010 / 108 · 世界をつくる
ゲーデル、閉じることの限界
ウィーンの問いからプリンストンの散歩へ。形式的証明には境界があり、一人の生は定理の脚注には収まらない。
一 ウィーン
1906年。クルト・ゲーデルは、オーストリア=ハンガリー帝国のブリュンに生まれた。
子どものころ、家族は彼を「なぜ君」と呼んだ。何にでも理由を尋ねる。一つ答えが返ってくると、また次の問いが続いた。
その問い癖を、少年はやがて数学へ持ち込む。
ウィーン大学で、彼は数学と論理学へと進んだ。1920年代のウィーンには、知識の土台を問い直す人々が集まっていた。ウィーン学団は、経験と論理分析によって科学を明晰にしようとした。世界についての主張は経験による検証に開かれ、論理と数学は分析的なものと捉えられる。こうした足場を持たない壮大な言葉は、そもそも何かを語っているのか。
ゲーデルもその議論に参加したが、学団の立場をすべて受け入れたわけではない。まずは、その若い聞き手を覚えておこう。明晰にする力への自信に満ちた時代に、彼は明晰にするための道具を問い続けた。
1931年、不完全性についての論文を発表する。その年、彼は二十五歳になった。見いだしたのは論理の失敗ではなく、ある種類の形式理論が持つ境界だった。
二 ヒルベルトの夢
ゲーデルが何をしたかを知るには、まず何に鑿を入れたかを知る必要がある。
ダフィット・ヒルベルト。当時、最も影響力のある数学者の一人だった。1900年に提示した二十三の問題は、その後の数学に多くの方向を与えた。数学は「永遠にわからない」の前で立ち止まるべきではない。問題に向かい、解答を見つけるか、求められていることが不可能だと証明する。その信念があった。
後にヒルベルト・プログラムと呼ばれる計画の中心には、数学を形式化し、信頼できる有限的な方法で矛盾が生じないことを証明する目標があった。そこには完全性や機械的な決定への望みも結びついていた。一組の規則で、その領域のすべての問題を扱えるか。互いに関係はあるが、同じ要求ではない。
その望みを、一枚の机の上に置いてみる。公理を並べ、規則を書き、どの一歩も確かめられるようにする。算術の真理がすべてその規則から導けて、しかも規則同士が決して矛盾しないなら、机の上には取りこぼしのない世界ができたように見える。
なんと壮大な構築の夢だろう。ここでいう「構築」は、まず人間が組み立てる公理、規則、証明の秩序を指す。前提から結論まで道筋が見え、一歩ごとに根拠がある。
カントは哲学において物自体の境界を引いた。しかし、この数学の夢の中では、こう問いたくなる。純粋な形式は自分たちで定めるのに、なお手をすり抜けるものがあるのか。これは本稿が置く対照であって、二人の問題をそのまま取り替えられるわけではない。
ヒルベルトの確信は大きな影響を与えたが、数学の基礎をめぐる道は、つねに争われていた。世界中が同じ夢を見ていたのではない。
ゲーデルの二つの定理は、その望みの最も硬い部分に切り込んだ。基礎を探る仕事は終わらなかった。ただ、すべてに一度で決着をつけるという期待は、変わらなければならなかった。
三 第一不完全性定理
1931年、ゲーデルは「『プリンキピア・マテマティカ』および関連する体系の形式的に決定不能な命題についてⅠ」を発表した。若者の一篇が、証明に約束できる範囲を変えた。
今日、第一定理は、後のロッサーによる強化を含めて、通常こう述べられる。
公理をプログラムで実効的に列挙でき、十分な初等算術を含み、しかも無矛盾である形式理論を考える。無矛盾とは、ある文とその否定を両方とも証明しないことだ。そのような理論には、内部で証明も反証もできない算術の文が必ずある。これが不完全性である。
理論を固定すれば、この境界は数学者の頭がまだ足りないという問題ではない。通常の自然数として解釈したとき、真であることと証明できることは異なる。その理論の内部には証明がない、真の算術文がありうる。
今日は見つからなくても、明日徹夜すれば見つかる、という話ではない。公理と規則を変えないかぎり、その証明は存在しない。より強い理論を使えば、以前の未決問題の一部は解ける。しかし新しい理論も同じ条件を満たすなら、そこにはまた固有の未決の文が生まれる。
ゲーデルはどうしたのか。式と証明を自然数で符号化し、算術が証明について語れるようにした。そして、おおよそ「この理論には私の証明がない」という意味の算術文を作った。言葉遊びの逆説ではない。一歩ずつ検査できる数学的な構成である。
