Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAEと西洋哲学の対話 · 第三集
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必然は歩く人の中にない

Han Qin (秦汉)

見ることは出来事に何を加えるか

神の予知と自由意志を両立させる途中で、〈哲学〉は日常的な問いを出す。いま何かが起こるのを見たとき、見る行為はその出来事へ必然性を加えるか。ボエティウスは「否」と答える。彼女は予知に伴う必然を虚偽として消すのではなく、その住所を変える準備をする。

神が未来の行為を知るなら、それは起こらずにはいられない。この強い命題を認めたうえで、同じ行為は神の知との関係では必然であり、それ自身の本性では自由だと区別する。知っている人が歩いているなら、「その人が歩いている」ことは条件的に必然である。しかし歩行の本性が、その人に一歩を強制したのではない。必然は「歩いていると知られている限り」にあり、歩く者の脚の中にはない。

昇る太陽と歩く人

〈哲学〉は同じ二例を二度使う。太陽の出と人の歩行は同時に見えるが、前者は自然の秩序に属し、後者は意志による。観察者の一つの視野へ同時に入ったからといって、出来事の様態まで同一にはならない。

また、現に起きている瞬間には、どちらも起きていないことはできない。それでも一方だけが事前にも必然だった。現在の現実性が持つ必然を、出来事の起源へ遡って輸出してはならない。一つ目は同時的な視野の内部で様態を区別し、二つ目は時間上の観点を区別する。誤りは、ある住所で真だった判断を無標識のまま別の住所へ運ぶときに生じる。

反駁ではなく住所の付け直し

SAE第一批判は、判断を物から自動的に値を返す関数ではなく、区別する行為との関係として扱う。どの法廷で、どの層で、どの分岐と前提の下で出た判決なのか。住所が変われば、同じ対象が別の判決を受けても矛盾しない。「彼が歩いていると知るなら、彼は歩いている」は知と出来事が一致する場で真だ。「ゆえに彼は歩くことを選ばなかった」は、その必然を行為者へ不法に移す。

〈哲学〉の強さは、最初の真理を否定しない点にある。SAEも越権した命題を削除するのではなく、出所と効力を書き直す。反駁なら文を消せる。再索引化は文を残し、その文を誰がどこで用いる責任を負うかを追加する。『慰め』は単純必然と条件的必然の区別で結び目を解く。SAEは同じ誤配が起こるたびに監査を繰り返す。

後から加えられた必然

制度でも人生でも、決定後に「ほかに選択肢はなかった」と語られやすい。調べると、以前の約束や規則を受け入れたため、その条件の下で今回の決定が続いたことが分かる。最初の文は必然を決定そのものへ置き、二つ目は責任を負うべき以前の行為へ戻す。前者は帳簿を閉じ、後者は著者を明らかにする。

回顧も同じ錯覚を作る。結果を知った後では、すべての段階が必然に見える。「最初から分かっていた」と言う人は、事前に現実の賭けがあれば賭けただろうか。賭けなかったなら、現在の確信を過去の必然として記帳できない。錯覚の仕組みを理解しても見え方は消えない。だから必要なのは一度の正解より習慣である。必然が現れたら、毎回こう問う――それをそこへ置いたのは誰か。