ではありません。採用する人も本気で好条件だと思い、契約する人も実際に受け入れたい。その後で、辞める代償が、日ごとに具体的になってくるのです。
人によっては、権利確定を待つ利益が大きいほど、辞める機会費用が重くなります。ここで見るべきは寓話の日数ではなく、そのお金が、残る自分を納得させる唯一の理由になっていないかです。「立ち去れない」は、あの鳥にとって命取りだったものでもあります。鎖で縛られるのは、お金ではなく行動です。ものを作り、新しい分野へ移り、まだ誰も期待しない仕事に自分を賭ける。そういうことをしたい人たちの、まさにその部分が縛られる。その先に、rest and vest、働く手を緩め、株の権利が確定するのを待つ状態が現れます。
席にはいても、心は株の権利確定を待つだけになっていることがあります。だからといって、残る人はみな働かないとも、この状態はすべて怠けだとも決められません。見るべきなのは、その人が前には打ち込みたかった仕事が、どう予定から消えていったかです。ここで、海鳥の姿が戻ってきます。待遇は厚いのに、その人がのびのび動ける場所は減っていく。ただ、人は三日で死ぬ寓話の鳥ではありません。残るのは慎重な選択かもしれず、辞めれば現実の危険もあります。このたとえは、誰にも去就を指図しません。
本当に気になるのは、以前はものを作り、新しい方向を試したかった自分が、まだ動けるかどうかです。願いをしばらくしまっておくことは、自分を失うことではありません。でも、選び直す可能性さえ考えるのが怖くなったなら、一度立ち止まってみたい。そして影響は、ここでも一方だけではありません。人は数年をすり減らし、会社も採用したかった自発性を失うかもしれない。もちろん、収入や労働という利益は残るでしょう。それだけで、この損失が自動的に相殺されるわけではありません。
七 立派すぎて断れない待遇
金の手錠は、よく取引として説明されます。会社はあなたの自由を買い、あなたは同意して署名した。値段だけの話にすれば、次はもっと高く交渉すれば済むように見えます。でも海鳥の話が問うのは、その取引の値段ではありません。寓話は魯侯が取引しているとは書かず、雇用関係には実際に契約も交換も双方の利益もある。そこは区別すべきです。それでも照らし合える点があります。対価があっても、善意があっても、その人に合った仕組みだとは保証されない。誰が見ても立派な待遇ほど、問題を言い表しにくい場合があるのです。
「これほど恵まれていて、まだ不満なのか」と皆が言う待遇は、次第に断りにくくなります。九韶と太牢を前に、周囲が「これでも足りないのか」としか尋ねなければ、鳥の恐怖は判断の中へ入れません。私は寓話から、この問いを暮らしへ持ち帰りたいと思います。ここで余項を残さないとは、相手を埋め尽くすことではなく、相手が「いや」と言えなくなることです。まだ拒めるかを見るのは、取り計らい尽くされていない場所が残っているかを確かめる一つの方法です。厚いもてなし自体が必ずそれを奪うのではありません。奪うのは、もてなしに付いてくる、黙って受け入れよという要求です。
八 これは、誰に向けた話なのか
さて、この一節が語られた場面を開いてみましょう。これは荘子が読者へ直接語っている言葉ではなく、孔子が子貢に語った話です。そのとき顔回は、東の斉へ行き、自分の学んだ道を斉の君主に説こうとしていました。孔子は心配そうです。まず管仲の「小さな袋には大きなものを入れられず、短い釣瓶縄では深い井戸の水を汲めない」という言葉を引き、それから海鳥の話をします。
この語りの場面では、海鳥は斉の君主の置かれた状況をも照らします。顔回は、自分が最良と思う道理を、受け止めきれないかもしれない相手に差し出そうとしている。これは一つのたとえであって、人物を一人ずつ固定した対応表にする必要はありません。しかも顔回が持っていくのは俗な物ではなく、道です。最も鋭いのはここでしょう。道さえ、九韶や太牢になりうる。どれほど正しく、高尚で、真実であっても、相手が受け止められる大きさを超えていれば、あの宴になってしまう。孔子が心配するのは両方です。受け止められない斉侯が害を受け、無理に届けようとする顔回自身も危うくなる。この場面は、私たち自身にも返ってきます。
自分で考えたことを書き、人に伝える人が最もしがちなこと。それは、自分が最良と思うものを、自分の寸法のまま相手に差し出すことです。この篇も例外ではありません。
九 読者へ
この物差しを当ててみられる場所を、三つ挙げます。
第一に、最後に誰かへ渡した「いちばんよいもの」を、いちばんよいと決めたのは誰だったか。問うのはあなたが心を尽くしたかではなく、基準が誰の側にあったかです。自分を養う仕方で、鳥を養ってはいなかったか。
第二に、相手にはまだ「いや」と言う余地があるか。とりわけ、立派すぎて反対できない贈り物のときです。皆が「これほどよいのに、まだ不満か」と言うとき、その居心地の悪さに耳を貸す人はいますか。
第三に、手厚い待遇を受けたら、自分の望む自分に近づけているかを尋ねてみる。恩知らずになるためでなく、自分が本当に受け止めて生きられるかを問うためです。待遇が立派なほど、言い出せないことは、いっそう言い出せなくなります。目がくらみ、悲しんでいた鳥のように。
十 同じ物差しの、もう一方の面
前の篇では、変え終えたあとに、あなたの決定に属さないところが向こう側に残るかを問いました。今回は裏返してみます。あなたが差し出す「よいもの」をよいと決める基準は、誰の側にあるのか。同じ物差しの二つの面です。一つは相手を埋め尽くすなと言い、もう一つは、何をもって満たされたことにするかを最初から代わって決めるなと言います。どちらも確かめ方は一つ。向こう側は、まだ「いや」と言えますか。
原文と出典
この日本語版は、Non Dubitoの中国語散文の全文を底本に、日本語の読者へ向けて独立に書き直しています。『荘子』全体の翻訳ではなく、古文の引用もここでは内容を日本語で述べ直したものです。もとの中国語ページには古文を残してあります。既存の英語版も独立に執筆され、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。現代の出来事とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は、この随筆の著者の読みであり、古典に別の事実が書かれているという意味ではありません。
原文と読み方について
原文と読み方:至楽篇。
中国語ページには古文の引用が残っています。既存の英語の語りは、この版のために独立に書かれたものです。この日本語版では引用の内容を日本語で述べ直しています。現代とのたとえや、そこから先の考察は著者による読みであり、原典に別の出来事が記されているという意味ではありません。