もしその文に理論内の証明があれば、符号化された証明の関係が、その文の述べる証明不可能性と衝突する。だから無矛盾性のもとでは、その証明は排除される。
理論の外から見ると、無矛盾であるという前提のもとでは、実際にその証明はない。したがってゲーデル文は、通常の自然数について真である。その否定にも証明がないと示すためには、ゲーデルの元の論証では、さらに強い条件が使われた。ロッサーは後に構成を変え、普通の無矛盾性だけで足りるようにした。
つまり、実効的に公理化でき、十分な算術能力を持つという条件のもとでは、無矛盾性と完全性を両立できない。条件を消してはいけない。弱い理論には完全なものもある。真の算術文をすべて公理にすれば、無矛盾で完全な理論になるが、その公理を実効的に列挙する方法は失われる。
ヒルベルト的な望みがここで出会ったのは、数学がもう語ることを失ったという事態ではない。この種の固定された規則だけでは、算術の言うべきことをすべて言い尽くせない、という境界だった。
四 第二不完全性定理
第二定理は、証明する者の足元へ問いを戻す。
実効的に公理化でき、十分な算術能力を持ち、証明に関する通常の条件を満たす理論は、無矛盾であるならば、自らの無矛盾性を標準的な仕方で表した算術文を、その内部で証明できない。
自分の肩を踏み台にして、自分を持ち上げようとするようなものだ。比喩は短い。それでも定理の条件は欠かせない。
ヒルベルトは、数学に信頼できる無矛盾性証明を与えたかった。ゲーデルの結果は、そこに線を引いた。使う有限的な推論が、証明の対象となる理論の内部ですでに表現できるなら、それによって仕事を完了することはできない。より強い枠組みで相対的な無矛盾性証明を求めることはできるが、今度はその枠組みの根拠を説明する必要がある。数学は止まらず、根拠がすべて消えたわけでもない。
ある特定の自己保証は、一定の内部の道具だけでは果たせない。この考えを人生へ運ぶとき、私たちは証明から比喩へと歩み出している。
ソクラテスの姿勢は、よく「知らないことを知っている」と要約される。問いによって暴かれるのは、知ったつもりの姿勢だ。一人の人間が、知ることにどう向き合うかという問題である。
ゲーデルの問いは別のものだ。はるかに厳密で、範囲も狭い。それでも並べて読むと、一つの姿勢にためらいが生じる。自分の説明を十分にきれいに並べれば、必要な保証をすべて自分で用意できた、という姿勢である。
荘子の寓話では、七つの穴が穿たれ、渾沌が死ぬ。善意の造形も、目の前の命を壊すことがある。その代償を、論理的矛盾に換算することはできない。
ゲーデルの場合、実効的な規則、十分な算術、無矛盾性を保つなら、「この規則がすべてを決定する」という要求は手放さなければならない。これは正確な境界であって、完全なものは何でも崩壊するという話ではない。
寓話の渾沌は死んだ。それでも後の読者には問いが残る。私たちの整理は何を取り落としたのか。本稿は、定理の傍らから光を借りて、その問いを照らす。「閉じることの限界」は、ここでは読むための糸口であって、万事を片づける定理ではない。
五 散歩
1940年、ゲーデルと妻アデーレはナチ支配下のヨーロッパを離れ、アメリカへ渡り、プリンストンに住み始めた。ゲーデルはそれ以前にも高等研究所を訪れていた。
そこで、アインシュタインとの友情が深まっていく。
二人は研究所と自宅の間を、よく一緒に歩いた。一人は算術の形式化に境界を引いた。もう一人は、物理学による空間、時間、重力の理解を変えた。道の上には、二つの異なる問いがあった。
1905年、アインシュタインの特殊相対性理論は、ニュートン的な絶対時間と絶対空間の像を変えた。1915年の一般相対性理論は、重力を平坦な背景の上で働く力としてだけでなく、時空の幾何として記述した。彼は二十世紀で最も深く鑿を入れた人の一人だった。
だが量子論を前にしては、確率を最後の答えとしない記述を、なお探し続けた。
量子力学は測定結果の確率を与え、位置と運動量が同時にどれほど確定できるかに制約を置く。一方、測定前の物理的実在をどう捉えるかについては、解釈が分かれる。「測定前にはそもそも答えがない」は、すべての物理学者に共通する結論ではない。
神はサイコロを振らない。その像はアインシュタインの不満を表していた。1935年、ポドルスキー、ローゼンとの共著論文で、波動関数が物理的実在を完全に記述しているかを問うた。問題は偶然性だけでなく、遠く隔たった系がそれぞれ独自の実在をどう持つかにもあった。晩年の統一場の探究も、単に一個の隠れた変数を探す仕事ではなかった。
