争いのあと、また話し、一緒に食べ、いつものように笑えるようになる。緊張が解けると、問題も解決したように感じる。けれど仲直りが扱うのは、今ふたたび近づけるかどうかだ。問題の解決は、争いを生んだ条件が変わったかを問う。二つは重なることも、別々に起こることもある。
誤解だけが原因なら、事実を知り直すことで、近さと問題解決が同時に戻る。しかし、いつも誰が決め、誰が結果を負い、誰の拒否が言い換えられ、誰の理由が現状を変えないかという長い配置は、優しい会話だけでは変わらない。関係の温度が上がっても、位置は以前のままだ。
衝突は苦しい。沈黙と距離と不確かさに耐えるより、まず抱き合って安心するほうが早い。それ自体は悪くない。安心がなければ難しい問題を扱えないこともある。問題は、一時休止が最終決定にされるときだ。「もう仲直りしたのに、なぜまた言うの」と言えば、近づいたことが、もう話さない条件になる。
すると、争い、距離ができ、どちらかが耐えきれず譲り、近さが戻り、問題が棚上げされる循環が続く。毎回の仲直りは本物でも、毎回、同じ問題も残っている。
解決は、感情より静かな変化として現れることが多い。一人で決めていたことを本当に相談する。拒否を何度も審査しない。負担を組み直す。謝罪が、後の行動を変える。二人が過去を同じ物語にする必要はないが、何を変えるかを共同で見て、それぞれの部分を担う必要がある。
解決しても、一緒に残れない場合がある。方向や境界が両立しないと、問題を正直に認めることで関係が終わる。これは矛盾ではない。短い温かさで成立しない配置を延命するより、誠実な別れのほうが解決に近いことがある。
反対に、まだ十分に解けていなくても関係を続けられる。「できていないが、問題の場所はわかり、次回の扱いを決めた」と言えるなら、未完成を認めている。解決したふりとは違う。
仲直りのあと、「近く感じること以外に、実際に何が変わっただろう」と聞いてみる。何もなくても、再接続の価値は失われない。ただ、抱き合うことを、机に戻らない理由にしない。よい関係は、衝突後に近づけるだけでなく、近づいたあと、片づいていない問いを続けられる。