SAE · Plato's Republic · 日本語編集・再構成版
06 / 13
統治という技術は誰のためにあるのか
強者の利益から技術の定義へ
トラシュマコスは、正義とは強者の利益だと言う。政体は自分に都合のよい法を作り、服従を正義と呼ぶ。統治者も誤るという反論に対して、彼は「統治者であるかぎり誤らない」と厳密化する。この限定をソクラテスが逆用する。
医術は医術の利益ではなく身体の健康を求め、馬術は馬の善を求める。羊飼いが報酬を得るのは別の金銭獲得術であり、羊を世話する技術そのものとは区別される。したがって統治も、統治であるかぎり被統治者の善を求める。搾取的支配は悪い統治というより、統治の名を着た別の営みになる。
善意の統治に欠けるもの
SAEの権力論も似た境界を引く。相手を完全な物として処分する関係は、主体間の権力関係から外れている。ただしプラトンの条件が統治者の向きを問うのに対し、SAEは相手の手元に何が残るかを問う。拒否し、別の意見を求め、過程を止める実効的な位置があるか。
善意の君主はプラトンの条件を満たしうる。民の利益を真剣に考え、判断も優れているかもしれない。それでも民の異議がすべて君主の裁量へ戻るなら、第二の点検は存在しない。良い医師にも患者の同意が必要なのは、医師が悪人だからではなく、患者の位置を医師が占められないからだ。
権利はいつ実効性を得るか
SAEは拒否の地位を支配者からの贈与とは考えない。しかし現実には、子ども、患者、市民の拒否が効力を持つには、権限や制度が移されなければならない。上位者が「いつから有効か」を決めるなら、それまでの生を誰が引き受けるのか。
プラトンの技術条件は今日ただちに判定できる。SAEの条件は制度化が難しく、しばしば将来へ延期される。だが一度制度になれば、統治者の徳への依存は小さくなる。ここで両者は、良い人に任せる都市と、良くない人でも越えにくい境界を作る都市の違いを照らす。