ここでいう「完全な記述」と、ゲーデルのいう形式理論の完全性では、問われていることが違う。数学の定理が、二人に代わって量子論の論争を裁くことはできない。
だから道を歩く二人を、「限界を受け入れた人」と「死ぬまで拒んだ人」に振り分ける必要はない。二人とも、なお問い続けていた。ゲーデル自身も数学と哲学の仕事を続けた。不完全性を見つけたところで、問いをすべて置いたのではない。
それでもこの光景はやさしい。二人の思想家が一緒に歩く。友人になるために、先に世界観を一つの答えにまとめる必要はない。記録にない討論を、その散歩に書き足す必要もない。
広く伝えられる回想によれば、晩年のアインシュタインは、ゲーデルと歩いて帰る楽しみのために研究所へ通っていたという。大きな理論の外側に、この道のりもあった。
六 飢えによる死
ゲーデルは長年、身体と心の病に苦しんだ。晩年には、とりわけ被害への恐怖が深刻になった。
食事に毒が入っているのではないかと恐れた。アデーレは長く彼の食事を支え、自分で先に味見することもあった。彼女は妻であり、大切な支えだった。天才を動かしておくための装置ではない。
1977年、アデーレ自身が重い病気で入院し、それまでの世話を続けられなくなった。
ゲーデルの食事と健康の状態は、さらに悪化した。友人や医療者も助けようとした。この話の残酷さは、世界に料理のできる人が一人しかいなかったことではない。病気によって、届いた助けを受け入れることが難しくなっていたことにある。
1978年1月14日、ゲーデルはプリンストンで、栄養失調と飢餓による衰弱のため亡くなった。ドーソンの伝記によれば、体重はわずか六十五ポンド、約二十九・五キログラムだった。
証明をこれほど明晰に見通せる人も、思考だけで病から抜け出せるとは限らない。定理を理解しても、何もかもに耐えられる身体が与えられるわけではない。
なお「構築」という言葉を借りるなら、ここで見つめたいのは、暮らしが関係とケアに依存していることだ。病気は助けを受け取る力を損なった。しかし、目的としての彼の地位を奪ったのでも、責められるべき哲学的選択だったのでもない。
だから私たちは病床の前で立ち止まり、彼の死を「肉体となった不完全性定理」にはしない。定理が扱うのは形式的証明の限界であり、ケアが向き合うのは具体的な人だ。その間には、医学や生涯の検討に代わる因果の近道はない。
ソクラテスの毒杯、イエスの十字架、ゲーデルの飢えは、この連作の中で互いを照らしうる。それでも「誰を信じたから、こう死んだ」という表にはできない。裁判、処刑、重病には、それぞれ消してはいけない事情がある。
信頼と恐怖、構築と剰余は、たしかに人の暮らしへ入ってくる。ここでは思想が、その人をより多く見せてくれるのであってほしい。一つの証明の挿絵にしてしまうのでなく。
七 剰余の保存
ここでゲーデルを、この連作の中に置くことができる。
ソクラテスは空き地へと鑿を進めた。知ったつもりを削り落とした。
孔子は仁へと進めた。一人ひとりが立つ土地へ。
老子は言葉の境に達し、伝説の中で去った。
荘子は渾沌を振り返り、鑿を入れる代償を見た。
カントは削った後に築いた。認識に境界を引き、物自体を残した。
ニーチェは底まで削った。神は死んだ。
王陽明は向きを変えた。内へ、良知へと掘り進めた。
釈迦は筏で川を渡った。向こう岸では、もう筏を背負わない。
イエスは十字架から、赦しの声を残した。
ゲーデルは、この九人とは別の仕事を持ち込む。前の九つの生に、数学でお墨付きを与えるのではない。明確に定められた領域で、一つの限界を証明する。
ソクラテスは知ったつもりを知識と取り違えず、ゲーデルは理論が何を証明できるかを分ける。どちらも自己満足を揺さぶるが、ソクラテスの生が一つの定理になるわけではない。
荘子の七つの穴と渾沌は、善意による造形の代償を見せる。ゲーデルの結果は、ある種の形式化の目標を同時には実現できないと教える。並べて読む力は、それぞれの境界が見えることにある。寓話を数式へ訳すことではない。
カントは認識の条件を問い、ゲーデルは一定の理論が内部で行える無矛盾性証明を制限する。同じ道具だけでは、その足場に必要な保証をすべて用意できないかもしれない。その響き合いを聞きながら、物自体と形式的証明の距離も保てる。
老子は言葉が指し示すものをどう覆うかを問い、ゲーデルは真と証明可能性を分ける。証明できないその文は、まさに書き下すことができる。一組の規則で証明できないことは、言葉にできないことではない。言語の境界と証明の境界は、ここでは隣り合っていても重ならない。
