Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Nicomachean Ethics · 日本語編集・再構成版
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わかっていながら、なぜ背くのか

Han Qin (秦汉)

ソクラテスの逆説

第VII巻第2章は、アクラシア――自制の欠如、あるいは「わかっていながらそれに背く」こと――を難問として出す。ソクラテスは、最善を知りながら反対を行う人はおらず、悪い行為は無知によると考えた。しかしアリストテレスは、その言い方が明白な経験的現象と衝突すると判断する。そこで現象を捨てず、「どの意味で知っているのか」と問いを変える。

第3章は複数の区別を導入する。知識を持つことと現在使うこと、普遍的前提を知ることと「これが今その事例だ」という個別的前提を知ること、文を暗唱できることと知が本人に同化されていることは異なる。眠り、泥酔、激情の中では、知識はありつつ実践的にはその役割を果たさない形で現前する。

エンペドクレスを暗唱する

最も鮮やかな例は言語である。激情の中の人も証明やエンペドクレスの詩を言える。初学者は学説の文を連ねられ、俳優は自分の信念ではない台詞を完全に語る。言語的に利用できることは、知の習得と作動を証明しない。

組織はここで誤る。研修に出席し、テストに合格し、認定語彙を流暢に使えれば、知識は「ある」と記録される。行為が教えと矛盾すると、偽善か欲望の完全勝利しか説明が残らない。しかし実際には「過度の飲酒は害だ」が普遍的に保持されたまま、「この一杯が今その事例だ」が実践的な力を持たないことがある。

提示と引受の違い

SAEはこの問題の一部を、提示された資格と正当に引き受けられた判断の違いとして読める。用語、引用、流暢な文は、その判断が話者自身の責任のもとに署名されたことを保証しない。「境界」「同意」「構造的偏り」という言葉を正確に使いながら、現場で該当する判断を見出せないことはある。

SAEの監査は、その行為に実際にどの前提が入ったかを問える。だがアリストテレスは身体的情念、知覚、習慣、回復を含む行為者の状態を記述する。判断の帳簿は使われたものを示せても、所持されつつ作動しなかった知識の全目録を作れない。その目録自体が新しい判断であり、また漏れるからだ。

「わかっていた」は一つの事実ではない

「おまえはわかっていた」という非難は、得た情報、口頭で再現できる規則、個別事例の認識、行為前の時間的余裕、行為時に活性化していた実践的判断を一つに束ねてしまう。責任や修復を論ずるなら、これらは異なる主張として根拠を要する。

アリストテレスはソクラテスを部分的に救う。完全に活性化した知が欲望に公平な試合で敗れる、とは考えない。しかし人がある意味で知りながら行うという日常経験も残す。二つの免罪――知っていたので知は無力だ、行いが悪いので知はまったくなかった――をどちらも許さない。「知る」は最初から一つのスイッチではなかった。

この多層性は、失敗後の応答も変える。規則を知らなかった人には教育が必要で、規則は知っていたが事例を識別できなかった人には具体例と知覚の訓練が要る。激情の中で知が作動しなかった人には、行為直前の環境や習慣を組み替える必要がある。すべてを「認識不足」と呼べば責任が薄れ、すべてを「わかっていて選んだ」と呼べば修復の入口が閉じる。どの知がどの時点でどの形で欠けたかを区別してこそ、非難、教育、予防を同じ言葉で済ませずにいられる。

だから「知識を提供した」という組織の証拠も限定して読むべきである。資料を配り、受講記録を残し、同意欄に署名させても、個別場面で何を手がかりに規則を呼び出すかまでは教えていないことがある。形式上の伝達完了を実践知の成立とみなせば、制度は自らの教育責任を受講者の性格問題へ移す。知の所持と作動の区別は、個人を免責するためだけでなく、制度の責任を見つけるためにも必要だ。

中国語・英語稿を底本とした日本語独立再構成版。巻章は通行の区分に従う。