他者への友愛はどこから始まるか
棚上げされ、半分答えられた問い
第IX巻第4章で、アリストテレスは良い人の自己関係から友愛の諸特徴を導いた後、人は文字どおり自分の友でありうるかという問いは棚上げしてよいと述べる。だが直後に、人が「二つまたはそれ以上」である限りで自己への友愛はありうると付け加える。名称は保留されるが、源泉は保留されない。他者のために善を望むこと、存続を望むこと、快苦を分かち、共に生きることは、まず良い人の自己関係に現れる。
それはすべての自己関係ではない。良い人は欲望と判断が調和し、自分のために本当に善いものを望み、行い、自分と共にいることを苦としない。悪い人は内部で分裂し、判断は一方を望み欲望は他方を選ぶ。独りでいると苦しい記憶に直面するため他人を求めるが、自分と喜びも悲しみも共有できない。友愛は単なる自己関心ではなく、整えられた自己関係から始まる。
延長か、新しい判断か
SAEにも、自分を目的として扱う位置から、自分だけが目的ではないと認める位置への接続がある。自己関係が封鎖や自己植民になっていれば、外への倫理的関係は成立しない。この条件はアリストテレスと触れ合う。
しかし、彼は他者への友愛を良い自己関係の延長と捉え、友をもう一人の自己とする。SAEは内向きの位置を条件とするが、他者承認の源泉にはしない。「私は目的である」から「あなたも目的である」は論理的に出ない。歴史には自信と統一を持ちながら、価値を自分や自分の集団にだけ予約する人がいる。外への一歩には別の判断がある。
良い自己はどこから来るのか
アリストテレスのより深い優位は、整った自己関係の発生を追う点にある。徳は習慣化から生じ、立法者は習慣を作ることで市民を善くする。第X巻になると、論説だけでは不十分で、受け手の魂は種を養える土のように、既に習慣で準備されていなければならないと述べる。私的教育も個別的に優れうるが、その知を安定して伝えるには立法者の能力へと戻る。
ここに性格、習慣、法、教育、立法へと遡る連鎖がある。SAEの涵育は、他者の道が遮られず、併合されない条件を作る。能動的支援を含みうるが、道を歩く能力が長年の身体、家庭、学校、都市でどう形成されるかの理論ではない。余地を作ることと、そこを歩ける人を育てることは別の仕事だ。
最初に認めた人
SAEには、誰にも先に認められ教えられていないとき、最初に他者を人として認める人はどこから現れるのか、という問いが残る。「偶発的な能動性」と呼ぶことは、行為の担い手を示すが、その能力の育成と再生産を説明しない。
アリストテレスの法依存も摩擦のない答えではない。誰が徳を定め、法の強制は誰を排除するのか。彼自身の市民概念は深い排除を含む。それでも、倫理的能力には制度的な歴史があるという負債を彼は明示する。判断の位置図と道徳教育の理論は異なる。前者の射程の完全性を後者の完成と取り違えないことが、この対話の最も重要な成果である。
したがって制度は善い判断を命令するだけでなく、誰と日常を共にし、誰の苦痛を具体的な出来事として知るかを配分する。学校や都市が集団を隔てれば、他者承認を求める抽象的規範があっても、最初の問いが生じる機会そのものが減る。逆に異なる生活史を持つ人が対等に語れる場は、結論を保証しなくても、自己関係からは出てこない論点を出現させる。倫理教育は完成した価値の注入ではなく、見えなかった他者が判断の相手として現れる条件の設計でもある。
それでも、制度だけで最初の承認を製造できるわけではない。同じ教室に置かれても、相手を類型としてしか見ないことはある。制度が作れるのは接触、発言権、保護、反復の条件であり、その場で相手を目的として引き受ける判断は各人に残る。形成の説明と主体の責任を両方残すことで、教育決定論と孤立した英雄論の二つを避けられる。