釈迦は渡河の筏に執着しないことを教え、ゲーデルは固定された規則の限界を見せる。それは読者を道具への盲信から離れさせうるが、無常を数学の結論にするものではない。
この連作が描く像の中では、彼らは別々の場所で壁に触れているように見える。壁は、著者が彼らをつなぐ比喩だ。ゲーデルが実際に残したのは、前提が明確で、一歩ずつ検査できる証明である。
「剰余の保存」は、収めきれないものに本稿が与えた名前であって、ゲーデルが証明した保存則ではない。数学はここに厳密な一例を与える。固定された理論内の決定不能性は、探索の時間不足ではなく、構造的なものだ。それは、答えがどこにも存在しないという意味でも、真理が存在しないという意味でもない。
閉じることの限界。目の前の構築を世界のすべてに見立てないための言葉として、本稿はそれを引き受けたい。
悪い知らせとは限らない。もう一度始める理由にもなる。
すべての人を説明し尽くしたと称する完璧な体系を、渡されたとしよう。剰余も死角もない。孔子、ソクラテス、イエス、荘子は、ただ脚注に置かれるだけになる。この連作が抗うのは、そうして他者が語り続ける資格を封じることである。
一人ひとりの開削も、本当に開いた穴も、残しておきたい。定理がすべての考えの正しさを保証するからではない。誰の生も、他の誰かの体系の脚注としてだけ扱われてよいものではないからだ。
橋のたもとは、人で満ちていなければならない。人数を揃えるためではなく、異なる人が出会い、問い、互いを正し続けられるように。一人ひとりは目的であり、単なる手段ではない。それは本稿の倫理的な立場であって、算術から導かれた結論ではない。
ゲーデルは形式理論のある限界を証明した。その後、病と飢えの中で死んだ。彼の生は、定理の付録だけではない。
彼の証明は、まだ生きている。
読書のための注記と出典
第一定理は、実効的な公理化、無矛盾性、十分な初等算術を前提とする現代のゲーデル=ロッサーの形で述べた。ゲーデルの1931年の証明は、ゲーデル文の反証を排除するためにω無矛盾性を用いた。1936年、ロッサーは別の構成により、通常の無矛盾性だけで十分な結果へ強めた。「真」は標準的な自然数についての意味であり、検証できない信念一般を指さない。
第二定理には、証明可能性の通常の形式化と適切な導出条件も必要である。無矛盾性を表す文は、標準的な算術化によるものを指す。これに先立つ一階論理の完全性定理は、論理的に妥当な式に証明があることを述べ、特定の算術公理がすべての文を決定できるかとは区別される。「構築」「剰余の保存」は本稿の哲学的な読解語であり、心理学、物理学、倫理学の普遍法則ではない。
生涯の記述は主に高等研究所、ウィーン大学、クリーネによる米国科学アカデミーの回想論文と照合した。論文発表の1931年は、ゲーデルが二十五歳になった年である。幼年期の呼び名は家族の回想による。散歩には資料と写真の裏づけがあるが、アインシュタインの言葉は伝えられた回想として扱い、会話を創作していない。
晩年のケア、1977年のアデーレの入院、体重については、資料に基づくドーソン『Logical Dilemmas』第十二章、とくに251–253頁と、高等研究所の伝記を参照した。病や死を不完全性の帰結とはせず、遡及的な臨床診断や妻への責任追及も行わない。
1935年のアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン論文における物理的記述の完全性は、形式理論の演繹的完全性とは異なる。九人の連作的な配置と比較は、各伝統を一つの証明にまとめるものではなく、本シリーズの読解の枠組みである。
ゲーデル「形式的に決定不能な命題について」(1931年) · クリーネ「クルト・ゲーデル」米国科学アカデミー回想論文(1987年) · ハーン、ノイラート、カルナップ『科学的世界把握――ウィーン学団』(1929年) · ヒルベルト「数学の問題」(1900年) · 高等研究所:クルト・ゲーデルの生涯、仕事、遺産 · 高等研究所:研究者たちが語る散歩 · ウィーン大学:クルト・ゲーデル · アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼン「物理的実在の量子力学的記述は完全とみなせるか」(1935年) · ドーソン『Logical Dilemmas』第十二章(1997年)、251–253頁
中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。