Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE価値論 · 日本語独立再構成版
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価値はいかに生じ、承認されるか

Han Qin (秦汉)

源泉が場所をつくり、出来事が満たす

源泉を持っていることと、具体的な価値を持っていることは同じではない。源泉は、ある内容が入りうる場所を用意するだけである。内容はまず本人の視野に候補として現れ、その後、本人が自分の法のうちで引き受けたとき、初めて「私の価値」になる。

出現には二つの道がある。身体感覚や記憶や内的な問いから浮かぶこともあれば、家族、学校、物語、制度から渡されることもある。外から来たというだけで偽物ではない。重要なのは、その内容を拒み、言い直し、組み替えたうえで引き受けられるかである。

好きと大切は違う

「歌うのが好きだ」は、候補が現れたことかもしれない。「歌うことは私にとって大切だ」は、その内容を自分の生のなかで呼び出し、説明し、なお改められるものとして引き受けた言葉である。引き受けは真偽の証明ではないが、気まぐれな宣言でもない。源泉と無関係な宣言は、立つ場所を持たない。

しかも引き受けた後も扉は開いている。価値内容は永久契約ではなく、言い直し、分割し、撤回できる。変えられることは弱さではない。自分の価値であり続けるための条件である。

社会的承認は別の軸にある

社会は、ある生き方に公的な名前、役割、資源、尊敬を与え、それを取り上げることもできる。この承認は現実の力を持つ。しかしそれは、出現と引き受けに続く第三段階ではない。別の軸から交差している。社会は公的な場所を与えられても、本人に代わって価値を成立させることはできない。

だから、誰にも理解されない価値も本人のものとして成立しうるし、大勢が称賛する価値も本人が引き受けていなければその人のものではない。承認の有無は生活条件を変えるが、第一人称の構成を授与も撤回もしない。

開く働きかけ

他者ができる最善のことは、正解を渡すことではなく、候補が現れ、表現され、再検討される空間を広げることである。教師が別の語彙を示し、友人が急いで結論を押しつけず、制度が撤回と変更の道を残す。これは価値を作るのではなく、価値が本人の側から生じる条件を養う。

この働きかけが特定の相手の次元を開く方向をもつとき、SAEはそれを涵育と呼ぶ。行為の根は行う側に、価値を引き受ける根は受ける側にある。二つの根を一つにしないことが、支援を代理支配に変えない条件になる。